デイヴィッド・ブリン/酒井昭伸訳
 『ガイア』 解説

 大野万紀

 ハヤカワ文庫SF
 平成8年2月29日発行
 (株)早川書房
EARTH by David Brin (1990)
ISBN4-15-01131-6 C0197(上)
ISBN4-15-01132-4 C0197(下)


 本書はディヴィッド・ブリンの一九九〇年の長篇、Earth の全訳である。
 ブリンといえば、『スタータイド・ライジング』や八八年度ヒューゴー賞受賞作の『知性化戦争』でおなじみの、現代アメリカSFを代表する人気作家である。ただし、本書はそういった現代スペース・オペラとは少し趣が異なり、今からわずか五十年後の近未来を舞台に、地球環境問題をリアルなタッチで描いた作品である。多くの批評家、読者から絶賛され、九一年度ヒューゴー賞長篇部門の第二席に輝いた。
 地球環境問題? 何だか暗くてうっとおしい話になりそうだなあって?
 いえいえ、心配ご無用。あのとんでもなく面白い『知性化戦争』を書いたブリンが、そんな月並みなディストピア・ストーリーを書くわけがないじゃないですか。本書はこれまで書かれた中で、最も希望に満ちて、最も心ときめく〈地球環境問題〉テーマのSFなのである。

 というわけで、地球環境問題だ。
 人々の考え方に大きな影響を与えた一枚の写真というのがある。
 アポロ宇宙船が月軌道から撮影した、暗い宇宙に浮かぶちっぽけな青い丸い地球。あの写真によって、地球という惑星が、具体的な手に触れられる存在として人々の脳裏に刻みつけられたのは、もう四半世紀も前のことだった。それは、かなりの人々に、地球を何となくひ弱げな小さなものとして印象づける一方、逆に人間の活動をそれに匹敵するような大きなものとしてとらえさせたのではないだろうか。身近で深刻な公害や汚染の問題として始まったエコロジーの問題が、近年はよりグローバルに〈地球環境問題〉としてクローズアップされている。その背景には、あの写真が一役かっているのではないかと思う。
 エコロジーという言葉も、考えてみればずいぶんと手あかにまみれた言葉だ。大気の温暖化、オゾン層破壊、砂漠化、種の絶滅……しかし、決して真面目に取り組んでいる人たちを茶化すつもりはないのだが、問題の重要さにもかかわらず、地球環境保護などという言葉には、どことなく矛盾したものを感じてしまう。「地球にやさしい」なんてキャッチフレーズはその最たるものだが、地球というのは、人間がやさしく保護してやらなければならない、そんなにやわなものだろうか? こういう思い上がった言葉がでてくるのも、あの写真の影響なのかも知れないが、ほんのわずかな大気や大地の動きで右往左往しなければならないわれわれ人間は、もっと地球に対して謙虚になるべきだと思う。思い出すのも忌まわしい大震災といえども、大地にとっては何ほどのこともない身震いにすぎないのだ。地球環境というときの環境とは、あくまでもその上で生きる人間にとっての環境である。地球にとってはオゾン層に穴があこうが、北極の氷が溶けようが、大したことではないのだ。世界中の人間が作り出すエネルギーなんて、大体大きい火山が一つ噴火したら、おつりがくる程度のものなのだから。
 とはいえ、こと人間にとっては、事態は深刻になり、また複雑になるばかりである。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』から三十年以上たっても、「『沈黙の春』は沈黙していない」のだ。有毒物質をたれ流すようなあからさまな犯罪行為は減ったかも知れない。でも、人々の生活のための普通の行為が、人類の生存にマイナスとなるというような、そういうややこしい問題が重要になってきている。

