続・サンタロガ・バリア  (第185回)
津田文夫


 ようやく暖かい日が続くようになって、なんだかうれしいけれど、今回は前置きもなく、読書感想文が続きます。

 昨年10月くらいから少し読んでは読む気が失せて、おかしいなそんなはずはないのになあ、と首をかしげながら5ヶ月近く抱え込んだのが、池上永一『ヒストリア』。『レキオス』以来池上作品は常にページターナーだったのに、一体これは何だったのだろう。
 沖縄戦末期、米軍の砲弾の嵐に襲われて家族が全滅、一人残った女の子はマブイ(魂)を落とした。彼女は砲弾の嵐の夢に襲われつつ、米軍相手に占領下沖縄をたくましく生き延びるも、ついに沖縄に愛想を尽かし、マブイを落としたまま、南米ボリビアに向かう。 表紙には闇の黒を背に炎とも見える赤い花に包まれたチェ・ゲバラが描かれている。てっきり、このヒロインとゲバラがからむ話がメインストーリーかと思ってしまうが、さにあらず。腰巻きに謳われているように、これは「南米を生き抜いた女性の波乱の一代記」なのだ。チェ・ゲバラは彼女の物語のなかの、大きいけれども一エピソードに過ぎない。
 ヒロインは物語の中でキューバを含め南米を動き回るが、舞台の中心は戦後ボリビアの日系人植民地である。作者は相当ボリビアに入れ込んだらしく、何かというとボリビア蘊蓄を披露するのだが、それ自体は嫌みでも何でも無く、率直に感心するところだ。そしてヒロインは池上印のスーパーヒロインで、彼女に味方するメンバーも池上印のスーパーパワーの持ち主だ。基本はコメディタッチの波瀾万丈である。
 では何が、この物語のリーダビリティを脱臼させているのか。おそらくそれは、沖縄だ。ヒロインはマブイを落としたことにより二つの魂に別れ、物語のクライマックスは、この二つの魂の物語へと変化していく。そのキイは、砲弾の嵐に襲われた沖縄の記憶を詠った詩で、何度も何度もヒロインの胸中に湧き上がってくる。そうして600ページを波瀾万丈についやしたヒロインが日本となった沖縄を見て、最後の一行が万感の思いとともに吐き出される。そのセリフは現代においてはあまりにも軽くなってしまった言葉だが、池上永一は、この1行のために600ページの波瀾万丈をこしらえたのだ。
 よって、この物語の通奏低音は暗く重く、その聞こえるか聞こえないかで流れる響きが、読む者を警戒させる。池上エンターテインメントとしては、これまでで一番ギクシャクしていると思われるが、作者としては書かずにはいられなかったこともよく分かる作品となっている。
 これを抱えている間、ボリビアが頭にセットされていて、前回パク・キュヒが弾いた曲の紹介で、バリオスをボリビア出身て書いちゃったよ。バリオスはパラグアイの人です。

 池上作品のあとでは、とりあえずサーッと読めそうなアンディ・ウィアー『アルテミス』上・下に手を出す。
 確かにサーッと読めたけれど、これはヤングアダルトな1冊で、主人公の女の子は26才と云っているけれど、思考と行動はどう見てもティーンズとしか思えない。悪人も限定的にしか出てこないし、基本的にみんなヒロインを応援しているわけで、読んでる方もつられて気持ちがいいが、常にツッコミは入れざるを得ない。
 ハードSFとしては期待に違わぬディテールがうれしいが、前作ほどの驚きはない。まあ、なんといっても月だからねえ。火星ほどのヴァラエティはつくりにくい舞台ではある。

 第5回ハヤカワSFコンテスト最終候補作という藍内友紀『星を墜とすボクに降る、ましろの雨』は、タイトル通り、星(隕石)を撃ち墜として地球を守るボクっ娘が主人公のラノベタイプ。他の受賞・候補作と違って一般読者には用のない書き方がされている作品ではあるけれど、説得力に欠ける舞台設定や揺れまくるボクっ娘や、取り巻き人物の不安定さにもかかわらず、読み終えたあとでは、作者が書きたいと思ったであろう想いが、叙情としてそれなりに醸し出されているので、悪くはない。

