SFアドベンチャー 1989年3月号

チョコレート・パフェ浄土    梶尾真治

 八四年から八八年までの、SFマガジンなどに載った短篇十篇を収録した短篇集である。内容もパロディからシリアスなものまで、ハチャハチャからしんみりとした情感の漂うものまで、なかなかバラエティに富んでいる。
 表題作の「チョコレート・パフェ浄土」はチョコレート・パフェが食べたいけれども恥ずかしい、というおじさんの話。面白いことは面白いが、これが表題作になったのはタイトルの語感が良いからにすぎないだろう。だけど、中年男性が一人でチョコ・パフェを食べるって、そんなに恥ずかしいことなのだろうか? 評者の周囲にいる連中が異常すぎるのかしら。
 ハチャハチャ路線では「魔窟萬寿荘」がお勧め。突然変異した水虫が人間を襲う。グログロ。立ち向かうは少年探偵金多くん、台湾の水虫王という趙大人、そしてマッド・サイエンティストの平田博士。でもちょっと不徹底な気もする。もうひとつ「挑戦! 究極企業体」は、過激な就職試験をゲーム仕立てにしてSF味を加えた、たけしの番組を思わせる作品。最後がリドル・ストーリーになっている。
 けれども、作者の本領が最も発揮されていると思われるのは、なんといっても〃五〇年代フレイバーに包まれた短篇SF〃だろう。その代表ともいえるのが、巻末の「〃ヒト〃はかつて尼那を……」である。作者の他のシリアス調の作品が、いずれもムード主体でいくぶん物足りなく感じるのに対し、同じムード主体でセンチメンタルな話ではあっても、そこに宇宙の中での〃ヒト〃の運命を考えさせる要素を持ったこのような作品は、正しくSFのフレイバーに包まれていると呼ぶことができる。印象的な一篇である。

ゲイトウエイ3   フレデリック・ポール

 ゲイトウエイのシリーズ三作目。だんだん長く、厚く、そして内容は拡散していく。
 いや、決してつまらないというのじゃない。基本的なアイデアは大変すぐれた面白いものだし、いくつかのサブストーリーも悪くはない。でも、すでに大半の謎は解かれ、功なり名をとげた主人公の個人的な悩みに、そんなにいつまでもつき合ってられないや、というのが率直な感想である。
 第一作の『ゲイトウエイ』が面白かったのは、どこへ行くかわからない危険と隣合わせのゲイトウエイの魅力と、断片的ながら緻密に描かれた未来のディテールによるところが大きい。第二作も(第一作とはかなり趣きが異なるが)ストレートなスペースオペラの良さがあり、何よりも謎ときの面白さがあった。ところが、本書は……。うーん、やっぱり誉めにくいなあ。そうハインラインの近年ののーてんきな作品を思わすといったらいいだろうか。宇宙の森羅万象がすべて主人公へと収斂するのだ。はじめはもう少しマルチプレックスだったと思う。主人公はアンチヒーローで、罪の意識に悩み、未来社会はそれなりの自立した論理の下に成り立っていた。本書では、同じ悩みにしても、人間の魂にかかわる罪の意識から三角関係の清算めいたレベルへと転じているし、社会のあり方もテロリストの暗躍も、はてはヒーチーと人類の接触という巨大なテーマさえ、主人公の私的な領域の出来事となるのだ。すっごい自我の拡大。うーん、お金があって、素敵な奥さんがいて、世の中すべて自分の周りで回っていて、幸せだからそれでいいんだろーか。いいのかも知れない。ま、読んでいる間は確かに面白く読めたのだからね。これでもう少し目新しいアイデアでもあれば良かったのだが。


