続・サンタロガ・バリア  (第188回)
津田文夫


 2016年にエマーソン・レイク・アンド・パーマーのエマーソンとレイクが亡くなって、EL&Pももはや伝説的バンドの仲間入りしたのだけれど、エマーソンは生前に自叙伝を出していて、その翻訳は暫く前に紹介したようにちょっと露悪的な書き方がされていて、それを嫌う人もいた。
 一方、グレック・レイクはガンの宣告を受けてから自伝を書いたものの、出版は死後の2017年となり、ハードカバーで出版された。読んだ人の感想をいくつか拾い読みすると、EL&Pのことはよく知らないけれど感動的だったというイギリス在住日本人女性の感想と、新しい情報が何にもないぜと落胆しているロックオヤジ(たぶん白人)の文章があって、やっぱり読んでおこうかと思い、検索したらトレードペイパーバック版が出るというので、アマゾンに予約しておいた。それが先月届いたので早速読んでみた。
 本のタイトルは、“LUCKY MAN THE AUTOBIOGRAPHY" と出来すぎの予定調和なものになっているわけだが、この本の中で本人も書いているとおり、12才でつくった子どもらしい空想的な歌詞の付いたフォークソングが、自らの音楽人生を象徴する1曲となったと考えれば、レイクが死を覚悟したとき‘GOODWILL’(さすがに‘GOD’とは書かない)に帰依しても十分納得がいくというもの。
 ということで、ここにはエマーソンが書いた赤裸々な下品さはほぼ消されている。その手の話題はひとつだけ、アメリカ西海岸での公演時グルーピーの女の子だと思ってホテルにお持ち帰り、女が帰った後でヒモらしき男から「殺してやる」と電話がかかってきてレイクはビビってしまい、現地のプロモーターに相談したら、裏世界に手が回ってあっというまに解決したという笑い話(当時は冷や汗ものだったろうが)があるくらい。
 プロローグは1973年12月17日のEL&Pマディソン・スクエア・ガーデン公演の思い出からはじまる。これがグレッグ・レイクにとってEL&Pとしての頂点を示すものだった。なので、この280ページの自叙伝のうち150ページを占める第2部は、「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」から「ラブ・ビーチ」までのアルバムタイトルにちなんだ章立てになっていて、レイクにとってもEL&Pはこの10年足らずの経験がいかに思い出深かったかを示している。1972年の日本公演には1章をが立てられていて、エマーソンの自伝にも書かれていたことが、レイクの視点で書かれている。
 イギリス人の書く自伝というものの性格なのかどうかわからないけれど、レイクはこの自伝の中で、エマーソンやパーマーがどういう動きをしていたとかどう感じていたかとかに関していっさい書いていない。いわゆる忖度はしないのだ。そして自らの人生の中で輝きが感じられたシーンに集中し、失望させられたことはさらっと書き流す。多くのキング・クリムゾンファンが知りたがった初代クリムゾンの内幕もほとんど書かれていないので、クリムゾン解散はジャイルズ&マクドナルドが帰国したいと云うことで脱退を表明、フリップが新メンバーでバンドを続けることにレイクが反対したことで解散となったことしかわからない。
 アルバムづくりのディテールやバンドとしてのドロドロした人間関係などはほとんど言及がないのでEL&Pファンとしては確かに物足りない。しかし、イングランド南端の街プールで、決して裕福とはいえない家庭に生まれた少年が、ギターを買って貰って、2年あまりプロのバンジョー奏者兼ギタリストに習い(このときロバート・フリップと一緒だった)、学校教育もそこそこでバンドを結成して払い下げの救急車を改造した箱バンでツアーして、メシも食えないような日を過ごしながら、いくつかのバンドを経験した後、ロバート・フリップに再会してキング・クリムゾンを結成、改造救急車の日々から僅か数年で伝説の曲とパフォーマンスそして1枚の怪物アルバムを残して、EL&Pを結成し、その3年後にはマディソン・スクエア・ガーデンで演奏、カリフォルニア・ジャムで大トリを務めていたなんて、「ラッキーマン」以外の何ものでもないではないかと、普通の人であるグレッグ・レイクは回想する。そりゃシンミリもするよなあ。
 あと印象的だったのが、EL&Pのビデオを見るとレイクが釣りをするとってつけたようなシーンが出てくるんだけれど、この自伝によると若い頃から友人とルアー釣りをしていたらしい。演出じゃなかったんだ。

