斉藤 龍一郎の近況です 2012年


2012年12月3日、月曜日午前7時11分。

金曜夜から親の家へ行き、土曜に行われた姪の結婚式に参列した。

式は、ステンドグラスを背景に、牧師が式を進めるというスタイルのものだった。進行係りの歌声がよかった。

披露宴のにぎやかさに、ちょっとびっくりした。

雨に降られた日曜日、東京へ戻る前に、両親と一緒になつかしいラーメン屋へ行った。焦がしニンニクの香りとスープの味に納得した。



2012年11月3日、土曜日午前5時51分。

今日も晴れそうだ。なかま保育園の秋祭り、にぎわうだろう。

今日は、さすがに準備作業もバザーの売り子も無理。毎年、一緒に準備や売り子をしている仲間に会い、お買い得品があれば買うため、会場へ行く予定。


五十嵐顕『「わだつみのこえ」を聴く 戦争責任と人間の罪との間』(青木書店1996年12月)を読んで、編者の一人として「あとがき」を書いた黒崎勲さんに連絡をとろうと考えた。

五十嵐さんは、僕が大学3年生の時在籍した学科の教授で、黒崎さんは助手だった。五十嵐さんはその年に60歳の誕生日を迎え翌年3月に定年退職したので、高校教育論のゼミの質疑、刊行されたばかりの新日本出版社『講座 日本の教育』の青少年の教育をテーマにした第4巻の巻頭言ぐらいしか印象にない。黒崎さんは、五十嵐さん退職後しばらくして学科の主任教授だった持田栄一さんが病死し学科の教授・助教授が不在という時期があっただけでなく後任教授も赴任1年足らずで病死するという事態になったため、ずっと助手として学科を支えていた。なので、僕の卒論口頭試問の時にも同席していたことを覚えている。

友人に聞いたところ、黒崎さんは63歳でガンのために亡くなったとのこと。びっくりした。

最近読んだ福間良明著『「戦争体験」の戦後史』で、「1977年まで東京大学教育学部で教鞭をとった。だが、それは五十嵐にとって戦時下の自らの責任を不問に付すことでもあった」との記述に出くわし、若者が自ら選択して学ぶことに対して注意を促した教育研究者としての印象しかなかった五十嵐さんが1995年に亡くなるまでどのように翻身していったのか関心を持ち始めたところだ。

『「わだつみのこえ」を聴く 戦争責任と人間の罪との間』は、五十嵐さんがインド洋の島・カーニコバル島で、占領していた日本軍が1945年7月1日から8月31日までの間に、島の住民を拷問および虐待し、その6人を死に至らしめ、7月28日・8月6日・8月12日に計84人を処刑したという事態に対する裁判の結果、死刑判決を受けた木村久夫の手記を読み込む中から

木村のBC級裁判から東京裁判にさかのぼってぶつかるのは、私たちが先に「殺した」という事実である。私は侵略戦争というべきところが政府要人によって侵略行為と表現されていることの欺瞞や不見識の指摘に同感するけれども、同時に侵略(的)行為がどのような残酷非人間的殺人であるかを知らなければ、せっかくの正しい言葉も頭上を素通りすることをおそれる。(220p)

という記述に至る経緯を浮かび上がらせてくる。

遺稿集となったこの本では最後に置かれたジョン・プリチャード「ニコバル諸島における日本人戦犯裁判」が、亡くなった時、五十嵐さんはどこへ向かおうとしていたのかを示唆していてたいへん興味深い。



2012年11月1日、木曜日午前8時1分。

最寄り駅から出る始発に乗っている。満員電車で立っていると、不自然な姿勢を強いられることがある。今は、それを避けたい。

切ったところ、痛いというよりは違和感がある。この違和感がある間は、力仕事だけでなく走ったりするのも避けた方がいいだろう。

先々週の木曜日は、まだ1日ベッドの上だった。ずっと横になっているよりも身体を起こした方がいいと言われ、実際、ベッドの背中から上を起こしてもらってよりかかっていると大丈夫だったので、病室から講談社版『日本の歴史』の古代天皇制論集を持ってきてもらって読んでいた。

先週の木曜日、朝の回診の時、「半分抜きます」と縫ったところを留めてあったホチキスの針を半分とってくれた。抜いた跡が痒かった。

といった変化に比べると、これから先はあまり変化を感じないのかもしれない。しばらくはカメさんモードで行動するしかない。



2012年10月28日、日曜日午前5時54分。

入院時と同じ頃に布団に入っているので、朝早くに目が開く。

風呂に入って頭を洗った。ベッドから下りて歩き出した20日(土)に洗面所のシャワーの下に頭だけ入れて洗ってもらい、23日(火)に自分でシャンプーを使わずに洗ったが、やはり風呂に入って温まった状態で頭を洗うと気持ち良さが違う。

昨日は、くしゃみをしてもあまり痛くなさそうだった。3日くらい前までくしゃみがでかかると、なんとかうまくくしゃみしないで乗り切ろうとしていたが、もう怖くない。

力仕事と満員電車を避けなくてはならないが、溜まっている会計仕事をこれ以上放置しておくのも怖い。ということで、毎日、少しずつ皆さんの通勤時間帯とは違う時間帯に電車に乗って事務局へ通うことにした。

10年ほど前、以前の職場で会計ソフトを導入した時のことを思い出した。集中が続かないので、1日2時間ずつ毎日記帳した(年度途中からソフトに入れようとすると訳がわからなくなったので、年度初めから記帳していった)。今回は、あの時ほどの日数はかからないだろう。



2012年10月27日、土曜日午前4時19分。

昨日、退院した。

朝一番に、身長と体重を測定して下さい、と指示され、ナースステーションの前にある自動測定機にのった。

身長158.0cm、体重66.8kg。入院時に比べて3kgほど細くなった。実際、入院した時に脱いだまましまっておいたジーンズをはくと、腹帯があるのにお腹がきつくない。

薬剤師が持ってきた退院薬、朝昼晩と違う組み合わせでびっくりした。改めて薬剤情報を見ると、3食後共通の薬剤が5種類、朝食後はもう2種類服用というものだった。一回分ずつのパッケージになっているので分かりやすい。

請求書が届き、自動精算機で支払いを済ませようとしたら普段使っているクレジット・カードが拒否されてあわてた。もう1枚のカードはめったに使わないので暗証番号を忘れていた。仕方ないので窓口で支払った。請求額を支払うと今月の限度額を超えてしまうのだろう。初めての体験だった。

6月に検査入院した時、会計精算時、国保の自己負担上限を超える分については病院から直接区役所に請求する仕組みがあります、と説明を受けたことを思い出した。後で戻ってくるとはいえ、しばらくお金をどうやってやりくりしようかと考えるほどの金額には違いない。

帰宅には、タクシーを使った。入院時、バスを乗り継いだので1時間半あまりかかったが、タクシーだと病院を出て1キロも走らないうちに、僕も良く知っている道(環七)へ出て40分ほどで住んでいるアパートの前へ着いた。

部屋へ戻って、まずお湯を沸かし緑茶を飲んだ。病院内にスターバックスがあり、ミル碾きコーヒー自販機もあったので点滴が抜けた後はコーヒーは飲んでいたが、緑茶を飲む機会がなかった。

買い置きの干し椎茸と昆布を水につけ、白米と小豆をそれぞれ別の鍋にとって洗って水に浸した。冷蔵庫に残っていたニンジンを洗ってそのままタジン鍋に入れ中火で20分とタイマーをしかけて昼食に出かけた。こんな時、タイマーが使える電熱調理器は便利だ。昼食は、夢に出てきたインド料理屋のカレーにした。ナンがおいしかった。

