内 輪   第344回

大野万紀


 5月4日に、東京でSFセミナーが開催されました。今年は都合で参加できなかったのですが、ツイッターなどを見ると大変に面白い話が聞けたようです。特に、竹書房の編集者、水上さんのパネルが好評だったようですね。以前にどこだったかでお会いした時も、SFが大好きな好青年だった印象があります。ツイッターにアップされていた、竹書房のこれから出す予定のリスト(これや、これ)がすごい! やっぱり行きたかったなあ。
 ところで、キャッシュカードを持たず、銀行では通帳とハンコでしか金を下ろせない水鏡子は、SFセミナーへ出かけ古本を買いまくったこの連休、手持ちの現金がギリギリだと言っていたけど、無事に帰れたんでしょうか。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『ビット・プレイヤー』 グレッグ・イーガン ハヤカワ文庫SF
 イーガンの日本オリジナル短篇集。SFマガジンに載った3編と初訳の3編の6編が収録されている。うち後半の2編「鰐乗り」「孤児惑星」がバックグラウンドを共有する長い中編で、この2編で本書の半分を占めている。
 「七色覚」は幼いころに視覚インプラントのおかげで視力を取り戻した少年が、好奇心からそのソフトをハックして、生物学的な色覚を超える超色覚を手に入れるという話だ。その描写がすごい。花の色、空の色、人間の顔、それが普通なら気にならないような微妙で繊細な細部まで見えてしまって、とまどうさまが描かれる。しかし、この拡張された知覚が彼に何をもたらすのか。結局それは電子装置の力に過ぎないのだ。昔なら、それでもその力は自分の延長だから意味があるといえただろう。でも、現代社会の中において、そんな人間の能力とはどのような意味をもつのか。このお話の結末はほろ苦いが、少年の成長やボーイ・ミーツ・ガール、そして家族の愛情といった普遍的なテーマがこの短篇を読み応えのあるものとしている。
 「不気味の谷」は死者の人格と記憶を移植されたアンドロイドが世界とどう向き合っていくかという物語。主人公のアダムは成功した脚本家の意識を〈サイドローディング〉(長編『ゼンデキ』で詳細に描かれたテクノロジーだ)したアンドロイド。イーガンのことだから、彼にははっきりと自意識がある。しかしまだこの時代では、彼に完全な人権はない。物語は、彼に移植されず隠されたままとなった故人の記憶を巡って、ミステリー風に展開する。「不気味の谷」という言葉は普通CGやAIが現実を模倣しつつ、そこに微妙な不完全さが現れるところを言うのだが、ここでは亡くなった現実の人間の側に不気味の谷がある。その裂け目が明らかになるとき、しかしそれを超えた人と人との豊かな関係性もまた明らかとなる。
 表題作「ビット・プレイヤー」は気がつくと奇怪な世界に放り込まれていたヒロイン、サグレダの物語。言ってみれば異世界転生ものですね。でも彼女はこの世界の物理的にあり得ない重力の働き方から、これが仮想現実の世界であることを理論的に導き出す。そして彼女と同様にこのゲーム世界へ転生させられたNPCとともに、この世界をより住みよいものに変えていこうとする。今どきのゲームSFとしてはありがちな話だが、ゲーム・エンジンの裏をかいてそのリソースを少しずつ削り、世界を変革していこうとする彼女らの努力の技術的ディテールは、さすがにイーガンである。イーガンの、デジタルな存在にも人権を認めるべき(勝手に削除したり電源を切ったりするな)とする主張がここにも現れているようだ。この作品、ようやく世界が見えてきたところで終わりかと思ったら、やはり続編があるようだ。
 「失われた大陸」は悲惨な戦争が続く別の時間線の過去から脱出してきた難民というSF的な体裁をとってはいるが、まさに現実の難民問題をストレートに扱った作品である。内戦により悲惨な境遇におかれた人々、彼らからそのなけなしの金を取り上げて危険な脱出を請け負う怪しげな組織、難民を収容所に放り込み官僚的な態度で接する〈先進国〉はついには難民を自国に受け入れず、追い返そうとする。誰が読んでも、これはSF的設定が現代の現実世界のメタファーとなった物語だとわかるだろう。結末のデモの描写などいかにもナイーブな感じがするが、しかしそれは、実際の難民救済活動に長年従事していたイーガン自身の、痛烈な心の声のように聞こえる。
