沖縄での「本土復帰運動」について (1) |
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神田大介(一橋大学社会学部3年) |
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| 【1】はじめに
私には、高校時代から気になっていることが一つある。受験勉強に疲れて赤い日本史の教科書をペラペラとめくっていた私は、ある写真を目にした。その写真の中では、人の一団が垂れ幕を腰のあたりに下げながら行進をしていた。本土復帰運動を押し進める沖縄の人々だった。私は世界史を受験科目に選択していたので、1972年に沖縄が日本に復帰したことは当然知っていた。それでも、その写真を見て私は当惑した。いつ誰に教えられたかは判然としない。だが、第二次世界大戦時に日本兵によって残虐な行為を受け、明治政府の皇民化教育によって玉砕を強いられ、新聞調査や雑誌のインタビューなどを見るにつけ今でも本土への嫌悪の感情は根深い物があり、また古来琉球王国を形成して本土とは異なる独自の文化を持ち、言語をはじめとする文化からその容貌まで本土の人間とは異なる、それが沖縄の人々だというのが、私の抱いていたイメージだった。その彼らが、なぜ日本本土への復帰運動をする必要があったのか。その歴史からして、日本本土に対して怨念のような感情を抱いて当然ではないか。アメリカの支配下に属するとか、あるいは独立するという道は考えられなかったのだろうか。 疑問が生じた当時は、受験期ということもあり詳しく調べる時間がなかった。大学に入学し、この疑問について考ようと思っていたところ、幸運なことに民族問題に関するゼミナールを取ることができた。その授業の後半では、ゼミのメンバーが各自の問題意識に基づいて研究をし、それを発表する場が与えられた。私はこの機会を利用して、沖縄について詳しく調べてみることにした。 沖縄を他の民族問題と同列に扱うことを疑問視する向きもあるだろう。が、沖縄の問題は他の民族問題と比較すると浮き彫りになる興味深い点がいくつも存在する。以下に順に取り上げていくが、とりあえず一点だけ紹介したい。それは、「なぜアメリカ合衆国は『沖縄人』という民族意識を作ることができなかったか」ということである。世界各地の民族の中には、「他」からの働きかけによってそのアイデンティティが高められた例が多くある。アラブもその一つである。近代、帝国主義国であったイギリス・フランスなど諸勢力の植民地分断によって、現在の国境線ができあがった。もともとアラブの地域は遊牧民が多く住み、「国境」という概念のなかったところである。また、オスマン帝国をはじめとするイスラム帝国は、アラブ地域の民族といった概念を穏健に包み込んでいた。その地域に、植民地支配されることによってはじめて「民族」としての意識が生まれたのだ。現在ではそれぞれの国家や民族が強固なアイデンティティを持ち、互いに抗争し血を流すまでに到っている。こうした例は旧ソ連の中央アジア系国家やアフリカなどにも広く見られる現象である。アメリカが沖縄に対してしたことも、これらと同じことを狙っていたと思われる(後述)。しかし、沖縄が固有の民族として独立することはついになかった。なぜだろうか。以後はこれらの疑問について叙述を進めていくことにする。 【2】沖縄の本土復帰に関する仮説とその検証 ここでは、私が詳しく沖縄について調べる前に立てた、「沖縄が復帰したのはこういう理由に基づくのではないか」といういくつかの仮説を検証してみることにする。 1)指導者層の政治的イデオロギーが一人歩きしたのでは つまり、アメリカと日本の政府・あるいはその他の国々との協議の中で、民衆の要望とは関係なしに沖縄の日本への復帰が決まったのではないか、沖縄の人々による本土復帰運動などというのは、現実には存在しなかったのではないか、という仮説である。以下は、主に「沖縄 政治と政党」及び「沖縄返還」の中の叙述を参考にしている。 結論から言ってしまうと、日本への復帰の条件(いわゆる「核抜き本土なみ」など)を決定したのは、日米の政府間協議による。しかし、この条件に沖縄の人々の運動が大きな影響を与えていることはいくつもの事例をもって確認されるところである。また、本土復帰運動の担い手は、常に沖縄の民衆のレベルにあった。日米両政府と沖縄の政権党であった沖縄自民党及び民主党は、復帰自体よりも日米安保の保持の方に力を注いでいた。 それでは、そもそも沖縄独立論が政治的な意志をもって主張されたことがあったのだろうか。1947年、3つの政党が相次いで結成された。沖縄民主同盟・沖縄人民党・沖縄社会党である。成立過程はそれぞれ異なるものの、これらの党には共通点がいくつかあった。重要なのは、党の政策が右翼的であるか左翼的であるかに関わらず、米軍を解放軍とみなしてこれに協力する姿勢を持っていたことと、奄美や沖縄の独立を志向するような考え方をもっていたことである。例えば沖縄人民党は日本政府に対して、戦災復興に対する援助要請ではなく、戦争被害の賠償金要求を政策として掲げていた。沖縄独立論的な考え方は何も沖縄の政党に限られたものではなく、日本共産党も同じような考え方を持っていた。