 昨年文庫で翻訳が出たゼラズニイの生前最後に出版された長編は、いまだに読んでいない。大体読んでいる原書もこれだけは読んでない。なぜかというと、クトゥルーだから。
 SFマガジンを読み始めた1970年代初め頃に、クトゥルー特集の短編は読んだし、ハヤカワSF文庫ででたホジスンの『異次元を覗く家』も読んで(楢喜八の画が)怖かったのも覚えているのだけれど、本家にはいかなかった。就職して先輩にSFが好きですと話したら、飲みに行くたびにその先輩がクトゥルー/ラブクラフトはすごいよなあ、と話を振ってくるので、クトゥルーには手を出すまいと決心したのであった。
 とはいえ長年SF読みをやっているとクトゥルーの周辺情報だけは蓄積されてしまい、子供達がゲームに熱中していた頃は、怪物「這い寄る混沌」とかが出てきて、なんじゃいそりゃ、とクトゥルーの浸透度が半端でないことが分かり始めた。そして気がつくとクトゥルーはエンターテインメント界に蔓延していたのであった。
 いつまでも翻訳されたものをほっとくわけにも行かないし仕方がないので、とりあえず創元推理文庫のH・P・ラブクラフト『ラブクラフト全集1』を読んでみた。
 読後の感想は、よく出来た短編集だなあ、というもの。「インスマウスの影」「壁のなかの鼠」「死体安置所」「闇に囁くもの」はそれぞれラブクラフトの作風のバリエーションを示していて、それぞれ怪奇小説、伝奇小説、怪談、コズミック・ホラー というふうに物語の主題や構成の違いがはっきりした短編を選んでいる。おそらくクトゥルーは「インスマウスの影」と「闇に囁くもの」の間で展開されるのだろうなと予想も付く。
 高校ぐらいまでにこれに手を出していたらハマっていたかどうか分からないが、あの頃はブラッドベリの『十月はたそがれの国』が大好きだったから、読んでいれば気に入ったかも知れないな。
 60代で読むと、さすがに短編としての形式的なショッカー効果よりも、語られる内容と雰囲気が強い影響力を発揮しているのだろうと推測するぐらいのことしか出来ない。ただのホラー短編であれば、一度結末を知ってしまえば、ラブクラフトの書き方では再読が不要になるはずだが、感受性が強ければ、その雰囲気と書かれていることそのものに取り憑かれて、何度でもこの世界を味わいたくなるんだろうということは分かる。とりあえず2巻目も読んでみよう。

 ラブクラフトを読んだおかげでちょっとこの手の話の現代版に興味がわいたので、地元の本屋に行ってたまたま見つけたオリン・グレイ&シルヴィア・モレーノ=ガルシア編『FUNGI 菌類小説選集 第Ⅱコロニー』を買って読んでみた。Ⅰの方が昨年話題になっていたのは知っていたけれど、用がなかったので買ってない。
 200ページもない本に12の短編、ということで長くて30ページほど、1編収められた詩は見開き2ページで終わっている。キノコを扱った短編ホラーと云うことで、単調さは免れないかと思ったけれど、それなりにヴァラエティに富んでいた。冒頭のイアン・ロジャーズ「青色のへきれき」がオーソドックスな昔風の怪奇探偵もので面白く読めたこともあるが、総じて長めの短編の方が面白く読める。短い方では手紙形式のポレンス・ブレーク「真菌者への手紙」が一種のユーモア・ホラーで楽しめる。
 しかし一番印象的なのは野村芳夫の訳者あとがきで、徳田秋声の明治44年の作『黴』の内容が菌類小説ではないとしながら、この長編が黴に言及したわずか2カ所を紹介しつつ、映画『マタンゴ』の脚本家木村武に言及し、最後に現在の日本語自体がカビとして蔓延しているのではないかと戦いてみせる。あとがきを読むためにⅠも買ってみよう。

 昨年の読み残し消化シリーズの続きで今回読んだのが、赤野工作『ザ・ビデオ・ゲーム・ウイズ・ノーネーム』
 ビデオ・ゲームをやらない人間が読むにはなかなかの難物で、読み終えるのに時間がかかったが、読後感は悪くない。架空小説ならぬ架空ゲームのレビュー集、それも現在よりは未来に発売されたゲームをさらに未来から振り返るという、形式としてはSFそのものもしくはパロディである。
 語られるゲームの内容はあまりピンとこないが、年寄りだ年寄りだと言い訳しながらの身の上話はオーソドックスなので、その部分はわりとシンプルでありふれたSF的未来の風景になっている。
 まあ、個々のゲーム評の善し悪しはさっぱりわからないが、これだけの量を書き続けて倦まない情熱は素晴らしいといえる。

