続・サンタロガ・バリア  (第222回)
津田文夫


 2016年にエマーソンとレイクが他界して早5年、いまごろになってキース・エマーソン・バンド・フィーチャリング・マーク・ボニーラのボニーラが、エマーソンが他界した年の5月にロサンジェルス在住のゆかりのミュージシャンを集めて開いた、追悼コンサートのCDが2CD+2DVDという形で出たので、ここ数年の間に出たELP関連CDの印象を書いておこう。なおDVDが付属しているものもあるが見ていない。
 まずは2017年に出た『CARL PALMER'S ELP LEGACY LIVE』。カール・パーマーのギター・トリオのライブCDは数枚持っているけれど聞き返したことがない。これはエマーソンとレイクの死後に出たもので二人を追悼するRIPアルバムであり、演奏曲目もほぼELPのレパートリーになっている。が、残念ながら、このCDも1回聴いたっきりのまま、CD棚に埋もれている。いつか付属のDVDを見てみようとは思っている。
 同じく2017年に出たのが、グレック・レイクのソロ・ライヴ『Live in Piacenza』
 こちらはSONGS OF A LIFETIME Tourのイタリアでの一夜を収録したもので、マニア向けに手のかかったジャケットが素晴らしい。因みにCD1枚1枚に番号が振ってあるらしく、当方のジャケットには金色のサインペンで622と手書きされている。演奏曲は2013年に出た同ツアーのライヴCDと同じだけれど、「夢見るクリスマス」と「シェイキン・オール・オーヴァー」がプラスされている。こちらはちょっと泣けるという意味で余り聴き返していない。
 これは前に取り上げたかも知れないけれど、2019年に出たのが、『WHEELING,WEST VIRGINIA THE 1977 BROADCAST』放送用ライヴ録音から起こした2枚組。オフィシャル・ブートレッグ・ライヴCDはそれなりに集めたけれど、これはなかなか魅力的な演奏が聴けるので手元に置いて何度も聴いた。1枚目に「戦場」抜きの「タルカス」と「展覧会の絵」パート2が入っていて聴き応えがあるし、2枚目は15分を超える「海賊」が目玉か。
 ELPのベスト盤はCD1枚ものから6枚ものまで色々出たけれど、これは3枚組で何と値段が1000円ちょっと。そのせいか写真は一切使われておらず、ELPロゴと『THE ULTIMATE COLLECTION』というタイトルだけの、シンプルそのもののボール紙ジャケットである。「窮極」を謳うCD3枚組にもかかわらず、「永遠の謎」はパート1だけ、「悪の教典9」は第3印象未収録というもの。この手のベスト盤では1992年に出たCD2枚組『アトランティック・イヤーズ』が未だに一番なような気がする。
 同じく2020年に出たのが『A TRIBUTE TO KIETH EMERSON & GREG LAKE』いわゆるデジパックケースで、カヴァーにはムーグを弾くエマーソンを前面に、白いジャケットを着てベースを演奏するレイクが斜め上に配された写実的なイラスト。これはプログレ助っ人ビリー・シャーウッドがプロデュースしたもので、本人がベースで全曲に参加。
 「21世紀の精神異常者」をトッド・ラングレンのヴォーカルにブライアン・オーガー(元気だねえ)のオルガンとか、パトリック・モラーツ弾くところの「ホウダウン」とか、アーサー・ブラウン(まだ元気だったのか)とジョーダン・ルーデスで「悪の教典9第1印象Part2」とか、このはかにも「フロム・ザ・ビギニング」をフォーカスのタイス・ヴァン・リアーに歌わせたり、「ラッキー・マン」を元ウィッシュボーン・アッシュのマーティン・ターナーに歌わせたりと、なかなか意表を突いた人選で驚かせてくれる。ボーナストラックとして、その昔管弦楽版「奈落のボレロ」を録音したロイヤル・フィルが「ELP組曲」と称して「タルカス」の頭とお尻の間に「フロム・ザ・ビギニング」を挟んで演奏している。どちらというとキースよりグレックのヴォーカル・ナンバーが目立つ1枚で、1回は聴いて笑うのが正しいELPファンであろう。