この当時は保守・革新を問わず、一般に沖縄・奄美・小笠原などの返還を要求することは、ポツダム宣言違反であると考えられていた。その第八項には、「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、また日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国に吾等の決定する諸小島に極限せらるべし。」とある。「日本固有の領土である沖縄をアメリカが支配しているのはポツダム宣言に違反する」という見解が一般化していくのは、1951年の講和会議前後、特にソ連がアメリカの沖縄支配をポツダム宣言違反として批判するようになって以降のことである。この当時の政治的動向としては沖縄独立論が優勢だったのである。ただしこの動きは、アメリカの下で日本からの独立を目指す考えと、沖縄で独自に独立国家を目指そうとする考えとに分かれ、特に前者は早い段階で消えている。一方後者は、ごく一部の人々には変わらず支持され続けた。 さて、その後1950年の群島知事選挙で、沖縄社会党と沖縄民主同盟の統一候補は敗北した。主な原因は琉球の独立をうたった綱領が不評だったことである。沖縄独立論は一般大衆の支持をほとんど得ることができなかったのだ。 一方で日本本土復帰論の動きはどうだったのであろうか。戦後最初に日本復帰運動を起こしたのは仲吉良光という人物であるとされている。最初に占領米軍に日本復帰陳情書を提出したのは、彼の記憶によれば45年8月4日のことであった。彼は若い頃からのクリスチャンで、沖縄現地や東京で新聞記者をし、二年ほどアメリカに滞在したこともある、郷土を愛するリベラリストであった。決して天皇信奉者ではなかった。その彼が、天皇の軍隊の行状を目撃しながら、日本復帰を目指して立ち上がったのである。彼は米兵がおいていった『TIME』誌から結局天皇制は維持されるという結論を得て、「何だか身内にほのぼのと勇気のわき出るのを覚えた」と書いている。当初、彼の考え方はタブー視された。が、1951年にサンフランシスコ平和条約によって沖縄が日本から分離されると、本土復帰運動は大きな盛り上がりを見せ、それまでのタブーは破られる。この流れの中で政党はほとんどが本土復帰論を掲げるようになり、最後まで独立論を支持していた共産党も後には復帰論を認めることになる。 2)沖縄は物理的距離は本土から離れていても、中身は正真正銘日本人なのだ つまり、沖縄の人々は文化人類学的に言って日本人であり、同じ民族が同じ国で暮らすことは当たり前だから本土へ復帰したのだという仮説である。 まずは歴史的事実から検証してみよう。様々な文献から明らかなのだが、沖縄の復帰運動を一貫して支えた理由は、「祖国だから」「同じ日本人だから」といった民族主義的色彩の強いものだったようである。例えば1967年の朝日新聞社の沖縄世論調査では、「日の丸の旗が好きか」という質問に対して「好き」の回答が94%にものぼっている。これは同じ年の本土の「好き」92%よりもさらに高い数字である。だが、当初は純粋に民族的だった復帰運動も、次第に基地問題をその中心的課題とするようになる。この点については後に詳しく検証する。 さて、言語学的には、一般的に日本語全体を本土方言と琉球方言とに二大別する。沖縄方言は本土の人間にはほとんど意味が通じない。が、文法あるいは単語などの発生を調べれば、琉球方言は本土方言と同じく日本語であるという考え方が大勢のようだ。また、沖縄の人々はその容貌からして南方系の血が濃いなどと良く言われるが、言語学を始め考古学・歴史学・民俗学等々の立場から、沖縄文化の中に占める大陸系文化(すなわち中国→朝鮮→日本(九州)→沖縄の経路で入って来た文化)と南方系文化(東南アジアや太平洋の地域などから海づたいに入ってきた文化)の比重は前者の方がより重く、沖縄文化は日本と同じ大陸系文化を基盤にするものであるとする見方が最近では一般的であるそうだ(ここまでの記述は「沖縄の歴史と文化」及び「日本はなぜ祖国なのか」を参考にした)。 しかし、政治的意図から古代の英雄などを持ち出して民族のアイデンティティを強化させることはよくあることである。つまり、これまでに挙げた研究の結果などは、イデオロギーに結びつけるためならいかようにも変えることができるのだ。もし沖縄を独立させようとすれば、琉球文化は独自の文化だということを強調する論を持ち出せばいいわけである。例えば言語的には、本土方言と琉球方言の違いの方を強調すればよい。それが正しいか正しくないか、事実なのかそうでないのかは、イデオロギーに利用する場合には関係ない。学説による支持などは御用学者からすぐにとりつけることができる。事実、沖縄では失敗に終わった「国境を分離したり民族としてのアイデンティティを鼓舞することで独立を促すアプローチ」も、「はじめに」のところで挙げたように、成功している例は世界各地に見ることができる。つまり、なぜ本土復帰運動が起きたかの原因を考える際に、文化人類学的見地から沖縄の人々は日本人だということを理由に挙げることは、あまり適当ではないのである。 3)経済力のない沖縄は独立してもやっていけない 沖縄の経済的基盤は惰弱であり、現在でも県民所得は全国最低である。