農村で生まれ育ったことを振り返った一年


 昨年5月、南部アフリカ研究会の総会(名古屋でのアフリカ学会前日)の際、飯山さんが南アの旧ホームランド・トランスカイの農地再分配事業の報告をするのを聞いていて、自分が農村で生まれ育ったことで「当たり前」のこととして感じていたことと、都市で育って農村研究をしようとする人がみる視点とに違いがあることを感じ始めました。

 その後、9月末に白鳥さんがタンザニアでの経験を紹介された際には、報告の中で浮かび上がってくるいくつもの場面に触発されて、僕がまだ中学生だった頃の生まれ育った農村の状況を思い出してしまいました。

 すでに40代後半の年齢になった僕と、もっと若い世代そしてまたもっと年上の世代では、過ごした状況が違うぶんだけ体験・感覚も違うと思いますが、農村に生まれ育つことと都市に生まれ育つこととでは、さらに体験・感覚が違うでしょう。

 11月、12月と食料安全保障研究会の公開講座に参加して聞いた提起は、僕が思い返して感じた疑問や課題をどのようにとらえていくのか、考えていくのかの導き糸になるものでした。

 今、僕が感じていること考えていることが、ここでの議論の参考になればと願って書いてみます。

 

1)「主食作物」のみへの注目への違和感

 昨年5月、名古屋で聞いた飯山さんの報告では、再分配された農地を得た人びと(元は鉱山労働者だったり、都市居住者だったりする)が、農地全てを耕作していない、とのことでした。耕作している農地で作っているのは、(多分自家消費用がほとんどの)ソルガムやメイズそして何種類かの野菜とのことでした。聞けば、近くの市場のある町までの交通手段が限られていて、時間もかかることから、市場に出荷することが困難だ、と言うのです。

 僕の生まれ育った農村は、たばこ、養鶏、酪農の出荷額の大きいところで、農業用水が限られていることから田圃はどれも小さく、全体としても町の耕地面積の中でも一部に過ぎませんでした(正確な数字を今持っていません。僕の親が酪農に重点を置き始めた頃で、飼料作物の作付け畑は一枚が30アールから50アールの広さなのに、田圃は一番大きなものでその十分の一くらいの広さでした)。僕の家では、家族で食べる米が足りなかった、という覚えはありませんが、小学生くらいまでは、おもちをつくときに黄色い粟餅や、ちょっと黒っぽい雑穀の餅があったことを覚えています。養鶏農家などではお米は買うものだったと思います。

 西隣の町、そのまた西隣の町までほとんど同じような地形で、農地が集まっているところに行くと、人や車の通る道の両側が土手になっていて、その上が畑でした。僕が中学生の頃から、スイカのブランド化の努力がなされていたようで、今でも「植木のスイカ」はブランドの一つです。

 農地で作るものには、自家消費用の米や野菜もありますが、市場で売るための商品作物が大きな比重を占めます。酪農家やたばこ農家、養鶏農家はその意味では典型的です。逆に言えば、市場へのアクセスや商品作物の市況という条件、そして市況を見ながらの出荷調整などの市場との向かい合い方で、農家の収入は大きく左右されます。

 そんなことを思い出した研究会でした。

 

2)タンザニアでの米生産の意味

 白鳥さんの報告を聞いてまず考えたのは、誰が食べるのだろうか? どの位の価格で販売されているのだろうか? ということでした。

 その後で、僕が中学生・高校生の頃、僕の住んでいる町で起きたできごとを思い出しました。

 上述したように、僕の住んでいた町は畑作地帯で、田圃は道路から2mも3mも下った土手下だったり、小さな水路で道路から切り離されたりしていました。

 僕が中学に入る頃から構造改善事業が始まり、畑と道路を同じ高さにして道路の幅を広げ、畑一枚一枚の大きさを大きくする工事が進行しました。また、地下水を汲み上げるポンプと汲み上げた地下水を通すパイプそして畑もしくは田圃に水を流し込むための蛇口を付ける工事が進み、地下水が供給されるようになった地域では、畑を田圃に変える動きも広がりました。

 こうした動きには、大きな畑を作るための土地の交換や売買が伴い、工事費用の負担もあってお金と権利関係めぐる動きが多々あっただろう、と今にして思います。

 そして、畑から転換した田圃で耕作が始まった2年目だか3年目ぐらいから減反政策が始まってしまいました。

 僕の父親は、あっさり稲作をやめて飼料作物の畑に転換しました。でも、周囲を見渡すと、その時期を境に、専業農家が8割くらいだった僕の親の家の周囲で農業そのものをやめる家が増え、僕が大学に入って東京へ出てくる頃には、専業農家の数が2割ぐらいになってしまっていました。

 振り返ってみると工事の負担や土地の権利関係めぐるめんどうな調整作業という大きな代償を支払って、一番確実な商品作物であった米への転作という希望がかなったものの、米作りそのものの将来性が「否定」されて一気にやる気を失ってしまったのかな?と思います。しかも、構造改善事業にしろ地下水汲み上げプロジェクトにしろ関係者全員が「合意して」臨まなければ実現しない事業であった分だけ、失望感は大きかったのではないか、と思うのです。

 タンザニアの米作りそのものというより、こうした過去の農村の就業構造転換を目の当たりにしたことを思い出したことが、僕にとっての白鳥さんの報告会の意義でした。

 それにしても、タンザニアでもけして降水量の大きくない地域で「水を独占する」形で水田が作られることって、地元ではどんな風に受けとめられているのだろうか? 市場はどのくらいあって、将来性はあるのだろうか? と考えずにはおられません。

 個人的な体験ですので、他のみなさんにどのくらい参考になるのかわかりませんが、農村・農業開発を考える時に、主食作物生産の多寡や生産技術・生産拡大のための環境整備のみで考えないで欲しい、ということだけは強調しておきます。

 

 食料安全保障研究会のページに、これまでAJF-INFOで報告されてきたことをまとめておきました。ここでの論議、これまでの勉強会・講座で紹介された資料なども順次掲載していきます。ページの構成などについての意見・質問なども出してください。よろしく。

食料安全保障研究会のページ
http://www.ajf.gr.jp/lang_ja/activities/fs001.html

 


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