内 輪   第382回

大野万紀


SFファン交流会「SF作家とウルトラマン」

 6月のSFファン交流会は6月25日(土)に、映画「シン・ウルトラマン」の上映を機に「SF作家とウルトラマン」と題して開催されました。出演は、北野勇作さん(作家)、牧野修さん(作家)、日下三蔵さん(アンソロジスト)、東雅夫さん(アンソロジスト)でした。
 写真はzoomの画面ですが、左上から反時計回りに、根本さん(SFファン交流会)、北野さん、日下さん、みいめさん(SFファン交流会)、東さん、牧野です。
 まずはゲストそれぞれが「シン・ウルトラマン」をどう見たかという話から始まり、続いて東さんの編集したアンソロジー『怪獣文藝』の話から牧野さんの収録作「穢い國から」の話へ。
 「怪獣で怪談ができませんか」という話があり、面白そうだけど難しそうだなと思った、と牧野さん。東さんは、『幽』は怪談専門誌なので全部の作品に無理やり「怪談」と名前を入れた。どっちも「怪」の字が着くのでいいかなと。他の作品を見て、もっと怪獣よりの話にした方が良かったかなと牧野さん。
 そしていよいよウルトラ怪獣の話へ。牧野さんは、怪獣って、「モンティパイソン」でアニメのオチに上から足がどんと降りてきてみんなつぶされて終わるような、そんな理屈じゃない不条理な感じがある。怪獣の妙味は理不尽感、不条理感にあるように思う、との話。シュールレアリズムは怪獣から知ったような気がする。宇宙人やウルトラマンは意思が通じるので、怪獣じゃない。怪獣はもっと不条理で恐怖を感じさせるもの。時々目を合わせてくる怖さがある。そういう意味で怪獣よりも怪物、ホラーに惹かれる。子どものころ、オリジナルな怪獣図鑑を作ったとの話も。
 北野さんも子どもの頃はウルトラマンを見て怪獣のことばかり考えていたとのこと。でもウルトラマンもハヤタ隊員も何を考えているかわからないし、出てきて欲しくない。今度の「シン・ウルトラマン」では始めの方で怪獣としての気持ち悪いウルトラマンを描いていてよかった、とのことでした。
 日下さんは一回り後の世代なので、もう昔の怪獣図鑑は売っていなかった。「帰ってきた」がスタートし、再放送で見られたが、怪獣ものというジャンル自体が好きだった。70年代後半にまた怪獣ブームが来て毎日のように放送されていた、というお話を。
 どうやら今回のゲストはウルトラマンが好きというよりも基本的に怪獣好きであって、怪獣の話になると熱が入るけれど、ウルトラマン愛は少し薄い様子でした。ウルトラマンが出てくるとそこで怪獣がやられて終わりだから、出てこない方がいいという話も。
 その点、亡くなった小林泰三さんこそ真にウルトラマンのマニアで、ウルトラマンの話をし始めると終わらない。この場に小林さんがいたら、「シン・ウルトラマン」の感想をどう語られるかなあ、と皆でしばし小林さんの思い出にふけりました。
 本会の後の2次会では、参加者も顔出しして雑談会。ぼくや岡本俊弥も話に参加しました。面白かったのはファン交流会スタッフの根本さんの話。根本さんの2歳の息子さんがウルトラマンにはまっていて、配信で「ウルトラマンZ」から遡って「ウルトラセブン」まで見ている。セブンの歌も歌えるし、ブルトンが好きといっている。ソフビの怪獣をいつも持っていて、どれが好きと怪獣を出し合って会話する2歳児と3歳児。そうですね、ウルトラマン、ウルトラ怪獣といっても、決しておじさん、おばさんのマニアのものではなく、いつでも現役の子どもたちのものでもあるのですね。それを忘れないようにしないと。
 今回も大変盛り上がって楽しい会でした。次回は7月23日(土)に、SFセミナーの一企画として開催予定とのことです。