 いまどき珍しい愚作中の愚作が、エラン・マスタイ『時空のゆりかご』で、アイデア的にはオキシタケヒコの廃棄未来(捨環戦)と同じなんだけれども、作者に自覚がないため語り手がどうしようもないアホウになってしまっている。
 作品自体は全く読む必要が無いが、訳者あとがきは必読。たぶん浅倉さんが書いていたように覚えているけれど、ホメようのない作品の訳者あとがきを書く羽目になったときは、ひたすら作品や作者にまつわるデータをならべてその責めを果たすようにする、と。その典型がこの訳者あとがきに見える。頻出する「だそうだ。」「という。」という語尾の冷たさ。これは芸ですね(立ち読み禁止!)。

 第7回創元SF短編賞受賞作「吉田同名」が印象的だった石川宗生『半分世界』はデビュー短編集で、表題作と「白黒ダービー」、「バス停夜想曲、あるいはロッタリー」それに「吉田同名」の4編からなる。
 「吉田同名」と表題作のアイデアからは、初期の筒井康隆を思い浮かべてしまうのは仕方が無いことだが、アイデアの展開方向は筒井康隆と違って攻撃的なサタイアが入って居らず、奇想がギャグではなくてリアリズムに向かう。
 「白黒ダービー」も奇想小説の寓話的な性格を強く醸しているけれども、何の寓話かはこの作者にとって重要ではないように見える。
 書き下ろしという「バス停夜想曲、あるいはロッタリー」は長い中編で、どことも知れない場所にあるバス停を舞台に短いエピソードが延々と語られ重なり合って、とてもいまの日本で書かれる物語には見えないような無国籍性の小説世界が現出している。
 宮内悠介といい石川宗生といいアメリカ体験やその他の外国体験を通した上で小説を作る若い作家にはなにか共通点があるのだろうか。
 「諸君、脱帽の用意を」―飛浩隆・・・確かにねえ。

 読むのが久しぶりのような感じがする松崎有理『架空論文投稿計画 あらゆる意味ででっちあげられた数章』は、作者が趣味ででっち上げた実にクダラナイ科学論文を、なんとか物語に組み込めないかとアタマを絞った結果、出来上がったかのように見える1作。
 科学論文の査読システムが機能していない疑いを晴らすために、ニセ論文を査読付き学会誌に送り続けるだけの話なんだが、この実験を主催する小松崎ユーリと作者の分身である、グータラだけど面白いことなタメなら努力を惜しまない、リケジョ作家松崎有理との掛け合い漫才も面白く、「論文警察」なるモリミー作品に出てきそうな秘密組織に主人公が捕まったり、ドタバタを含め結構笑えて楽しい。

 続けて読んだ 松崎有理『5まで数える』の方は、この作者が小説家としての底力を発揮した短編集だった。
 冒頭の「たとえわれ命死ぬとも」は、科学者が自分自身を人体実験に使うしかない世界で不治の病のワクチンを開発する話。2番目の「やつはアル・クシガイだ 疑似科学バスターズ」はユーモラスだが、バスターズ壊滅に至るホラー。その次の「バスターズ・ライジング」は標題どおり「疑似科学バスターズ」が結成された経緯を描く。4番目の「砂漠」は、搬送中に輸送機が砂漠に墜落、死体1体を含む6人の死刑囚がひと繋がりにされて砂漠をさまよう話。強烈なサスペンスで、『ジャック・グラス伝』の第1部を思い出すような出来。
 と、ここまでの作品中「バスターズ・ライジング」を除いて、どれも皆殺しの詩になっているわけだけれど、後味は全然悪くないという不思議な物語になっている。作者に徳があるせいかしら。
 そして5番目の表題作は、5まで数えられない事を秘密にしながら、不安な毎日を過ごす少年が、ある日幽霊のような老数学者に出会って数学概念を学び、5まで数えられないことの理由を知ることで、新しい世界を獲得する話。見事な短編で、どこかで賞をもらっていても不思議はない出来。
 最後の「超耐水性日焼け止め開発の顛末」は、企業PR(ネット?)誌掲載の短い話で、化粧品メーカー企業内研究者の生態を、吸血鬼オチでさらりと書いた1作。
「バスターズ・ライジング」、「砂漠」それに表題作が書き下ろしと云うこともあって、この短編集を読んで松崎有理に書かせようという雑誌編集者が増えると良いなあ。

 愚作を読んだおかげで、積ん読だったオキシタケヒコ『筐底のエルピス5―迷い子たちの一歩―』を読む。
 副題からも分かるとおり、今作は捨環戦を生き延びた叶が存在する、廃棄未来の2年前を舞台に、これまでの登場人物がみんな揃い、話全体がこれからの物語のウォーミング・アップ篇。まあ読者にとってもそれくらいがちょうどいい感じで、楽しく読める。

