続・サンタロガ・バリア  (第220回)
津田文夫


 地元では新型コロナウィルス感染者ゼロの日が続いていて、地元映画館ではまだ『鬼滅の刃 無限列車編』をやっていたので見に行った。ちなみに漫画もアニメも見ていない。平日と云うこともあって、100人以上入る客席に2人という閑古鳥。
 見終わって、これは典型的ジャンプ漫画だったなあという感想しか浮かばなかったけれど、続きものマンガの一エピソードとしての単体作品としてはよく整理されているといえる。エピソードづくりは2段構えで、最初の敵が夢使い的なキャラであることにより引き出される主人公側の各登場人物の心象から、それぞれのキャラの立ち位置が分かるようになっていて、この夢使いとの戦いではゲストキャラ以外の活躍が描かれる。後半はゲストキャラの独壇場で主人公キャラたちの影が薄い。その分ゲストキャラが観客に強い印象を残すように出来ている。絵づくりに残酷描写が多いという事でPG12が付いているけれど、漫画やアニメ版に熱中できるくらいの子供なら見ても大丈夫そうだ。
 作品としては、ジブリや新海誠の作品と同列に論じられないだろうし、エヴァやパトレイバーの長編アニメ版と較べても作家性は薄いように見える。でもそれがモンスター級のヒットをした理由なんだろうなあ。

 最近は短編集ばかり読んでいるような気がするけれど、今回も長編は2冊のみ。内1冊は続きものなので、実質長編は1冊きりだ。その1冊もSFでは無かったので、長編SFがゼロということになった。

 その1冊は上田早夕里『ヘーゼルの密書』。帯に「一九三九年上海」とあったので、てっきり前作の細菌SFものの続編かと思って読み始めたら、「日中戦争」の最中に行われた和平工作「桐工作」にからめての歴史小説になっていた(巻頭にアヘン戦争から日本敗戦までの年表が付いている)。作者が【著者による後記】に書いているように、この物語は史実の中にあり得たかも知れないエピソードを潜り込ませた形の作品になっていて、その物語は史実を枉げることの無い形で進行し終焉を迎える。
 小説としてはとてもよくできているけれど、読み手としては史実をはみ出すダイナミズムがあった方が嬉しいかな。もっとも【著者による後記】からは、そうしたくない作者の気持ちが伝わってくるけれども。

 続きものの長編は、林譲治『大日本帝国の銀河1』。矢継ぎ早の新シリーズ開始と、林譲治は好調らしい。「銀河」といえば海軍の太平洋戦争期の双発爆撃機だけれど、表紙には4発のB29みたいな大型爆撃機が描かれている。
 『ヘーゼルの密書』同様、帯に「昭和十五年、六月。」とあるのはいいけれど、その後に「オリオン太郎様日本はこれからどうしていけばよいでしょうか」と書いてあって、なんじゃそりゃ、である。
 1940年6月と云えば上田作品では、「桐工作」の真っ最中だけれど、こちらは三国同盟に向かう時代に、軍部が満州のハイラルで後のレーダーにつながる電波計測をしている(そういえば朝日新聞の池澤夏樹の連載小説でも水路部所属士官の主人公が満州の北で天測をしていた)ところで、オリオン座方向からから波長21センチ(水素)が観測された・・・というのがプロローグ。本編に入ると電波天文学を研究する京大教授が海軍士官の友人に呼び出されて、「火星太郎」と名乗る人物と会見、海軍は彼が乗ってきたどこの国にもないような超高性能爆撃機を見せる。「火星太郎」と会見を進めるうちに「火星太郎」は「オリオン太郎」と名のりを変えたのであった。
 こちらは史実をはみ出すなんてものではなく、のっけからSFっぽさ全開でぶっ飛んでいくので、パラレル・ワールドものと云っていい。「オリオン太郎」族の大型爆撃機はヨーロッパにも現れてドイツ空軍はもとより海軍艦艇やイギリス海軍の艦載機も一蹴、まるで『インディペンデンス・デイ』の巨大円盤みたい。ということで、話は「オリオン太郎」と超高性能大型爆撃機をめぐって展開、第1巻の最終行は「オリオン花子です」って、ちょっとやり過ぎなくらいノリノリである。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズから出た郝景芳(ハオ・ジンファン)『人之彼岸』は、AIに関する長めのエッセイ2編と短編6編を収めた(日本では?)変則的な作品集。読み終わった後でタイトルを考えるとこれはAIのことらしい。
 AIに関する論考は地に足が付いたタイプの真面目な考察で、現在のAIにはその仕組みとして何が出来ないかを読者に分からせることに力が注がれているように見える。その上でAIはヒトと違う知性として捉えて、ヒトは自らの特性を発展させる方がいいという。
 続く6編はその考察から引き出されたアイデアを小説として表現したものと云えるだろう。
 冒頭の「あなたはどこに」にはAIに頼りすぎてすべてを失う男の話。
 「不死医院」は、最高の病院との評判の母の入院先は絶対面会禁止、そこへ潜り込んだ息子は瀕死状態の母を見たが、なぜか元気に退院した母が帰ってきて、息子は母が別人のように感じて、実は医院が母を死なせてしまったのではないかと疑い、医院の不正を暴こうとしたが・・・という話。小説のつくりが結末のアイデアをよく隠している。
 「愛の問題」はAIによる殺人を扱って、家族の愛憎を絡めた展開に作者らしさを感じるが、AIに殺されたという大企業のトップAI研究者をめぐるミステリ的な構図を作ったため、推理オチともいうべき語りがやや肩すかしになっている。
 「戦車の中」はAI時代の戦車戦を扱った皮肉なショートショート。
 「人間の島」は、著者のAI考察をよく反映したAIユートピア/ディストピアもの。浦島太郎的に地球に帰還した宇宙船の船長を主人公に、まるでユートピアのように見える現在の地球の楽園から逃げ出すまでの話。タイプとしては50年代SFに近いかも。
 最後の「乾坤(チェンクン)と亜力(アーリー)」は先月読んだばかり。その愛らしさからアンソロジー・ピースとなるのがよく分かる1作。この短編集の中では一番成功した作品だろう。
 ということで郝景芳(ハオ・ジンファン)の小説スタイルがよく分かる短編集と云える。やはりちょっと真面目すぎるかも。