 グレッグ好きには真打ちとも云えるのが、2020年に出たCD2枚組の『GREG LAKE THE ANTHOLOGY: A Musical Journey』で、これはCDジャケットサイズの写真アルバムになっていて手に重い。ネット通販で買ったけれど、日本発売用輸入盤と云うことで内に掲載された小伝や追悼文を訳した小冊子が付いていた。キング・クリムゾンの2枚目アルバム『ポセイドンの目覚め』から「Peace-A Biginning」でCD1が始まり、2枚目の最後が「Peace-An End」で幕を閉じるというもの。キング・クリムゾン以前の音源も入って、確かに集大成的なアルバムでファンとしては嬉しいが、なかなかくりかえし聴く気になれないのが難点か。30年近く前にライノから出たやはりCD2枚組のアンソロジーの方が今でも気楽に聴けるような気がする。
 そして今年出たのが、冒頭に紹介したエマーソンの追悼演奏会ライヴ『The OFFICIAL KIETH EMERSON TRIBUTE CONCERT: FANFARE FOR THE UNCOMMON MAN』。これもデジパック仕様でCDとDVD各2枚入りと云うことで厚みがありすぎて型が崩れやすい。もっともジャケットが「タルカス」対「マンティコア」の力の入ったイラストなので拡げてみるのには楽しい。曲目はビリー・シャーウッド版と違い、さすがにエマーソンのソロ曲がフィーチャーされたりしているけれど、それでも「フロム・ザ・ビギニング」や「ラッキー・マン」といったグレッグの曲が混じっている。演奏者はクラシック系ピアニストからオーケストラまで揃えて、なおかつ曲ごとにさまざまなミュージシャンが入れ替わり立ち替わりで、さすがマーク・ボニーラ肝いりで集めただけのことはある。ジョーダン・ルーデス入魂の「タルカス」全曲演奏は聴き応えがあるし、フィナーレ近くの「ラッキー・マン/キエフの大門」や「ファンファーレ・フォー・コモン・マン」では、エディ・ジョブソンにブライアン・オーガー、スティーヴ・ポーカロ、スティーヴ・ルカサーそしてジェフ“スカンク”・バクスター、ヴィニー・カリウタまで入るというシロモノ。最後は「アー・ユー・レディ・エディ?」をほぼ原曲通りどんちゃん騒ぎで締めて見せ、いかにもトリビュート・ライブらしい仕上がり。もう1回通しで聴きたいかというと、まあそれはないかと思うけれど。でも満足はしている。

 前回取り上げた作品がどれも充実していたせいか 、今回は数だけ読んだけれど楽しく読めることが第一といったタイプの作品が多かった。
 ちょっと前に文庫になった山尾悠子『飛ぶ孔雀』の解説で皆川博子が「いわれあるSFへの偏見」のようなことを書いていたが、そのいわれになるような1作がまたもや出た。ザック・ジョーダン『最終人類』上・下である。内容については『SFマガジン』の6月号に長々と書いてあるのでそちらに任せるが、訳者も作者のいう「知性の階層」の馬鹿馬鹿しさを強調するように人類より上とされる種族のセリフをバカッぽく訳しているけれど、まあ小説としては習作以前の混乱ぶり。内容的には、あまりにも危険ということでかつてこのネットワーク宇宙で粛清された人類の唯一の生存者「娘のサーヤ」が母性に目覚めた凶暴外骨格宇宙人に育てられてその母を失う上巻はともかく、下巻でネットワーク宇宙に飛び出してのてんやわんやは読むに堪えない。思わず「悪いジョーダン」と云いたくなるなあ。『短編宇宙』に収録の宮澤伊織「キリング・ベクトル」の洗練を思うと尚更である。

 ヒマといえばヒマなのでそこら中に積み上げたり放り込んだりした本を少しずつ片付けていたら、いつの間にか行方不明になっていたアレン・スティール『キャプテン・フューチャー最初の事件 新キャプテン・フューチャー』が出てきたので読んでみた。昨年4月の刊。
 ハヤカワSF文庫が出た当時すでに高校生だったこともあり、中学生のときには涙した『スター・キング』2部作の作者エドモンド・ハミルトンはすでに興味の対象から外れていたので、「スター・ウルフ」は読まなかった(ヴォクトは読んだけれど)。まだSFシリーズ集めもしていない頃だったので、当然本家キャプテン・フューチャーも読んでいない。