 地球が一つの生命体であるというジェイムズ・ラヴロックの「ガイア仮説」は、このような意識の高まりの中で広く受け入れられたといえる。これは本書の中でも特に重要なテーマとなっている。地球の恒常性を、大地、海、大気と、そこにすむ生物との、様々なレベルのフィードバックが一体化したものとしてとらえるラヴロックの説は、地球が(比喩的にではなく)本当に生きているといえるのかという点を除けば、科学的にも納得のいくものだ。これはまた、SF的に見ても大変魅力的な仮説となっている。もっとも、手塚治虫の『火の鳥』を読んで育った日本の読者にとっては、ガイア仮説なんて、何をいまさらといえるかも知れないが。
 本書でブリンは、ガイア仮説が人々の日常の意識にまで影響を及ぼしているさまを描いている。それは全くの宗教として〈地球の女神〉を崇拝するところから、単なる科学的比喩としてとらえるところまでの幅を持っているが、それでもこの時代の人々にとってガイアは時代精神、あるいは象徴となっているのである。問題は、この時、人間はいったいどういう位置づけになるのかということだ。人類は果たしてガイアの癌細胞なのだろうか、それともガイアの脳細胞となるのだろうか? 前者だと思う人々は、人口を減らし文明を止めることが地球を救うことになると考える(考えるだけなら自由だが、それを実行に移そうとする奴まで登場する)。後者だと思う人々は、人類の存続が地球の進化にかなうと考える。ブリンはもちろん、後者の立場である。これは従来の単純な人間中心主義ではなく、地球上のすべての生命・非生命を含めたシステム全体の中で、人間の存在意義を認めようとするものだ。本書がとても希望に満ちた、心強いハッピーなSFだというゆえんである。

 エコロジーをテーマとするSFはこれまでも数多く書かれてきた。もっともその多くは人口爆発や食料問題がテーマになっていて、強権的な政治体制が人々を抑圧する近未来のディストピアを描いている。酸性雨の降りしきる人口過密な未来都市を描くサイバーパンクSFもその中に含まれるかも知れない。中には読者に警鐘を鳴らし、環境と共生する生き方を推賞するものもあるが、多くはそういう暗い未来像をあきらめと共に受け入れている。地球を捨てて宇宙へ進出することで問題が解決できる(少なくとも回避できる)とするものもある。地球の大きさに人類があわなくなったのが地球環境問題の原因だから、人類の方が広い宇宙へ出て行けばいいというものだ。しかしこれは問題を先送りしているだけだといえるだろう。破局の後にオルターナティブ・テクノロジーの社会ができるというものもあるが、その生活はあまり魅力的には見えない。
 結局、地球環境問題そのものに正面から取り組んだ作品は、意外に少ないというのが現状だ。もちろんないわけではなく、はっきりとメインテーマとしたものもある。その中で、最も印象に残っているのはジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「エイン博士の最後の飛行」である。ここでは、地球環境を守るということが本質的にアンチ・ヒューマンなものであることが述べられていて、読者に衝撃を与える。同じティプトリーの「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか」には、きわめてエコロジー的な未来社会が描かれているが、それはある悲劇の上に成り立っている。

 複雑化する地球環境問題に対して、おそらくすっきりした解決策などというものは存在しないのだろう。人類が生き延びるためには、色々と妥協を重ねながら、少しずつ地道に意識と生活と社会のしくみを変えて行かなければならないのだろう。そこで重要な役割を果たすのは〈情報〉と〈コミュニケーション〉ではないだろうか。一枚の写真が人々に「かけがえのない地球」を意識させたように、正確で具体的で多様な観点からの情報は、世界を変えうる。それはソ連・東欧の崩壊でも明らかになったことだ。本書でブリンは、そのような観点から地球的なコンピュータ・ネットワークとそこでの活動を描いている。
 もちろんグローバルな〈情報ネットワーク〉があればすぐに問題が解決するなどということは実際には有り得ないだろう。多様化よりも、画一化の方にそれは働きがちだからだ。一方的な価値観の押しつけは問題を解決しないし、科学的、あるいは実際的な価値判断よりも感情で世界が動かされるようなことになっては大変だ。もっとも本書を始め、多くのSFでは、国家や民族の枠を超えたグローバルな直接民主主義を支えるツールとして、理想的なコンピュータ・ネットワークが語られる傾向がある。それは教育と報道と意見交換と娯楽の機能をもち、特定の政府や個人には規制されない。本書でもそのようなネットワークが重要な役割を果たす。本書でのそれは、サイバーパンクSFとは違って、あくまでもリアルワールドの延長として存在するものである(もっとも本書ではそれが最後にはよりSF的な役割を果たすのだが……それは読んでのお楽しみ)。つけ加えるなら、ブリン自身、熱心なネットワーカーであり、古くからのネットワーク市民なのだ。