 今回も著者から恵贈いただいた岡本俊弥『千の夢』。早いもので、もう4冊目になるんですね。まさにコンスタントな仕事ぶりとはこのことかと恐れ入ります。巻末の水鏡子の解説も著者が小説を書くペースに触れていて、そこに凡百の作家志望者層との違いを見ているようだ。
 今回の作品集は、これまた水鏡子が書いているように、各短編が著者が研究開発者として会社に勤めた経験を核としているという意味で、これまでの3作品よりも短編集としてひとつの個性を感じさせる物になっているのは間違いないようで、その点は眉村卓の「インサイダーSF」論を著者流に実現しているとも云える。
 表題作となっている冒頭の「千の夢Thousand Dreams」は、落ち目の会社の起死回生的な製品がもたらす皮肉な結果を会社/工場側の視点で描いたもの。作中の製品名がストーリーテラーを縮めてステラということになっているので、これはJ.G.バラードの「ステラヴィスタの千の夢」を反映した作品ですね。
 「呪い Curse」は、お社のみ残して古墳群を壊して建てた工場で造られた、開発者側にも上手くいくとは思えない新製品が、解析不能の部品のお陰でヒットしてしまうが・・・というもの。
 「瞳のなか Inside the Eyes of Sibyl」は、主人公が会社の重要案件を交渉するため海外出張するたびに現れる、不思議なアドバイスをしてくれる美しい女性の話。これは作者のアニマか、というところだけれど、話はそっちに行きません。
 「遷移 Succession」は、「ここで定義が更新される」というセリフではじまるサラリーマンの成績評価地獄みたいな話。冒頭のセリフが出てくるたびにシチュエーションが再定義される。作者の持ち味の一端が強く感じられる物語構成で一般的な小説としてはユニークでしょう。
 「同僚Colleague」はこちらも職場で話の合う女性の部下がいて・・・という、今度こそ作者のアニマか、って思ったらやっぱり話は違う方向に・・・。
 「シルクールShiqool」は、別れた妻と時間をおいて話をしたらウマが合うという、まるで村上春樹ばりの会話劇だけれど、会話の中身がアフリカの小国による世界経済侵略話というSFなところがスゴい。
 「瞑想Mindfulness」は、社内SNSで悪口を書かれた主人公が社内カウンセリングにかかる話。「笑ゥせぇるすまん」みたいなカウンセラーだなあ。ちょっとディックっぽいかも。
 「抗老夢Anti-aging Dream」は集中で一番好きな作品。ティプトリーへのオマージュですね。マンガにはなりにくいだろうけれど、女性漫画家に描いて貰いたい。
 「見えないファイルInvisible File」は古いパソコン集めが趣味な男が、新しく手に入れたものにファイルを見つけて・・・、まあ、知らないファイルを開けるとロクな事にならないのが鉄則です。
 「ファクトリーFactory」は、取引先に招待されて、ある会社の出先から本社まで、田舎から世界中を旅する羽目になる話。自前の工場がいらないメーカーの窮極を描く。
 「侵襲性Invasiveness」は駅のホームで自ら飛び込むように列車事故に巻きこまれた男が、以前VRプログラムを使ったトレーニングジムに通っていたが・・・という話。男がトレーニング中に目にする光景が不気味。
 巻末の「陰謀論Conspiracy Theory」は、若い女性上司が専門性を失って出世出来なくなった中年の部下のカウンセリングをしたら、インターネットを通じて妄想的な思考が昂進していき、ついに・・・という話。一応ロジカルなのに話が通じないもののコワさです。
 こうして個々の作品の印象を並べてみると、水鏡子解説が云うところの「岡本地獄」というのが、作品の形としてホラーを成立させているということなんだろう思われるけれど、こちらがホラー不感症で鈍感なせいか、岡本さんのホラーは人を怖がらせることを目的としていないように見える。SFとしてのアイデアと妙に落ち着いた叙述が、恐怖小説としては一種の遅延装置になっているんじゃないでしょうか。