 その映画「シン・ウルトラマン」を見てきました。ぼく自身は東宝怪獣映画と「ウルトラQ」の世代で(その「ウルトラQ」も「ミステリーゾーン」や「アウターリミッツ」に比べたらしょぼいなと思っていた生意気な小学生でした)、ウルトラマンにはさほど思い入れはないのですが(むしろ「キャプテン・ウルトラ」の方が好きだった。宇宙SFだもの)、誰もが感激している冒頭のウルトラQオマージュの怪獣大行進には目を奪われました。
 そしてメフィラスとの居酒屋でのやりとりとか、やっぱり好きだなあ。でもゼットンはあんまり好みじゃありません。怪獣じゃなくて破壊兵器でしょ。
 とても面白かったのですが、気になったのはやたらと難解な物理用語で説明を加えるところ。メガバースのプランクプレーンがどうとか。この映画の科学監修には弦理論の橋本幸士さん(京大教授)が参加されていて、ホワイトボードの数式とか科学用語とかはちゃんとしているのですが、それだけにリアリティレベルの合っていない感が強くて。映画館で見ていた若い観客がやたらと難しかったと言っていたのが耳に残りました。でも岡本俊弥によると、庵野さんのこういう超高速会話で全部一気にそれらしく説明してしまうのが最近は好まれているんじゃないかとのこと。それに怪獣好きの子どもたちにとってはそんなのどうでもいいし、気にしないよね。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『流浪蒼穹(るろうそうきゅう)』 郝景芳(ハオ・ジンファン) 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ

 『折りたたみ北京』の郝景芳(ハオ・ジンファン)による、660ページ2段組の超大作。とても読み応えのある傑作である。二つの世界とそのどちらにもある自由と不自由。その両方を自分の目で見て考える若者たち。そして一つの新しい世界を築いた老人たち。SF的でリアルな火星小説としても大変優れている。
 舞台は22世紀の火星。地球との独立戦争から40年近くたったころ。戦後細々とながら交易が再開し、5年前、その交易船マアースによって地球へ送られていた少年少女の使節団「水星団(マーキュリー)」の20人が、今18歳の成人となって帰還する。彼らは地球の各地で享楽的で野放図な文化に親しんで暮らしていたが、今また公正だが堅苦しい火星での生活に戻るのだ。その中にロレインという、ダンスを学ぶ聡明な少女がいた。彼女の祖父は火星の総督ハンス。独立戦争の英雄の一人であり、その後60歳にして火星の総督となった彼を、地球では火星の「独裁者」と呼ぶ者も多い。法と議会の制約下にある彼をロレイン自身は必ずしも独裁者だとは思っていないが、それでも彼女がこの使節団に選ばれたのには彼の恣意的な思惑があったのではと疑っている。
 彼女らと同時に地球の代表団もマアースで火星に訪れていた。その中の一人、若い映画監督のエコーは記録映画を撮ろうとしているが、いわば「火星のプリンセス」であるロレインに注目する。彼はまた彼の師匠であり、以前火星に長期滞在していた「先生」の火星での軌跡を追おうともしている。「先生」は彼に遺言を託して亡くなったのだ。全てが商品で全てが金の地球の価値観に反発する彼は、そうではない火星を芸術面で一種のユートピアのように感じている。こうして本書の第一部では、ロレインとエコーの二人の観点から、火星と地球の社会と制度を描いていく。
 本書を読めばどうしてもル・グィンの『所有せざる人々』と比較したくなるだろう。ただル・グィンがやや観念的に描いた二つの世界に対し、本書の二つの世界はよりリアルで、現実の世界(具体的にはアメリカと中国)を想起させる。確かに地球はほとんど現代のアメリカを中心とするグローバルで個人主義的な資本主義社会のようだが、火星は中国ではない。過酷な自然と資源の欠如の中で科学技術を発達させ、人々の生存と公平なリソース配分を最適化させるために社会主義的な体制を作り上げていったものだ。人々の住居はあらかじめ定められ、一度決めた仕事は好き勝手に変更できない。そういう意味では個人の自由は制限されているが、生活は保障される。仕事の成果に対する報酬は金ではなく名誉であり、発見や発明、知識はデータベースに登録されて誰でも利用できる。そのインパクト・ファクターが上がればより有名となり、高い地位へと上ることができる。社会主義+オープンソフトのソサエティみたいな感じか。しかし数十年たつ間にシステムは硬直化し、官僚的になる。階級制とはいえなくても凡人とエリートの差は大きく、否応なく区別される。
 ロレインたち、地球で暮らした水星団の青年たちはこんな火星の現状に満足せず、改革を目ざすようになる。ただロレインは地球にも火星にもアイデンティティを持てず、彼らの意図に同調はするが積極的にはなれない。いわば流浪の孤独を味わう。そんな彼女の周囲にいる人々、ハンスの友人だったが今は医者をしながら穏やかに歴史を語るレイニー、パイロットである恋人のアンカ、ロレインの兄で野心家のルディ、また水星団の仲間たち、そしてハンスと彼の盟友たち。本書の第二部、第三部はそんな人々の群像劇として、その後の火星の動きを描いていく。様々な視点で様々なドラマが描かれとても面白い。とりわけその背景にあるテクノロジーや火星環境の描写が優れていて、まさに火星SFとして満足のいく内容となっている。青春ドラマとしても優れているし、異なる制度の中での政治ドラマとしても読み応えがある。
 ただ本書を読んで少し気になったことがある。それはジェンダー面の扱いが少し古めかしく感じたことだ。まるで昔のアメリカの学園ドラマのような若者たちの日常生活。ジェンダー平等はしっかりあるはずなのに男女の区別がはっきりしていて、性的役割分担も見え隠れする。作者はわかって書いているはずなので、そこにどういう意図があるのか気になる。何となくティプトリー的なスタンス(理想主義とは違う現実への醒めた視線)を感じるのだが、どうだろうか。