 最近読んだノンフィクションは講談社の新書ばかり3冊。

 NHKの番組を見て興味を持ったのが、ブルーバックスの山崎晴雄・久保純子『日本列島100万年史 大地に刻まれた壮大な物語』
 序章に当たる第1章でまず日本列島ができる原因である大陸プレートと海洋プレートの動きを地球全体を眺めながら語ったのち、1500万年前ころまでに大陸から分離して日本列島の原型が出来、それから1000万年ほど安定していたが、300万年ほど前から日本列島付近に強い圧縮力がかかって、日本列島は折れ曲がり、100万年くらい前から本州に後に伊豆半島になる島が激突しはじめた。こうして現在の日本列島の形が出来上がった・・・ということで、現在の日本列島ができてからの歴史なので、100万年史というわけ。
 本編は日本列島を北海道・東北・・・と8エリアに分けて、各エリアで特徴的な地形形成を取り上げて、どうしてそのような形となるのかを説明している。この各エリアでの地形説明はそれぞれ面白いし、自分のいる街の目の前にある瀬戸内海が、2万年前の最終氷期には干上がって、そこへ中国地方の山陽側の各地にある何本かの川が流れ込んで大きな川を形成、平野となった瀬戸内海を豊後水道に向かって流れていた、などという図の中にわが町の川を発見して喜んだりできる。15年ほど前に、地元の島の考古学調査で2万年前の旧石器の鏃が大量に見つかったとき、先生が当時の人間がここで石器をつくり平野を走る動物を見つけて狩りをしていたという話をしていたが、改めて納得してしまったよ。
 ということで面白いんだけれども、NHK番組を見たとき感心していた日本列島全体の成り立ちの動きに関する記述は思ったよりページ数が少なく、もうちょっとそちらも書いてあったら良かったのにと贅沢な不満を感じてしまった。、ま、そういうヤツは参考文献を読みなさいということなんだけれど。

 同じくブルーバックスの川端裕人著海部陽介監修『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』は、全世界を駆け巡るスケールのおおきな欧米の古代型人類学入門書と違って、監修者である海部陽介の研究を中心として取材した東南アジアの古代型人類学の現況とタイトルにある本題の考察というある意味地味な内容である。
 しかし科学系作家である作者の資質も手伝って、叙述は興味深く、SFファンにはとても魅力的な本題の考察を楽しみに最後まで読み進められる。残念ながらその考察はまだ具体性を得られるところまで行っていないというのが結論であるが、ここで紹介された多様な「人類」がなぜ生き残れなかったかについては、SFファンとしてはどうしても、「それはモノリスに触れなかったから!」というツッコミを入れたくなる。アホですね。

 最後は同じ講談社でも現代新書で、井上寿一『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』。まあ「戦争調査会」やその調査結果文書については、刊本が出たとはいえ、大した関心を引くこともなく、マスコミでもほとんど取り上げられていないので、その点では大いに評価すべき1冊ではある。
 腰巻きの惹句にもあるように、終戦後の昭和20年11月に幣原喜重郎が首相として肝いりで立ち上げたのが、敗戦に至った経緯を検証しようという国家プロジェクト「戦争調査会」で、敗戦をあらゆる角度から検証するために、陸海軍の高級軍人へのインタビューを含め徹底的に進めようと、幣原が退陣した後も頑張ったが、結局対日理事会メンバーの懸念が災いしてGHQから解散を命じられたもの。その間僅か1年弱。しかし、中途半端とはいえ解散されるまでにかなりの報告書が作成されており、それらは現在全15巻本としてまとめて刊行されている。
 著者の主張は、この資料はたとえ中断されたものとはいえ、貴重な情報の集積であり、これを昭和戦時期の歴史学的解明に役立てない方はないというもの。ということで、本書の前半は「戦争調査会」がどういうもので、どういう人達がかかわり、どういう経緯をたどって、結局解散に追い込まれたかに費やされている。そして後半で「戦争調査会」資料(主に当事者インタビュー)を使って、これまでの開戦への流れとポツダム宣言受諾までを追っていく。
 ここでは、そのときそのときの歴史の曲がり角に合わせて、様々なインタビュー資料や調査報告書が引用されていて大変興味深いが、残念ながら、これまでの戦時期の歴史解釈がひっくり返るような意味での驚きや興奮というところまでは結びついていないように思える。でも新しい資料の紹介は大事なことであるには変わりない。


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