 ここからはアンソロジーが続く。

 西崎憲編『kaze no tanbun 移動図書館の子供たち』は、編者を含め16人の著者による17編の「短文」が収録されている。そのうち編者や円城塔、大前粟生、勝山海百合、伴名練、木下古栗、藤野可織、星野智幸、宮内悠介の9名が以前に1度でも作品に接した事がある作家。初めて読んだのが、我妻俊樹、古谷田奈月、斎藤真理子、乗金顕斗、松永美穂、水原涼、柳原孝敦の7人。翻訳家の斎藤真理子が詩を含め2編を掲載。
 冒頭の古谷田奈月「羽音」は、タイトルと違って、話者の中学校時代、戦前からの合唱曲の定番、シューマン「流浪の民」を歌って自分の声の美しさに気づくという話から、「誰もいない森で木が倒れたら音がするか」に話が振られるが、その後は話者の『ロッキング・オン』に載るような洋楽愛好遍歴が語られる。BECKにポーグス、ダイナソーJr.にトラッシュ・キャン・シナトラズ、果ては友人が熱中するというケンドリック・ラマーまで。ロック・フェスに友人の知り合いの作家がバンドでトランペットを吹くという話がコロナで誰も来ないことになり、話者は「倒れた木の音」の謎が解けたという。気ままと云えば気ままな掌編だけれど、小説にはなっている。
 我妻俊樹「ダダダ」は、アナとファナが自動運転細胞が運転する車をヒッチハイクして故郷のダダダに帰ってきたけれど・・・というはじまり。SFとすれば昔っぽいけれど、感覚は今な1作。
 斎藤真理子は2編とも短く、「あの本のどこかに、大事なことが書いてあったはず」は散文詩のような作品で他方「はんかちをもたずにでんしゃにのる」は詩形を纏った詩作品。 水原涼「小壜」は、湿地をさまよう亡霊のような男の話からはじまり、ヴェトナムを思わせる土地の村にいる少年の物語へとつながる。壜は北軍の戦死者の身元確認に使われるものだ。いい作品だ。
 柳原孝敦「高倉の書庫/砂の図書館」は島尾ミホが沖縄加計呂麻島で少女時代を過ごしたエピソードの紹介からはじまり、その近くの島で育った話者の子供時代、家まで毎月子供向け文学全集を分冊で届けて貰った思い出を語る。その本を持ってくる男の身の上話には戦争の影がある。集中では一番オーソドックスな文学的小説かな。
 乗金顕斗「ケンちゃん」は、若手俳優須永健パトカー乗り回し事件でニュースになって、話者は幼馴染みサトルと子供の頃に同級生だったケンちゃんの話をしながら、須永健の話と入れ替わるように進む。旨さの光る1作。
 ドイツ文学者松永美穂「亡命シミュレーション、もしくは国境を越える子どもたち」は、亡命失敗のフィクションに絡めて、アンナ・ゼーガースの人生を振り返る作品。手堅くてかつ面白い。
 以上が、初めて読んだ作者の感想。ある程度作風が分かっている9名はそれぞれ作者らしい作品で勝負していて、このアンソロジーをハイレベルなものにしている。どれが傑作選に採られても不思議はないくらいだ。