 最後の「鰐乗り」と「孤児惑星」は、ストーリー的なつながりはないが、『白熱光』と舞台が同じ、超未来の銀河系円盤部〈融合世界〉でのエピソードを描いた作品である。いや、これこそぼくの大好きなイーガンですよ。
 「鰐乗り」では、銀河中心にあって〈融合世界〉とは全くコミュニケーションしようとしない〈孤高世界〉へ向かおうとする夫婦(デジタル化されていて、何万年もかかる旅が主観的には一瞬だ)の物語が描かれる。そして「孤児惑星」は宇宙空間を漂う太陽のない孤立した惑星内部の文明にファーストコンタクトを試みる、人類の末裔とネコ型異星人の(もちろん二人ともデジタル化している)物語である(ちょっと百合SFなのでは? 知らんけど)。
 本書の解説で牧眞司がいうように、物語の構造としてはとてもシンプルである。主人公たちがその好奇心を満たすため、コミュニティを捨てて冒険し、謎を解いて(とは限らないが)帰還する話だ。でもその豊穣さときたら。もちろん科学的・SF的なディテールは詳細で、しかもわくわくするような魅力に満ちているのだが、別に数式を立てて計算しなくても、想像するだけで心が宇宙の彼方へと広がっていく。その無限の想像力とロマンティシズム。「孤児惑星」のフェムトマシンなんて、もうそれだけでご飯何杯でも食べられるよ。ガジェット萌えこそ、この手のSFの醍醐味だし、それが読めることがぼくにはとても嬉しいのだ。
 もちろん人間的な要素もしっかり書き込まれていて、そこにも魅力はある。けれど、それは真面目にリアルさを追求するならちょっとおかしな話であって、本来こんな遠未来の、人類とは違う異星の知性たちが、今の人間と同じような意識と感覚を持っているなんてあり得ない話だろう。レムだったら怒り出すかも知れない。けれども、そんな「翻訳」なしでは、こんな魅力的な物語を語ることはできなかっただろうと思う。それはイーガンの、そしてぼくらの限界なのかも知れないけどね。

『巨星』 ピーター・ワッツ 創元SF文庫
 ピーター・ワッツの傑作選ともいえる、短篇11編を収録した日本オリジナル短篇集。
 ワッツはイーガンと比較されることが多いが、いうならばはるかに過激である。イーガンが極めてハードな背景の上でも、ソフトウェア時代の人間性を共感できる形で追求しているのに対し、ワッツはそんな共感を求めない。それどころか、人間の自由意志にもとづく知性にも否定的で、刺激・反応システムとしてしか評価しない。いやもちろんワッツも人間だから、自意識みたいなものの存在はアプリオリに認めている。それを必要以上に重要視しないということである。そこは理解できる。自意識というのが後付けで、下位システムの入出力をあるタイムラグの後で整理し、まとめあげたものだろうというのは、たぶんその通りで、でもそれなら「自分」は仮想の存在かと言われれば、そうかも知れないが自分は確かに自分なのだから、それでいいじゃないか、と思う。で、そうなると、人間の意識も機械の意識も本質的に変わりはないことになるだろう。何しろワッツは〈デジタル物理学〉を評価しているというのだから。
 ワッツはわかりやすいヒューマニズムは否定する。倫理や道徳さえも、評価関数の計算結果がある閾値を超えるかどうかの問題となる。もちろんそれが正しいといっているわけではない。でも間違っているともいわない。結論は出さない。「あなたも考えてみましょう」なんて甘い言葉でごまかすこともしない。あり得る姿のまま冷たくドライに見せつけるだけだ。そしてもうひとつ、ワッツはくだくだしい説明を排する。ある意味とても不親切である。用語や概念も何の説明もなしに使われる。その分野に興味がある読者なら、知っていて当たり前だろうという態度である。例えば「付随的被害」における「トロッコ問題」とか。それがクールでかっこいいし、彼の魅力ともなっているのだが、わかりにくいことでもイーガンを超えている。イーガンのわかりにくさは普遍的な物理学や数学の問題だが、ワッツのわかりにくさは考え方そのものに関わっている。主人公の考えと作者の考えが一致しているとは限らない。それぞれの作品の結末で、本当にこの解釈でいいのかと悩むことになるのだ。まあこれだけまとめて読むと、大体は見えてくるけれど。本書では、近未来を舞台に機械や拡張された人間の感情と倫理を扱う前半から、後半の、超遠未来へと続く宇宙もの(でも問題意識は変わらない)へと作品が続くが、それぞれに編集者による親切なレジメがついていて、大いに読解の助けになっている。
