内 輪   第333回

大野万紀


 今気がついたのですが、連載回数が3のぞろ目になっていますね。しかし、ほぼ毎月の連載だから、もう30年近く続いているわけか。もっとも初めはオンラインじゃなくて、紙のTHATTAで連載していたのですが。オンラインになってからでも20年なので、われながらよく続けているものだと思います。まあ、惰性といえば惰性なんですけどね。30年分の質量がついていると、その慣性でなかなか止まらずに続いていくわけです。加速がつかないだけマシで、もし加速がついていたなら、今ごろは銀河の彼方まで飛んでいってしまっているかも(いったい何をいっているのやら)。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『プラネタリウムの外側』 早瀬耕 ハヤカワ文庫JA
 『グリフォンズ・ガーデン』から26年ぶりの続編である。北海道大学工学部のとある研究室を舞台に、有機素子コンピューターという独特なデバイスを中心に置き、仮想現実と現実が混淆する5編の連作短編――いずれも恋愛小説だ――から構成されている。前作を読んでいなくても特に問題はないが、登場人物や設定に共通のものがあり、本書が面白いと思ったならぜひ読むべきだろう。少し書き直したという新版が文庫で再刊されている。ぼくもその昔読んだはずだが、腐海に沈んで出てこない。これはぜひ文庫版を買って読み直さなくては。
 というわけで、本書は文句なしの傑作だ。すばらしく知的なラブストーリーであり、チューリング・テストをあっさり突破するような人工知能との会話、意識と記憶のミステリ、合わせ鏡の中に閉じ込められた時間、プラネタリウムに見る天動説、健全な出会い系サイトの運営、研究室の事務処理、リベンジ・ポルノからの救済、普通のデジタルコンピューターとも量子コンピューターとも違う有機素子コンピューターのアーキテクチャ、北大付属植物園の入園料、などなど、たくさんの興味深いエピソードが若い男女の(一部おじさんおばさんも含む)きらきらとした知的で魅力的な会話の中で描かれ、重い内容もあるのに暗くはならず、優しさと切なさに満ちて、読み終わった後、ぼーっと空を見上げながら、いいなあ、とつぶやくような小説である。
 もちろんしっかりとSFである。現実と仮想現実の重なり合うテーマ自体は今となってはありがちといえるだろうが、ディテールはとてもしっかりしていて、確かなリアリティがある。
 だが何よりも、本書は青春の甘酸っぱさと切なさにあふれた、端正で美しい、理系の恋愛小説として読める。読後感はだいぶ違うが、ぼくは森見登美彦の恋愛小説を思い起こした。
 「有機素子ブレードの中」は、最初からコンピューターの仮想現実の中での、ボーイ・ミーツ・ガールの物語として描かれる。ところがそれをプログラムしているはずの現実世界の人物が登場し、次第に二つの世界が混淆してくる。プログラムで設定していない境界領域に人工知能が入り込んだ場合どうなるのか。普通のコンピューターならエラーになるだけだが、有機素子ブレードでは……。
 「月の合わせ鏡」は、昔ビデオアーティストがやっていたパフォーマンスのように、コンピューター内に月まで届くような合わせ鏡を構築したらどんな映像が見られるかというのがテーマ。主人公は美術展に入選したそのパフォーマンスを恋人といっしょに見る。そこに見た想定外の映像とは……。合わせ鏡に映る映像は今の瞬間の姿が同時に映っているわけではない。二つの鏡の間を光が往復する時間だけ、繰り返すごとにしだいに過去の映像となっていく。このことと、人間の記憶、認識とをからめた、奇怪で不思議な物語が展開する。
 「プラネタリウムの外側」は表題作であり、本書の中でもとりわけ読み応えのある作品だ。研究室に新たに入った女子学生の衣理奈は、高校時代の元恋人が自殺した経緯を、本当に自殺だったのか、それとも事故だったのか、有機素子コンピューターの会話プログラムを使って何度もシミュレーションする。コンピューターの中に再現された彼は、しかし仮想なのか、リアルなのか。彼女と彼だけではなく、研究室の他の人物もからんで、ヴァーチャルとリアルはメビウスの輪のように交差し、一つにつながっていく。
 「忘却のワクチン」は、ネットに流出したリベンジ・ポルノの画像を完全に消してもらいたいという相談を受けた衣理奈が、どうやってそれを実現するかという話。ネット上の画像を消して回るというのではない。それを元からなかったことにするというのだ。ここで記録(データ)と記憶(意識・プロセス)の差が重要になる。重いテーマだが、学生たちの瑞々しさがまぶしい。そして北大植物園の入園料も大事な要素となるのだ。
 最後の書き下ろし(ここまでの作品はSFマガジンに掲載されたもの)「夢で会う人々の領分」は、これまでの登場人物が総登場し、衣理奈の卒業旅行につき合う形で、にぎやかに進行する。ここでもリアルな人間だけでなくヴァーチャルな人間もいっしょに、夢のようにシームレスに描かれていく。何とも楽しく、嬉しくなる物語だ。
 こうして本書は一つの結末を迎えるが、これでおしまいということはないだろう。彼ら彼女らともっと共に過ごしたい。もっと色々なエピソードを見たい。読み終わって、ぼーっとしてつぶやくのだ。いいなあ。