 SFとはちょっと距離ありそうな訳者2名によるSFを題に冠したアンソロジー、柴田元幸・小島敬太編訳『中国*アメリカ 謎SF』は、まあSFプロパーのアンソロジストが選ばないような作品が(特に英語から訳したもの)が多い。
 冒頭のShakeSpace(遥控/ヤオコン)「マーおばさん」は、作者のしょったペンネームの割にはオーソドックスなAIチューリング・テスト系の話。オチを読むと、アリ繋がりで高丘哲次『約束の果て 黒と紫の国』を思い出す。
 英語作品からの初めは、ヴァンダナ・シン『曖昧器械―試験問題』。冒頭の一文が「〈概念的機械空間〉はすべての可能機械の抽象空間である」というもの。円城塔並みのキャッチーさです。で、なんで試験問題かというと「〈概念的機械空間〉の、・・・下級航海士の資格試験受験者は以下三つの記述を読み、後に記された指示に従うものとする」からですね。その3つの記述がそれぞれ素晴らしい出来の掌編になっていて読ませる上、最後のページに記された指示も試験問題としてよくできている。
 梁清散(リャン・チンサン)「焼き肉プラネット」は文字通り、墜落した宇宙船の乗組員が高温の地表でそこら中に焼き肉を見る1編。フレドリック・ブラウンかオマエは。
 ブリジジェット・チャオ・クラーキン「深海巨大症」は、夫と息子を海で失った女性がかれらを取り込まれたと妄想する海修道士/シーマンク調査のスポンサーになった。調査用潜水艦に乗るのは、たまたま調査隊リーダーの男と知り合いだった教会の受付をしていた若い女性と他にスタイル抜群の女性科学者が3人、狭い潜水艦の中で女性4人とリーダーの男が生活しながら調査は進むが・・・ちょっと奇想がかった文学系のSF。艶笑コメディと視点人物である教会の受付だった女性の思いが海修道士と深い海の中でつながる。
 王諾諾(ワン・ヌオヌオ)「改良人類」は、宇宙船の帰還をスリープマシンに置き換えて作った郝景芳(ハオ・ジンファン)「人間の島」みたいな1作。こちらはアクションたっぷりだけれど。
 マデリン・キリアン「降下物」は、50年代や60年代に量産された核戦争後ものの最新版、以前なら放射線影響下で変貌した人間たちの描写はセンセーショナルだったが、ここでは非常に静かだ。最後のタイムマシンものとのカップリングも痛ましい。
 巻末に再登場の王諾諾(ワン・ヌオヌオ)「猫が夜中に集まる理由」はショートショート並みの短編で、「シュレーディンガーの猫」もの。作風はともかくアイデアの持って行き方はやはりフレドリック・ブラウンを思わせる。
 小島敬太がこんなにSF好きなヒトだったとは、巻末の編訳者対談を読むまで知りませんでした。面白い試みだったと思う。