夜は、焼きたてのサンマ、揚げたての牡蛎フライを食べた。ほうれん草のお浸しも一緒にテーブルの上に並ぶのを見ていたら、それだけでお腹が膨れる感じだった。

部屋へ戻ってバナナを食べ、夕食後と印字されたパッケージの薬をのんだ。

腰までのぬるいお風呂にしばらくつかって布団に入ったら、病院にいる時と変わらない時間に眠ってしまっていた。



2012年10月26日、金曜日午前3時9分。

昨日の夕食後、ちょっとのつもりで横になったらそのまま眠っていた。

看護師が検温に来た時にちょっとだけ起き上がり、午後10時にトイレに起きたのを覚えている。

さっき目が開いて、時計を見たら午前2時10分。ぶっ続けで4時間眠っていたのは、尿管カテーテルが抜けてから初めてのことだった。

ベッドに横になっている時間は長いが、1時間半ごとにトイレに行っていた。

昨日朝、半分抜かれた糸(ホチキスの針)のあとがかゆい。

今日の朝の回診時に、残りが全部引っこ抜かれ、しばらく病院へ来なくてもよい状態になる。

次回の来院指定日は11月6日(火)。まず血液検査との指示が記されている。

朝の検温、回診、朝食の後、入院費用支払いがあり、そこまですませると退院だ。

やはり、まちどおしい。



2012年10月23日、火曜日午前5時49分。

昨日の朝は採血に来た看護師に起こされたが、今朝は血糖値の検査で一日が始まった。日に4回ほどある血糖値検査の数値、昨日の朝、点滴が終わるとカクンという感じで小さくなった。

今回の入院で、検査入院した6月、9月とは違う体験をいろいろした。患部摘出手術を実際に受けたことが一番の違いだが、「合併症対策」も興味深い体験だ。

昨日書いたように手術後、一晩ごとに寝る場所が違い、2晩はずーっとベッドの上だった。その間、両足にセットされたマッサージ器によるマッサージを受けた。エコノミー症候群対策だ。

また、3時間ごとに背中をあてる枕の位置を入れ替え、ずーっと仰向けあるいは特定方向への横向きにならないようにサポートされた。

毎朝、身体を拭いて着替えをさせてもらっただけでなく、首から点滴を受けながら歩き始めた土曜日の朝には、頭も洗ってもらった。

手術前に渡された手引きには、「早期離床のすすめ」が解説されていた。エコノミー症候群対策の足のマッサージ、胸の奥に溜まった痰による呼吸器障害を防ぐための呼吸訓練(スーフルという練習器を使って呼吸をする)、手術をはさんで絶食が続く期間に腸が動かないことから起こりうる腸閉塞予防の体位の入れ替えや歩け歩けの勧め、どれもなるほどだ。



2012年10月22日、月曜日午前6時34分。

病院のベッドで近況を書いている。

4月の検診で、早期切除が望ましい部位が見つかり、6月半ばに1週間、検査入院した。

その結果を持って訪ねた病院で、9月初めに追跡検査を受け、血管造影検査が必要というので9月下旬に2泊3日の検査入院。

血管造影検査で患部が特定できたその夜には担当医のグループがベッドへやってきて、「今週の金曜日であれば手術ができます」とのことだった。

その時は、10月13日までは動かせない予定がいくつも入っている、手術日程が決まったら連絡して欲しい、と伝え退院した。

10月も第2週に入ったのにまだ日程の連絡がない、と病院に電話をかけたのが火曜日。同じ週の金曜日に、「来週月曜日に入院して下さい、水曜日に手術です。」と電話があった。

9月の検査入院直後に、月曜夜の泊まりの介助の交代は決まっていたのでよかったが、職場の仕事のほとんどは「不在のため当面対応できません」状態で入院することになった。

食事をしないで来るように、と言われた月曜日はお昼ごろに所定の検査が終わったので、病院近くのそば屋で昼食をとった。夜は病院のベッドで入院時の食事。

火曜日の日中は、状態確認のレントゲン、CTスキャン。夜、親の代理で妹と伯母が来てくれたところで、執刀医から手術の説明。

止血を注意深く行う肝臓の手術なので8時間近くかかることもある、術後の経過がよくないと出血多量や肝不全、敗血症といった合併症の可能性がある、といった説明だった。

説明を受けた後、手術のやり方、必要な際の輸血、術後の治療の進め方などなどに関する何枚もの同意書に署名した。

水曜日の朝、妹が来た後で、教授回診。午前8時45分にICU内で使用する浴衣・一字帯・腹帯・みずすいを用意してストレッチャーに横になった。

担当看護師に引かれて2Fの手術室へ移動。手術室のベッドに移され、それまで着ていた服を脱いで、麻酔が始まったところまで記憶にある。

目が開いたら午後3時30分を指している時計が見えた。この夜は集中治療室(ICU)のベッドで過ごした。痛み止めが良く効いていて痛みは感じなかったが、発熱して寒気を覚えたことが記憶にある。

木曜日の朝は、ICUで迎えた。お昼には、病室近くのナースステーション脇にある要注意患者ベッドに移動。夜も、必要なことがあったら必ずナースコールをすることとの指示にしたがってベッドの上で過ごした。

金曜日の朝、車いすに乗せられてレントゲン撮影。終わったら入院時に持ち込んだ荷物がまとめて置かれた病室のベッドに案内された。点滴スタンドが用意されており、経過が順調なので無理しない程度に歩くようにとのこと。

夜、友達が仕事帰りに立ち寄ってくれた。

土曜日の朝早くに採血。朝の回診にやってきた教授が、お腹に入っていたドレーンの1本を抜き取り、お昼から食事再開と知らせてくれた。

午後、「お見舞いに行くね」と言っていた職場のスタッフが来てくれた。赤羽からバスで来たとのこと。病棟内の談話スペースで携帯電話を使っている人もいるので、B1の会計待ち合いスペースへ移って話をした。

夕方、友達が3人で待ち合わせてきてくれた。1Fのレストランに入ろうとしたが、もうすぐ閉店時刻とのことだったので、事務スペースに置いてある長イスで話した。

日曜日の朝、もう1本のドレーン、痛み止めを脊髄に入れていた針も不要とのことで抜かれた。お昼に担当看護師が膀胱にさされていた管を抜き取ってくれたので、一字帯・浴衣からパンツ・ズボン・Tシャツに着替えた。

お昼前に、車で15分くらいだったと友達が来てくれた。病院隣の医学部のキャンパスへ散歩に出かけたが、点滴を制御する装置がガタゴトと揺れるたびに甲高い警告音を出すので早々に引き返した。

来てくれた友達は、今度の金曜日に最近受けた検査の結果が判るとのこと。

午後、温かい時間帯に、頼んでおいたティッシュペーパーの箱を二つ持って、伯母が来てくれた。伯母は、数年前に胃の手術を受けた杏林大学病院は広くてきれいだったと話していた。

夕方、現AJF代表の林さんが来てくれた。彼の入院先に、何人かで行った時のことを思い出した。

11月8日に開くセミナー「農業大国ブラジルの光と影:遺伝子組み換え大豆を例に」ではブラジルの影に焦点をあてるが、1980年代に構造調整政策に直面する中、20年以上におよだ軍政から民主化しハイパーインフレを乗り越えたブラジルの人びとの動きにも学ぶべきことはたくさんあるという話になった。ブラジルの民衆運動との関わり深い人たちとの座談会を企画する。

今朝、首の静脈に入っていた管が引き抜かれ、点滴スタンドを押して歩く必要がなくなった。

久しぶりに、ウェブでアフリカ情報をチェックしたところ、12日〜15日のニュースにはアクセスできなくなっていた。



2012年10月1日、月曜日午前6時27分。

昨日、「これはお金のためじゃないんだ スーダン、日本をつなぐ視覚障害者の活動に学ぶ」のタイトルで、アフリカNOW・スーダン特集号に載せる記事を書いた。

2007年8月に東大先端研で、2008年6月に立命館大学で開いた座談会、2008年2月ワン・ワールド・フェスティバルでのブラインド・サッカー・ボールを使ったワークショップ、2009年3月に会員・協力者と3人でつくばの大学寮を訪ねて行ったインタビュー、同年6月に京都駅の真上にある京都府国際センターで行った公開インタビュー、それぞれの記憶が甦った。

