続・サンタロガ・バリア  (第207回)
津田文夫


 今月は前置きもなく、まずノンフィクションを1冊取り上げる。読んだのは前間孝則・岩野裕一『日本のピアノ ピアノづくりに賭けた人々』で、親本は2001年のハードカヴァー、昨年12月に草思社文庫で出た。
 前間さんの仕事がピアノにまで及んでいたとは、ちょっとビックリ。しかし、もっとビックリしたのは、読了まもなく『ブラタモリ』の浜松編が楽器〈ピアノ〉の街を紹介したのに驚き、そしてまた『創元日本SFアンソロジーⅡ 白昼夢通信』のトリを飾った水見稜の新作が調律師の話だったのにも驚いた。ただのシンクロニシティに過ぎないが、ちょっと出来過ぎな感がある。
 この本は戦前編を前間さんが担当しているので、戦後編とやや書き方が違っているのだけれど、前間さんの視点はあくまでも日本近代技術史の一例としてピアノもまた例外ではないことを示している。
 日本のピアノの本格的な始まりと戦後の隆盛は山葉(ヤマハ)虎楠とその片腕河合(カワイ)小市によって代表される技術発展史に例えられる(実際はそれだけではないピアノの歴史が前間さんによって示されているけれど)。
 ここで驚くべきは、日本のピアノはあくまで西洋古典音楽の教養と離れたところで技術者によって作られ続けてきたという事である。ピアノは本来楽器であって楽器の善し悪しは、最終的に音楽家と音楽愛好家によって判断されるはずだが、日本の優秀な技術者はピアノが西洋古典音楽の何たるかに大して重きも置かずに、技術的に優秀なピアノを作り出し、また作り続けたことである。
 産業としてのピアノ事業はヤマハとカワイによって戦前からそれらしいものになってはいたし、戦後の高度成長期には世界一のピアノ生産国とも云われるようになったが、もともとの西洋古典音楽のためのピアノという意味では、コンサート・グランドと呼ばれるピアノ以外は優秀な工業製品に過ぎないこともここに示されている。結局ヤマハもカワイも1970年代以降、スタインウェイやベーゼンドルファーに劣らないだけの日本的コンサート・グランドのクオリティを達成するのだけれど、今度は産業としてのピアノが衰退してしまう時代がやってきたのだった。ピアノの国内市場がそんなにも小さくなっていたとは驚いたけれど、文化・趣味の多様化と少子高齢化を考えればそれも当然ですね。
 この本にはリヒテルの専属日本人調律師村上輝久のことが大きく取り上げられているけれど、最初の大学受験の時(1973年)、出来たばかりの九州芸術工科大学を趣味で受験した(もちろん落ちた)事があって、大昔にTHATTAに書いたこともあったと思うけれど、村上輝久氏の息子さんと受験宿が一緒になって、彼からバキュームカーの洗浄アルバイトが如何に実入りがいいか、そしてバキュームカーの洗浄アルバイトが終わったらすぐ温泉に行って臭み抜きをしなければならないかを面白おかしく聞かされたことを思い出した。そういえばこのとき小倉の街のレコード屋でEL&P『展覧会の絵』の輸入盤HELP1を見つけて買って帰った(そして貴重なHELP1は半年後人に貸して失われた)ことも思い出してしまったよ。

 ハードカヴァーを読み損なって、まあ文庫でもいいかと思っていたら、なんと3年以上も待たされた(昨年11月刊)のが、古川日出男『あるいは修羅の十億年』。文庫の帯にあるような「オリンピック後の東京と日本描く」は嘘ではないが、オリンピックという単語が使えるのでこの時期に文庫化したということか。
 話の方は複数の登場人物のエピソードの束になっていて、2026年の東京が舞台のように云われるが、印象としては「鷺ノ宮」が現実の東京にあるような感じがなく、埼玉栃木群馬あたりのように感じられる。それはこの小説がいわゆる「震災後」の物語として原発のメルトダウンが大きく扱われているからだ。登場人物は神話的で、サイコ・ヤソウの姉弟に、仏蘭西南部で暮らすその母、原始の東京に「鯨」を幻視するウランと名乗る少女にその幻視に触発されたメキシコ人の芸術家と通訳の女性、そしてサイコやヤソウと付き合う「鷺ノ宮」のカウボーイがこの物語でフォーカスされるキャラクター達だ。
 各エピソードはリアリズムからファンタジー/SFまで様々なスタイルで作られ束ねられているが、いわゆるリニアーな筋運びは見えにくい。エンターテインメント的な語りもあるが断片化されているので、読む方の調子が上がらない面がある。しかしそれも作者の物語設計の内だろう。全体として大きな物語が見えるかというとそれもないような気がするが、「震災後」「メルトダウン」を生き延びる若い世代のイメージが、「鯨」という東京の古層の幻視と共に伝わってくる。
 ちなみに、ハードカヴァー刊行時の大野万紀さんのレビューがあったはずだけれどリンクが見つかりませんでした。
 【大野注】 リンク先はここになります。インデックスが間違っていました。

