続・サンタロガ・バリア  (第194回)
津田文夫


 地元市民劇場の役員をしている知人に誘われて、文学座の十八番『女の一生』を見た。『女の一生』といえば杉村春子だが、今回の主役は3代目か4代目の女優による舞台で、『女の一生』を見るのはもちろん初めて。原作はモーパッサンならぬ森本薫という人(誰それというひとのほうが多いだろうな、自分もその一人だ)。
 5幕物で途中休憩が入るという長い話だが、タイトルどおり、日露戦争の頃から終戦までを点描で描いている。基本的に舞台ものには縁が無いので、時折目をつむりながら声だけ聞いていたりしたのだけれど、その耳に驚きをもたらしたのが、毎回幕開き前に時代設定を知らせる年表が映し出されるときのBGM。なんとバッハの無伴奏チェロソナタである。
 めったに聞くことのない大音量で流れる無伴奏チェロソナタ(1幕目は昔TVのCMにも使われていた1番の1曲目)の朗々とした響きに聴き入ってしまう。これだけ大音量だと細かい音が聞こえてチェロの音色に目を閉じて聴いてしまうので、フェイドアウトするのがもったいなくて、かえって観劇がおろそかになるという始末。
 『女の一生』自体はよく出来た話で、別に女でなくてもこの話のテーマはある種の普遍的な人間のあり方を描き出している。なお、プロローグとエピローグは昭和20年の焼け跡が舞台で、これは作者が昭和21年、34才で亡くなる前に付け足したものらしいけれど、現在から見ると無くても良かったかも知れない。

 地元本屋に入らないものを広島の丸善に買い出しに行って、出ていたのを忘れていたことに気がついたのが、コルタサル『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』。6月に出ていた。
 コルタサルの翻訳は大体読んでいるのだけれど、これは長らく未訳だった処女短編集。解説によると1951年に出版されたが、コルタサルが受け取ったのはドル換算で5ドル足らずだったらしい。短編集の原題は「動物寓話集」で同タイトルはこの短編集の最後に入っている。全9編の短編が収録されているが、本としては文庫でわずか200ページ足らず、訳書の標題に入っている「奪われた家」と「天国の扉」この短編集を代表する作品として訳書のタイトルに採用されたものらしい。
 「奪われた家」は10ページほどの短編で、広い屋敷に住む兄妹が、自分たちがいない部屋で怪音が響くたびに、その部屋を放棄していき、ついには家から出てしまうという、それだけの話。普通のホラーなら何があったのか見に行ったりするだろうが、この二人は淡々と部屋を変えていくだけなのである。それだけの話ではあるがコルタサルの幻想性はすでに発動している。
 「天国の扉」はアルゼンチンの街の片隅で、愛する女を失った男の様子を知り合いの医者が報告する形の物語だが、ミロンガ(タンゴなどを踊る場所)の薄暗い人混みの中に男が(医者も)失った女の姿を見るクライマックスは、幻想性とその否定の苦みとが同時に生じて印象的な作品となっている。
 コルタサルの短編は通常のリアリスティックな小説を書いているように見えて、ファンタジーを生じさせてしまうので、最早手垢の付いたマジック・リアリズムという言葉の最初の一撃を思い起こさせてくれる。