2008年6月の座談会の発言、改めて紹介したい(座談会記録全文を、生存学創成拠点ウェブサイトで読むことができます)。

 現在の大きな課題としては、教材の提供とか、学習環境の保障とかがあります。視覚障害者が使用する教科書とかプリントとかはまだかなり不足しています。会ができて5,6年たちますが、そういった部分はまだできていません。点字図書館もまだないです。学生達がパソコンを使って、自分で好きなときに文献などを検索できるしくみもつくらなければならないと思います。教材が学生のニーズに合うように、学生が使う教材のテキストデータ化、点訳、MP3などの音声データ化も必要で、まずやらなければならないことです。テキストデータ化というのは、視覚障害者の方なら知っていると思うんですけど、視覚障害者は普通のプリントなどはそのまま読めないので、支援室みたいなところで学習補助者がスキャナで取り込んでテキストデータ化するといったことを行っています。そのデータをもらったら、パソコンで読むことができるようになります。このような仕組みを向こうでもつくれたら便利、というか必要ですよね。次にやっぱり、情報処理教育を目的としたセンターの設立。今はパソコンを扱える人はほとんどいないし、むしろパソコンを触ったことのない人の方がほとんどです。僕も2001年まではその1人でした。パソコンがどういうものなのか、何ができるようになるのか、全然知らなかったです。けれども、パソコンの便利さとか必要性を知った私たちとか、CAPEDSに入っているアブディン君とかバシール君とかが教えていけたらいいなと思います。


2012年9月23日、日曜日午前8時58分。

近くのスーパーで、一袋100円もしない値段で売っている野菜を4種類ほど買ってきて、煮しめを作った。青唐辛子を漬け込んでいた醤油を使うので少し煮汁を多くしたところ、ナスやピーマンからも水が出たので煮汁がひたひたの煮しめになった。子どもの頃食べた味、もう覚えていないが、煮しめを食べたくて煮炊きするようになったことを改めて思い出した。

一昨日の夕方、大学3年生の友達の娘から相談があるという電話をもらった。早い方がいいと言うので、ちょうど長年の飲み友達といる席へ来てもらった。

相談事は、進路選択のために情報が欲しいがどうやってアクセスできるかというものだった。同席した飲み友達と二人して、いくつかアイデアを出した。

OG訪問の話も聞いた。普段感じていること考えていることを話したら、「政治的ととられるかもしれないね」と言われた、どうしたらいいのかわからなくて困っていると言うので、話した相手に教えてもらえばいいという話をした。多分、相手も、話に興味を持ったので、あえてそんなことを言ったのだろうと思う(そもそも、訪問時に初対面だったのだから、普通は言わないな、というかそんな話にならないな)。

話をした後、「政治的」ということばを、僕らが学生の頃、どんな風に使っていたっけ?と思った。「政治に関わっている」という使い方もしたけれど、「場の力関係に気を配っている(これは良い意味だな)」「力のありそうな人間が何と言うのかを窺っている(これは悪口だ!)」と言った使い方もしたことを思い出した。



2012年9月21日、金曜日午前8時。

昨日、2泊3日の検査入院を終えた。

火曜日の朝、病院へ行って身長・体重を測ったら、身長が縮んで体重が増えていた。

6月の検査入院の時には、右腕からカテーテルを入れたが、今回は右足の付け根からだった。そのおかげか、検査時間が半分くらいで済んだ。

入院病棟では、若いのは、医者と看護師だけだった。入院患者だけでなく病室やトイレの清掃をしているスタッフも概ね高齢者だった。

6月の検査入院の結果を持って、患部摘出手術を受けるために転院した病院で、3ヶ月おいて改めて受けた検査で、手術を受けることになった。

検査を受けた夜、担当医のグループがやってきて、「金曜日に手術することになりました」というので、ちょっとあわてた。「先日の診察の際に、2晩泊まって検査を受けなさい」と伝え、手術後約10日間という入院の準備も全くしてこなかったことを話して、10月半ば以降に改めて手術日を設定してもらうことになった。決まったら、電話をくれるという。

病棟に貼ってあった、担当科長を紹介する新聞記事、書いた本の広告によると、以前は輸血が必要だった手術が、現在は献血時の採血量くらいの出血でできるようになったので輸血しなくていいという。

ちなみに担当科長は、僕と同年。2度、診察時に会った際に、同世代と感じていたが、その通りだった。



2012年8月30日、木曜日午前7時2分。

公園で、洗濯が終わるのを待っている。

ジョギングしている人、ウォーキングしている人、すでに汗だくのシャツで動いている人が何人もいる。

昨夜、以前お世話になった同世代の人が脳内出血で入院していたことを知ってびっくりした。幸い1週間の入院ですんだとのことでホッとした。

しばらく前に、8年前まで20年働いた職場つながりで何度も会ったことのある、お世話にもなったちょっと上の世代の人が2人、亡くなって3年になることを知った。

病気や死が身近なニュースになる年代に入っていることを改めて実感した。



2012年8月19日、日曜日午後10時3分。

8月18日、日経新聞ウェブ版に「伊藤忠、アフリカに穀物調達網 価格変動を回避」という記事が出た。日本が輸入している90万トンの大豆の輸入先を多様化するために、モザンビークでの大豆生産の動きを後押しし調達網を整備するという内容の記事だ。7月28日付けの「政府、アフリカ農業支援 住商と1000億円投融資」という記事へのリンクもあった。

どちらにも、ブラジルの農業法人がモザンビークへ進出する動きへの言及があるので、「Brazil Mozambique soybean」でググってみると、真っ先にちょうど1年前のReutersの記事「INTERVIEW-Mozambique offers Brazilian farmers land to plant」が出てきた。米国のDTN Progressive Farmersというサイトには、今年6月13日付で「Brazil Farmers Given Reality Dose on Africa」、8月15日付で「Mozambique: The New Brazilian Farm Frontier?」という通信が記されている。

以前、モザンビークが南アから脱出する白人農場主を迎え入れるための制度を整えたことを伝える「モザンビークに新たなアパルトヘイト?」というニュースを見たことを思い出した。どこかに残していると思う。

生産するのが大豆というのも気になる。少なくとも日経新聞ウェブ版の記事を読む限りでは、国際市場へ出荷する、すなわち輸出することを目的とした生産物だ。

2007年から09年にかけて、世界的な食料価格高騰がアフリカ諸国に及ぼす影響、食料価格高騰につながる食料先物市場への投機資金の流れ込みとバイオ燃料生産の問題、食料価格高騰を機に進行が早まり注目を浴びることとなった農地の国際的取引(農地争奪)についてセミナーを行ったことがある。

バイオ燃料原料作物ではなく大豆なら問題ないのか?と思わざるをえない。どちらにしても生産地は途上国、消費地は先進国と新興国という図式に変わりはない。

2008年3月のセミナーで紹介された「緑の資源大陸アフリカ」は、南米でその前から使われている「緑の大陸南アメリカ」をもじったものだ。南米での大豆生産拡大によって何が起こっているのか、もっと知る必要があることを痛感する。

ポルトガル語、スペイン語の資料やニュースを読んでくれる人が必要だ。



2012年8月13日、月曜日午前11時19分。

明後日15日まで事務局を閉めるので、今朝は、図書館で作業をした。

部屋で作業をしていると、汗がしたったってキーボードや開いている本を濡らしてしまう。

近くの図書館、PC作業用のスペースも用意されていて便利だ。

昨夜、近くの公園で夜風に吹かれて作業したのもよかった。



2012年8月7日、火曜日午前10時58分。

アフリカに関わって緊急に考えるべき二つのテーマ。

  • 若者が多いアフリカ、若者の暴力への傾斜:ヨーロッパへの出国という「希望」を奪われるアフリカの若者たちの動向は?
  • 人口急増が予想されるアフリカへの食料供給、勢いづくGMO種子企業:干ばつの影響を逃れられない大規模農場、先進国農業技術の有効性への問いかけを出発点に課題化を!