 高山羽根子『如何様』は、またも薄いハードカヴァーでノヴェラとノヴェレットが1編ずつ収められている。
 高山羽根子の作風はなんとなく分かってきたような気がするが、題材に何を持ってくるかはまったく予想が付かない。表題作は、戦時中にある画家が結婚式をすっぽかして出征してしまい、戦後、実際の夫を知らないままの妻のもとへ突然帰ってきたが、ほとんど妻と暮らすことがない画家を妻はそんな夫なのだと受け入れている。しかし、帰ってきたのはどうも本人じゃないんじゃないかという疑いを持つ美術出版の編集者が、調査人にその真贋を確かめるよう依頼する。
 ということで、物語は調査人の語りで進められていくのだが、どうもこの調査人は妙齢の女性らしいのだ。もうそのことだけで、この古めかしいミステリ仕立てが、その機能を維持することに作者の興味があるわけではないことが伝わってくる。じゃあ、何が書かれているのかというと、やはり語り手による調査過程の報告ではあるのだった。しかしこれは最後まで読んでもミステリとしての解決は、当然のことながらない。表題が「イカサマ」だけれど「イカヨウ」にも読めるという意味でもあるのだろう。あいかわらず不透明な物語が何かの影を映している。
 併録の「ラピード・レチェ」は、作中では一切その言葉が避けられているけれど、アフリカの小国で駅伝の選手を養成しようとする若い女性の物語のように作られている。しかし、ここでもその表面的な物語の要約は必ずしもこの作品の内容を紹介していることにはならない。うーん、文学的?

 小浜徹也・笠原沙耶香編『GENESIS 創元日本SFアンソロジーII 白昼夢通信』は、帯にもあるように創元SF短編賞出身作家を中心としたアンソロジー。では、文庫で出た『宙を数える』『時を歩く』とどれだけ違うのかというと、エッセイが入っていることを除いてあまり大きくは違わない。ただ今回はあの水見稜の新作が読めることが目新しい。
 収録作は高島雄哉の一種百合系SF考証家SF、石川宗生の動かない巨大モンスターと学生たちの物語、空木春宵の地獄太夫もの、表題作をものした新参者川野芽生はいわゆるお手紙ファンタジーだけれど、効果は素晴らしい。門田充宏は珊瑚シリーズ前日談で松崎有理は肥満に関するブラックユーモア・コメディ、そしてトリを飾るのが水見稜の新作「調律師」は文字通りピアノの調律師を主人公にしたエンターテインメントSFだけれど、先述したようにピアノの話がちょっとシンクロしたため、印象に残った。

 翻訳の方にいくと、まずアリエット・ド・ボダール『茶匠と探偵』は、訳者の大島豊氏が力を入れて紹介しているのがよく分かる短編集(表題作だけノヴェラ)だけれど、さすがに設定になじみがない上に、基本的に名前から性別が見当しづらいことも手伝って、メインキャラは女性しかいない(しかし一般的なイメージとして女性的かどうかよく分からない)ので、取っつきが悪いのは確か。
 読んでいる最中は、これまたえらくエキゾチックな宇宙SFだなあ、と思ったけれど、ヴェトナムや中国の文化がこの作品宇宙の基本的属性という点が、作者の出自と重なって読む者の頭の中に、二重三重の「色眼鏡のラプソディー」を呼び起こしているんじゃないかと気になった。
 どのエピソードもピンとこない隔靴掻痒なところがあるけれど、今まで読んできたSFと段違いのその文化背景のなじみのなさは、リウ・ツーシンやハオ・ジンファンや今読みかけのチョン・ソヨンといった中国や韓国の作家のSFよりずっと強く、むしろアリエット・ド・ボダールの企みの方が、よほどフィクシャスなもののように感じられる(翻訳の日本語もそれを強化する方向にあるようだ)。女が出産する宇宙船とか、見たことも無いエキセントリックな宇宙が作り出されているという一点において、この〈シュヤ宇宙〉は新しいといえるかも知れない。
 一つ一つの短編は女達の関係性とこの宇宙内のヴェトナム/中国文化の背景から織りなされるバリエーションで、物語の骨だけを要約してしまえば古典的な物語に回収されるように思えるが、〈シュヤ宇宙〉の見えにくい大枠が読み手を常に不安定な状態に置くように作用している。
 しかし、これをハードカヴァーで出した竹書房はエラいというかなんというか、ある意味蛮勇に拍手ですね。