SFアドベンチャー 1989年4月号

88年のSF         大野万紀

 一九八八年はサイバーパンクが早くも〈浸透と拡散〉を遂げた年だったといえる。サイバーパンクという言葉がSF界の外で流行語となると同時に、SFの中ではその風化が急速に進んだ。もちろん多くの一般の読者にとっては関係の無い話であるが、熱心なSFファンにとって、それはもうある種の気恥ずかしさを伴う言葉となりつつある。サイバーパンクの高らかな宣言であったはずのブルース・スターリング編の『ミラーシェード』が、むしろその挽歌のように聞こえたのは、単に八七年の高揚の後に遅れてきたという理由からだろう。たった一年で、サイバーパンクは社会のトレンドになり、当り前のものとなってしまった。近未来あるいは近現代を描くのがサイバーパンクの一つの特色とすれば、まさにそれが現代にフィットしたがゆえに、同化吸収され、衝撃力を失いつつあるのである。何という現代の速度……。
 だがこれはサイバーパンクが古くさくなった、ということではない。サイバーパンクという言葉が不用になったというだけである。そのコンセプトはSFに浸透し、あえて口にする必要がなくなったのだ。彼らの活動は明らかにSFに変革をもたらしたのである。それは八八年に紹介された多くの新しいSFを見ればわかるだろう。
 とはいえ、八八年はむしろストレートなSFが印象に残った年である。ベンフォードとブリンの『彗星の核へ』、グラント・キャリンの『サターン・デッドヒート』、ニーヴンの『スモーク・リング』、グレッグ・ベアの『天空の劫火』、ニーヴンとパーネルの『降伏の儀式』などなど。他にもシェフィールドやベンフォードの活躍が目立った。おっと、クラークの『二〇六一年宇宙の旅』もその一つに加えておきたい。決して傑作といえるものではないが、これらのSFがサイバーパンクの登場をややとまどいの目で眺めていた読者に、安心感をもって受け入れられただろうことは想像に難くない。
 このことは日本SFについてもいえる。日本SF大賞を受賞した半村良の『岬一郎の抵抗』、刊行が開始された眉村卓の二つの大作『引き潮のとき』と『不定期エスパー』、そして堀晃の傑作ハードSF『バビロニア・ウェーブ』。若手では『くらげの日』などの短篇で活躍している草上仁。それぞれタイプは違うが、いずれも時代を越えた、ストレートなSFである。日本SFではまた、特にSFマガジンから巣立った新人の活躍が目立った。中でも『邪眼』の柾悟郎は、海外SFとも連動した大きなスケールの本格SF作家として期待が大きい。他にも『赤い涙』の東野司、『漂着神都市』の中井紀夫、『フェミニズムの帝国』の村田基らの作品には注目すべきものがある。
 最後に、八八年は筒井康隆の『驚愕の荒野』など、純文学とSFの境界領域にも収穫が多かったことをつけ加えておきたい。

食卓に愛を            水見稜

 水見稜の短篇集。八一年から八八年まで、SFマガジンに掲載された七篇と書き下ろし一篇が収録されている。
 表題作を含む三篇は、大食漢の松崎と知性派の小坂のコンビを主人公にしたコミカルな連作である。連作とはいっても、話の内容はそれぞれ独立している。いずれも食をテーマにしているのだが、単にドタバタというのではなく、妙に哲学的な雰囲気があって、面白く読めた。このシリーズはもっと続けてほしい。松崎のキャラクターがいい。
 他の作品はどちらかというとムード中心の話となっている。悪くはないのだが、「マインド・イーター」の世界から論理性を取り去ったような感じで、イメージが先行しており、やや安易な印象を受けた。中では初期の作品「オーガニック・スープ」がイメージの明瞭さで光っている。
 本書のいずれの作品でも感じることだが、作者は〈有機物〉にとても強い執着を持っている。さらに特徴的なのは、それが高い抽象的な次元ではなく、アミノ酸といった物質のレベルで論じられることだ。そこまで還元しても、依然として神秘的な生気が存在しているというかのように。ベンフォードも無機物と有機物を対比させるが、そこでの有機物はあくまでも生きた生命体であり、情報のリサイクルという面から捉えられるものだ。水見稜の場合は、情報よりも物質のリサイクルに重点がおかれている。情報のリサイクルという観点から見れば、それはDNAの継承であり、生殖が最大の意味を持つ。物質のリサイクルを重視するなら、最も重要なのは食ということになるのだ。「分子のシャッフル」こそがキーワードである。〈食卓〉と〈愛〉はかくて結びつくのである。

大いなる天上の河      グレゴリイ・ベンフォード

 有機生命と機械生命の宇宙的な闘いを描く『夜の大海の中で』および『星々の海をこえて』のシリーズの最新巻である。もっとも、テーマ以外は前の作品との関連はない。
 はるかな未来。銀河中心に近い惑星スノーグレード。はるか昔にここへ移住した人類は、この星を改造しようとするメカ文明との戦いに破れ、今では少数の部族単位で放浪する生活をおくっている。主人公は、彼らを襲撃するメカと戦いながら、しだいにこの惑星に隠された秘密に接近していく。他の部族との出会い、人類に興味を示す高位のメカとの接触。そして、明らかになったものは……。
 ベンフォードの他の作品にくらべると、とても読みやすい冒険SFである(でも主人公が協調性のない、〃個性的〃な人間であることには変わりない)。ストーリーのパターンは旧約聖書の預言者の物語をなぞっている。ブラックホールの降着円盤に棲む超知性体(神?)による、天のお告げも出てくる。一方、サイバーパンクの影響だろうか、人間たちは半分機械のように装甲を装着し、内部には過去の人間の意識をチップ化した〈アスペクト〉を、いわば相談役として埋め込んでいたりする。解説(森下一仁)でも指摘されているように、このため機械生物と有機生物の区別がややあいまいになってきているようである。ベンフォードは、機械生物と有機生物がこれほどまで根本的に相いれないものとなった本質的な相違点を、前者の直線的な永続性に対する後者のフラクタルな繰り返し構造に求めているように思える。しかし、これはいかにも苦しい気がする。
 「わん、わん」という犬メカがけなげで可愛い。なお、本書の下巻には『星々の海をこえて』の追補が収録されている。