 冒頭の「天使」は、民間人を誤射するといった〈付随的被害〉を軽減するためのAIを搭載した無人軍用機(ドローン)が、戦闘任務を繰り返すうちに……という、藤井太洋にもありそうな話だが、ひたすら機械の視点からのクールな描写が続く傑作。敵・味方・中立を判断するアルゴリズムには大きなリソースが使われているようだが、付随的被害を軽減するロジックはそれに比べるとごく単純なルール(何人以上が犠牲になる場合は攻撃するといった)に従っている。そこは判例データベースでも検索して判断すべきところじゃないかと思うが、戦闘中にそんな余裕はないわな。
 これと「付随的被害」はペアになる作品で、こちらは拡張機能を入れた人間の兵士が主人公。ここでも倫理や良心というものが最終的に計量的なロジックの問題となる。日本であった障害者施設の襲撃事件を思いだして、複雑な気分となった。これも傑作。
 「遊星からの物体Xの回想」はあの(小説ではなく)映画の怪物(異星人)側の視点で事件を描くもの。この異星人が人間の言葉を使いながら、まったく人間的でない思考をするので、そのギャップが面白い。ただこれも、映画を見ていないとかなり意味不明だろうと思う。
 「神の目」では空港に設置された装置が旅客の脳を読み取って危険な行動を起こさないよう再配線する。ここでも自由意志の問題が、ややマイルドな形ではあるが言及され、それと宗教による〈洗脳〉と何が違うのかと問われる。
 「乱雲」は雲が生きていて知性をもったら、そして人間に敵対したらというちょっとバカSF風なアイデアストーリーだが、意思疎通がまったくできない相手との戦いって、大きな自然災害のように、人間側にトラウマが残るのだなあと思う。
 「肉の言葉」はマッドサイエンティストものといえる。死の瞬間に何を考え、見るのかを研究する科学者の話。ちょっとホラーがかっている。
 「帰郷」は海底で生きられるよう改造された人間が、ほとんど人間性を失ったままステーションに戻ってくるという短い物語だが、非人間的な存在となった主人公の描写がとても不気味で印象的だ。
 「炎のブランド」は、ある種の公害により人間の自然発火現象が起こるようになり、そのもみ消しを図ろうとする当局側の人間が主人公の話。慣れと適応のおぞましさが乾いたユーモアとともに描かれる。
 後半の「ホットショット」「巨星」「島」の三作は、はるか何億年もの未来に続く宇宙ものの連作。壮大な宇宙SFであると同時に、コミュニケーションの帯域が狭すぎて何を考えているのかわからない知的生命や、何万年も歳の離れた遺伝子上の親子の親子関係とか、いかにもワッツな題材が扱われていてとても面白い。
 「ホットショット」はプロローグ的な話で、この連作の主人公となる(のかも知れない)反抗的な女性サンディの物語。多数の小惑星に時空特異点を搭載し、銀河全体に飛ばして(相対論速度で――だから航行には何万年も、何十万年もかかる)ワームホールのネットワーク(銀河ゲイトウェイ的なものかな)を構築しようとするディアスポラ計画。サンディはそのために育成された数千人の一人だが、小惑星船〈エリオフォラ〉に乗って行くのも行かないも自分で決めることだと、空しい建前を聞かされ、あるはずのない〈自由意志〉を体験してみようとする。
 「巨星」はその〈エリオフォラ〉が旅立って6千万年以上たった、はるかな宇宙空間での出来事。普段活動しているのはチンプというAIだが、非常事態には数人の人間が覚醒されることになっている。この物語の主人公は「ぼく」で、ずっと以前に起こったAIへの反乱で、AI側に立った裏切り者であるらしい(この反乱については連作の別の作品で詳述されているそうだ)。もうひとり起こされたのが、ハキムという「ぼく」に敵意を抱いている男。彼らの前に立ちはだかっているのは赤色巨星と巨大氷惑星で、〈エリ〉はその巨星に突っ込もうとしているのだった。この作品では、はっきりと説明はされないが複雑な人間とAIの関係の中で、いかにこの危機に立ち向かうかというハードSF的なテーマが描かれる。その解決法がすさまじく、また迫力と美と緊迫感に満ちたその描写がすばらしい。