 丸善で何冊か買った内のひとつが、ヤロスラフ・オルシャ・Jr.編/平野清美編訳『チェコSF短編小説集』
 『兵士シュベイクの冒険』の作者ヤロスラフ・ハシェクが書いた1912年作のSFショートショートから2000年発表というオンドジェイ・ネフのサタイア作品まで、ほぼ1世紀をカヴァーするアンソロジー。立派な仕事だなあ。
 外国での事故で損傷した体にあれこれ移植された男が帰国しようとして、国境の税関で外国製品は高額関税がかかるとか禁輸品だと言われて立ち往生するサタイアで笑わせるハシェクの「オーストリアの税関」は、このアンソロジーの基調をなす作品になっている。また、オーウェルよりも早く1931年にディストピア長編『再教育された人々―未来の小説』を書き上げたヤン・バルタの、その長編から当時の他のディストピアSFと共通する部分を紹介した1編もまたサタイアである。チャペックやネスヴァドバも喜劇的な風刺劇が選ばれている。
 1969年作というルドヴィーク・ソウチェク「デセプション・ベイの化け物」となるとアメリカSF的な雰囲気が横溢しており、代役宇宙飛行士の地上訓練で行われる寒冷地横断シミュレーションで模擬宇宙人をやっつけたつもりが・・・というもの。76年作のヤロスラフ・ヴァイス「オオカミ男」は一種の医学ホラーサスペンスで、タイトルどおりオオカミに精神を移された男の復讐譚。やや古めかしいけれども読んでいて退屈しない。
 82年作のラジスコフ・クビツのたった2ページのショートショートを挟んで88年作のエヴァ・ハウゼロヴァー「わがアゴニーにて」というノヴェレットから現代SFがはじまる。この作品はバイオサイエンスによるディストピア世界を描いてサイバーパンク的な雰囲気を醸し出しており、またそのテーマも一種のフェミニズムを扱って先鋭的である。89年作パヴェル・コサチーク「クレー射撃にみたてた月旅行」は、なんとバラードの濃縮小説「下り坂カーレースにみたてたジョン・フィッツジェラルド・ケネディ暗殺事件」のパロディ。こちらは原作よりも大分長いが、その分わかりやすく不謹慎さでは原作にも負けていないというシロモノ。驚くね、と思ったら集中一番長いノヴェラ、フランチシェク・ノヴォトニー「ブラッドベリの影」が、そのタイトルから期待される以上の意外な力作だったので、更に驚いた。ブラッドベリの『火星年代記』へのオマージュとしても十分な強度を持っていて、ある種の古風なSFとしてもまた今風のドラマとしても読ませるだけの力がこの作品にはある。
 なかなかエエもん読ましてもらいました。でも、作家の名前が覚えられないよ。

 買い出しついでに地元の本屋になかったH・P・ラヴクラフト『ラヴクラフト全集3』(ようやく間違いに気がついた)を手に入れて読んでみた。
 この全集は1冊ごとに初期作品から晩年の作品が並んでいる構成なので、必ずしもちまたにあふれているクトゥルー神話のイメージに直結しないものが多い。ここに収められた作品群もそういうものだ。クトゥルー神話に出てくる名前をラヴクラフト自身の作品で見つけても、現在すでに消費し尽くされた観のある神話のキャラクターとは大分違うように思える、というかその名前自体にラヴクラフトは大したディテールを付与していない。だからこそ読者に想像の楽しみを与えているわけだ。
 冒頭の「ダゴン」は、10ページ足らずの作品だが、ラヴクラフトの典型的な作風で作られていて、ダゴンを崇拝する者どもが報告される。これって第1次世界大戦の最中の経験を語っていたのだなあ、そこに驚く。やはり短い作品である「家のなかの絵」は愛書狂ラヴクラフトらしい本の挿絵を主題にした1編。語り口は「ダゴン」同様おどろおどろしい。「無名都市」も短いがこちらは一種の砂漠に眠る古代都市もので、作中で言及されるダンセイニにオマージュを捧げている感じがある。話の方は闇の彼方からうごめく怪物どもがやってくるが。
 「潜み棲む恐怖」はよく出来てはいるが、ラヴクラフトとしては同工異曲的な印象が強く、ラヴクラフト自身がお気に入りという「アウトサイダー」の方はあまりにも古典的なので、それほど楽しめなかったけれど、つぎの「戸口にあらわれたもの」あたりからクトゥルー神話の色が濃くなって、ロバート・ブロックに捧げたという「闇をさまようもの」を挟んで巻末のノヴェラ「時間からの影」へとつながる流れはなかなかの迫力だった。「時間からの影」が「ウィアード・テイルズ」誌に蹴られて、1936年の「アスタウンディング」誌に掲載されたということだけれど、骨組みだけなら確かにこれはSFっぽいなあ。
この巻から訳と解説が大瀧啓裕氏ということで、訳文解説とも非常に凝ったものになっている。

 出版からもう1年経つし、ラヴクラフトもある程度読んだし、飛浩隆は読むのが大変でちっとも終わらないし、ということでついに読んでしまったのがロジャー・ゼラズニイ『虚ろなる十月の夜に』。竹書房文庫からというのがいかにもだ。
 いやあ久しぶりに日本語で読むゼラズニイのこの軽さには本当にうれし涙が出る。最初の一行目から「私は番犬(ウォッチドッグ)だ。名前はスナッフ」ということで、語り手は(魔)犬だけれど、ゼラズニイの主人公のいつもの口調だからねえ、好きだなあ、やっぱり。
 19世紀のロンドンの片隅に住むスナッフの(いわゆる)ご主人様はジャック。お仕事は夜な夜な怪しいことをしているようだ。知り合いの魔女気ちがいジルの雌猫グレイモークとは反対勢力同士だけれど仲は悪くない。ほかにもフクロウやコウモリ、ヘビやネズミなど使い魔の動物同士で情報交換している。
 ということで名探偵ホームズ込みで、著名な超自然の有名ホラーキャラクターが10月に集まって、月末に向かって互いに誰が「開く者」または「閉じる者」としての役割を果たしているのか探り合いをしている。何を「開き」「閉じる」のかというところがクトゥルーのひとことでネタバレなんだけれど、まあそんなのはどうでもいいくらい読むのが楽しい。
 森瀬繚氏の訳者あとがきに自分の名前を見るのはビックリだけれど、もはや何を書いたかも忘れているくらい昔の文章を覚えていてくれるというのはゼラズニイの御利益に違いない。せっかく揃えたNESFAのセラズニイ短編全集を死ぬまでには読んでおかないといけないなあ。