 それでもこの新キャプテン・フューチャーは面白く読めた。フューチャーメンのメンバー構成は知っていたけれど、ジョオン・ランドールがどういう立ち位置にあるのかこれを読んで初めて知った。多分原作より大部現代化されているように思えたけれど。エンターテインメントSFとしては十分な出来でしょう。

 日下三蔵氏の旧作発掘はますます拍車がかかっているようで毎月物故(してないヒトもいるか)作家の作品集が出ている状態だ。そのうちの1冊、眉村卓『静かな終末』は、単行本未収録作品を中心としたショートショート集。61年の『NULL』に発表された作品から70年元日号の朝日新聞に掲載されたものまで、60年代の10年間に書かれたものから集められている。そのせいか風俗習慣の古めかしさが目立つものが多いけれど、アイデアとしては今でも使い回されているものが多い。まあ描写はともかく発想のヴァリエーションは今でもそうあるわけではない。そんな中で驚いたのが、66年から68年にかけて戦記ものノンフィクションの雑誌『丸』に掲載されたSF未来戦記もの、これが素晴らしい。単行本は持っているはずだけれど、読んだ覚えがないので、今回が初読。眉村卓の未来戦記のリアリティは、谷甲州を彷彿とさせ(時系列は逆だが)、この後に読んだ『この地獄の片隅に』の事を考えても、よくできたSFになっている。60年代風俗を書かないで済む未来戦記はスペキュレーションのパワーがものを言う。

 そのJ・J・アダムズ編『この地獄の片隅に パワードスーツSF傑作編』は原書収録の23編から訳者の中原尚哉氏が12編をセレクトしたというもの。セレクトされたお陰で多分原書の冗長性は省かれたことと思われる。それでも半分は初めて読む作家の作品だ。
 副題にはパワードスーツSFとあるけれど、訳者のお陰か未来戦記でない作品の方が多く収録されていて、ヴァアラエティに富んでいる。
 とはいえジャック・キャンベルの表題作は典型的な未来戦記で、アレステア・レナルズ「外傷ポッド」と並んで戦場が舞台のいかにもそれらしい作品。キャンベルの方はややアイデア不足のような気もする。
 生まれたときからパワードスーツと共に育つ社会のヤクザ組織の抗争描いたのがカリン・ロワチー「ノマド」。読めるけれど、話の筋がSF設定をあまり必要としていない。
 デイヴィッド・D・レヴァイン「ケリー盗賊団の最後」は西部開拓時代の天才エンジニアがオーストラリアに隠居してたところへ強盗団がパワードスーツを作れと要求し・・・というもの、最後は教訓が付いている。
 キャリー・ボーン「ドン・キホーテ」はスペイン内戦時代に巨大パワードスーツを発明した2人組を取材する男の話。作者の思考停止ぶりを見せるヒドい結末で、こういう考え方には辟易する。
 サイモン・R・グリーン「天国と地獄の星」は、パワードスーツで入植しても破壊されてしまうくらい敵対的なジャングルが存在する惑星で、危険を冒して前進基地を目指してミイラ取りがミイラになる話。何のためにそんな惑星に行かなくちゃならないのかよく分からん。
 人間ではなくパワードスーツに主導権があってもいいではないというのが、クリスティ・ヤント「所有権の移転」とそれに続くショーン・ウィリアムズ「N体問題」。「N体」は一種の恋愛SFで、本書に収録のデイヴィッド・バー・カートリー「アーマーの恋の物語」のストレートさに較べると、戦地を離れてドン詰まりの惑星でクダを巻く兵士と全身アーマードスーツに覆われた謎の女の複雑怪奇な恋の物語になっていて面白い。
 巻末のジャック・マクデヴィット「猫のパジャマ」は、通信途絶した宇宙ステーションを調査する先生と教え子の冒険。元気だなあ、マクデヴィット。

 冲方丁『マルドゥック・アノニマス6』は、6冊目にしてようやく現在のウフコック奪回戦に決着が付いて・・・と思ったら、ウフコックはまた姿を消してしまい、メインはバロットとハンターの話で展開、読んでいてカットバックの時間の現在がいつなのか混乱してくる。また登場人物が多くなりすぎて、年寄りには誰が誰だか覚えられなくなりつつある。