『グリフォンズ・ガーデン』 早瀬耕 ハヤカワ文庫JA
 『プラネタリウムの外側』が素晴らしかったので、あらためて文庫版を買って読み直し。昔買ったはずの本は結局見つからなかった。
 この小説が92年の作品とはにわかに信じがたい思いだ。本書もまた『プラネタリウム』と同じく、いやこっちが先だけど、若い男女のラブストーリーが、コンピューターの中に構築された仮想と現実とのはざまに展開する。構成としては、PRIMARY WORLDと名付けられた、現実世界と思われる章と、DUAL WORLDという、仮想世界と思われる章が交互に語られていて、始めのうちは仮想と現実ははっきり別のものとして描かれるのだが、章が進むにつれて、その境界があいまいになる。
 このあたり、仮想と現実の重なり合いは、『プラネタリウム』でもそうだったし、現代のSFやファンタジーとしてはむしろ普通のことだろう。小説というものがガチの現実とは別のものであるからには、二つの世界は読者から見ればほとんど同じレベルにあるのだから。しかし、それをどう納得させるかは作者の腕である。本書では、DUAL WORLDの中で描かれる登場人物の二人の物語が普通にリアルなものであるために、二つの世界の混交も特に違和感はなく、特別な説明を必要としなくても納得させられてしまうのだ。
 本書で現実世界と目されるPRIMARY WORLDでは、主人公の「ぼく」は大学院の修士課程を経て札幌の知能工学研究所(架空のものだが、第五世代コンピューターを目標に82年に現実に設立されたICOTの下部機関とされている。当時を知っている者には、いかにも時代を感じさせる響きがある)に就職する。物語は「ぼく」が恋人の由美子(彼女は北大で言語学の研究室に入ることになった)とともに札幌を訪れるところから始まる。グリフォンの石像があるためにグリフォンズ・ガーデンと呼ばれるそこで、「ぼく」は通常のデジタルコンピューターとは全くアーキテクチャの異なる秘密のバイオコンピューターを使い、その中に仮想世界を構築する。それがDUAL WORLDだ。そこでは東京の大学院生であるもう一人の「ぼく」が、高校時代からの恋人である加奈と二人の生活を暮らしている。そちらの「ぼく」は感覚遮断実験の被験者になるのだが――。
 どちらのレイヤーでも取り立てて大きな事件が起こるわけではない。日々の暮らしが、恋人たちの会話が、ある意味とりとめもなく語られていく。やがて二つのレベルはどこかでねじれ、交わることになるのだが、もしかしたらそれは一番最初からそうだったのかも知れない。「未来においてインプットされた記憶」という言葉が冒頭から出てくる。読み終わってからその意味をじっくりと味わいたくなる。
 しかし、何よりも、ぼくにとって本書の一番の魅力は、『プラネタリウム』と同じく、二つの世界での「ぼく」と恋人との会話であり、その知的な好奇心をそそられる話題の数々だ。いやもう、すばらしい。野暮を承知で、二人の間に混ざって話題に参加したくなってしまう。理系の友人と「真剣なバカ話」をしているときって、まさにこんな感じだったなあ。
 本書には携帯電話も出てこないし、パソコンのモニターはアナログなブラウン管である。確かに90年代初めの小説なのだ。けれど、読んでいて不思議な感覚を感じるところがいくつかあった。まるで現在を予見していたかのような言葉が出てくるのだ。もっとも著者は文庫化にあたって大きく改稿しているということで、もとからあった文章かどうかはわからないのだけれど。もしかしてそれは、本当に「未来においてインプットされた記憶」だったのかも知れない。