 ということで、かなり長く抱え込んだのが飛浩隆『零號琴』。読後思ったのが何かというと、SFマガジンの連載を読んでみようかな、だった。まだ読んでないけど。
 とにかく重い。表紙の旧字体も金黒模様も重いし、話のつくりがメチャメチャ重いし、本自体も重い。このままブラックホール化するんじゃないかと思ったよ。
 連載が思うように行かなくなって、それを納得いくまで抱え込んだら、何年も過ぎていたって、新聞小説がコントロール出来なくなって単行本を出すまで何年もその改訂に費やした森見登美彦を思い出すけれど、そういう作品はとにかくきっちりとしたものになりやすい。それでもモリミーはモリミーだったけれど、飛浩隆はタダでは済まないヒトなのだった。
 その結果、言葉が特に名詞がめちゃくちゃ重くなって、そこに乗っけられる重層性だけで言葉が縮退現象を起こしそうなほどだ。特に「假劇」は、20年以上前のSFコンベンションで飛さんがお気に入りのオペラのCDを畳に並べてコメントしていた姿を覚えているので、ああついに飛浩隆の(スペース・)オペラを完成したんだなあ、と感慨にふけっていたら、そういえばスペース・オペラって絶対的な不可能性をその呼び名に含んでいることに思い至った。スペース/宇宙/真空のオペラ/歌劇/音響は実行不可能だもんなあ。でも真空管の中で音は響かないが、真空管アンプを通して聴くレコード/CDの音は艶っぽい、などという感想も「假劇」という言葉に載せられた重層性の一レイヤーだろう。
 「行ってしまった人たち」が、広大な宇宙空間に後から来た人類たちが使えるように残してくれた光あふれるスペース。そして「假劇」は夜の闇の中で光のページェントとして一大イヴェントと化す。「假劇」は疑似イヴェントでありながら、「疑似」であることにためらいを見せ、真実を暴露してもいるのだが、それは見えないことになっている。
 なにより最大の謎は「零號琴」というタイトルであり、その背後には光と闇がうねり、それは宇宙/世界/心そのものだ。そしてこの本の物語の目的とするところは「零號琴」を破壊しろという命令である。話が重いのも致し方無い。
 ちなみに『零號琴』の琴は十七弦よりも水琴窟の琴に近いと思う。壊しがいが違うよね。

 第5回創元短編SF受賞作をタイトルにした門田充宏『風牙』は、強力な共感能力をもつ若い女性珊瑚を主人公にした短編4作からなる1冊。
 解説の長谷敏司もいうように、こんな書き手を何年も抛っておいたのはもったいない。
 自他の見分けが付かなくなるほど強力な共感能力が電子機械的にコントロール出来るようになって成立したのが、他人の心を映し出すことが出来るインタープリタという仕事。昔風にいえばサイコダイバーなんだけれど、30年以上経ってサイコダイバーもSF的設定として地に着いた説明が出来るようになった。もっともいくらでもファンタジー的なつくりにしようと思えば出来る設定なのだけれど。
 各短編のテーマに共通するのは主人公珊瑚と身近な人物との関わりのなかで、珊瑚の共感能力が使われていること。恩人や親近感を抱いた人や母、父という具合なので、主人公のプレッシャーは大変なもの―もともと共感能力のおかげで人格形成が長らく出来なかったほど―なのだが、この主人公が関西弁なのと同僚が優しい/コミカルであることで、バランスを取っている。
 しかし後半の2編、母と父の話はかなり重く、最後の父の話はこのシリーズの前日談ということもありやや鬱っぽい。それでもエンターテインメントとして充分楽しめるので、もう少し作品を発表するスペースを用意してあげた方が良いんじゃないかと思う。
 


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