続・サンタロガ・バリア  (第197回)
津田文夫


 『SFが読みたい!2019年版』のベスト10を見いていると、国内編では連作形式を含め中短編集が8点で、海外は長編が7点と極端な対象を見せていて面白い。ベスト30でも国内は20点が短編集で、海外は23点が長編である。しかも国内はその数少ない長編の『零號琴』と『破滅の王』が1位と3位、海外は数少ない短編集の『折りたたみ北京』と『竜のグリオールに絵を描いた男』が1位2位を占めるという好対照ぶりで驚く。おまけに投票者では5票で国内海外とも1位から5位を当てた投票者が一人ずつ、国内は鼎元亨氏で海外は橋本輝幸氏というのも興味深い。それにしても海外長編ベスト1が『7人のイヴ』とはねえ。『シルトの梯子』全3巻(!)だったら良かったのに。その点、『本の雑誌増刊 おすすめ文庫王国2019年』の大森望のベストは美しかったなあ。

 デニス・E・テイラー『われらはレギオン2 アザースとの遭遇』『われらはレギオン3 太陽系最終大戦』ととりあえず読み終わったけれども、これはいわゆるファン小説スペオペの類いだという印象は最後まで消えなかった。まあ、当方はトレッキーではないので、そのはしゃぎっぷりに辟易してしまったが、同調出来る人には楽しい読み物なんであろう。半世紀前なら編集者が3分の1に削ったような冗長さが、断章形式のおかげで読めるものになっていると云うこともあって、気持ちよく受け入れられているということか。

 なんじゃこりゃと手に取ったのが、『宮内悠介リクエスト! 博奕のアンソロジー』。編者がお題を決めて各作者に執筆を依頼したというテーマ・アンソロジー。森見登美彦のも出ていてそちらは『森見登美彦リクエスト! 美女と竹林』となっている。どうみても「美女と竹林」の方がお題としてはハードルが高いよねえ。
 ということで 宮内悠介リクエストから読み始めると、梓崎優「獅子の街の夜」は、シンガポールを舞台に旦那がギャンプルにふけっている間、妻がたまたま出会った若者を高級レストランの食事に誘い、ある賭け事を持ちかける話。視点は誘われた男の側で進む。いわゆる手際のよい小話で、中々印象的だけれど、話は覚えていてもタイトルはすぐに忘れるタイプ。
 桜庭一樹「人生ってガチャみたいっすね」は、アニメ『君の名は』をひねったような感触をもたらす1編。山田正紀「開城賭博」は江戸城開城は西郷と勝のチンチロリンで決まったというバカSF。山田正紀節絶好調のヒドさ。宮内悠介「杭に縛られて」は救命ボートの定員もの。設定が宮内悠介らしい国際色。星野智幸「小相撲」は、小相撲という勝負の世界に生きようとして賭けをする若い力士の話、のような気がするけれど只のファンタジーかも知れない。藤井大洋「それなんこ?」は奄美大島の賭け事をストレートに紹介した作品だが、そんな賭け事があるかは知らない。作品としては藤井大洋らしい仕上がり。
 日高トモキチ「レオノーラの卵」は古風な調子を持つ大人のおとぎ話。マルケスの有名な短編「エレンディラ」が絡む。軒上泊(けんじょうはく)「人間ごっこ」はタイトルの不気味さを裏切る昭和リアリズム小説。初めて読む作者なので、この文章がどれほどの作為で構成されているのか不明。法月綸太郎「負けた馬がみな貰う」は、馬券を買って連続で負ける事を指示されるヘンなアルバイトの話。競馬の賭けのシステムが法月調で丁寧に解説されている。冲方丁「死相の譜~天保の内訌~」はなんと『天地明察』で得たネタを思わせる江戸時代の囲碁名人位をめぐる因縁話。幻庵因碩が出てくる。
 バラエティと十分な面白さを兼ね備えたアンソロジーとして上出来の部類でしょう。

