林譲治 『記憶汚染』 解説

 大野万紀

 
 ハヤカワ文庫
 2003年10月31日発行
 (株)早川書房
 ISBN4-15-030740-7 C0193


 わたしは一体誰なのか?
 わたしは、わたしだ。その通り。でも、それを保証するものは? 自分の記憶? 家族や知人の証言? 戸籍? 免許証? 保険証? これからは住民基本コードがわたしを保証してくれるのか?
 アイデンティティの問題というのは、昔から文学や哲学の重要な問題であるのだが、最近はそれが技術の問題にもなってきた。要点は二つあって、一つは「わたし」を識別するキー、つまり個人認証とセキュリティの問題。もう一つはそれによって認証される「わたし」の中身、すなわちコンテンツの問題である。
 本書『記憶汚染』は、そのような「わたし」を保証する情報の問題を、近未来の日本を舞台に、コンピュータ科学の最新の知見をもとにしながら、リアルに描いた作品である。もちろん単に未来予測的なリアルさだけでは終わらない。さらにSF的なふくらみと驚きが用意されているのだが、それは読んでのお楽しみ。
 宇宙こそ出てこないが、本書は新世代のハードSF作家である著者による、社会や組織、そして個人の記憶から歴史認識に至るまでの変容を描いた〃硬派〃のSFなのである。

 著者、林譲治には二つの顔がある。一つは架空戦記作家としての顔、そしてSF作家としての顔である。ただし、この二つは決して切り離されるものではないと思う。ぼくは架空戦記には詳しくなくて、残念ながらそちらでの活躍を充分に知っているというわけではないのだが、著者のSF作品に出てくる歴史への考え方、組織論といったものには、架空戦記を作り上げる上での方法論が反映されているに違いないと思う。またハードSF的な大道具・小道具の構築にも、共通するものがあるだろう。
 ただ、著者自身、ホームページ上などで二つの顔を区別しているようであり、ここでぼくが語るのはあくまでもSF作家としての林譲治についてであることをお断りしておきたい。
 まず、何より、著者はSFファンである。一九六二年北海道生まれの著者だが、臨床検査技師として働きながら、パソコン通信の時代からファンダムに頭角をあらわし、谷甲州ファンクラブでも活躍していた。そういえば、彼の宇宙SFには谷甲州のテイストも漂っているように感じられる。

 SF作家としてのデビューは一九九九年、SFマガジン5月号に掲載された「エウロパの龍」(『ウロボロスの波動』に収録)である。これは近未来の太陽系を舞台にした宇宙SFであるが、ここですでに重要な小道具としてのウエアラブルコンピュータが登場している。
 本書でも決定的な役割を果たすウエアラブルコンピュータ(本書ではワーコン)だが、著者はこれに携帯電話やPDAの進化形として、人間と外部世界=ネットワークとのインタフェースとしての役割を果たさせようとしている。コミュニケーションは人間の最も大切な機能の一つであるが、それは単に会話をするということではなく、自己と他者の認識ということもそこには含まれている。現実の携帯電話も(セキュリティ機能との連携もあって)そのような方向に進んでいくだろうし、そこから冒頭にあげた、本書の中心的なテーマが浮かび上がってくるのだ。

 『機動戦士ガンダム』のノベライゼーションを別にすると、本格SF長編としては二〇〇〇年〜二〇〇一年の『侵略者の平和』三部作(ハルキ文庫)がデビュー作といえるだろう。これは、遙か未来の宇宙が舞台の、ファーストコンタクトによる文明の衝突をテーマとした作品である。続編である『暗黒太陽の目覚め』上下巻(二〇〇一年・ハルキ文庫)とあわせて那国文明というユニークな社会をまるごとシミュレーションした作品でもある。
 ここで重要なテーマとなっているのが文明論であり、組織論である。ヤングアダルト小説に出てくるような美少女をはじめ、典型的な登場人物たちが活躍する話であるが、そのテーマは重く深い。
 二〇〇一年の『大赤斑追撃』(徳間デュアル文庫)は短めの長編だが、木星の大赤斑を舞台に、民間の調査船と宇宙軍の巡航艦が追いかけっこをする話。大気のある世界での宇宙船の動きという興味深いテーマを扱い、物語もストレートで面白かった。軍隊組織のバカさかげんがよく描かれている。