SFアドベンチャー 1989年5月号

夢あわせ             半村良

 半村良の短篇集。現代風の怪談十二篇が収録されている。怪談といっても、そんなに怖い話ではない。怖いというよりも、どこか哀しい、切ない話。現代の怪談にはやはり騒々しい都市の一角が似合っているのだろう。人里離れた山奥が舞台の話もあるが、都会の雑踏や夜の街角を舞台とする作品が多い。
 暗い過去を秘めた人々の人情譚をしっとりと描く作者の得意技が、こういう怪談話では特に生きている。結局、怪談というのは欲とか執着とか、そういうどろどろした感情の中から現われ出るのが一番自然なようだ。その点、作者の描くこのミステリーゾーンは、現代を舞台にしながらも、しごく古典的な構造をもっているように思える。
 その一方で特徴的なのは、特定の空間的な場所には特異な現象が起こりやすいというような、作者のSF的アイデアである。これは『産霊山秘録』のような作品で明確に示されていたが、本書では「特異点」にそれが見られる。作者の考えるその特定の場所の中には、明らかにホテルという空間が含まれているのだろう。また本書には土地売買が事件のきっかけとなるような話が多いが、それは地上げが社会問題になっていたからといったことの他に、この場所と人間の神秘的な相互作用というアイデアが影響しているように思う。
 とはいうものの、そういったSF的アイデアは作品の単なる背景にすぎない。本書でもはっきりSFっぽいといえるのは「誰かが死ぬ」や「すれちがい」などに限られている。その点、本書の宣伝文句にある「科学と幻想の狭間に織りなす〈半たじあ〉」とか「サイエンス・ファンタジー」とかいうのは誤解を招く表現だと思う。まあ、〈半たじあ〉っていうのは悪くないけどね。

モナリザ・オーヴァドライヴ    ウィリアム・ギブスン

 『ニューロマンサー』、『カウント・ゼロ』に続く、《電脳空間(サイバースペース)三部作》の完結篇。
 初めて『ニューロマンサー』を読んだときのような衝撃力はないものの、小説として(SFとしても)ずっと読みやすく、面白くなっているようである(何となく自信がなかったりする……単に慣れの問題かも知れないなあ。『カウント・ゼロ』の時も同じようなことをいっていたような気がする)。できればこの機会に『ニューロマンサー』から全部読み返すことをおすすめしたい。本当に、本書は前作までの様々な謎が解決する、完結篇・総集編となっているのだ。ギブスンは三部作をこんな形でまとめることを、最初から構想していたのだろうか?
 物語は『カウント・ゼロ』の時代から七年後の世界。今度もまた、複数のプロットが並行して進行し、最後にすべて収束するという構成になっている。
 第一のプロットはロンドンが舞台。大物ヤクザの十三歳になる娘、久美子(クミコ)が登場する。なかなか魅力的なこの美少女、久美子はしかし本書の中で積極的な役割を果たすわけではない。にもかかわらず、要所要所で必ず姿を現わし、マース=ネオテク・生体素子(バイオチップ)に埋め込まれた英国少年のコリンと共に、物語に一つの視点を与えている。そしてここにあのサムライ女、モリイが(サリイという名で)再び登場する。久美子とサリイの対比が面白い。久美子さんは大人しいお嬢さんなのに、このキョーレツなサムライ女に決して負けていないんだもの。さっすが、大物ヤクザの娘は違う。また、ここには本書の中で表面的な悪役のボスを演じるスウェインという男も出てくる。でも影が薄いったらない。ほとんどわき役。大体、本書では登場人物の敵対関係がとても複雑で、しかも途中で変わったりするので、なかなか混乱するのだけれども、悪役かそうでないかはすぐわかる。悪い奴は悪いのだっ。この点、ギブスンという人は、小説中のモラルに関してかなり保守的なんではないだろうか。
 第二の、重要なプロットはニュージャージーの荒れ果てた《ドッグ・ソリチュード》という場所にある、《ファクトリイ》が舞台である。ジャンクから一種のロボットを組み立てる廃物芸術家(ジャンク・アーティスト)、スリックが主要な人物として登場する。ここに、昏睡状態のまま巨大な生体素子(バイオチップ)の塊らしきものに没入(ジャックイン)している〈伯爵(カウント)〉と呼ばれる男が運ばれて来る。前作を読んでいれば、彼が誰かはすぐにわかるだろう。そして、ここが本書の収束点となるのである。
 第三のプロットでは、今や〈センス/ネット〉のスターとなったアンジーが登場する。彼女は今でも脳内の生体素子(バイオチップ)を通じて、電脳空間(サイバースペース)にすまうフードゥーの神の声を聞くことができる。ここでは、前作との関わりが特に大きく扱われる。テスィエ=アシュプール一族が電脳空間に残した遺産との関わり。AIたちの謎……。
 第四に、アンジーに顔かたちがそっくりの娘、モナが登場する。モナは悪役たちにだまされて《スプロール》へと連れてこられ、陰謀の駒として使われようとする。
 これらのプロットをすべて貫き、収束に導くのはサリイの強烈な行動のエネルギーである。それがバラバラなそれぞれの動きを、弱々しい死者たちの陰謀を、破壊し、吸収し、別の流れへと転じていく。このドライヴ感。
 そして、最後の数ページにおける、古典的といえるほどのSF的な結末。うーん。評者は好きですよ。でもここまでストレートにSFしてしまうと、なんかサイバーパンクじゃないみたい。ま、どっちでもいいか。