『法治の獣』 春暮康一 ハヤカワ文庫JA

 『オーラリメイカー』でデビューした作者の短篇集である。これは傑作。著者のペンネームはハル・クレメントから取られているという話だが、まさしく宇宙生命ハードSFの傑作である。3編が収録されているが、すべて同じ背景を持った作品である。『オーラリメイカー』とそれに収録された「虹色の蛇」も同様だ。〈系外進出(インフレーション)〉シリーズというらしい。

 「主観者」では太陽系からおよそ10光年離れた赤色矮星を巡る惑星に海が発見され、有人探査が行われる。飛行士たちがその海中で発見したのは、イソギンチャクのようでもあり、長い尻尾がオタマジャクシのようでもある姿をした光る浮遊生物だった。ルミナスと名付けられたその生物は群れをなし、光で互いに通信しているように思われた。
 これは人類とルミナスのファーストコンタクトを描く作品なのだが、そのファーストコンタクトのルールやプロトコルは厳密に考えられており、何よりも相手にできる限り干渉しないことが求められている。飛行士たちはそのルールに忠実に、ゆっくりと慎重に手順を踏んでルミナスたちの生態を知り、かれらの知性を見いだして非干渉的・非侵襲的にコンタクトしようとするのだが……。
 イーガンの「ワンの絨毯」にも影響を受けたとのことだが、ハードSFとして実に硬質な作品であり、順調に進むと思われたストーリーがある一点でとんでもなく衝撃的な結末へと急転する。その科学的・倫理的な衝撃ときたら。まさにハードである。
 ただ少し気になった点として、とても長い時間安定して存在していた生態系に、本当に1点突破全面展開みたいなことが起こり得るのか(フェールセーフシステムが存在しないのか)という疑問と、途中でルミナス側の主観が描写されるところがあり、これってややストイックさに欠けるのではないかと思われることである(彼らを翻訳・代弁しているのは誰だろうか)。ただ前者についてはほとんど変化のない環境で進化の脆弱性が残ったのかも知れない。また後者についてはわかりやすさから言えば断然あった方がわかりやすいし、ルミナスの生態が理解できるのでよろしいんじゃないでしょうか。

 「法治の獣」は表題作だが、はじめ異星の動物の生態がコロニー住人の法律になるという設定がピンと来ず、少し戸惑った。生物学者のアリスは地球の月から惑星〈裁剣(ソード)〉のラグランジュ点にあるドーナツ型スペースコロニー〈ソードⅡ〉へとやって来る。ここの研究所でソードに生息する四つ足の一角獣、シエジーを研究するためだ。シエジーは群れをなして暮らす野生動物だが、特別な性質がある。知的生物ではないのに、ある種の自然法をもち、それぞれの個体の振る舞いを律している。倫理や正義感ではなく快不快原理によってストレスを減らすよう進化したのだ。群れや個体の生存に関わるような規律なら地球の動物でも遺伝的・本能的に持っているものだが、シエジーはそれがもっと日常的でささいな問題に対しても適用されるような、様々なルール〈法〉を発達させているのである。その法は群れの中で自然淘汰され、群れにとって有利なものが生き残る。遺伝子ではなく、文化的なミームのような存在である。そして〈ソードⅡ〉では社会実験として、シエジーの法を観察により抽出し、人間に適用できるよう翻訳・解釈して、それをコロニーの法律としているのだ。人間が恣意的に作った法ではなく、何の意図も忖度もない真の意味で平等な法として。
 アリスは科学者として、知性をもたない動物がそのような法を発展させたことに感嘆しているのだが、このコロニーの住人の多くはシエジーをもっと神秘的な存在と捉え、宇宙的意思を体現しているなどとオカルト的に見ていることがわかってくる。
 一方、研究所で同僚となったアダムは謎めいた男で、何か隠しているようである。彼とドローンを使って惑星上のシエジーの生態を調査しているうち、二人はとんでもない発見をすることになる。それはこれまでのシエジー観をくつがえし、コロニー社会へも大きな混乱をもたらすようなものだった。そして――。
 最初にぼくが感じた違和感は、アリス自身が物語の中で見いだしていった違和感と同じものだった。物語が進むとその背後に隠されていた人間同士の問題が明らかにされる。そしてここでも異星生物には(少なくとも人間の観点では)悲劇的な運命が待ち受けているのだ。