2012年7月21日、土曜日午前8時28分。

肌寒いと思って起き出したら、まだ5時だった。

牛乳と味噌が必要なことを思い出して、駅の近くの24時間オープンのスーパーへ行くことにした。

ドアを開けたら寒かったので、長袖のジャンパーを着て行った。

買い物をすませて外へ出ると雨。帽子とジャンパーが役に立った。

今朝は、ごはんにみそ汁、キャベツとニンジン、トマトを刻んで並べた皿と五目豆、納豆。

みそ汁がすっぱくなっていた。作り置きはできない。



2012年7月20日、金曜日午後3時36分。

今日は、曇り後雨、お昼を食べて出てきたら小雨が降っていた。

今日は、AJFが事務局となっている「動く→動かす」の作業日でボランティアが2人やってきた。インターンも2人出勤しているので、事務局内で作業するのはたいへんだ。

担当インターンが「アフリカ熱帯林の現状と日本との関係」サイトの更新作業を進めている。HTMLの書き方にずいぶんなれてきた。



2012年7月19日、木曜日午後5時31分。

今日も暑いが、午後から雲が出て昨日ほどではない。

提出された期末レポートを見ると、参照したウェブサイトや資料への言及がないものが多い。言及の意味を解説する必要があるようだ。


毎日新聞が、熊本で、ハンセン病療養所「恵楓園」の在所者へのインタビューを連載していることを知った。

「生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/14 社会復帰/1」以降は、下記に転載されています。
生存学創成拠点「ハンセン病 leprosy」

2012年7月9日、月曜日午前7時31分。

昨日、昼寝をし、夜も午後10時には布団に入ったので、今朝は6時に目が開いた。

今年3月までは、ほぼ毎朝、6時前後に起き出して散歩していた友達の犬と、昨夜、久しぶりに散歩した。一人では歩かないコースを歩くのがいい。

今朝は、みそ汁用にジャガイモ、ニンジン、キャベツを刻み、キビナゴのイリコと一緒に鍋にいれ、タイマーを7分に設定した後、散歩した。

近所で、ネコが目の前に出てきたがカメラを用意している間に、見えなくなってしまった。ネコを撮るために持ち歩いているカメラだが、なかなかうまく撮れない。

先週の授業で書いてもらったエッセイ、半分近くが「生死、健康の課題に直面したらと考えてみた」というものだった。「友人がサークルの飲み会で急性アルコール中毒になってしまい、現在、ICUに入っている」「治らなくても良い病気と知って状況が変わった」「発作が出て倒れてしまったら他力本願しかないし、それはそれで何とかなったという体験がある」と書いた人もいた。

授業で新山智基『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動 −生存の視座から』を読んだので、「ザッキー・アハマットはカッコイイ」「ザッキーの行動に感動するが、自分は家族との時間や治療にもっと時間を使うだろう。ザッキーにそういった時間を持たせなかった政府の姿勢が問題だ」といった感想を書いたものもあった。

今週の授業で、前期は終わる。A、Bとそれぞれに履修届を出す仕組みなので、Aの履修者が後期のBにどのくらい参加するのか、興味深い。



2012年7月1日、日曜日午後3時45分。

朝、コインランドリーへ、やりかけの作業をするためにMacBook Airを持って行ったら、Wi-Fiが反応した。おかげでメールのチェックができただけでなく、オンライン英辞郎が使えたので、作業もすんなり終わった。

先週、書類がそろったので東京都生活文化局の担当部署にAJFの年次事業報告書、役員変更届を送った。地球環境基金から交付決定通知を送ると連絡があり、事務局スタッフのナイジェリアでの長期スタディも決定して、今年度の取り組みの見通しも立って、一安心した。

安心したせいか、今日はボーッとしている。



2012年6月24日、日曜日午後4時7分。

今日は事務所当番。隣で開かれる月例会議のために事務所を開けている。

昨日、組み立てた引き出しを机の下に押し込み、箱に詰めたままだった細々としたものを移した。

一昨日、届いたIP電話用の電話機とアダプターをセットしたので、相談を受け付ける準備ができた。

先週、総会の後で受け取った国際協力活動の中での障害者支援に関する相談メール、情報支援に関わるいくつかのリソースを紹介したところ、「本当に良い経験になったなと反省点は多いもののやって良かったと感じております。」とのことだった。



2012年6月23日、土曜日午後7時5分。

土曜日の夕方だというのに、事務局にみんな来て作業をしている。

今日、オックスファム・ジャパン事務所の荷物が運び出された。来週からは、秋葉原の近くの事務所で活動すると張り紙がある。

このビルで働くNGOスタッフ、東日本大震災以降、半減してしまった。



2012年5月19日、土曜日午前7時55分。

NGO論の授業では、ボランティア活動に関して、

  • ボランティアを入学選考の資料にするのはどうか? 授業時間の一部をボランティアにあてたり機会を提供するのはいいが、単位にむすびつけて強制する必要はない
  • 1年生の時の基礎ゼミの調査でボランティア活動の対象とされている高齢者や障害者が世話されることに居心地の悪さを感じていることを知った
  • 小学校、中学校でのボランティア体験には何をしたいいのかわからなかったというとまどいの記憶が伴っている

といったことを書いている受講者もいる。

関連して、こういった質疑もした。

Q:「アメリカ独立戦争を戦った人々をvolunteerと言う」とのことだが、武装勢力に関わる活動は、「ボランティア」という枠を超えているのではないか?
A:日本語の「ボランティア」と英語の「volunteer」はまったく同じ意味ではないことを紹介したのです。
 たとえば、英辞郎では以下のような語義が紹介されています。
  http://eow.alc.co.jp/search?q=volunteer&ref=sa
 volunteer
 【名】
 1. 〔無償で働く〕ボランティア
 2. 〔大変な仕事を進んで行う〕ボランティア、奉仕活動家、篤志家
 3. 《軍事》志願兵
 4. 《植物》自生植物
 5. 《法律》無償労務の提供者、任意行為者
 6. 《法律》不動産の無償譲受人◆対価を支払わずに不動産を取得した人。
 【形】
 7. 無償で[自発的に]働く、ボランティアの
 8. 《植物》〔栽培植物が〕自生の
 【自動】
 9. 奉仕活動を行う、ボランティア活動をする
 10. 《軍事》〔兵役に〕志願する
【他動】
 11. 〜をボランティア活動に当てる
  I volunteered my time for our community projects. : 地域で奉仕活動を行った。
 12. 〜の活動をボランティアで行う、〜を自発的に行う
 13. 〜を任意[自発的]に提供する
 14. (人)に手助けを申し出る

 これに対し、goo辞書の日本語辞書をみると、以下の通りです。
 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/205351/m0u/
 ボランティア【volunteer】
 《志願者の意》自主的に社会事業などに参加し、無償の奉仕活動をする人。「−で日本語を教える」「− 精神」



2012年5月18日、金曜日午前5時3分。

2008年から都内の大学で「日本と世界2/NGO論」という授業をやっている。最初の年は秋学期のBを担当し、翌年から春学期のAを受け持ってきた。今年は、A・B両方やることになっている。

去年から、授業の最初に、杉田敦「国境と人権」(『人権の再問』収録)を読んでいる。

今年は、牧原憲夫『客分と国民のあいだ 近代民衆の政治意識』の「はじめに−客分というスタンス−」、市野川容孝『社会』の一部、湯浅誠『内閣府参与辞任について』と一緒に読んだ。

5回目にあたる先週の授業では、その場でエッセイを書いてもらった。タイトルや内容について、以下の注文をつけた。

エッセイのテーマについて
以下のいずれかに関わるテーマ
  • 国境と人権
  • NGOの活動

ボランティア
 *具体的なタイトルをつけること
 *思考過程を書くこと
 *結論を出す必要はない

授業資料をまとめた内容の文章を書いた人もいたが、準備して調べて書くというものではないので、課題としたテーマに関連して考えたことのあること、感じていたことを書いてくれたように思う。

体験して来たことが感じられる記述が印象に残る。

  • タイの観光地でスリをしているのは外国から来た人たちだと聞いた。人の自由な移動を制限することは必要と思う。
  • ベトナムからカンボジアへ:カンボジアへ入るのはあっという間であった・・・建物や通り、言葉が全て変わっていた。
  • 島国でない国が少しうらやましく感じる。国境は、時に人権を侵害することもあるが、時には文化交流を促進するものにもなる。
  • 一人旅が好きだ。フィリピンでおじいさんが物乞いをしているのを見て、どうすればいいのかわからなくて腹立たしさを感じた。
  • 怪しいNGO(NGOではないかもしれないが)も存在しているという印象が強い。だからやはり、ユニセフや国境なき医師団など、大規模な団体を信用してしまう。
  • ペットの保護活動を行っているNGOに接触 信頼おける友人が媒介 NPOの情報発信・信頼獲得の課題
  • シアトルへボランティア留学し少年野球チームへボランティアコーチとして参加した。「困っている人を助ける」のがボランティアだと思っていたので、シアトルでの体験をボランティア体験として話していいのかどうか迷う。
  • ニュージーランドへ短期留学した時、高齢者施設で讃美歌を歌ったことがある。去年のクリスマスシーズンにいくつかの高齢者施設で讃美歌を歌ったら聞いている人たちが涙ぐんでいるのが印象的だった。歌うのがどんどん楽しくなった。