 そして二〇〇二年には、SFマガジンに連載していた中短編を集めた『ウロボロスの波動』(ハヤカワSFシリーズJコレクション)が出版される。
 太陽系に発見されたブラックホール・カーリー。人類はそのまわりに人工降着円盤を建設し、太陽系全域へのエネルギー供給源とした。という話をベースに展開する6編のハードSFオムニバス長編である。各短編には年代がついていて、往年の光瀬龍の宇宙年代記を思わせるが、内容的にはずっと科学技術よりのハードSFである。未知の現象や宇宙的な謎の解明も含まれているが、それと同等かより以上にプロジェクトの組織論や人間関係、社会のあり方に力が注がれている。とてつもない派手な事件ではなく、後から思い起こして見て歴史のひとつのポイントであったというような事件を淡々と扱った作風が、連作短編という形式によく合っていた。
 この小説で、太陽系に関する科学的アイデアと同じくらい重視されたのが、登場するAADD(人工降着円盤開発事業団)という組織のあり方であり、人工知能と人間のインタフェースであった。これも本書のテーマとまっすぐにつながるものである。

 著者が描く組織のあり方には、ごく単純化していえば、軍隊のような縦型の、ピラミッド型のものと、開発の現場であるような横型の、プロジェクトチーム型の組織の二通りがある。支配・管理のための組織と、問題解決のための組織といってもいいだろう。そして『ウロボロスの波動』のAADDや、本書に出てくる謎の存在の組織は後者に属する。著者のこだわりは明らかに後者にあり、トップダウンな命令に右往左往したり、トップが無能なら組織そのものが機能しなくなるようなものではなく、現場主導で臨機応変な対応が可能な組織の方を、共感をもって描いている。もちろん、現場の人間、特に技術者なら当然そう思うだろう。
 現実には規模の問題がある。効率よく意志決定できてプロジェクトを遂行することのできるチームのサイズには限界がある。それを越えると、どうしても縦割りな管理が必要となってくるのだ。この問題を著者はコミュニケーションツールの発達によって解決しようとしている。全世界を覆うユビキタスなネットワーク上の情報資源と、それに自由にアクセス可能で人間の知的インタフェースを拡大するような、個人情報ツール=ウエアラブルコンピュータ=ワーコンがそうだ。

 本書ではそのような情報環境が社会や個人のあり方を変容させていくあり様が、近未来の日本を舞台に、より具体的に描かれているのだ。よい面だけではない。それには暗黒面もある。わたしは誰か、ということさえ、機械にまかせてしまうような社会。認証手段を失ったホームレスが、社会的には人間として感知されなくなってしまう社会。今でも大阪城公園にはホームレスの人たちの青いテント村が存在しているが、それが〃非公共エリア〃となってしまう未来(この言葉が何を意味するのかは、本書を読んでいただきたい。それはある意味で「日本アパッチ族」の再来でもある)。
 国民総背番号制だとか、プライバシーの侵害だとか、非人間的だとか、IT化、ユビキタス化の推進にからんで様々な声が上がる。しかし、結局その方が便利だし、安全だし、みんなの利益になるし、ということでRFIDによる物流管理だ、ICカードで個人認証だと、いやおうなく状況は進んでいく。街角の監視カメラもみな容認しており、携帯電話や無線LANが(暗号化されているとはいえ)個人の情報をまき散らしているのも、まあ大丈夫だろうと思っている。いや、実際、大丈夫なのだろう。でもSF的観点からは、そのように外部化されつつある個人情報が最終的にどこへ行き着くのか、とても興味があるところである。それは必ずしも管理社会がどうこうというものではない。自分自身による自分の管理も含めて、そこからは様々な新しい問題が見えてくることだろう。

 最後に、二〇〇二年の末くらいから話題になったあるトピックスを紹介しておこう。
 マイクロソフトの進めている研究プロジェクトに「マイ・ライフ・ビッツ」というものがある。WEB上でかなり話題になったので知っておられる方も多いだろうが、これは人が人生で体験するありとあらゆる行動を、コンピュータに記録しようというものである。
 ウエアラブルコンピュータの進化が、わたしとは誰かを識別する認証キーの問題(住所、氏名、パスワード、指紋、網膜パターン、DNA……)に関係するならば、こちらはそのキーによって識別される「わたし」とは何かという、コンテンツの問題にからんでくる。マイクロソフトのゴードン・ベルが進めているこのプロジェクトでは、メール、電話、アクセスしたWEB、日記、メモ、文書、写真、見たTV、聴いたCD、読んだ本、人との会話、とにかく自分のまわりで起こったこと全てを、可能な限りデジタル化しデータベース化するというものだ。最近もの忘れのひどくなったぼくには便利な機能かも。
 現実的な目的としてはプロジェクトの引き継ぎをスムーズに行うといったことがあげられる(だからマイクロソフトは次期OSにこの機能を入れようとしている)が、マッド・サイエンティスト的天才ゴードン・ベルが考えているのはそんなレベルにとどまらない。まさしく、人の一生をデータベース化し、人の記憶や経験を外部化するということだ。これが実現するとき、「わたし」は何者かという問いも、コンピュータに問いかけることになるのだろう。そして、その答えと自分の記憶が食い違っていたとしたら……。
 まさに、本書『記憶汚染』のテーマが、今始まろうとしているのだ。

2003年9月


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