 前回取り上げるのを忘れた高島雄哉・カミツキレイニー・小山恭平・柏倉晴樹『ALTDEUS:Beyond Chronos Decording the Erudite』はゲームからのスピンオフとのこと。ゲームはやらないので、当然そんなゲームがある事さえ知らなかったけれど、読んでみた。
 ある日謎の巨大ロボット群が地上を破壊、かろうじて天才少女科学者がたまたま準備した地下施設で生き延びた人びとがいた。
 その設定で、天才少女科学者(不死に近いがボディは人造)を狂言回しにしてクロニクルのように各作家の中編が並んでいる。物語の設定部分が高島雄哉、時代が進んで階層化が著しい地下社会でのテロリスト劇がカミツキレイニー、バレエ/ダンスを通して階層社会に芸術を再興させようという話が小山恭平。エピローグに当たる天才少女科学者ジュリーとその姉の話が柏倉晴樹。付録でゲーム作成スタッフの座談会が収録されているが、これは当方にはチンプンカンプン。
 全体的な印象としてはSFライトノベルの1作という感じ。

 本来なら短時間に読めるはずだったが、数十ページごとに一休みして読んでしまったのが、オキシタケヒコ『筐底のエルピス7-継続の繋ぎ手-』。2月刊だけれど、地元3軒の本屋になく、そのまま忘れて先月ネット注文した。
 あの強烈な捨環戦を描いた前シリーズから、ラノベ本来のノホホンとしたヌルい雰囲気にチェンジした今度のシリーズは、ついに月の異星知性体が登場、地球に3つある「殺戮因果連鎖憑依体」を処分できる「ゲート」が閉じられてしまい、《門部》本部も異星知性体に乗っ取られた上に、主人公の師匠たる阿黍宗佑が異星知性体により死体から若返った形で再生され、主人公側に襲いかかるという。おお、絶体絶命だあ、という軽い雰囲気で、異星知性体に操られた筐使いと主人公側筐使いのトーナメント戦が進行、もちろん主人公と阿黍宗佑の大将戦まで用意されている。次回は月で異星知性体と対決か。

 今回読んだ中で一番シリアスな小説が、エリザベス・ハンド『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで』。長中編から短編まで4編からなる作品集。以前読んだのが、『冬長のまつり』だから二十何年かぶりにこの作家の作品を読んだことになる。前作の内容はとうに忘れているが、表紙イラストのせいで、なんとなく耽美派のポストアポカリプスものだったように思う。
 表題作は、「マーズ・ヒル」というからにはSF的設定があるのかと思ったら、メイン州沿岸にあるスピリチュアリスト・コミュニティ(口が回らん)の名前だった。いわゆるSF的設定は皆無、スピリチュアリストたちということでささやかな魔法の瞬間はあるが、基本的には少女の視点を生かした主流小説。病苦や死を前にしてコミュニティに伝わる伝説的ファンタジーが一瞬顕現することにより救済がもたらされるとともにコミュニティとの別れもやってくる。どう見たって主流文学の賞をもらうべき1作。
 続く集中最長(160ページもある)の『イリリア』は、シェイクスピアの『十二夜』の舞台からとられたタイトルが示すように、作中学校演劇で『十二夜』を演じるシーンがある。本筋は祖母が有名な女優だった一族(ひとつの地所にそれぞれ家を建てている)に生まれた親戚同士の少女と少年の物語。少年の家の階上にある物置部屋の奥で見つかった演者の表情が分かるほど精巧な舞台のミニアチュアとかが、この現代のおとぎ話と子供が大人になる上での現実のしっぺ返しと、そして結末における魔法の成就を予感させる。これもファンタジーとはいえるが、やはり主流文学っぽい。
 集中一番短い(12ページしかない)「エコー」は、「マーズヒル」のある山から電波が届く島に一人住むウルフハウンドを飼う女の独白によって、世界から人類の活動が次々と消えていくことと、かつて愛した男との思い出を綴りながら、ナルシスとエコーの神話を成就する。