僕が、脳性マヒの金井康治君の普通学校への転校実現運動に関わったことがきっかけとなって、反差別運動団体で働くようになり、8年前からはAJFの専従スタッフとして活動していると話したことに触発された文章もいくつかあった。

  • 小学校の途中まで住んだアメリカでは学校のクラスに目の不自由な子、足の不自由な子がいた。一緒に遊んでいた。日本で入った小学校にもクラスに障害児がいた。授業中に奇声をあげたりよだれをふりまいたりしていた。その結果として差別が発生しているように思う。
  • 1981年、当時の首相が『学校選択には親の意見尊重」と言ったが、障害者自身の意思への言及がない。小学生の頃、障害児がクラスにいた。近くにいないようにしていた。今思うとその人を傷つけてしまったかもしれない。普通学級へ行くことで障害児が傷ついてその後の人生にも影響がでる可能性がある。だから本人の意思表示は重要だ。
  • 小学校に知的障害者の在籍者がいた。「なかよし学級」という学級があってそこにいた。中には学校中を裸で走り回っている子もいた。知的障害者には支援のしようがない。そういった経験から知的障害者の普通学校就学に反対だ。
  • 弟が知的障害者。通っていた小学校には特別支援学級があり、弟もそこへ通った。保育園から弟と一緒だった人たちは弟のことを特別と思わなかったが、小学校で初めて出会った人たちは突然自分たちとは違うことに驚いて遠のくのだと思う。一緒にいる機会を作ることが重要。
  • 小学校のとき一つ上の学年に自閉症の男の子がいた。初めは驚いたが同じ学年ではなく関わりが少なかったということもあり、自然と受け入れることができた。

昨年の東日本大震災被災地の出身で、被災地支援のボランティアにも参加したという受講者は、「途上国には途上国なりの積み重ねてきた文化や生活、歴史、政治があるわけである。生まれてからその土地で暮らしてきた人々に対して、別の土地でちょっと訪ねただけ、研究しているだけの先進国の人々が支援する(という)のは、何か上目線に感じてしまう。東日本大震災被災地に生まれ育ったから感じる。」と書いていた。「支援対象者」に対する視線を意識するところから、国際協力の対象とされる国々・人々の文化・生活・歴史・政治にも思いが及んだということなのだろう。共感することの重要性を改めて感じた。

今週から新山智基『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動 −生存の視座から』を読み始めた。上記のコメントや質問に関連する情報提供なども行っていきたい。



2012年5月5日、土曜日午後0時13分。

今夜23時、現在、唯一動いている北電泊原発3号機が定期点検のために運転を停止する。実に56年ぶりに、原発が運転していない日々を迎えることになる。

運転を再開させない、してほしくない、という意思を明示しておきたい。



2012年4月21日、土曜日午前9時30分。

昨日の朝、2年ぶりに届いたDADAアフリカと日本の開発のための対話プロジェクトから送られてきた会報「DADA第10号」を読んでいたら、「世界観を「目に見える形」で取り戻す」という一文が目に留った。 この文章の直前のパラグラフに以下が記されている。

ジンバブウェの場合、英国が、人びとが守り続けてきた湿地(水源である泉の根幹)に教会を建てたり、森を伐採し、動物や人びとの移動の路を柵で分断するなど、それまでの自然の動きをめちゃくちゃにしてしまいました。泉は枯れ、森は消え、人々は豊かな土地を追われ、困窮した生活をしいられることになったのです。

なので、「世界観を「目に見える形」で取り戻す」ために

昔ながらの寄り合いを復活させ、人々が集まるときには必ず先祖の霊への謝辞で始め、具体的な森や泉の保護を昔ながらの方法で行いました。実践を通して人びとがかつてもっていた自然や祖先とのつながりを再確認するという過程を大切にしたのです。その結果、緑がよみがえり、泉に水が戻り、人々の生活にも祖先とつながる行事が復活していきました。

という。こうした取り組みを始めていたAZTREC(Association of Zimbabwean Traditional and Environmental Conservationists Trust)とDADAが出会った頃のジンバブウェの農村支援をしているNGOの活動については、こう書かれている。

NGOが描く農家の将来像はこぞって、「換金作物を“フェアトレード”で都市や外国に売る」というもので、NGOは「サービスプロバイダー」として、農民の自立のために、外国から資金を得て地元に投入し、農民を始動するのが仕事という認識のようでした。

では農村に根ざして活動するとはどういうことか、と考えさせられる文章が続く。

この文章は、AZTRECの中心メンバーであったゴネセさんの追悼文、昨年春、54歳で亡くなった、ジンバブウェ独立戦争の戦士で農村活動家だった人を偲ぶ文章だ。

職場へ行ったら、以前、DADA主催のセミナーで農業技術について話したこともある理事から、「DADA第10号を読んだ。DADAに連絡をとりたい」と電話がかかってきた。AZTRECの活動、そしてAZTRECと連携しているDADAに改めて強い関心を持ったのだろう。

「DADA第10号」、必要な方は以下へ連絡してほしい。
 dada-africa@nifty.com
ウェブサイトもある。
 http://dada-africa.jp



2012年4月12日、木曜日午後6時20分。

朝、職場へ向かうために駅へ行ったら、隣の駅で「人身事故があった」ため止まっていた電車の運行が再開されるところだった。

ちょうど到着した電車に乗ったところ、ホームを離れてしばらく進行したところで止まってしまった。40分ほど経って動き出したが、駅に着くたびに調整のために待ち合わせをしていたので、普段10分もかからない区間を進むのに1時間余りかかった。しかも、地下鉄区間への乗り入れを中断していたため、地下鉄に乗り換えて職場へ向かった。

電車の中で、昨日、大学の図書館で借りてきた中公新書『「戦争体験」の戦後史』を読んでいたら、懐かしい名前にでくわした。1977年、大学3年生の時に教わった五十嵐顕(いがらしあきら)さんだ。

1990年に「『きけわだつみのこえ』をいかに聴くのか」という論文を書かれたとのことなので、そのころまではお元気だったのだと知ることができた(このあたりのことが記された部分の抜き書きはこちら)。

先週末、名古屋でアフリカ子ども学企画について相談していた時に、五十嵐さんのゼミで高校教育について論じた時のことを思い出したところだったので、名前が目に飛び込んできたのかもしれない。

五十嵐さんに連れられて農業高校を訪ね教員だけでなく生徒たちと話をしたこと、またその頃、出たばかりだった五十嵐顕編『講座・日本の教育4 青少年の教育』の五十嵐さんによる、後期中等教育は自らの教育目的について自覚的な人々を対象とした教育という趣旨の巻頭言、今も記憶に残っている。



2012年4月2日、月曜日午前7時32分。

先々週までは、友達の犬と散歩していた時間帯にみそ汁を作り、ごはんが温まるのを待っている。

昨日、参加した『村田栄一さんを偲ぶ会』で、大学の陸上運動部で一緒に走っていたかつての仲間に声をかけられた。参加者一覧で僕の名前を見て、懇親会の時に探してくれたとのことだった。

名前を言われて、卒業して東海地方で教員になると言ってことを思い出した。

偲ぶ会には、学生時代からの仲間、教育労働運動に関わった仲間といった高齢の人たちだけでなく、60代の村田さんが教員になったばかりの頃受け持ったクラスの卒業生たち、やがて50歳になる44歳で教員を辞める直前の3年間受け持っていた「ジャンケン党」のクラスの卒業生たち、そして60代半ばも過ぎて国学院大学で持った20代〜30代の教育原理のクラスの教え子たちも参加していた。