SFアドベンチャー 1989年6月号

タナトス戦闘団          谷甲州

〈航空宇宙軍史〉の最新巻。外惑星動乱勃発直前の月を舞台に、あのタナトス戦闘団のダンテ隊長が慣れないスパイ活動を行なうという、外伝的な物語だ(と書いてから、〈航空宇宙軍史〉に本紀と外伝の区別ってあまり関係ないなと気づいた)。
 外惑星連合でのクーデター騒ぎの後、月のセントジョージ市への潜入を命じられたダンテ隊長は、気がすすまないながらも、この市にある月面最大の工場群の情報収集を行なっていた。気がすすまないわけは、予定されている作戦があまりにも無謀なものだからである。どうやらクーデター事件の際のもやもやが今度の作戦に影を落しているようである。無謀さは、諜報活動にはしろうとのダンテをプロたちの間に放り込んだことにも現われている。彼の活動はすべて敵方に筒抜けになっていたのだ。それも無理はない。ダンテの行動はスパイしてるのだかスパイごっこをしているのだかわからないような脳天気なものだったのだから。しかしプロは甘くない。ダンテは捕らえられ、すさまじい洗脳を受ける。そしてぼろぼろになった彼は……。
 というわけで、本書はあまり宇宙の出てこない〈航空宇宙軍史〉である。スパイ活動のスリルといった面白さもあるが、むしろ読みごたえがあるのは、開戦前夜の緊迫した雰囲気のなかで、過去のある人々のくりひろげる、それぞれの人間ドラマである。タナトス戦闘団の面々はここではむしろわき役にすぎない(最後に胸のすくような大活躍をしてくれるのだが)。舞台が未来の月面都市というSF的なものであっても、作者はその底辺に生きるしたたかな民衆の生活を忘れない。とりわけ、月面都市におけるインド人街などというものを生き生きと描写できるのは、海外での体験豊富な作者ならではといえるだろう。評者にはシャンティと呼ばれるエージェントと、彼の周りのインド人街の人々の生活感が特に強く心に残った。コンピュータで管理される月面都市だけに、それを逆手に取って共同体を生き延びさせようとする彼らの知恵が、よけい印象的だったのだろう。
 このあたりの欧米的でない未来像というのが、本書のというか、谷甲州の作品の、まぎれもない魅力のひとつとなっている。サイバーパンクの登場で、ごみごみしたアジア的な未来というのがエスニックなファッションとなった感があるが、それらはいずれも旅行者の目で見た(あるいは単に頭で想像した)ものにすぎず、したがってそこに住んでいる現地の人間というのは本当はいなくて、ただどこかから(おそらくは欧米の大都市から)流れ着いた連中がいるだけだった。アウトローはいても生活者はいなかったのだ。しかし谷甲州の未来世界には、そこがカリストであっても月であっても、都市には日々の生活をおくる様々な民族が生きているのだ。ハイテクや物理法則と同居しながら。
 谷甲州のもうひとつの魅力は、おそらくその民衆を見る目と同じくらい確かな、物理法則に支配された現実を見る目にあるといえるだろう。それは様々な制約条件の下で、人跡未踏の奥地にダムを作る技術者の目である。それが、宇宙を舞台にしたハードな作品を読みごたえあるものにしている。派手な先端科学の知識がでてきたり、難しい用語が駆使されたりするのではない。ひたすら、ニュートン力学である。これがすごい。このことが宇宙の広さや厳しさを実感させているのだ。宇宙戦争もこんなに地味で、そのくせ凄惨なものは他にない。本書でも最後の章にそれがあらわれている。また後書にも見られる細部へのこだわり。その時月の空に地球があったかどうか。うーん、かっこいい。


SFアドベンチャー 1989年7月号

12月の扉    ディーン・R・クーンツ

 最近急に訳され始めたディーン・R・クーンツのモダンホラー長篇。その中でも本書は一二を争う読みごたえのあるエンターテインメント作品となっている。
 雨に濡れる街角を裸でさまよっていた9歳の少女メラニー。その父親は近くの家のあやしげな実験室で全身をありえない力で叩きつぶされた死体となっていた。六年ぶりにメラニーと再会した母親のローラは、娘の心を開こうと努力するが、その心は空虚なままである。父親は彼女を実験台にして、何年間もおぞましい実験を続けていたらしい。やがて彼女をつけ狙う謎の男たちが現われる。そしてあの実験室を襲った超自然的な力が、一見無関係な男たちを次々に叩きつぶしていく。事件を担当したロス市警の敏腕警部補ダンは、母と娘を守りこの謎に挑戦しようとする……。
 クーンツの作品には強烈な描写はあっても超自然的な怖さというのはない。ホラーを書いても結局SFになってしまうというところがあって、それは欠点でもあるけれどまた魅力的な点でもある。ぐんぐんと読者を引っ張って行く彼の筆力は、純粋なホラーよりもこのような作品にこそ似合っている。単純で力強い登場人物たちもまたそうだ。ヒーローは沈着冷静で強い正義感とガッツの持ち主。ヒロインは美しく知的で、芯の強い女性。まさにアメリカン・ヒーローだ。ただし、例えばスティーヴン・キングと比較した場合、中盤までの盛り上げはすごくいい線いっているのだが、結末のカタルシスというあたりがちょっと弱い気がする。やや残念な点である。
 ところで、本書のタイトルを古いSFファンに言わせてごらんなさい。きっと二人に一人くらいは「12月の…」と言って「…鍵」と続けるから。面白いよ。