その沖縄には独立をする力はなく、日本に頼るしかなかったのだ、とするのがこの仮説である。 戦後直後の時期には日本本土の経済自体も危機的な状況であったため、これに依存するということは考えにくい。よってこの議論が生きてくるのは、朝鮮戦争による特需を経て、日本が高度経済成長期に入る50年代後半以降である。 ここでは「沖縄 政党と政治」をもとに、1968年の行政主席選挙を見てみたい。一つのポストに保守系の沖縄自民党と革新系の複数政党(革新共闘)から候補者が一人ずつ決まった。革新系の候補者は屋良朝苗、後援会の会長は平良辰雄。屋良・平良ともに本土復帰運動を先頭になって率いてきた人物であり、この二人の前には沖縄自民党の候補者などは敵ではなかった。そこで沖縄自民党は、経済的実利主義の立場から「屋良を選べば、イモを食いハダシの生活をすることになる」をキャッチフレーズに、沖縄経済がいかに基地に依存しているかをことこまかに数字をあげて説明し、基地反対論は生活を破壊すると力説して生活への不安をあおった。これに対して革新共闘は、基地の存在を認めることは沖縄が再び戦地となることを認めるということである、と切り返した。当時の「沖縄タイムス」の表現を借りれば、主席公選における選択は、「イモか戦争か」というかたちで煮詰まっていった。そこでは論点は全くすれ違っていたけれども、沖縄の人々は本質的な選択を迫られていた。 結局、終始一貫変わらぬ復帰論者屋良朝苗が初の行政主席となった。選挙結果は約23.7万対20.6万、投票率は約90%であった。この高い投票率から明らかなように、沖縄の人々は「貧乏になってもいいから米軍基地を撤廃して欲しい、本土へ復帰したい」という考え方を選択したのである。経済力が惰弱であるから本土への復帰を望んだという仮説ではこの現象を説明できない。ただし、この僅差の投票結果に現れているとおり、基地がなくなることによる経済への不安は非常に強いものがあったと言える。実際に1967年の調査では、「沖縄経済は成り立つか」という質問に対して「成り立つ」は32%、「成り立たない」は34%である。だが、「成り立たない」と答えた人の86%が、同じ調査で「沖縄は日本に返されるべきだ」としている。やはり、経済的な困難を超越した何かが、沖縄の本土復帰運動にはあったようだ。 4)とにかく米軍の支配から逃れたかったのでは アメリカ人はその外見も文化も明らかに沖縄の人々とは大きな違いがあり、嫌悪が生まれた。あるいは、アメリカの沖縄統治政策が大変抑圧的だった。そこで逆に日本への親近感が強く押し出されたという仮説である。 沖縄の人々の間に、戦後のごく初期には米軍を大日本帝国の圧制からの解放軍とする見方もなかったわけではないのだが、現実を見るうちにその見方はすぐに変わったようだ(『昭和史の中の沖縄』より)。1967年の調査の結果を見ると、「アメリカの沖縄統治は住民のためによくやっていると思うか」に対して「よくやっている」「最近よくなった」があわせて26%なのに対し、「そうは思わない」は31%である。また、「沖縄では住民の人権が尊重されていると思うか」については「尊重されている」「最近よくなった」があわせて16%に留まっているのに対し、「尊重されていない」は53%にものぼる。さらに、「アメリカが好きか」という質問に対しては、「好き」が14%なのに対して「嫌い」は40%という結果であった。 アメリカは高等弁務官というポストを置き、政治的権限を一手に握らせた(『沖縄の帝王 高等弁務官』より)。沖縄の人々による政府や議会は一応作られたのだが、形ばかりで実質的な権限はなかった(アメリカの沖縄統治政策に関しては3−1)で詳述する)。ただし、初期の本土復帰運動というのは必ずしも反アメリカ支配運動とは結びついていなかった。ところが、復帰運動は長期化する中でそのイデオロギーを明らかに質的に変化させている。1950年代の後半には既に民族主義的傾向は当初よりは薄くなっている(『沖縄 政党と政治』『拒絶する沖縄』より)。復帰運動の中で不可分の問題として台頭したのが、朝鮮戦争とベトナム戦争を経ることで最重要視されるようになった、米軍基地問題である。そのことを示すデータがある。沖縄返還は72年のことだが、78年の調査において本土復帰について良かったと答えた人はわずかに57%であった(『戦後史の中の沖縄』より)。本土復帰運動の盛り上がりを考えると、この数字は非常に低いように思われる。これは、沖縄復帰が米軍基地のほとんどをそのまま残す形で行われたことによるものだろう。70年代には沖縄返還協定に対する反対運動が起こっていたということも、単なる本土復帰よりも米軍基地撤廃の方を強く望んでいた沖縄の人々の存在を示している。 以上のように、沖縄の人々が米軍の支配から逃れたいと思っていたことは事実である。周知の通り、沖縄の米軍への反発は現在まで引き続いている。しかし、なぜアメリカの支配から逃れる方法が独立ではなく本土復帰であったかという問題がある。いずれにせよ、本土復帰運動を理由づけるには、この仮説だけでは弱い。 |
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