村田さんが『ジャンケン党宣言』という本で活写したクラスの卒業生3人の話が特に印象的だった。
写生と称してよく学校外に出ていた
楽しいクラスだったが何かを教わったと言う覚えはないと思っていたが最近NHKの番組で連想しながら語彙を広げる教育法が紹介されているのを見てこれやったことがあると思い出した
3年間のびのびとしたクラスにいた反動で中学の窮屈なクラスの中で辛い思いをした、その辛い思いをぶつけによく家を訪ねた

東北で教員をやっていたという人が、今も『このゆびとまれ』をそのままパクって学級通信を作る教員がいるんだ、と言うのを聞いて、なるほどと思った。

大学の寮を出るために本を整理した時、持っていた『無援の前線』『闇への越境』『このゆびとまれ』『ジャンケン党宣言』『教育戯術』を友達に読んでねと渡したことも思い出した。

彼が教員を辞めて行ったスペインで感じたこと考えたことを書いた『私のスペイン シェスタの夢』に描かれたバルセロナの移民を対象とした識字教室が直面する課題と同じ課題にぶつかっている人が、今の日本もけっこういるのだろうと思う。

76歳、若くはないけれど、まだまだ元気だった村田さんの死を、しっかりと受けとめるには、昨日の会が必要だった。



2012年3月20日、火曜日午前11時42分。

先週の土曜日、行った先に本があったので、かねてから紹介したいと思いつつ、自分で翻訳するのもたいへんでそのままにしていた記述をiPod Touchで抜き書きした。

20世紀の歴史 極端な時代
第1章 37p

第一次大戦の大部分を西部戦線で戦ったイギリス人とフランス人にとって、この戦争が「大戦争」ー第二次大戦よりも恐ろしく、かつ心の傷跡の深い戦争として記憶に残っているのは、驚くべきことではない。フランスは兵役年齢の男子の20%近くを失った。捕虜になった者、その後の生涯を不具不能者(ママ)としてすごした人々、戦争の残像の一部として生々しく残っている「潰された顔gueles casses」までも含めるならば、戦争の傷跡のないフランス兵は三人に一人しかいなかったのだ。500万人ほどのイギリス兵が無事に戦争に生き残った賭け率は、ほぼ五分五分だった。イギリスは一世代、30歳以下の男性50万人を失った(Winter, 1986, p.83)。とくに上流階級についてそうだった。上流階級出身の若者たちは、紳士であるがために、兵士たちの模範とならなければならない将校になり、先頭に立って戦場に進んでいって、まっさきになぎ倒されていった。1914年にイギリス陸軍に従軍した25歳以下のオックスフォード大学、ケンブリッジ大学の学生の四分の一が戦死した(Winter, 1986, p.98)。ドイツの戦死者の数はフランスよりもさらに大きかったが、もともと大きかったドイツの兵役年齢層の13%とフランスよりも小さかった。

上記記述に、英仏は多大な犠牲を払うことになる戦争を何とか避けようとしてナチスの周辺諸国への侵入・併合を黙認しただけでなく、電撃戦によるパリ占領、仏の分割占領支配を許すことになったという趣旨の記述が続く。



2012年3月18日、日曜日午前10時44分。

昨日もらったプランテンバナナを蒸して、かき菜のおひたし、せんぎり人参、サンマの干物と一緒に朝食にした。刻んだ青唐辛子漬けとすったニンニク醤油漬けで味をつけて食べたらおいしかった。

Zone Booksから出ている"ACCESS TO KNOWLEDGE IN THE AGE OF INTELLECTUAL PROPERTY"に収録された"The figure of the pirate"に、「貧しい人々が必要とするもの」の一つとしての「違った世界への窓口」に関わる記述があった。「妄想の力」と言うべきものについても考える必要があるのかなと思った。


PLEASURABLE TRANSGRESSIONS

Such prohibitions take many forms. As I noted before, one of the objections to piracy seems to lie in the fact that it is associated more with the world of pleasure and desire than with meeting "pure needs". Let me begin to discuss this objection in greater depth with an interesting story about the intersection between the world of desire, subjectivity and the experience of piracy. It is a typical example of interventions in the field of the digital divide. An NGO in Bangalore that works of information and communication technologies for development was conducting a workshop on accessing the Internet for the information needs of rural women working to empower other poor rural women in India. The facilitator guided the women through the basics of the Internet, including how to access information relevant to their work, which ranges from providing access to credit to promoting women's health. The training was highly appreciated, and all the women volunteers seemed to be enjoying themselves while fiddling with the computers and exploring the Internet. At the end of the training, when the NGO started clearing up the computers, including the browsing histories and the cached copies of the sites accessed, they were a little aghast to find that most of the women volunteers had been surfing pornography - and a range of pornography, at that. So while the trainers were holding forth eloquently about the real information needs of the poor, the poor were quite happy to access their real information needs.(367p)

Ranchere's motley cast of characters include Jerome Gillard, an ironsmith retired of hammering iron, and Pierre Vincard, a metal worker who aspires to be a painter - in other words, people who refused to obey the role sketched out for them by history and who wanted to step across the line and perform the truly radical act of breaking down the time-honored barrier separating those who carry out useful labor from those who ponder asethetecs.
Ranchere says:

A worker who has never learned how to write and yet tried to compose verses to suit the taste of his times was perhaps more of a danger to the prevailing ideological order than a worker who performed revolutionary songs .. Perhaps the truly dangerous classes are not so much the uncivilized ones thought to undermine society from below, but rather the migrants who move at the borders between classes, individuals and groups who develop capabilities within themselves which are useless for the improvement of their material lives and which in fact are liable to make them despise material concerns.(Jacques Ranchere The Nights of Labor: The Workers Dream in Nineteenth-Century France, trans. John Drury (Philadelphia: Temple University Press, 1989), pp. x-xi)


2012年3月14日、水曜日午前10時27分。

先週金曜日、サイエンス・スタディーズ研究会2012年第12回研究会に参加して、熊谷晋一郎さんの「科学としての当事者学」に関する発表を聞いた。発表は、最近の自閉症研究の動向を紹介し、そうした研究のあり方に対して、熊谷さん・綾屋さんが一緒に書いた『つながりの技法』などで具体的に展開している当事者研究の方法論と意義を対置させる内容だった。

発表を聞いて、途上国でも、先進国で自閉症について学んだ研究者が「診断者」となって診断を行っていると思われるが、それに関する資料や情報はないか?と質問した。熊谷さんは途上国での自閉症診断について関心を持って調べたことはないとのことだった。

会場から出た質問で印象に残っているのは、「科学として」という点に関心があってきたが、その点はあまり展開されていなかった、というコメントを込めた質問だった。これに対して、熊谷さんは科学的な知識や方法論を当事者が自分のために使うにはどうすればいいのか、どのように使っているのか、という観点での発表ではなかったので、意に沿わないものだったかもしれない、と応じていた。

このやり取りを聞きながら、水俣病に関わった人びとの中で、医学者・社会学者と患者・地域住民との対話を進めた人たちが、水俣病発生のメカニズムを明らかにし、水俣病診断のあり方を変えてきたことを思い浮かべた。

反公害運動の中で、それまで研究対象として注目を浴びることがなかったため究明されていなかった科学的事実が多々明らかにされてきたことも、改めて思い至った。



2012年3月7日、水曜日午前9時38分。

いつもより1時間早い時間帯に電車に乗ったら、最初に乗った電車も、乗り継いだ電車も遅れてあわてた。待ち合わせ時刻の5分前に到着する予定だったが、少し遅れしまう。

昨日、天気予報では最高気温18度とのことだったが、お昼近くまで雨が降っていたこともあってそんなに暖かくなったような気がしなかった。今朝は、グッと暖かくなった。朝の散歩で汗をかき水浴びして出てきたが、乗り継ぎで急いだために出た汗がまだひかない。

もうすぐ待ち合わせ駅だ。



2012年2月25日、土曜日午前6時27分。

今年1月に村田栄一さんが亡くなっていたと知った。76歳だった。

30年以上前に初めて『このゆびとまれ』『続・このゆびとまれ』を読んだ時のこと、20年くらい前、初めて自由が丘駅の近くで会った時に一緒だった顔ぶれ、日本教育会館で開かれた『ベンポスタ子ども共和国』出版記念パーティでの無念さのこもったスピーチ(直前に、取材で同行したカメラマンが朝日新聞社からベンポスタに関する本を出したのだった)・・・が思い浮かんだ。