京美ちゃんの家出         東野司

 東野司の二冊目の短篇集。「ドタバタ電脳SF」と帯にあるように、第一短篇集とはまた別の持ち味を見せた、ユーモアSFの連作集である。SFマガジンに掲載された二篇と書き下ろしの中篇一篇が収録されている。
 舞台は未来のソフトウェア業界。コンピュータ・ネットワーク上で稼働する疑似人格ソフトであるアイドルの『京美』ちゃんが家出してしまった。主人公の俺は、ネットワーク潜りの特技を生かして、彼女を連れ戻すため電脳空間へ……というのが「京美ちゃんの家出」。同様に、誘拐された疑似人格ソフトの『聖哉』くんをネットワークに潜って取り戻す「聖哉くん、誘拐!」。ここでは相棒として新人女性SEの鳴琳もネットワーク潜りに加わる。彼女とともに、京美や聖哉の助けを借りつつ反乱を起こしたできそこないの人格ソフトたちと戦う「フェスティバルキャラの逆襲」。いずれもドタバタ・ユーモアSFとサイバーパンクでおなじみの電脳空間とを融合させたなかなかの力作である。電脳空間はシリアスに描くよりも、本書のような書き方の方がむしろ正解なように思う。
 本書を楽しむのにもちろん専門知識は不用だが、コンピュータやパソコン通信の知識がある読者には、パロディとしても楽しめるという側面がある。電脳空間のごちゃごちゃの中に、見慣れた用語が(思いがけない変貌をとげて)現われてくるのを見つけ出すのは楽しい。コンピュータ屋さんって、こういうのが大好きだからね。〈バグ取り線香〉をつけるとパラパラとバグが落ちてくるなんて、プログラマーの夢だろうな。ところで、(誤植だろうが)実在のソフトハウスの名前が何度も出てくるページがあって、つい笑ってしまった。このシリーズはお勧めです。


SFアドベンチャー 1989年8月号

去年を待ちながら      フィリップ・K・ディック

 久しぶりのディックの新訳長篇である。六六年に発表された、ディック中期の作品で、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』といった傑作にはさまれた、ディックとしてはやや平凡な作品である。
 とはいえ、ディックはディックだ。あのまぎれもないディック・ワールドがここでも展開されている。二〇五五年、地球は先行きの暗い星間戦争に巻き込まれている。主人公のエリックは政府要人に雇われた人工臓器移植医師だが、アンティーク収集家である妻との間に深刻な問題を抱えている。この妻が例によって悪女で、禁断の麻薬JJ一八〇に手を出し、さらにそれをエリックに飲ませてしまう。JJ一八〇は戦争のために開発された麻薬で、なんとタイム・トリップしてしまうという作用があるのだ。そして、いかにもディック・ワールドらしいガジェットの数々。アンティークを集めて一九三五年のワシントンを火星に再現した〈ワシントン三五〉。地球人と祖先を同じにし、姿形もいっしょで同盟関係にあるが、明らかに冷酷で非人間的な種族であるリリスター星人。中でも面白いのが、リリスター星人との会談中に必ず病気になって倒れ、お流れにしてしまうしたたかな国連事務総長モリナーリだ(ムッソリーニのイメージがあるらしい)。このような異常な疲弊した世界で、ごく日常的な人間関係のドラマが演じられる。それは精神異常者となった妻を、それでも最後まで面倒をみていこうとする主人公の決意に現われているように、いたってまっとうなものである。それをこのようなパラノイア的世界の中で描いてしまうのが、何ともディックらしいところか。
 解説「ディック自作を語る」付き。