 本書に描かれた五十年後の世界でも、状況は今と大きく変わってはいない。世界の人口は百億に達した。飢えと貧困に苦しむ大勢の人々がいる一方で、コンピュータ・ネットワークが世界を覆っている。オゾン層の破壊により、日中に何の防護もなく外出するのは皮膚癌をまねく行為だ。温室効果で極地の氷は溶け始め、水位が上昇している。低地の人々はボートピープルとなり、それがそのまま難民の海上国家となっている。それにしても、なんとか人類と文明は生き延びているのだ。だが、あらゆる努力はプラトーに達し、これ以上の改善は望めそうもない。宇宙に進出しようにも、経済がそれを許さない。手詰まり状態。さらに追い打ちをかけるように、人工のマイクロ・ブラックホール(正確にいえば、安定した超微細コズミック・ストリング)が地球内部に落ち込み、地球を内から食いつくそうとする。主人公たちは、政府ではなく民間の力によって、この危機に立ち向かおうとするが……。
 前半の比較的地味なストーリーに比べ、後半のこれでもかというばかりのSF的な展開には誰しも目を見張るだろう。超科学兵器による戦いに、ジェイムズ・P・ホーガンの『創世紀機械』を思わせるところもある。そして豊かなユーモア感覚。『知性化戦争』でもそうだったが、ブリンの作風にはどこか日本人に親しみやすいところがある。本人に会った人の話によれば、親日家で日本の読者も意識しているとのことだ。ガイア仮説の扱い方にしてもそうだが、結末での〈龍虎の戦い〉のシーンとか、マオリ人の年老いた巫女さんが神話的な隠喩を科学的事実と混交させるところ、それに最後の結末の余韻など、わが小松左京のいくつかの作品を思い出した。イースター島に不時着した動かないスペースシャトルを、一生懸命に愛情をこめて整備するヒロインに、日本アニメの元気なヒロインの姿を見たりして――まあこれはさすがに考えすぎだろうけれど。
 考えすぎついでにいえば、本書で最大の悪役をやっているデイジーだが、もしかしてラヴロックのガイア仮説に出てくる〈デイジーワールド〉と関係があるのではないだろうか。〈デイジーワールド〉は非常に単純化されたガイア仮説のモデルで、わずか数種類のデイジー(ヒナギク)が地球環境を安定化させるというものだ。もしデイジーが成功していれば、そういう単調でつまらない地球が実現していたのかも知れない。

 さて、本書は地球環境問題に何か新たな解決策を見いだしたのだろうか? すっきりした単純な解決策という意味では、実は何も具体的な案を提示しているわけではない。本書の結末にしても、楽観的といえばこれほど楽観的でハッピーな結末はないとさえいえるのだが、逆に考えれば、人々の地道な努力を無視しているわけで、それをこの問題への悲観的結論と見ることだって可能なのである。もちろん本書はSFであって、未来予測や環境問題への提言ではないのだ。それでも解決への方向性としては、いくつか示されている。それは先に述べたネットワークによる情報公開であったり、作中で非常に重視されている教育の問題であったり、動物まで含める新しい倫理感の確立であったりする。ジェンが生徒に教える「競争と共生」というキーワードも重要だ。プリゴジン流の、渾沌からの秩序の自己形成という概念も、何度も言及されている。
 しかし、SFとしての本書の最大のテーマは、個々の具体的な方策よりも、「地球の進化にとって人類とは何か」とか、「人類はこの宇宙の中で一体何のために存在するのか」といった根元的な問題を考えることにあったといえる。後半で、いくぶん気恥ずかしくなるぐらいに、なつかしいSF的イメージが噴出するのもそのためだろう。本書は、同じ著者の『ポストマン』と同じく、一つの神話として読むのがいいのだろう。五十年後という近未来を描きながら、本書には宇宙における人類の存在意義を見ようとする、クラークや小松左京、そして手塚治虫と同じような、遠未来SFの眼差しがあるのである。それは本格SFの味わいといっていい。
 本書には数多くの欠点がある。無駄な枝葉が多いとか、人物の造形がなってないとか、あちらの書評でもさんざん指摘されている。でもそんなことより、この本格SFの醍醐味を、結末の後の余韻を味わうことが、ひょっとしたら地球環境について考える上でも重要なのではないだろうか。