丘の上のマンションのペントハウスみたいな村田さんの家からの眺望、そこで開かれた新年会で外谷君が義眼を外してみせた時に広がった沈黙も忘れられない。

渋谷のスペイン料理店で開かれた『スペイン ロマネスク紀行 増補版』出版パーティで会ったきりだったが、また会う機会があるものだと思っていた。



2012年2月14日、火曜日午後9時48分。

アフリカNOW」第93号の袋詰め作業が終わった。明日、メール便の集配を依頼する。

この号では、アフリカ熱帯林の変貌、そこで暮らす人びとが直面する問題を特集した。また、肢体不自由の障害者が中心のグループによるタンザニア、ケニアへのスタディツアー報告も掲載した。いずれもこれまであまり注目を集めることのなかった内容であり、この号がきっかけとなって関心を持つ人が少しでも増えてほしい。

寄稿の一つに、タンザニア・ダルエスサラームの街角での障害者たちとの出会いが描かれている。

タンザニア旅行を主導した僕と同じ年のCP者が車いすで動き回っているを見て、タンザニアの障害者たちが集まってきたというのだ。



2012年2月12日、日曜日午前8時40分。

福島智さんが、2月8日に開かれた障がい者制度改革推進会議第19回総合福祉部会で、障がい者総合福祉法制定のために設けられた改革推進会議に厚生労働省が、障害者自立支援法の一部改定にすぎない改正案を提出したことに対して、「みなさん、思い出してください。」と呼びかける発言をした。その発言の場面がyoutubeにアップされている
 ■福島智さん憤りの発言 / 障がい者制度改革推進会議
 http://youtu.be/SltreKVT0dA

福島さんは、

 政治的発言力が小さく、相対的に弱い立場におかれがちな障害者の問題は、無視・軽視してもよいということなのでしょうか。
 日本には法的に認定された障害者だけでも今、およそ750万人います。難病や発達障害などの方々も含めれば、1千万人を超えるでしょう。さらにご家族なども含めれば、障害のある当事者とその身近な人たちは、3千万人から4千万人、つまり、国民の3人から4人に1人が障害の当事者やそのご家族ということになります。
 こう考えると、けっして障害者問題は本来小さな問題ではないはずです。
 なにも、障害者だけを特別扱いにしてほしいというのではありません。道路を歩いたり、周囲の人と会話をしたり、トイレに行ったり、水を飲み、ごはんを食べ、酸素を呼吸する・・・、などの人間の生存のための最低限の行為、人間が尊厳をもってこの社会で生きていくうえで、絶対に必要なことが自力ではなかなか難しい人たちに対して、社会のみんなでお互いに支えあっていきましょうと要望しているだけです。
 弱い立場の人間を無視・軽視する社会は、やがて衰え、力をなくして滅びていくでしょう。
 逆に、たとえ人生でどのように困難な状態におかれ、辛い・苦しい状況におかれても、自分ひとりではないんだ、人としての尊厳をもって生きていける、社会のみんなで支えあって生きていけるんだ、ということが国民すべてに実感されれば、その安心感は、一人ひとりの生きる活力となり、それが合わさって社会全体の活性化につながるでしょう。

と訴えている。


10日夜、『困ってるひと』を書いた大野更紗さんがコーディネートしたうちゅうじんの会に参加した。

チラシでは70人くらい入場可となっていた会場は、通路へのイスを並べ、壁際には立ち見もでるという感じでいっぱいだった。

13人の登壇者のうち、福島から駆けつけるフリージャーナリスト(元福島民友新聞記者)の藍原さんと所用の熊谷さんが遅れているというので、二人は駆けつけしだいという感じで始まりまった。

留学したエジプトで出会った音楽にひかれてバイオリンを学び始めた木村さんの演奏が幕開きで、続いて登壇者たちが、3分で自己紹介をした。

どの人の自己紹介も活動も興味深いものだった。

特に、(特活)グレース・ケア機構の柳本さんのタンの吸引や胃ろうの栄養剤注入、さらには看取り介護までグレー・ゾーンと呼ばれる取り組みをしているので「グレースだろうと言われます」という話と、ハンセン病者施設、障害者施設、精神病院などを訪ね歩きながら『障害と文学』『隔離の文学』をまとめた荒井さんの話が僕の記憶に残っている。

遅れてきた藍原さんは、まだ勤めていた頃休職してフロリダへ行き臓器移植について学んだそうで、その時、フロリダでハリケーン・カトリーナも経験したと話していた。その後、マニラで行われたプログラムに参加した際に、ビルマ難民に関わる取り組みを始めていた大野さんと知り合り、お互い気になり始めたのだと話していた。

その後に現れた熊谷さんは、電動車いすが入れない会場のため、4人がかかりでかかえられてステージにあがった。彼が、後半、再生産労働に報酬が支払われないのが問題という話をした時、「再生産労働といってもわからない人もいるんじゃない」と言われて、「食事をとる、入浴する、トイレに入る、別途に入るといった翌日しごとができるようにするための労働」と答え、「障害者運動には、日々の生活をするのも労働、という名言がある」と語っていたのがよかった。

このイベントの参加者のつぶやきを、大野さんがツウィートしている。
https://twitter.com/#!/wsary



2012年2月1日、水曜日午後2時26分。

福島智『盲ろう者として生きて:指点字によるコミュニケーションの復活と再生』(明石書店、2011年7月)の新刊案内、「「当事者研究」にチャレンジする人々にとって、福島さんが選んだ研究法・記述法が評価され、本の形になって登場したことはきわめて心強いことであり、大きな弾みとなることを期待する」という終わり方になった。書いてみると、よくわかるの実例だった。

堀田義太郎さんが「介護の社会化論とリベラリズム」(天田城介他編『老いを治める−老いをめぐる政策と歴史』生活書院)で「高齢障害者」ということばを使っているのに出会って、この数年間、漠然と考えていたことがクッキリと像を結んだ気分になった。これまで「要介護者」とは「高齢障害者」のことであり、障害者運動は要介護と認定されたケアを必要とする高齢者にとって重要な先行例を示していることを言いたくて、「高齢化社会は障害化社会」というような言い方をしていた。「高齢障害者」という用語を使えば、その点、迷う必要はない。



2012年1月28日、土曜日午前9時52分。

宅急便センターへ行ってきた。

一昨日の夜、部屋へ戻ったら不在配達票が入っていたので、昨日の朝、受け付けセンターへ電話をかけて店頭受け取りの手続きをした。ところが、昨夜も不在配達票が入っていた。

しかも、受け付けセンターの音声応答サービスの指示にしたがって店頭受け取りに行くと宅急便センターに連絡を入れようとしたが、電話がなかなかつながらなかった。

もし今日受け取れなくてもしかたがないが、連絡の行き違いで明日も受け取れないとなると困るので、やきもきしたが、昨日の朝の連絡は通っていて受け取ることができた。

郵便局だと、不在配達票を持って行けば事前の連絡は不要だ。

一度配送車に載せられると連絡がなければそのまま載っている宅急便と、不在配達で持ち帰った郵便物を局で管理している郵便局の違い、ということなのだろう。

ともあれ、次からは職場あてに送ってもらおう。



2012年1月27日、金曜日午後3時59分。

先週土曜日、JICA東京で開かれたカントリーレポート発表会の会場でメールを書き、事務局へ戻って発信したら、2009年暮れから使ってきたMacBookProがこけてしまった。

再起動してもハードディスクまで行きつかない。何度か再起動していると起動するのだが、USBポートが反応せずバックアップもとれないし、キーボードにもトラックパッドにも反応しない。取り出したHDを、インターンが使っているAirにつないでみると問題ない。ということで、マザーボードがダメになったようなので、Airを買った。