ハードワイヤード    ウォルター・ジョン・ウィリアムズ

 通俗サイバーパンクとか何とか、以前に紹介されていた作品。〈サイバーアクション〉という言葉が惹句に使われている。
 『ナイト・ムーヴズ』ではせっかくの前評判を落としてしまったウォルター・ジョン・ウィリアムズだが、本書は確かに面白い。アクションにスピード感があって、なかなか快適に読める。でもちょっと場面が変わると、やっぱりリズム感が狂ってしまうところがあるようだ。
 暴走族が正義のヒーローになって、破滅後の世界で活躍する、一言でいえばそういうお話だ。彼ら、アウトロー・ヒーローの仕事は密輸なのだが、それも貴重な医薬品を運ぶためというように、モラル的な正しさが強調されている。ハリウッドのB級アクション映画によくあるパターンだ(誉め言葉だよ)。作者が自分でいっているように、ゼラズニイの『地獄のハイウェイ』を思わせるところがあり、他にも過去のSFのあれやこれやのパッチワークともいえる部分があるが、まあそれは別にかまわないだろう。西部劇直系のヒーローが活躍する冒険アクションSFを、今風の道具だてで書いたものとして、よくできているといえる。逆にサイバーパンク風の部分がむしろ不徹底で、コミックめいたものになってしまったようだ。
 軌道上のコンツェルンが〈征地戦争〉で地球を征服し、経済活動を思うままに牛耳っている二一世紀。かつて超音速戦闘機で戦った戦士たちは、今では装甲ホバーに乗り込んで荒廃した中西部を命がけでぶっ飛ばす運び屋となっている。中でも伝説的存在となっているのがカウボーイと呼ばれる男だ。ハイテクで武装し、一種のサイボーグ化といえる〃ハードワイヤード〃となった彼は、一方で自由を愛するアメリカン・ヒーローである。ヒロインはサラ。彼女もハードワイヤードで、ヤク中の弟をかかえ、暗黒街に生きる美人の腕ききボディガードである。そんな二人があるきっかけから手を組み、仲間たちと共に、コンツェルン相手の大勝負に打って出る。単なる戦闘だけでなく、コンツェルン内部の対立を利用し、経済的な面にも打撃を与えようというのだ。コンピュータ・ネットワーク中での電子的な戦いと、命をかけた実際の戦闘とが並行して戦われる……。
 本書とギブスンらの描く世界との一番大きな違いは、本書では伝統的なモノや肉体が重要視されているということだろう。ギブスンの世界では生産設備はどこにでもあり、モノはあふれかえってゴミと化している。肉体もできればなしですませたいというようなものだ。重要なのは情報であり、ソフトウェアなのだ。ザイバツやヤクザが価値を認め独占しようとするのはモノではない。どうも本書ではそのあたりが不徹底なのである。ハードワイヤードであっても、彼らの価値観は(モラルの面を含めて)きわめて伝統的なものである。そのこと自体は本書の性質からしてとやかくいうことではない。だが、ハイテクが価値観はもちろん人間性をも変えるという視点なしにこのあたりの主題を扱うのは、いささか危ういような気がするのだ。かっこいいのはいいが、様々なハイテクが健康なアメリカン・ヒーローの単なる便利な道具であるというのは、やはり評者には気にかかる。サイバー〃パンク〃ならいいのだが、サイバー〃カントリー&ウェスタン〃なんて、どうもしっくりこないのである。
 とはいえ、そういう批判は作者も承知の上なのだろう。で、面白いことは確かだ。結末さえなければ傑作といってもいい。結末は笑ってしまった。ハッピーエンドはいいのだが、これではちょっとやりすぎだ。


SFアドベンチャー 1989年9月号

アザー・エデン     エヴァンズ&ホールドストック編

 イギリスSF傑作選である。オールディスやムアコック、それにタニス・リーといった大物から、ファンジン作家に近い連中まで、イギリス作家ばかりの十四篇を集めた、八七年度のオリジナル・アンソロジーである(ちなみに、本書はその年イギリスで開かれた世界SF大会にあわせて出版された)。なお収録作のうち五篇は昨年のSFマガジンに掲載されている。
 こういう企画は嬉しい。水鏡子もいうように、アメリカSFが元気だとイギリスSFは影が薄くなる。ここ数年のサイバーパンクの脚光の影で、イギリスSFはいったいどうしているのだろうと、首をかしげていたファンも多かったのではないだろうか。どっこいイギリスSFは健在だった。十四篇もあると、中にはピントのあわない話もあるのは仕方がないが、本書の場合それがあまり気にならない。さすが現代イギリスSF、というような傑作が何篇も含まれているからだ。
 とはいえ、イギリスSFの傑作というのは、昔から地味で渋くてブラックでと相場が決まっている。本書もその例に洩れない。イギリスSFにはもう一つ、とんでもないマッドな大ボケSF(賞賛の意味で)の系譜もあるのだが、ここには含まれていないようだ。したがって、本書の基調は重くて暗いものとなっている。男と女の社会的闘争を扱った作品が多いのだから、重くて暗いのは当然かも知れない。もうひとつ本書で目立つのは時間をテーマにした作品である。月並みな言い方だが、英国の伝統と保守性という背景がそこにはあるような気がする。
 以下、収録作について。
 タニス・リーの「雨にうたれて」は暗い閉塞した未来社会で、母娘の屈折した感情を男性社会への批判を裏に描いた〃逆・あしながおじさん〃。テーマは平凡だが、完成度の高い作品である。
 M・ジョン・ハリスンの「ささやかな遺産」はSFでもファンタジーでもないが、時間というものについてしみじみと考えさせてくれる小傑作。時間と情報。記憶と記録。くすんだ色調の中でふいによみがえる過去は重く、美しい。
 評者が本書の中で一番気に入った作品がイアン・ワトスンの「アミールの時計」である。例によって無生物の進化、神への道といった重厚なテーマを正面から扱ったワトスンらしい力作なのだが、テンポのいい軽快な語り口がすばらしい。ワトスンのSFにはこれからもますます期待ができそうだ。
 ギャリー・キルワースのショートショートでは「豚足ライトと手鳥」が不気味で面白い。サイバーパンクを自己毀損の系譜で捉えるなら、これもやっぱりサイバーパンクか。
 ラングフォードの「砂と廃虚と黄金の地で」は、いかにもSFファンが書きそうな話。アマチュアっぽい作品ではあるが、遠未来のシュールな風景がとても良く、印象に残る。
 キース・ロバーツ「笛吹きの呼び声」は単なる牧歌的ファンタジーではない。この背景にあるのは歴史的な風土と、そして(なんと)イギリスの産業文明なのである。佳作。
 最後に、傑作の呼び声が高いリサ・タトルの「きず」。これはなんといっても題材の勝利だ。性の社会的なあり方に関して重い不安と問題意識をもった現代の男性にとっては、非常に衝撃力のある作品。しかしフェミニズムの文脈で捉えない限り、単なるよくできたアイデアストーリイにすぎない。そのあたり、評価が分かれるところだろう。ここで内容を紹介するわけにはいかないが、アイデア=思考実験が単純であるだけに、それだけ鋭い批評性を持った作品となっている。