 作者ディヴィッド・ブリンは、一九五〇年生まれのアメリカ作家。カリフォルニア工科大学で天体物理学と歴史学を学び、さらにカリフォルニア大学サンディエゴ校で天体物理の博士号を取得。NASAにも関係していたことのある科学者作家である。長篇では〈知性化〉シリーズである『サンダイバー』『スタータイド・ライジング』『知性化戦争』と、単発の『プラクティス・エフェクト』及び『ポストマン』が訳されている。他にベンフォードとの合作で『彗星の核へ』も翻訳がある(いずれもハヤカワ文庫)。
 ブライアン・オールディスとディヴィッド・ウィングローブはSF評論書『一兆年の宴』の中でブリンについて次のように書いている。「ディヴィッド・ブリンの文体は、ベアやスターリングよりも明るい、くだけた口語体である。彼の作品はよりチャーミングで、人間的だが、思弁の冒険性という点では劣るかもしれない。にもかかわらず、ブリンはアイデアの作家であり、パングボーンのような旧時代の作家と同日に語ることはできない。…『スタータイド・ライジング』は、ヴァーリイの『ミレニアム』やアシモフの『夜明けのロボット』など、人気の高い強敵をさしおいて、ヒューゴー賞とネビュラ賞を獲得した。あらゆる点から見て、ブリンは八〇年代後半のベストセラー作家になりそうだ。…ブリンの小説はきわめておもしろい読物であり、しかもこの表現につきまとう軽蔑的な意味があてはまらない」(浅倉久志訳)
 さて、文庫化にあたって、ブリンの近況をわかる範囲で記しておこう。本書の後、ブリンは九三年に単発の長編 Glory Season を出した。これはフェミニズムを意識した宇宙SFで、クローン技術が発達した女性優位主義の植民惑星に生まれたヒロインが、外の世界からやってきた宇宙船の乗員と知り合い、様々な冒険を通じて成長する、といった物語らしい。九四年には科学エッセイと小説を集めた二冊目の短編集 Otherness を出版した。そして、九五年には、大勢のファンが首を長くして待ち望んでいた〈知性化戦争〉シリーズの最新作 Brightness Reef が出た。これは新たな三部作の第一部にあたる作品で、太古に大文明が栄えたが、今は列強が封鎖している惑星が舞台。ところがここには、人類や他の種族が列強の監視を逃れて、何世紀も前からこっそりと非合法の植民をしていたのだ。そこへ、謎の宇宙船が現れる。ついに彼らは発見されてしまったのか、それとも……。例によってハードなアイデアがいっぱいで、ユーモアと冒険に満ちた物語のようだ。これは期待して間違いないだろう。また、最新の情報によると、ブリンは故アイザック・アシモフの〈銀河帝国興亡史〉の続編を書くプロジェクトに参加することが決まったらしい。他にはグレッグ・ベアとグレゴリイ・ベンフォードの名が上がっている。実際に書かれるのはだいぶ先のことになりそうだが、現代ハードSFを代表する三人のB――ブリン、ベア、ベンフォード――が執筆するということで、これまた大いに期待される計画だ。

1992年8月
1996年1月(文庫化による改稿)


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