 「島」ではサンディが再び現れる。出発から実に十億年以上が経過している。ワームホールのネットワークはすでにできているが、そこを行き来するのはもはや人類とはいえない存在であるらしい。しかし建設はまだ続いている。そしてもう一人覚醒されたのが、サンディの息子だというディクスだった。そして今度の問題は、前方にある直径2億キロの存在が、何やら通信を送ってきていること。物語は、この驚くべき異星生命体の謎と、サンディとディクスの拗れた親子関係をめぐって展開する。例によってファーストコンタクト・テーマがセンス・オブ・ワンダーに満ちたとんでもない方向に発展し、同時に十億年たっても変わらないような〈人間的〉な問題が重要となる。何とまあ、こんな極限の地にあって、サンディは(共感はできないかも知れないが)理解のできる存在として描かれている。解説で高島雄哉さんが言うように、本短篇集は「地球から離れながら、徐々に人間に近づいていく」のである。

『予言の島』 澤村伊智 角川書店
 作者の新刊はホラーがかった長編ミステリ。瀬戸内海の孤島が舞台で、横溝正史っぽい土俗と因習の雰囲気がある。
 かつて有名な霊能者が自分の死の二十年後にこの島で1夜で6人の死者が出ると予言していた。霊も予言も信じてはいないといいつつ、興味本位から島を訪れた幼なじみの主人公たち。嵐の夜、怨霊が下りてくると伝えられる、決して入ってはいけない禁忌の山。霊能者の孫娘、子離れできない母と引きこもりの子。都会から移住してきた夫婦が経営する自然志向の民宿で、その日に居合わせた旅行者たちは、その夜、予言通りの奇怪な惨劇に直面する……。
 お化けなんかいないといいながらお化けにあこがれる、いろんな曰くを抱えた人々が、呪いと死に立ち向かっていくことになる。本書はミステリとして、一つにはオカルト的な事件の謎解きが描かれる。だがもう一つは実際に存在する「呪い」――人の発した言葉が、呪いとなって人を支配するさまがテーマとなっているのだ。一つ目の謎解きはいい。ストレートなミステリとしてとても面白く読める。ただ本当にそこまでするのかという疑問が残るが、それは第二のテーマである呪いの力によって納得させられる。
 問題は三つ目の、本書を最後まで読んで唖然とする大ネタだ。読み返すとその伏線はちゃんと張ってあるし、なるほどと驚かされるのだが(参考文献に『ハサミ男』が挙げられているといえばネタバレか)、第二のテーマに通じるところはあるとはいえ、第一のテーマである物語の本筋とは最後を除いてほぼ無関係で、それ必要?と思ってしまう。帯に「初読はミステリ、二度目はホラー」とあるが、まあ確かにホラーだわな。でもちょっとバランス悪く、この結末は衝撃的で重いわりには効果があいまいなように感じた。

『マルドゥック・アノニマス4』 冲方丁 ハヤカワ文庫JA
 本書では、〈クインテット〉のエンハンサーたちを相手に闘う、ウフコックと一体化したパロットの華麗で壮絶で圧倒的な異能バトル、それに並行してそこに至るパロットの学園生活、そしてウフコックを取り戻そうとするパロットの「合法的」な調査活動が描かれる。その過程でもうひとつ、〈クインテット〉の強靱なリーダーであるハンターの過去をめぐり、マルドゥック市の支配者たちの底知れぬ闇が次第に明らかにされていく。
 『3』に直接つながる作品であり、あの結末の高揚感が続いている。しかし、一方で、ややこしく絡み合ったキャラクターたちの内面も深掘りされ、あのおぞましい〈クインテット〉たちに、とりわけハンターとその第一の部下であるバジルに惹かれていくものがあるのだ。彼らには、マッドサイエンティストたちの、やや戯画化されたおぞましさとは対照的な、人間的な(?)恐ろしさがある。
 そして何度も書いていることだが、このシリーズ全体を覆う、形式的な「合法性」と「ルール」の重視。それがある種ゲーム的な秩序をもたらし、この常識を遙かに越えた物語に確固としたリアルを与えているのだ。しかし、パロットたちの戦いはまだ決着していない。早く続きが読みたい。パロットの明るい笑い声を早く聞きたい!


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