 対する『森見登美彦リクエスト! 美女と竹林』は、冒頭の阿川せんり「来たりて取れ」がいきなりの百合のろけ話というパンチぶり。その衝撃を、仙台七夕に使われる竹に間違って姫様が入ったものが出荷されたという伊坂幸太郎「竹やぶバーニング」のバディものユーモア・ファンタジーと、細長い竹林にまつわる思い出がホラーっぽい北野勇作「細長い竹林」で読み手を救うが、恩田陸「美女れ竹林」がそのタイトルどおりのムチャぶりで唖然。
 飴村行「東京猫大学」は猫になるための大学の入学式で演説する学長の話。これまた古風なファンタジー。森見登美彦「永日小品」は、作者が子ども時代に祖父の家に親戚一同が集まるなか抜け出して入った竹林でのエピソード。これが集中一番オーソドックスなファンタジー。モリミー文体が味わえる。
 有栖川有栖「竹迷宮」は、語り手が大学時代の友人の竹林がある家を訪ねて、大学時代に二人が付き合っていたことのある女の話をすることで、オーソドックスな美女と竹林の怪談に化ける。京極夏彦「竹取り」も語り手が竹林の中にある家に住む友人を訪ねる話だけれど、語り口も内容も典型的な京極堂ホラーなのが嬉しい。佐藤哲也「竹林の奥」は20ページ改行なしの一人語りという荒技を披露しているが、内容の方もかなりコワい。矢部嵩「美女と竹林」はお題どおりのタイトルだけれど、「美女」は娘の名前、スーパー強盗殺人犯の主人公はひょんなことから強盗先にいた女児を育てることを覚え、幾度か失敗しながら何度目かの「美女」でようやく死なさずに育てられて・・・ って、ひどい話だがノホホンと読めてしまう。
 アンソロジーとしては宮内版がオーソドックスだけれど、モリミーのはお題のシビアさに各作家が繰り出すワザが読みどころといえるかな。

 「ゲンロンSF創作講座」出身と帯に謳われた櫻木みわ『うつくしい繭』は、作者の東南アジア体験を小説として反映して見せたという点では普通に文学的な小説だけれど、装置としてのSF/幻想がその世界に溶け込んでいるかというとまだちょっとした乖離が存在しているように感じられる作品集。
 作品としての仕上がりは4つの中編のどれもが十分な強度を持っていて、読ませる物語になっているんだが、書きたいことと実際に書いてある事との間にわずかな隙間があるような印象がつきまとうので、そこが読み手になんとなく不安を感じさせるのだろう。
 冒頭の「苦い花と甘い花」は東ティモールを舞台にアニータという〈声〉が聞こえる下層階級の女の子の物語。これははじめて読む新人作家の挨拶的作品としては十分に魅力的な1編だ。大森望がキース・ロバーツを引き合いに出したかどうかはわからないけれど。SF読みとしては、SF的なガジェットの扱いが難しいと感じさせるのが、表題作でラオスを舞台に、ちょっとしたきっかけで金持ち相手の一種の浄化トリーメントが行われる秘密施設で働くことになった、訳ありな若い女性の物語。作品のテーマがやや強引なかたちで物語を窮屈にしていて、SF的なガジェットがその印象をさらに強める格好になっている。知り合いから教えられたインドにしかないというガンの特効薬を兄のために買いに来た女性の物語が3番目の「マグネティック・ジャーニー」で、これがテーマの割には集中でいちばん軽い感じで書かれていて、読後も暫くすると忘れてしまいそうだ。結末で日本の小さな離島へ行きたいという想いが綴られるが、巻末の「夏光結晶」は九州・南西諸島の島での物語。内容的には前作とはまったく違う雰囲気の南国幻想譚。妙な生々しさと軽さが同居して、なおかつ表題のまぶしさを確保している1作。

 高山羽根子『居た場所』は『オブジェクタム』と同様長い中編1本と短編二つという組み合わせ。表題作は中国人の妻の生まれ故郷の島とその本土側の街にある彼女が過ごした「地図に載っていない場所」を、彼女と一緒に訪れた夫の視点で物語る話。「タッタ」と呼ばれる謎の食用生物がでてきたりして、あいかわらず一筋縄ではいかない「尻尾だけが見えている」SF的な物語を紡ぎ出している。芥川賞候補作ということだけれど、まあつかまされた尻尾の正体をなんと考えるかで、評価は違ってくるだろう。そういえば妻が何かを吐くというところで、「夏光結晶」の珠を吐くシーンが思い出された。
 短編2編はもはや自在の域である。