 巻末の「マコーリーのベレロフォンの初飛行」は、以前アメリカ航空宇宙博物館で働いたことのある男が、『翼は人類のために!』という本を書いてちょっと有名だったけれども博物館の幹部連中に嫌われていたかつての女性上司が危篤状態だとかつての同僚から聞き、そのかつての同僚たちと自分の息子やその友達も巻きこんで、ライト兄弟より先に飛んだ可能性があるという飛行機械「ベレロフォン」が本当に飛んだシーンを再現し、この女性に見せることで励まそうという計画を実行するというもの。視点人物は妻に病気で先立たれ、いまはディスカウント店の配送係で生計を立てつつ12歳の息子と一緒に生活しているといういかにも現代文学に出てきそうな人物である。この作品もつらい現実を、ほとんどが失われたベレロフォンの初飛行の歴史的フィルムを模型を使ってフルで再現をしようという男たちの、ある種の非現実感を含む行動と、最後の一文にまぶされるわずかな魔法によって救いのある物語になっている。これも主流文学といっていい作品だ。
 ということで、こういう作品がSF・ファンタジー界の中でしか評価されていないのはちょっと悲しい。まあ「叙情SF選集」と帯に謳われているんだし、また翻訳も創元か早川ぐらいしか出してくれないだろうから仕方が無いか。

 かなり出るのが遅れた大森望責任編集『NOVA 2021年夏号』は、10作収録でヴァラエティ飛んでいるというか、てんでんばらばらな性格の作品で出来ていた。
 冒頭の高山羽根子「五輪丼」は、出版が遅れたお陰で、今年1月に届いた原稿という。タイトルは、何かの病気(新型コロナ?)で3ヶ月入院して退院し、久しぶりに街に出て主人公が目にした食堂メニューの一品。主人公はオリンピックは終わったのにまだあるんだと思うが、やはり久しぶりに会ったガールフレンドの話を聞いているうちに・・・と、最後はシュレディンガーの猫みたいなことになる話(だと思う)。
 堺三保原作池澤春菜「オービタルクリスマス」は堺さんがクラウドファンディングを活用して制作した映画のノヴェライズというもの。静止軌道上ステーションに月から着いた貨物便に少年が密航していた・・・というところからはじまるクリスマス・ストーリー。日本SF作家クラブ会長は小説もきちんとものにする。ちなみにお父さんの新聞連載小説は今のところ毎日読んでる。
 柞刈湯葉「ルナティック・オン・ザ・ヒル」は、月面で行われている一見のんびりした対地球独立戦争における月側の兵士の話。主人公の思考はいかにも現代の若者らしいが、結末のつくりは、え、そっちなの、という驚きがある。
 新井素子「その神様は大腿骨を折ります」は《神様》シリーズ第2弾ということらしい。喫茶「陽炎」に通うようになったちょっと不幸な青年の話。もちろん山瀬さんが出てきて八百万の神の講釈もある。ま、大腿骨を折られても命があればいいって、ホントか。
 乾緑郎「勿忘草」は、『機巧のイブ』シリーズ3作目のスピンオフ。手堅い百合SF。
 日本ファンタジー大賞作家高丘哲次「自由と気儘」は、主人が亡くなった屋敷に残されたゴーレムが、主人の命令により猫の世話をする話。ちょっと郝景芳(ハオ・ジンファン)の短編「乾坤(チェンクン)と亜力(アーリー)」を思わせる。
 坂永雄一「無脊椎動物の想像力と創造性について」は論文みたいなタイトルからは想像もつかないクモSFで、蜘蛛の糸で覆われた京都のイメージが素晴らしい。ちょっとした読みにくさはあるのだけれど、タイトル自体が意味する人間と違う知性(と見えるもの)を前面にだしてサイエンス・フィクションらしさが横溢する。
 野崎まど「欺瞞」ウーム、笑えん。やっぱりこの作家とは反りが合わない。