 最後の「方舟は荒野をわたる」で描かれる異星生物はイーガンの「ワンの絨毯」と同様、非常に複雑な階層化された系の中で集合的・創発的に発現した知性を持つ。作者は荒唐無稽と言っているが独創的でとても面白い。ここにも〈系外進出〉シリーズに共通の大きなテーマがあるのだが、まずはこの生物の存在そのものと、そこにある知性を見いだしていく過程に心が躍らされる。本書の中でぼくがとりわけ好きな作品だ。
 〈植民委員会〉の探査船〈タキュドロムス〉がやってきたのは惑星オローニン。大昔に主星に捕獲された系外惑星の影響で軌道がカオス化し、自転周期も軌道傾斜角も不安定に変化するというとんでもない惑星だ。太陽の光が当たる昼の領域は不規則に変化し移ろっていく。夜は全てが凍結する極寒の世界となる。とうてい人類が植民できる惑星ではない。しかし、その移ろう昼の荒野に想定外の生命体がいたのだ。50センチを越える厚い膜に覆われた100メートルを超えるパンケーキ状の生命体。その中には水があり、多種多様な生物がうごめいている。数メートルある巨大な生き物からミクロな生物まで、凝縮された自立的な生態系が築かれているのだ。しかもそれは不規則に変わっていく昼の領域を追って荒野をわたる方舟のように移動していく。あたかも惑星の自転と軸傾斜を予測しているかのように。
 探査船に乗っているのは研究員二人と、〈植民委員会〉の管理者としてクローン化され、必要に応じて復活させられる語り手の三人のみ。研究員二人は実は〈植民委員会〉の方針に反対する反逆者だった。彼らは人類が生命の存在する他の惑星に植民することはもちろん、生命が発生する可能性がある惑星も含めて、全ての惑星改造に反対しているのだ。この惑星の異様な生物の存在が彼らの主張を後押ししている。ただ彼らは(語り手も含めて)対立をいったん後回しにし、〈方舟〉の研究へと没頭していく。初めは〈方舟〉をコントロールしている知性体を探していたのだが、人間の脳細胞が集合的なシステムとして意識を形成しているのと同様、この生態系全体が集合知性を作り出しているのかも知れないと思い当たる(もっとも脳に比べれば圧倒的に素子数が足りないしネットワークも疎結合で複雑さも足りないように思えるが)。しかし「主観者」で起こった事件の教訓が不用意なコミュニケーションを躊躇させる。そこで考えついた非干渉的なコミュニケーション手段というのがすごい。山岸真さんの解説にいわく「土木工事的言語」だ。そしてついにファーストコンタクトに成功。しかし物語はそれで終わらず、さらにとんでもない発見へとつながっていく――。
 後半で、いったん背後に退いていた異生物とのコミュニケーションの意味という問題がクローズアップされる。人類が宇宙に進出する目的は一つは居住圏の拡大という具体的なものだが、もう一つ重要なのが未知への好奇心、科学的探究心、知りたい、見たい、語りたいというものである。〈系外進出〉シリーズの大きなテーマとしてこの好奇心そのものをどこまで自制するのかということがある。この作品の結末ではそれに直接答えるものではないが、「わたしたちは宇宙に何を与えられるだろうか」とい問いかけに対し、一つの意思が提示される。それはとても前向きで納得のいくものだ。そう、ぼくはこういうSFが読みたいのだ。
 この作品でも異星知性とのコミュニケーションに際し、一種の擬人化がなされている。それは物語を理解できるものとするために必要なことだし、そもそも翻訳の結果として表現されているものなので本当に異星知性が人間の言葉を使っているわけではない。それでもそうやって相互に理解しコミュニケーションできるというのはどういうことなのか、異星知性を扱うSFの大きな課題だといえるだろう。