 もうⅠ冊昨年の積み残しで、その評判からさらっと読めるだろうと思い手を出したのに2週間も抱え込むことになったのが、佐藤究『Ank: a mirroring ape』だ。
 いろいろなエピグラムと短い断章でシーンを重ねて過去と現在を行き来し、読者に登場人物と物語の設定を紹介していく手法は、ページターナーとして読みやすさを保持しているはずなのに、読み始めて数ページで本を閉じてしまう。最初の1週間はそんな状態で100ページまで読み進むのに推進力が続かない。こりゃどうかいなと思い、休日の朝布団に寝転がって一気読みを試みた。「超暴動」というタイトルの3章を読み終えたあたりで、この物語にわがSF心が反応しないことに気がついた、のであとは流し読みになってしまった。
 この小説はSFの題材を扱ってはいるが、SFとして書かれているわけではないのだ。では何かというとパニック小説と云うことになる。パニックを引き起こす原因がSF的なアイデアであり、それに肉付けをする情報も書き込まれているが、それがSFとしてではなくトンデモのほうに傾いているように感じてしまうのは我ながら残念だった。参考資料をみれば、この物語が『2001年宇宙の旅』へのオマージュであることが分かるので、その気分は一入だ。

 早瀬耕『プラネタリウムの外側』は積ん読になる予定だったけれど、『グリフォンズ・ガーデン』が出てから、読む気になったのでそちらから読み始めた。
 26年前の処女作ということだったけれども、物語全体としてのフレッシュさは真空パック状態ともいえる作品になっている。
 四半世紀前の風俗(主に洋楽ヒット曲)やSF的アイデアとしての有機素子コンピュータ上で展開する現実と相似な恋愛ストーリーの進行も古いが、古めかしいわけではない。よく出来た憧れはいつまでたっても可憐なままだ。
 四半世紀後に書かれた続編の方は前作の世界を踏襲しながらも、その時間の分だけの変化はあって、デビュー当時の作者の憧れは、ここでは題材として見られる視点から眺められている。基本的には疲れているんだけれど、それでも「奇跡の時代はまだ終わったわけではない」とでもいいたげな風情があって、それは正続という形で読まなければ得られない感想だろう。

 今回読んだなかでは最短の日数で読み終えた藤田祥平『手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ』は、まったくSFではないけれど、ゲームに熱中した少年の自伝的作品として見事に古典的な作品となっていた。まあ、作者自ら作中で自分は古典派に転向したと云っているけれどね。
 赤野工作もそうなのかも知れないが、これはゲームが成人するまでの人生経験として蓄積された世代が、ついに文学的表現としての自己表出に成功しつつあると感じさせる、最初期のマスターピースだと思われる。
 この作品でのゲームは、形式的に見ると他のアイテムと互換可能であるが、しかしこのゲームには作者の実存がかかっている(って古い言い方だなあ)。図式化してしまえばプロットは百年一日の如き、一人称で書かれた私小説風成長小説にすぎず、題材がSFゲームと目新しいだけで、いわゆる凡百の小説と変わるところがない。しかしここには強靱な意志を感じさせる文体があり、それが作品を古典的なものに感じさせる。
 好き嫌いはともかく立派な作品であることは間違いない。 

 地元でのロケが話題になっていた映画『孤狼の血』を地元のオンボロ映画館に見に行ったら、70代とおぼしきオバちゃんたちが沢山見に来ていてビックリ。
 映画はヤクザみたいなベテラン刑事と大学出の新人コンビが暴力団抗争のまっただ中でドタバタする話だけれど、映画のシリアスな雰囲気にもかかわらず、あまりにも見慣れた風景に思わず笑ってしまい、クライマックスの殺戮シーンで使われたホテルが、当方が現役時代に何十回となく行き、現在も年1回は行くところなので、首チョン血ドバーの凄惨な場面が強固なリアリティの前にギャグシーン化してしまうと云う体たらく。オバちゃんたちが楽しく見てるのも納得の1本であった。
 あー、映画のタイトル『孤狼の血』は孤狼であっても「血」は受け継がれるという意味でした。


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