SFアドベンチャー 1989年10月号

アイ・オブ・キャット       ロジャー・ゼラズニイ

 ロジャー・ゼラズニイの八二年の作品。
 本書はひとことでいって、SFの設定を借りた神話的ファンタジイである。思えばゼラズニイがもっとも得意としていたパターンの作品だ。ただしその神話世界がわれわれにとってなじみの薄いアメリカインディアンのものなので、ちょっととまどう読者が多いかも知れない。
 主人公はインディアンの血を引く狩人(ハンター)、ビリー。異星の生命体を捕獲するのが彼の仕事だった。今は引退した彼に、国連から異星人の暗殺者を阻止するよう依頼がある。そこで彼は、かつて彼が捕らえた最強の生命体である変身獣(メタモルフ)〃キャット〃に、自分の命を賭けて協力を依頼する。一方国連の方でも、超能力者の集団に警護を頼んでいた。ビリーは変身能力のある敵と立ち向かう。が、彼にとって真の危険は、ふたたび自由の身になったキャットにあった……。
 というような設定から、痛快なSFアクションを期待すると肩すかしをくらう。そういう場面もあるにはあるんだけどね。物語はビリーとキャットの追いかけっこに焦点が移り、それがさらにビリーのインディアンとしての自己確認とからんで、現実と幻想のはざまにさまよいだす。オーストラリア原住民にはドリームタイムという概念があるが、本書で描かれているナヴァホの世界観にも同じような時間の概念があるようだ。命を賭けて追うものと追われるものが、いつしかこのもう一つの時間の中に迷い込む。ナヴァホ族の神話にはうとくとも、このようなイメージは理解できるような気がする。ゼラズニイは本書でSFとしての整合性やリアリティには重点を置いていない。むしろ一つの伝説として、バラードとして楽しむべきものだろう。

王女とドラゴン    ピアズ・アンソニイ

 〈魔法の国ザンス〉のシリーズ七巻目である。例によって分厚いけれど、この分量は苦にならない。楽しくあっという間に読み終えることができた。
 今回の主人公はなんとドオアの三歳になる娘、アイビィだ。そして魔法使いハンフリーのちょっと頼りない息子、ヒューゴー。もう一人(?)、若返って赤ん坊になった谷ドラゴンのスタンリー。このチビッ子三人組がザンスの危機に立ち向かうのだ。立ち向かうったって、本人たちには事態がよくわかっていないので、いたって脳天気なものなのだが。この脳天気三人組の活躍がとっても楽しい。大人たちの心配をよそに、すべてうまくやってのける。このいかにもザンスらしい御都合主義がとても気持ちがいい。
 ザンスの危機とは、大裂け目の忘却の魔法に歪みが生じたことだ(といってもこのシリーズを読んでない人には何だかわからないだろうな。今からでも遅くはない、初めから読みましょう。きっとあなたもこの愉快なファンタジイ世界が大好きになるはず)。その影響でハンフリーは赤ん坊になるわ、ハーピーとゴブリンの戦いが再開されそうになるわ、もう大騒ぎ。
 一方大人たちの方ではアイビィの母(すなわちドオアの妻)イレーヌが、ゾンビーのゾラやセントールのチェムらとともに、子供たちの捜索の旅に出る。物語は子供たちの冒険と母親たちの冒険の二本立てで進行する。イレーヌたちの旅は子供たちの旅ほど幸せなものではない。それはまあ、大人と子供の違いですね。さて、ここで突然ギリシア神話の世界が姿を現わす。これは純正ザンスのファンとしてはちょっと気に入らないところだが、ま、楽しいからいいとしましょう。