ハードディスクは無事だったので、データの取り込み、ソフトや設定の移行はスムーズで、先週動かしていた時の履歴も生きている。

最初に持ち歩いたDuo2300から数えて6台目(?)になるようだ。部屋にある初代パワーPC(601)Macの残骸、片付けなくては・・・



2012年1月21日、土曜日午前11時09分。

一昨日、東京大学教育学部で開かれた公開研究会「障害・クィア・シティズンシップ」に参加した。

会場には、同じビルに事務所のあるNGOスタッフ、一昨年の福島ゼミで一緒だった人たち、障害学会で質疑をしたことのある研究者といった見知った顔ばかりでなく、たくさんの人が参加していた。

冒頭あいさつに立った主催者である東京大学教育学研究科附属バリアフリー教育開発研究センター長の白石さんは、安田講堂で福島智さんの記念講演もある立ち上げ企画を実施してから3年、多くの人の注目と企画参加があって、活動が続けられている、今後も企画に参加して欲しいと話していた。

NGOと同じで、たくさんの人が参加している写真が力になるようだ。次の機会にも参加したいなと思った。

司会の星加さんが、これまで障害学はジェンダー研究を参考にしてきたしまた類似性も高いと思われるが、○○ではない、△△ではない、という否定形あるいは残余の形で定義される障害者という概念は、性的少数者始めとするマイノリティーの概念との類似性も高く、クィア研究と通底するものも多いのではないかと提起するのを聞きながら、昨年、障害学会会誌『障害学研究』のエッセイ選者として選択した日本で暮らすムスリマ(ムスリム女性)の当事者研究を思い浮かべた。また、今、僕が事務局長として関わっている(特活)アフリカ日本協議会(AJF)の理事で東京農業大学の教員である稲泉さんが、しばらく前に事業仕分けで廃止された農水省設置の農業者大学校の意義を論じた文章の中で、今の日本では農業者はマイノリティであることを自覚し多数者の中で生き抜きまた多数者に向かって働きかけていくという姿勢と技法を学ぶ場がなくなったことを悔やんでいたことも頭をよぎった。

カレン・ナカムラさんが講演「トランス/ディサビリティー:比較人類学の視点から見る障害、クィア、性同一性障害の現代的運動」の中で取り上げた、介助者は障害者が講演会に行くのを介助するのに躊躇しないだろうが、競馬場へ行くとなったらどうするのか、障害者の手足となるんだというのであればオナニーを介助するのかもしれないが、それで障害者本人は快感を覚えるのか、などなど、そういった場面に居合わせなくてすんだ(そういう圧力をかけてきた?)ことで触れずにすんできたいくつもの課題をつきつけられた気分だ。

カレンさんの講演で時間切れだったため、カレンさんに、アシュリー事件の本が出てるよ、と伝えて事務所へ戻った。ということで、残念ながら、清水さんのコメントも質疑も聞いていない。参加した人たちの声がどこかで紹介されるとうれしい。


今、JICAのアフリカ障害者地域メインストリーミング研修のカントリーレポート発表会で、主催者あいさつを聞いている。仏語圏アフリカ諸国の障害者の現状報告、ランチ交流会、午後の分科会と楽しみだ。



2012年1月17日、火曜日午前8時23分。

一昨日、名古屋駅近くで、アフリカ子ども学の2012年度企画に関する打ち合わせを行った。

昨年10月に開いた語る会で発表してくれた清水君、幼稚園・小学校の教員養成課程での子どもに関する言説を紹介してくれた竹ノ下さん、ナイジェリア北部で子育てに関する調査を行っている梅津さんも加わって、ブレーンストーミングを行った。

「アフリカ子ども学」なので、アフリカの子どもに関わるさまざまな情報を持ち寄りイメージを膨らましていくのは当然だが、その際に、日本の子どもをめぐる状況とも引き合わせていく、捉え返す材料を求めていく、という点で大きな道筋が共有できた。

具体的な手がかりとして、高校で学びについて話をする時、まず「あなたはなぜこの学校にいるの?」「高校とは違った選択肢はなかったの?」と問いかけているという試みが紹介された。

そうした問いかけを通して、日本の高校生にとっての不登校とガーナ始めとするアフリカの国々の同じ年代の「子ども」たちにとっての不登校の意味の違いを考えているとの試みだった。

コーラン学校というもう一つの学校、徒弟制の職人育成の仕組みや実態etcに注目し、関連する情報提供を広く呼びかけていくことについても意見を交換した。

4月初めに次の打ち合わせを持って、具体的な企画の内容を決めることになった。今年も2度、3度と名古屋へ行くことになる。

意見交換をしていたら、大学4年目から6年目にかけていろんな場面で一緒だった仲間のうちの2人が、高校中退・大検合格という経歴の持ち主だったことを思い出した。

たしかに違った道筋を知ることは簡単ではない。



2012年1月9日、月曜日午前9時12分。

昨日、浦和駅前にあるさいたま市コミュニティセンターで開かれたTAAA(アジア・アフリカと共に歩む会)南アフリカ帰国報告会で、2年前に聞いたサーフィンでストリートチルドレン支援という取り組みの進展についても聞くことができた。

前回、聞いた時には、泊まり込みスペースを作ると家へ帰らなくなるので作らないという話だったが、今回は泊まり込みスペースも作って活用していることがうかがえる話だった。ベッド・メイクや部屋の片付けなどが鬱陶しいと寝泊まりは路上でする少年たちも少なからずいるとのことで、泊まり込みスペースの有無が家へ帰る帰らないの選択とはあまり関係ないのかな、と感じた。むしろ、現在4人サーフィン・グループに参加しているという少女たちの保護を考えての取り組みなのかと思った。

家へ帰らず路上で寝泊まりしている子どもたち(中にはハイティーンの「青年」「若者」もいるそうだ)だけでなく、サーフィンを学びたいと希望する貧困者家庭の子どもたちもサーフィン・グループに参加しているというのも、進展の一つと感じた。

波が荒い日、天候が良くない日の室内企画として、サーフィンの規則や技術に関する講座、壁画作成、ビリヤード、外部講師によるさまざまな講座(この日紹介されていたのはHIV/AIDSに関する内容)が行われていることも紹介された。

サーフィンの世界大会南ア代表の補欠となったメンバーや、ライフセーバーとして活躍しているOBも出ているとも紹介された。また、機会を作ってはメダルや表彰状を出しているという話を聞いて、何のためかと思ったが、本人への激励にとどまらず、家族や学校などに対するメッセージとして重要ということだった。路上から家へそして学校へ戻る際に、周囲が「かわいそうな子ども」という受けとめ方をするにとどまらず、「へー、そんなこともできるんだ!」と感じてもらいたいととメダルや表彰状を出しているというのだった。

2年前に、AJF事務局隣オックスファム会議室で話してくれたことのまとめは、以下で読むことができる。参照して欲しい。
サンディーレ・シリル・ムカディさんが語るストリートチルドレンとサーフィン 南アフリカ・ダーバンでの試み



2012年1月8日、日曜日午前8時39分。

Facebookにアップしている朝食の写真に時々、コメントがつく。久しぶりに、親の家で新年を迎え、お節とお雑煮を食べてきたので、母親が持たせてくれたお餅の写真に添えて、「親の家ではお雑煮のお餅をとり出して納豆で食べる」と書いたところ、いくつもコメントがついた。お雑煮のお餅は、そのまま食べてるのが普通らしい。

母親がつくるお雑煮に、するめ出汁でうすい塩味、白菜、里芋、人参、大根が入っていることを紹介したら、かつお出汁のお醤油味のお雑煮を食べているというコメントはじめ、何件かお雑煮の中身の紹介があった。たいへん興味深い。

2008年度に連続公開セミナー「食料価格高騰がアフリカ諸国に及ぼす影響」というタイトルでハンガー・フリー・ワールド(HFW)、日本国際ボランティアセンター(JVC)、明治学院大学国際平和研究所(PRIME)との共催セミナーを行った。2009年度には、連続公開セミナー「飢餓を考えるヒント」とタイトルを変え、また、2008年のセミナー記録をもとに同名のリーフレットを発行し、今年度まで継続して開催している。このセミナーでは、食料の量にとどまらず、栄養や安全性の問題もとりあげてきた。「おいしい」も取り上げようと検討しているが、どこから手を付ければよいのかというところで、材料を見つけきれないでいる。お雑煮の味、食べ方の話題は、いいヒントになりそうだ。




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