 もう1冊の翻訳SFも竹書房の文庫で出たルーシャス・シェパード『タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短編集』。短編集と謳っているけれど、ノヴェラが2編しか入ってないので、誤解を生じるかも。
 今回は帯の「巨竜、起動」どころか、大暴れ、挙げ句の果てに骨になってまでこの(グアテマラが「テマラグア」になるくらいは現実の世界と違う〉世界に影響し続けるという、前作とは打って変わってダイナミックなエンターテイメントSF/ファンタジーぶりを披露している。
 前作が見せた恐ろしく魅力的なグリオールの世界が、ここでは外面的で派手な効果を持つ物語の魅力に置き換わっていて、その分物語としては軽くなり、エンターテインメント的なテクニックで読ませるようになっている。作者は自分で作り出したグリオールのいる世界が豊かな鉱脈であったことに、遅ればせながら気づいた結果、グリオールの世界の続編を書き続けることになったと語っている(?)が、今回の2作は初期作との落差が烈しくとても同一シリーズの物語とは思えない感じがする。もちろん面白さに欠けるところはないけれど。

 最後は岡本俊弥さんからいただいた第2短編集、岡本俊弥『二○三八年から来た兵士』です。表紙が未来風兵士になっていてカッコイイ。
 今回は「あとがき」にもあるように「異世界」をテーマにした短編集ということで、前作より作者の幅広い想像/創造力が楽しめます。
 巻頭の表題作は戦争下にある別の世界の日本から兵士が地下鉄の駅に出現し・・・、兵士がいた世界がどんなところだったかと云うことと、結末の兵士の言葉からこの短編集に収録された作品のいくつかに共通する「死」の世界が浮き上がる。
 次の作品「渦」はプラスティック・ゴミ問題が絡む近未来モノで作者の得意?とするサタイア・タイプの短編と云える。
 「汽笛」は改変歴史物というテーマではあるけれど、少年を主人公にした2編をつないで、叙情的なファンタジーが感じられる。
 次の「水面」と「ザ・ウォール」はそれぞれ作品世界はまったく違うのだけれど、結末まで読むと「死」のテーマによって通底した作品であることが分かる。わずかな既視感とともに短編としてエンターテインメントになっていると思われる。
 「五億年ピクニック」は結末にいたれば、そのタイトルがブラッドベリに借りたものであることが判明するが、物語の筋道からは作者がブラッドベリを目指して作品を仕上げたわけではないことはわかる。
 「消滅点」は震災・メルトダウンの影響下にあるかなり不気味なファンタジーで、ここでも「死」のニュアンスは色濃く出ている。
 「梅田一丁目明石屋書店の幽霊」はSF研(作中では一般人の読書会)ファニッシュな幽霊譚。楽しく読めます。
 「流れついたガラス」もタイトルはディレイニーだし、作中に「流れガラス」の変形引用もあるけれど、これもSFファンを主人公にしたファニッシュさとタイトルから伝わる叙情的な響きが作中に反映しており、SFファンには楽しめる内容になっている。
 巻末の「あらかじめ定められた死」は、これまた不気味なテロの物語だけれど、ここではタイトルに「死」が顔を見せている。書き方もサタイアとしてはかなり深刻で巻頭作と照応しているように思えるので、この短編集の読後感に「死」の世界というものが印象づけられたのかも知れない。
 個々の作品をあらためて見てみれば「死」の世界がテーマではないのだけれど、叙情的な作品やファニッシュな楽しみを呼び起こす作品よりもその傾向を持つ作品が多かったということでしょう。
 作者自ら解説するように第2短編集は第1短編集とは大部違った作品集になっていますが、それでも作者の個性は共通したものが感じられる作品集だと思います。
 


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