 そしてラス前、坂永雄一のSF的イメージを上回る小説力を見せるのが、初めて読む作家斧田小夜「おまえの知らなかった頃」。作品の舞台設定は大森望がタイトルページ裏で紹介しているけれど、作品を読んだ後でも、ああそんな設定だったのかと気がつくくらいのシロモノで、いきなり「おまえは」と二人称ではじまるのに、物語の大半は「おまえ」の母親高水月(ガオシュイユエ)の行動にかかわるものである。タイトルページには「遊牧民の語り部と天才プログラマーの間に生まれた少年よ、おまえの母のなした秘密を語り聞かせよう」とあって、こちらの方が物語を要約しているだろう。この惹句からも「おまえ」に語り聞かせているのは誰かという謎が常に意識されるのだけれど、それは最後に明かされる。ヒロインである母親の名前から分かるように、まるで中国の新鋭女性SF作家の作品が翻訳されたかのような一編である。
 トリは酉島伝法「お勤め」。あの酉島文体を止めて書かれるようになった最近作のなかでも屈指の一品。話はどこかの王国の大邸宅/城みたいなところの一室で付き人やお付き医師に囲まれて、毎朝健康診断と身支度を調え、少し離れた食堂へ食事をしに行く男の話。読んだ印象は西洋ゴシックというか19世紀末あたりのヨーロッパで書かれた作品みたいな雰囲気がある上、物語は作品の実際のページ数より遙かに長くかつ(ほとんど密室小説なのに)広い印象をもたらす。最後になって動き出すドタバタも含めて、まるで山尾悠子みたいだ。

 日本SF作家クラブ編『ポストコロナのSF』は、クラブ会員19人の作家の作品と2020年の日本SF作家クラブ事務局のてんやわんやを綴った同クラブ第24代事務局長鬼嶋清美の「SF大賞の夜」、そして同クラブ会長池澤春菜の「まえがき」がつく。総ページは500ページを超える1冊。
 手に取って読み始めたときは、小説トリッパー編集部編『25の短編小説』を思い出したけれど、こちらはさすがにSF作家クラブ員ばかりが書いてるので、SFファン向きそのものだ。
 といった傍から小川哲「黄金の書物」はSFな感じがあまり強くない1編。貴重書を手荷物にして運ぶだけで数十万の手数料が払われるバイトって、そりゃ危険が待ってるわ。
 伊野隆之「オネストマスク」表情をつくるマスクがもたらす非正規労働者の悲哀。うーん、元気になれん。
 高山羽根子「透明な街のゲーム」は大森アンソロジー掲載作とセットな1編。「このゲームは、誰もいない街を使ったリアリティショーだけれど」と人影の見えない都会のイメージから派生した作品で『暗闇にレンズ』の光学趣味を思わせる。
 柴田勝家「オンライン福男」は、福男目指して裸で走る祭をオンラインに置き換えたらこんな話が出来ましたというもの。スピード感はあるけれど、イメージが付いてこない。
 若木未生「熱夏にもわたしたちは」は、《接触忌避》が言われる時代に女子高生2人が風呂屋ではしゃぐ話、ってまあ百合な幸せ感がいっぱいだ。
 柞刈湯葉「献身者たち」は、国境なき医師団で感染症と闘う現実主義的な女性医師と加納を慕っていた理想主義が強すぎる若い女性の対決に至る物語。ひたすら苦い。この作者のシリアスさが大森アンソロジー収録作より強く出ている。
 林譲治「仮面葬」は、パンデミックが何年かおきに発生した時代に、主人公が実入りのいいバイトとして見つけたのが葬儀の代理出席人の仕事。いわゆるICT仮面を付けて葬儀に参加するのでこのタイトル。物語の方はいじめられっ子といじめっ子の話で、後味は良くない
 菅浩江「砂場」は、子供を遊ばせる公園の砂場を舞台に感染症罹患者に対する一般の人の嫌悪を、完璧な隔離スーツを身につけた親子の視点から描いた1作。これもつらい話だ。
 津久井五月「粘膜の接触について」は、高校生くらいから全身スキンで感染防御する時代に主人公が親からスキンを渡されるシーンからはじまる。スキンを付けて参加するラブパレードの快感が、それに反抗する一派の影響を受けても、結局スキンにとらわれたまま未来を迎える。キノコSFといえばキノコSFだな。エロの象徴はそこら中にあるけれどエロいかと言われると?だなあ
 立原透耶「書物は歌う」は、若者だけが生き残った世界で、本の歌声に導かれて図書館を発見し、そこに住み着いた少年の話。この世界の図書館は移動してより小さな図書館の本を吸収する。このシーンはちょっと『移動都市』の都市喰いを思わせるが、作者のスタイルはずっと静的なイメージで雪降る街のファンタジーみたいな雰囲気を漂わせるが、それだけでは終わっていない。