 集英社文庫編集部編『短編宇宙』は、これまで『短編○○』というタイトルでシリーズされたアンソロジーの1冊だけど、以前のものは読んでない。
 今度のは『宇宙』というだけあって、川端裕人、宮澤伊織に酉島伝法とSF系が入り、読んでみると深緑野分も奇想系だった。ほかに加納朋子、寺地はるな、雪舟えまの作品を収録。
 オープニングの加納朋子「南の十字に会いに行く」は、視点人物の女の子がパパに「南の島」旅行を宣言されて、石垣島に向かう話。飛行機や観光バスで乗り合わせた老婆や若い女性、怪しいサングラスの男などが、なぜかパパが目指すところへ集まってくる。パパが目指したのは・・・というもの。ほんわかした話だが、作中に出てこないママそしてパパ目指したところにいた女性が宇宙へとつながる。
 寺地はるな「惑星マスコ」は、会社を休んで九州の田舎にいる姉のところで骨休めをしているらしい女性が、防波堤の上で寝転んでいたら土地の女の子に「宇宙人だ」と呼ばれてしまった。女性は小さいときから周囲と違和を感じ、子供心に自分と同じ人間が住む「惑星マスコ」を空想していたのだった・・・。とはいえ物語は語り手の女性を「宇宙人」と呼んだ女の子を巡る話として決着する。
 深緑野分「空へ昇る」は、「土塊昇天現象を一番はじめに目撃した人物は、異常と感じただろうか?」という一文ではじまる。それは大地に直径「二爪」ほどの穴が空き、そこから無数の土塊が浮かび上がって天を目指す、というもの。十分な掴みで、あとはこの「土塊昇天現象」に関して、人間が「星塊天文学」や「星塊哲学」を考え出して、論を戦わせたことが語られる。面白い。
 酉島伝法「惑い星」は、惑星の誕生から太陽系の死滅再生までを、新しく生まれた惑星の視点で描いた、誕生と死と再生の物語。酉島作品としてはとてもわかりやすい1作。
 雪舟えま「アンテュルディエン?」は、小野美由紀『ピュア』に入っていた女の子が好きすぎた女の子の話の「うれしはずかし」を、BL版でやっているような作品。タイトルは「最後まで」の英(米)語発音らしい。
 宮澤伊織「キリング・ベクトル」は、宇宙貨物船に密航した女学生が、異星人宇宙海賊集団に襲われ、殺し屋を生体プリンターで作り出して自分を守らせる話を、殺し屋側の視点で綴った1作。読み進めると、この多数の宇宙人種がいる世界における人類の悲惨な地位が明らかになり、神を殺しに行く話になる。まあ、舌を巻くほど手慣れたユーモラスで自在なスペース・オペラ。ラノベスタイルのキース・ローマーみたいだ。掲載誌が『小説すばる』って、いい時代だなあ。
 巻末を飾るのが川端裕人「小さな家と生きものの木」。語り手は、電波望遠鏡で生命につながる波長を見つけ出そうと組まれた国際チームのリーダーを勤める日本人。しかしコロナ禍のもと、各国から参加しているチームメンバーは集まれず、それぞれがそれぞれの仕事している中、語り手は学校が閉鎖中の小学生の娘の相手をしつつ、ネットでメンバーにアドバイスをしたり、後輩の論文指導をしながら、自らも資金獲得のための研究企画書を作成中だ。しかし物語の焦点は、小学生の娘とのコミュニケーションの中で語り手が気づくことにある。そして家に帰れない医療関係者の妻から、少し落ち着いたからちょっとだけ帰れるかもと連絡が入る。40ページあまりの短編に、いかにも著者らしい希望を詰め込んだ良作。
 ということで、なかなかお買い得な文庫オリジナル・アンソロジー。いわゆるお値段以上です。

 ついでということで積ん読になりつつあった小説トリッパー編集部編『25の短編小説』も読んでみた。昨年9月刊。
 以前『20の短編小説』がSF読みにも面白い作品を多く収録していたので、今回もちょっと期待していたのだけれど、帯にあるように「『今』という時代を鮮やかに切りとる」ということで、それはすなわちコロナ禍の世相を受けて書かれたものが多いということなのだった。
 収録作家が、阿部和重、磯崎憲一郎、小川哲、尾崎世界観、恩田陸、角田光代、片岡義男、金原ひとみ、川上弘美、河崎秋子、木下昌輝、櫻木みわ、島本理生、新庄耕、高山羽根子、月村了衛、津村記久子、早見和真、東山彰良、藤野可織、星野智幸、町屋良平、松井玲奈、三浦しおん、森絵都の25名。なかなか豪華なメンバーと云いつつ、当方が読んだ事のない作家が7人いる。西崎アンソロジーと2人かぶっているけれど、『短編宇宙』の作家はいない。以下、何かしら引っかかった作品だけ。
 冒頭の阿部和重「AHOYH(キリル文字)」は最初にロシア語辞典からの引用があり「Unkown」だの「Pokemon(フランス語表記)」がキリル文字の間に見える。中身は高山羽根子『暗闇にレンズ』の一エピソードみたいだ。
 磯崎憲一郎「新元号二年、四月」は、冒頭カフカの短編に言及して、タイトルの世界を評したテクニカルな1作。
 小川哲「あんなカレーに・・・」は、またもや父親の本棚ものだが、ダジャレ・ショートショート。
 こんな書き方をしてたら終わらないので、全作品を読み終わって一番印象に残ったことを。それは、川上弘美の書く作品がいかにふくよかで、豊かな感じを残すものか、ということだった。その短編「泣くのにいちばんいい時間」は、女の子が公園の特定のベンチで泣くのが好きなのに、ある日先客の大人の女性が泣いていて、女の子はその女性と仲良くなって、失恋とかいろいろ聞くという話で、話自体がどうこういうものではないのに、構えが大きくてゴージャスなのである。たぶん川上弘美は小説の女神様的な資質に恵まれているのかも知れない。
 あとエンターテインメント的な作品としては木下正昌輝「おとぎ輪廻」が、ふつう考えても実行しないだろというシロモノで印象に残った。初めて読んだ作家では河崎秋子「洞ばなし」がよくできたショート・ホラーだった。
 全体的には文学的な作品が多いので、SF読み向きとは云えないかな。

 ノンフィクションはまたの機会に。


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