『異常(アノマリー)』 エルヴェ・ル・テリエ 早川書房

 2020年のゴンクール賞を受賞したフランスの純文学作家による、SF的アイデアをベースにした小説である。「異常」な現象に遭遇した多数の人々を描く群像劇であり、彼らそれぞれの「異常」への対応と新たな日常への回帰はまさに哲学的衝撃のある人間ドラマとして描かれていて、とても読み応えがある。また作者は数学者でもあり最新科学にも詳しいということで、中心にあるSF的アイデアは文学的奇想というよりハードSF的な、SF作家が好んでテーマとするようなものだ。ただそれはこの「異常」を物語の中に発生させるためだけに使われており、作者の興味の中心はあくまでもそれに遭遇した人間の側――個人、その関係者、そして国家――にある。なのでその内容をSF的、科学的に掘り下げるということにはあまり興味がないようだ。でも面白かった。
 本書は全体が三部に分かれているが、まずその第一部、人名がタイトルとなった短めな章が続いて、登場人物たちのそれぞれの生活が描かれる。いきなりすご腕の殺し屋が出てきて驚くが、その他にも翻訳で生計を立てている売れない小説家(しかし彼の書く『異常』という小説は有名になる)、勘違いした中年の建築家に言い寄られている映像関係の女性、弟の病院で致命的な癌にかかっていることが発覚した男、カエルをペットにしている少女、闘志溢れる黒人の女性弁護士、人気急上昇中のナイジェリアのポップスター……など、互いに関係なさそうな(関係ある者も一部にいるが)人物像がいかにもそれらしく書きこまれていく。彼らの共通点は2021年3月10日にパリ発ニューヨーク行きのエールフランス006便に乗り合わせたこと。そして死を覚悟するほどの想像を絶する乱気流に見舞われたが、何とか無事に切り抜けたことである。だが章が進むにつれて次第に不穏な要素が現れてくる。
 第一部の終わりの方でこの飛行機には乗っていない若い科学者が出てくる。彼は『銀河ヒッチハイク・ガイド』の大ファンで、アメリカ政府のあるプロジェクトに関わり、その小説から取ったコードを一つのプロトコルに採用している。SFファンならここで大きな期待にワクワク、ドキドキとするだろう。
 そして第二部で「異常」の実態が明らかにされる。プロジェクトが発動され、006便の乗客たちは有無を言わさずアメリカ軍の基地に隔離され収容される。あれ、何か第一部と矛盾すると思ったらそれが正解である。SFファンのドキドキ感は高まり、何が起こったかわかると頂点に達するだろう。さらにいくつかヤバイ事態が進行するが、最初に書いたように作者の興味はそれよりもこの事態にのみ込まれた人々の方にある。そして哲学的で大きなテーマが描かれるのだが、ネタバレになるのでそれは実際に読んでみてほしい。なお、トランプ大統領や実在の人物も出てくるが、いかにもそれっぽく揶揄されていて面白かった。
 第三部はその後の物語である。「異常」の性質がわかった後の、登場人物たちそれぞれの対応が描かれる。それは新たな挑戦だったり、日常への回帰だったり、あるいは敗北であったりするが、周囲の人間関係を含めて――というかそれが中心になるのだが――自分とは何か、何がそれを規定しているのかといったSF的、哲学的テーマが、それぞれのドラマの中でわかりやすく描かれていく。最後のおまけに、さらなる展開が示唆され、筒井康隆を思わせる言語実験があってフェイドアウトする。
 とても面白かった。ただし作品の本質とは関係ないが一つ気になったのは、本書で「異常」の原因とされた科学的思弁は実在するものだが、それが具体的になぜ「異常」を招くことになったのかという説明がなく、ぼくにはそのロジックが納得できなかった。考えられるとすれば○○によるほころびといったところだろうが、普通にSF的に考えていいのなら、もっと昔からあるありふれた説明が可能だろう。その方が素直に納得できる。もっとも作者はそんな通俗的で手あかの付いた説明はつまらないと思ったのかも知れないが。

『アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風』 神林良平 早川書房

 前作『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』から13年。ムフン。何とも久しぶりだ。
 1984年に出た『戦闘妖精・雪風』(2002年改訂版『戦闘妖精・雪風〈改〉』)、1999年の『グッドラック』(ぼくは解説を書かせてもらった。本作のテーマはそのころから変わらず揺るぎがない)、2009年の『アンブロークンアロー』と、40年近く続くシリーズの第4作である。実質的には一連の長編であり、本作も『アンブロークンアロー』の直接の続編となっている。本作の長めの第1章「哲学的な死」など前作からそのまま続いているし、「これまでのお話」のような親切な解説などついていないので、前作を覚えていない人はここから読んでも意味不明かも知れない。いや、別に意味不明でもいいか。面白いから。
 ジャムはすでに地球に侵入しており、地球人はそうと意識しないまますでに敗北しているのかも知れない。南極から続く超空間通路の向こう側、フェアリイ星へ雪風に乗って帰還した特殊戦の深井零と桂城彰は、無人のフェアリイ基地という異常な空間に取り込まれる。第1章「哲学的な死」は『アンブロークンアロー』で繰り広げられた哲学的・思弁的な物語の続きであり、何とも悪夢の中にいるようなもやもやした非現実感の中で展開していく。それは複数の現実が重なり合った「シェレディンガーの猫」の箱の内部にいるようなものであり、それを作り出したのはどうやらジャムであり、ジャムと一体化して地球を裏切ったロンバート大佐であり、あるいは雪風自身の意思かも知れない。なかなか難解でわかりにくいのだが、物語にはホラーを読むような面白さがある。SF的に言えば意識と情報、未知とのコミュニケーションというテーマがずっと続いている。そして霧が晴れるように「現実」が見えてくる快感。
 そして第2章からは比較的短い章で読みやすく、かつての『戦闘妖精・雪風』が戻ってきたかのような爽快さがある。フェアリイ空軍(FAF)を指揮するクーリィ准将は、地球に侵入したと思われるジャムをこちらの戦場へ引きずり出すために、友軍に対してジャムを演じるアグレッサー部隊を創設する。アグレッサー部隊とは本来敵役となって模擬戦闘で味方を訓練するためのものだが、クーリィ准将はその本来の役割に加えて、ジャムに対する囮の役割も期待しているのだ。もちろんアグレッサーとなるのは雪風であり、深井であり桂城である。
 そして地球連合軍からフェアリイ星に部隊が派遣されてくる。その中心になるのはオーストラリア軍だが、日本の海軍と空軍の部隊も含まれている。日本空軍から来たのは1機だけ、飛燕であり、そのパイロットは田村伊歩(たむらいふ)大尉。彼女は殺戮と破壊の地母神カーリー・マーにあこがれ、暴力を愛するという危険な女性である。しかしパイロットとしての腕は抜群に優秀で、暴力をコントロールする知性もある。この彼女のキャラクターが素晴らしい。
 当初まるで機械のようだった深井零は、物語が進むにつれてしだいに人間らしくなってきたところだが、彼女はまさに彼とお似合いだ。そこにFAFのおなじみのキャラクターたちや地球側の人々もからみ、本作の後半ではそういう人間関係の交錯するキャラクターものの面白さもある。
 そして田村も含む地球軍との模擬戦が始まるのだが、当然のことながらそこにジャムがその不可解な戦法で介入してくる。欺瞞や乗っ取りを駆使した情報戦。この戦闘シーンがすさまじい。何が本物で何が偽物なのか、人間を攻撃しているのかジャムを攻撃しているのかわからない状態で、一瞬の動きを判断し情報を得なければいけない。ドッグファイトの客観描写よりもその心の動きを追う描写の方が多いのに、戦闘の緊迫感はものすごいものがある。田村にはどうやら欺瞞を見破る力があるようだ。テキストで簡潔に情報を伝える雪風と、それに一体化した深井と桂城。「ジャムは〈情報〉を食うのだ」という田村の発言。物理的な戦闘とウイルスのような情報の戦いが重なり合っており、クライマックスには本当に息もつかせない迫力がある。
 そしてその後のまるで息抜きのような終章「戦略的な休日」。草地でブーメランを投げるブッカー少佐。ビールを飲む深井零。そこにやってくるリン・ジャクスンと田村伊歩。そして雪風のテキスト表示。のんびりした中に次の展開を含ませたいい場面である。
 物語はまだ続いている。今まさにSFマガジンに連載中なので、続きが出るのにまた10年かかるってことはないよね。


THATTA 410号へ戻る

トップページへ戻る