 飛浩隆「空の幽契」は、パッと見にタイトルの意味が分からないが、冒頭で国語辞典からの引用があって「神々どうしの約束」と定義されている。眉にツバ付けてもいいかも。で、それが作中では「二十年まえにとあうダンス・カンパニーが上演した」と説明されているので、それは作中作となって展開する。主人公の女性はCOVIDの後遺症と付き合って40年という女性で、ケア施設にいる元ダンサー。これは福祉関係の仕事を定年まで勤め上げた作者の記念品ともいうべき1作。作者はやはり冒頭で、この作品が、櫻木みわ、麦原遼の共作「海の双翼」に着想の大きな部分を拠っている、としているけれど、当方には分からず、むしろ山尾悠子『山の人魚と虚ろの王』の構成を思い出した。
 飛作品がこのアンソロジーのピークかと思ったら、津原泰水「カタル、ハナル、キユ」はそれを上回る出来映えを見せていた。内容については言及しないが、NOVAの酉島作同様、作品世界がページ数から窺えるものより遙かに広大な1作。
 藤井大洋「木星風邪」はタイトル通りの宇宙もの。手際の良さは作者のことだけあってサラッと読ませる。
 長谷敏司「いとしのダイアナ」は、デジタル世界の父母世代と娘世代のコピー人格が演じるゲームを通しての世代間格差の物語。面白い。
 天沢時生「ドストピア」は、濡れタオルでたたき合う競技がヤクザの生きる道になっている世界でヤクザが筋を通すハナシって、なんじゃそりゃな作品。多分面白さ成分はこのアンソロジー一だ。イヤ泣けるねえ。
 吉上亮「後香 Retronasal scape.」は「ヒトはあまり匂い感じない」というアリストテレスのことばをエピグラムにした嗅覚SF。確かに嗅覚に導かれる言語もあっていいよなあ。マレー半島のジャングルに住む嗅覚言語を話す原住民の調査に入った女性からの手紙という形で進行するが、軍事的な体裁をとるのは作者の持ち味か。
 小川一水「受け継ぐちから」は、感染症にかかって死にかけた祖父母と少年の乗る宇宙船がある星系の管理域に入って生じるひとつのドラマ。この作者らしくタイトル通り爽やかな結末が待つ。
 樋口恭介「愛の夢」は、作者のSF愛なのか腹黒い企みなのか、全人類が疫病から逃れるためハイバーネーションを選んでいなくなってしまった後に、1000年ぶりに眠りから覚めるアメリカ大統領ハワード・C・ラヴフィリップス。ねえ、やっぱりトンデモなハナシだよ。
 大ラスは北野勇作「不要不急の断片」ということで、100字SFはもはやこの作者の専売特許になった感がする。今回は、新型コロナウィルスをお題にタイトル通り政府の政策批判を含んだ70篇。だんだん川柳のように読めてきた。
 ということで総じて後半に興味深い作品が多かったかな。まあこれだけの作品を集めたのは意義あることでしょう。だれか『コロナの時代の愛』を書かないかなあ。パロディでもいいけど。

 今回小説よりも熱心に読んだのは、ノンフィクションで、しかも2019年2月に出ていた片山杜秀『鬼子の唄 偏愛音楽的日本近現代史』。2年前に出たときに読んでいなかったのが、われながら不思議だけれど、思えばこの著者の音楽エッセイは『CDジャーナル』で長いあいだ毎号読んできたので、それで満足してスルーしたのかも知れない。入手したのは2刷で帯は各紙誌書評絶賛の嵐になっている。但し「日本近現代×西洋クラシック」という帯の惹句はちょっと舌足らず。とはいえ片山杜秀の得意技ふたつを掛け合わせたもの。そりゃ面白かろう。
 簡単に要約すると山田耕筰以来、西洋クラシックと対決した日本の近現代「西洋クラシック」作曲家14名(この本で初めて知った作曲家も数人いる)のキモとなる作品を取り上げ、作者のプロフィールを近現代史に落とし込んで、彼らの苦闘を描き出した労作。なんで「鬼子の唄」かということは「前口上」に詳しく書いてあるが、著者が云うように日本の音楽的天才の彼らが西洋クラシックと対決して紡ぎ出した代表的な作品群は、(少なくとも片山杜秀にすれば聴き所満載であるのに)ついにいまだ日本のクラシック音楽ファンにとって縁遠いまま放って置かれているのである。まあ、日本人作曲家のオペラで人口に膾炙していると云えるのは唯一、音楽の教科書に載った團伊玖磨の『夕鶴』だけど、この本では團は取り上げられてない。