 〈白い果実〉三部作も結局1冊目を読んだっきりになってしまったジェフリー・フォード『言葉人形 ジェフリー・フォード短編傑作選』は、短編傑作選と名乗れるだけの充実した短編集だった。
 訳者の谷垣暁美のこの作者への入れ込みようが分かるラインナップで、冒頭の「創造」とそれに続く「ファンタジー作家の助手」を読んだだけで、ファンタジー作家としての実力がよくわかる。「創造」は子どもの空想/現実を否定しない父親の態度を含め、しっかりしたリアリティを醸し出しているし、「ファンタジー作家の助手」はヒネリが効いていて面白い。ということで、収録作13編はどれも読んでいて何の不満もなく作者の手わざがじっくりと味わえる。コメディーもホラーもなんでもござれだが、基本的にはファンタジーを紡ぐ力が宿った物語が書けるということなんだろう。
 短編集の真ん中に置かれた表題作は、作者がいつも車で通る道ばたの家の庭に、もはや庭木に埋もれ字もかすれた「言葉人形博物館」の看板を発見してその家を訪ねる話だが、言葉人形というアイデアが消えゆく世界を一筆書きのようにさらりと見せている。短編集の後半はいわゆるファンタジー世界を舞台にした作品で占められており、巨人族やマンティコアが居る世界での奇妙な話を展開してみせる。

 なんだかSFの目利きが編集部に居るような気がしてきた竹書房文庫だけれど、今度はラヴィ・ティドハー『黒き微睡みの囚人』を出してきた。さすがに邦題のセンスはいかがなものかと躊躇するけれど、ラヴィ・ティドハーなのでまあ読ませるだろうと、早速読み始めた。
 と思ったら、なんとナチスドイツが1933年の選挙で共産党に負けて「大転落」、多くのドイツ人がイギリスに亡命、ヒットラーがウルフと名を変えて私立探偵をやっているという話。物語はウルフの一人称視点で語られているので、すさまじいブラック・コメディと化している。まあ、作者がユダヤ人だし、20世紀の戦争の時代に強いこだわりを持っていることはこれまでの作品から明らかだけれど、しかしここまで虚仮にされる主人公というのは、ヒットラーだから許されるのか。読む分には面白いけれど。
 ナチがらみの私立探偵ものということで、どうしてもフィリップ・カーの「ベルリン三部作」が思い出されるけれど、ラヴィ・ティドハーはもしかしたらそれを参考にしてこの作品を書いたのかも知れない。

 作品を出すペースが急に上がったかのように見える藤井大洋『東京の子 TOKYO NIPPER』は、2020年東京オリンピック後の労働移民大国化した日本で、窮極の産学協働大学教育システムを実現しかけた一種の実業大学を舞台に、帰化ベトナム人の店で働く、パルクールを得意技とした施設育ちの若者の活躍を描いた1作。
 SFというにはほとんど何の飛躍もない話だけれど、これから仕事をして稼がなければならない若者たちと東南アジアからの労働移民の問題を、ある大学の希望的なシステムの功罪を計りながら描いて見せている。そして主人公やその周辺の人々の未来への信頼を映し出す結末は、この作者の十八番といいながら、読後の爽快感をもたらす。ただあまりにもサーっと読めてしまうので、どこかでブレーキが欲しい。

 ノンフィクションは1冊だけ。巽孝之『パラノイドの帝国 アメリカ文学精神史講義』は昨年11月に出た本で、読んだのは12月だったけれど、感想が今回になったもの。
 巽さんアメリカ文学史の話ということで、ちょっとカタいかなと思ったけれど、序章のリチャード・ホフスタッター『アメリカの反知性主義』に関する話がやや難しいのを除けば、後の章はSFファンの巽先生の面目躍如といった感じで、面白く読める。
 例えば第4章「空から死神が降ってくる」では、村上春樹の『海辺のカフカ』とポール・トーマス・アンダーソン監督の映画「マグノリア」の両方に空から魚やいろんなものが大量に降ってくるファフロツキーズ(FAlls FROm The SKIES)現象が出てくることに、脱自然現象と超自然現象の現れを見て、自然と文化ではもう足りないのだという結論を引っ張り出す。そしてこの話の枕はラヴクラフトだったりするのだ。
 ピンチョンやディックそれにギブスンあたりは「パラノイド/陰謀論」で語りやすいけれど、巽さんのパラノイド論理は様々なSFやそうでないものを結び付けて駆け抜けていく。そのスタイルは昔から一貫しているのかもしれない。


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