『マルドゥック・アノニマス3』 冲方丁 ハヤカワ文庫JA
 シリーズの第3巻。新たな強敵〈クインテット〉に対し、変身して万能の道具となる超ネズミのウフコックが、姿を消し、存在を隠し、ひたすら匿名者(アノニマス)となって敵の内部に潜入し監視を続ける。おぞましい犯罪や悲惨な現実を目の前にしても、じっと沈黙し、見続けなければならない。そのことが、ウフコックの心を次第にむしばんでいく。
 傑作だ。読むのが辛くなるような傑作。とにかく敵がすごい。とりわけ、悪と悪を結びつけ、共感の力で組織化――というか「均一化(イコライズ)」――する〈クインテット〉のボス、ハンターの存在感ときたら。彼が直接暴力をふるうような描写はほとんどないにもかかわらず、その恐ろしいこと。文章を読んでいるだけなのに、底知れぬ「目力」を感じてしまうのだ。
 本書の冒頭、ウフコックは捕らわれている。死を待つばかりの絶望的な状況だ。そして時間がさかのぼり、彼の使い手でありパートナーだったパロットの、卒業式を前にした瑞々しく平和な日常が描かれ、そしてまた主に〈クインテット〉の側から、つまりは潜入監視している姿の見えぬウフコックの視点から、このすでに寄せ集めの犯罪者集団というには強力すぎる、邪悪な悪の怪物たち、ハンターへの宗教的ともいえる共感により均一化し、裏切りすらも許容する鉄壁の集団となった〈クインテット〉とそれに従う犯罪者たちの、マルドゥック市をしだいに覆っていく拡大の日々が描かれる。もちろん正義の側、〈イースターズ・オフィス〉も、ウフコックからの情報をもとに、強力な対抗策を組織していく。だが、本書の半ば以上は、そういった互いの組織の動きを追っていくことに費やされ、恐ろしい暴力描写や残酷シーンはあるものの、このシリーズ最大の特徴であるすさまじい超能力バトルはなかなか出てこない。それが、後半になって、いよいよ両者の激突が始まるや、一挙に全力で全開となる。
 このスピード感と圧倒的な迫力。やっぱり超能力バトルの描写にかけては、作者の力量には抜きんでたものがある。すごいよ。CGを駆使した映画のシーンより、文字で読むだけなのに、どうしてこんなに迫ってくるのか。そして、ウフコックの情報から先手をとって断然優位に立っていたはずの正義の側が、わずかなミスと正義の側であるがゆえの人間的な弱み、さらに敵の強烈な悪の意志の力と執念深さによって、見る間に逆転されていく。その結果は悲惨だ。それが冒頭のシーンへもつながっていく。
 ああ、だけど、何ということか、本書の最後の十数ページで、読者は本当に至福の経験をする。こんなハッピーエンドがあっていいのか(いや、まだ終わっちゃいないけど)と思うくらい、愛と力に満ちた、涙が出るくらいに嬉しい展開だ。もちろん、早く続きが読みたいと思うけれど、いやもうこの10ページで満足だという気持ちもある。これだけで生きていける。嬉しい!