 また、「あとがき」にもあるようにもともと文芸誌『群像』の連載で、毎回読み切りのハズが力が入りすぎて、冒頭の三善晃からして70ページの本格的な連載評論になってしまっている。三善晃は、コンサートで時折取り上げられる黛敏郎や武満徹ほどではないにしろ、それなりに名の知られた作曲家だけれど、当方レベルでは代表曲が何なのかさえ覚えていない程度である。著者は三善晃の代表作としてオペラ『遠い帆』を取り上げているが、たぶん実演に接したクラシック愛好家は僅かだろうし、もちろん当方も聴いたこともなく、それが三善晃の代表的作品である事も初めて知った。何を題材としたオペラかというとこれがなんと「支倉常長」のエピソードをもとにした作品であり、片山杜秀は江戸時代初期に西欧へ派遣された武士を題材にしたオペラをもとに、西洋クラシックと対決した日本人作曲家三善晃の音楽的/文化的思想を読み解いてみせる。
 なんで日本人クラシック作曲家が苦闘しなければならなかったかというと、ひとつには1930年代まで東京音楽学校では作曲科が無くて、西洋クラシックに魅入られた日本の音楽的天才たちはある意味自力で作曲科になるしか無かったのである。山田耕筰も家が経済的に没落したが、たまたま伯母が音楽的素養のあった名家出身のイギリス人に嫁いでいたおかげで才能を認められ、東京音楽学校声楽科に入った後、恩師がたまたま三菱の岩崎小弥太にチェロを教えていた関係でパトロンになってもらい、ヨーロッパ留学が叶ったという。また三善晃のつぎに本書で取り上げられているゴジラ作曲家の伊福部昭は、独学で作曲家になったけれど、北帝大農学部を出て林野局に勤めたといういわゆる理系「日曜作曲家」だった。まあリムスキー・コルサコフだって30歳くらいまでは海軍にいたのだから、芸術的天才がそのままメシの種になるかはその人の運にもよる。
 それでも三善晃や黛敏郎くらいの世代になると最初から作曲家として世に立つことが出来るようになったけれど、しかし片山杜秀の説くところを読んでいると、西洋クラシックの本丸である管弦楽やオペラと日本の音楽文化との整合は相変わらず激しく軋んでいることが分かる。黛敏郎がかつての盟友三島由紀夫の『金閣寺』を題材にしたの最後の大作オペラの成り立ちを、黛の音楽的遍歴やその間の三島との軋轢とともに、当時すでに大物クラシック音楽評論家だった吉田秀和の動きに注目しながら解き明かし、オペラ自体の音楽的な効果も読者の印象に残るよう工夫したものになっているが、黛は発注元がドイツの歌劇場と云うこともあって、ついにドイツ語台本を使って作曲せざるをえなかったのである。
 日本人クラシック作曲家が格闘しなければならなかった原因のもうひとつは、これは当方みたいな熱心とはいいがたいクラシック好きには判りにくいことだけれど、20世紀初期から戦後にかけてヨーロッパに留学し、当時の現代音楽の生演奏に接した日本人クラシック作曲家にとって、本家本元であるはずのベートーヴェン以来のドイツ・オーストリアのクラシック音楽は、作曲技術的にはともかく、自ずと湧き上がるものとして日本人のよくするところでは無いことに気がついてしまったということだ。日本人的感性で志向する西洋クラシックは、どうしてもラヴェルやドビュッシーの感覚的な音楽、そして東欧的またロシア的なリズムや神秘的な響きに向かって行きやすいのだ。
 片山杜秀の基本的な読み解きパターンは各作曲家、特にページ数を割いたに共通しているけれど、その場合の著者の熱の入れ方が読み手を引っ張っていくので、日本人クラシック作曲家に対して興味が無くても面白く読み通せるものになっている。

 ちょっと訳あって家にこもっていたら、いつの間にか長々と書いてしまっていた。こりゃ長過ぎたなあ。


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