『宇宙に命はあるのか』 小野雅裕 SB新書
 NASAのジェット推進研究所(JPL)に勤め、火星探査ロボットの開発をしている著者が、宇宙開発の隠れた歴史や地球外生命探査の未来について書いた新書である。「人類が旅した一千億分の八」と副題がついているが、これは銀河系の恒星1千億に対し、無人探査機が通り過ぎたものを含めて人類が見て知っている惑星は8個だけということを示している。
 全体は5章にわかれ、1章はジュール・ベルヌからフォン・ブラウン、セルゲイ・コロリョフに至る宇宙開発への夢と現実が描かれる。2章はアポロ計画の話だが、主にその裏方となった人々の活躍が描かれる。アポロの誘導コンピューターのコアメモリ(ROM)はリングと電線で0と1の列を女工さんたちが一針、一針、縫い針で縫って作ったというエピソードが面白い。3章はボエジャーに代表される探査機による太陽系探査の歴史。4章は地球外生命探査で、5章が地球外文明探査の話である。
 全体を通して、著者は宇宙への、未知への想像力、いてもたってもいられなくなる「イマジネーション」というものをとりわけ重視している。本書の内容には知っていたことも多いが、新たな発見も多く、とても面白く読んだ。科学解説書とは思えないような、散文詩というか、詠嘆調の文章が頻出するので、はじめちょっと引いたのだが、そのうち気にならなくなる。というかそれが心地よく響くようになる。それだけ著者の情熱が伝わってくるというわけだ。
 著者はSFにもかなり造詣が深いようだ。ところどころにSF的な用語や概念が出てくる。著者のいう「イマジネーション」はSFの「センス・オブ・ワンダー」に近いものがあり、それが個人を越えて広がっていくのは、ドーキンスのいう「ミーム」だといっていいだろう。人類の一部には、そういうミームが感染しているのかも知れない。かくいうぼくもその一人に違いない。

『隣のずこずこ』 柿村将彦 新潮社
 中断していた日本ファンタジーノベル大賞が2017年に復活し、本書はその最初の受賞作である。94年生まれの著者のデビュー長編であり、帯には、恩田陸「衝撃!」、森見登美彦「陶然!」、萩尾望都「納得!」と選考委員のひと言が書かれている。
 信楽焼の狸(これが「権三郎狸」だ)と中学三年生の主人公はじめを描いた真造圭伍の表紙はほのぼのとして可愛らしく、タイトルからしても、少女の日常に狸の妖怪が現れるといった童話的なユーモア・ファンタジーを想像するのだが、とんでもない。読み進めるうちに心がぞわぞわとしてくるような、不安に満ちたホラー小説である。不条理で謎めいてはいるが、そこには小説世界を統べる明確なルールがあり、ある意味ではSF的といっていいかも知れない。
 関西の田舎にある過疎の村(一応行政的には町だということだが)矢喜原。主人公のはじめはその村に住む女子中学生だ。五月の初め、ゴールデンウィークに、宿題にも手をつけず家でぼーっとしていると、そこへ友人の綾子から電話がある。権三郎狸が来てるみたい、というのだ。権三郎狸というのは、この地方の昔話で、村の人間は誰でも知っている。ある日権三郎狸がやってきて、村の人間をすべて呑み込み、口から火を吐いて村をあとかたも無く焼き払ってしまうというものだ。村の旅館に泊まっているあかりという美女が、その権三郎狸を連れてきたという。行ってみると、それは本当に歩く信楽焼といっていい権三郎狸だった。あかりは「ごめんなさい。でも、もう来ちゃったから、どうしようもないの」という。ちょうど1ヶ月後に、この村の者はみんな狸に呑まれて死に、村も焼き払われてしまうというのだ。
 そして奇妙で不安定な1ヶ月が始まる。物語ははじめの関西弁の一人称で語られるが、驚くことに、この事態を事実として誰も疑わず、しかもほとんどの人が抗うことも無く受け入れているのである。ひとつひとつはごく日常的でリアルでユーモラスな物語なのに、それを重く不気味なベールが覆っている。一月後にみな死んでしまうというのに、主人公を含め、なぜみんなそれを大前提として認めてしまうのか。だが物語はその謎を追究しようとはしない(ある程度の想像はできるのだが)。それは我々が数十年以内には必ず起こるという大震災や大災害を、頭ではわかっていても、あえて何とかしようとはしないのと同じかも知れない。しかし、村人たちの心はしだいに安定を失っていく。毎日高級な焼肉を食べるといった笑い話に近いことから、もっと不気味なことまで。はじめ自身も、友人たちも、明らかに異常な行動をするようになる。本人はそれを真剣におかしいとは感じていないのが怖い。そしてじわじわとクライマックスが迫る。
 本書では権三郎狸が怪獣となって大暴れするようなスペクタクルなシーンは描かれない。しかし、このラストシーンはそれ以上に恐ろしく、そして切ないものである。


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