SFアドベンチャー 1989年11月号

帝国の娘      レイモンド・E・フィースト&ジャニー・ワーツ

 帯に「ヒロイン・ファンタジイ」と書いてある。レイモンド・E・フィーストの〈リフトウォー・サーガ〉の世界を舞台にしているが、三部作とは離れた作品だ。女流作家ワーツとの合作である本書は、ツラニ帝国の内部における宮廷陰謀劇(というか、お家騒動のレベルだな)を演じる、十七歳のヒロインの物語なのである。
 ツラニの名家であるアコマ家のマーラ姫は、敵対するミンワナビ家の策謀により父と兄を失い、一夜にしてアコマ家の当主となる。彼女はミンワナビへの復讐を誓い、名誉をなにより重んじる東洋的なツラニの伝統の中で、女であることのハンディキャップを知恵で克服しながら、権謀術策を巡らせていくのだ。政略結婚、裏切り、通商、兵士を雇う、密偵を送る……《高等会議のゲーム》と呼ばれるこの権力闘争の目的は、アコマ家の名誉を守りミンワナビに復讐を果たすこと、そして父と兄の死により衰えたアコマの勢力を以前にもまして盛り返すことである(シミュレーション・ゲームの世界ですね)。そういう意味では、何よりも名誉が重んじられる社会という設定が、ゲームをすすめる上で重要な要素となっている。本来の力関係をそれで逆転させることもできるからだ。主人公を女性にしたことにより、男性優位の封建社会において女性が政治力をふるうためにいかに冷酷な知恵を働かせるかといった要素もなくはないが、結局の所、生まれつきそれが許される地位と能力をもっていたということで、大きな差異とはなっていないように思える。
 それにしても、これはファンタジイなのだろうか? 架空世界を舞台にしているが三部作の壮大さはなく、思いがけない要素もない。まあそれなりには楽しめたけどね。

幻夢年代記            安田均

 ログイン誌に連載されたコンピュータ・ゲームの紹介とレビューのコラム「安田均のアメリカ・ゲーム事情」を、八四年三月から八八年七月までの五年分まとめたものである。それをどうしてSFチェックリストで紹介するかというと、「ゲームもSFだ」(P51)からだ(というわけでもないが)。
 コンピュータ・ゲームの世界はこの五年の間だけでも目ざましく成長した。本書はそのめくるめくような時代の動きをリアルタイムに追い、いわばひとつの王国が誕生する歴史に立ち会うような、そんなワクワクする興奮を与えてくれる。面白いのは本文は連載時のままで、欄外の注釈として八九年現在から見た著者のコメントが入っていることだ。これがほとんど毎ページ入っており、本文と掛け合いをやってたりしていて、とても楽しい(もちろん客観的な補足説明としての意味もある)。著者お得意のオルター・エゴですね。興奮気味に紹介している本文に対して、欄外から結局は大したことなかったよと水をかけたり……。SFとは違い、五年間で本当に大きな変化のあった分野だなと思ってしまう。
 本書の内容は海外のコンピュータ・ゲーム紹介が中心なのだが、著者の場合単なる紹介記事に終わってはいない。それはゲームというものに対して著者がはっきりした主張をもっていること(本書の冒頭でも述べられている――一つのコミュニケーションの場として、共通のルールにより、現実を模した、あるいは現実とは別のもう一つの価値体系を遊ぶレクリエーション――これってある種のSFと全く同じではないだろうか)による。その上に、不確実性をベースとする著者の現代社会に関する認識が重なっているのだ。著者は、いわばゲームをSFしたのである。


SFアドベンチャー 1989年12月号

プラスティックのしゃれこうべ       草上仁

 今年度の星雲賞を「くらげの日」で受賞した著者の六冊目の短篇集。SFマガジンに掲載された六篇が収録されている。
 本書の特徴は、あちらのアンソロジーや短篇集によくあるように、各篇の扉に作者自身の一言がつけられていることだ。あとがきも作者自身によるものである。こういう趣向は好きだ。作者の生の声が聞けるし、なにか得したような気分にもなれる。
 作者の描くSFは、決してどれもがほのぼのとしたユーモアSFだというわけではない。辛らつな作品もあるし、ハードSFや、鋭い文明批評もある。にもかかわらず、全体としてなんとなくほのぼのしてしまうのは、これは作者の人柄なのかも知れない。安定しているとか、安心して読める、なんていうと、作家に対する誉め言葉にはならないことが多いのだが、草上仁の場合にはどうしてもそういう言葉を使いたくなる。これだけ作品数があれば、さすがにできふできはあるものの、それでもある偏差値の中におさまっていて、つねにコンスタントな水準を保っているという印象があるのだ。欲をいえば、もっと思いきって冒険した作品も読んでみたいということになるのだが、でも逆に、こういう作品をコンスタントに書き続けられるということこそ、今では貴重で重要な才能であるといえるだろう。それが読者からも支持されて、星雲賞受賞にもつながったんではないだろうか。
 それにしても、作者の描く世界には牧歌的な雰囲気があるなあ。農業惑星とか牛とか虫とかがよく出てくる。特に牛が多いような気がする。本書でも「ハデスの牧場」なんてそうだ。「チキンラン」にも牛が出てくる。特にこの二篇は、よくあるSF的なアイデアが叙情的な描写と調和した佳品である。

重力が衰えるとき   ジョージ・アレック・エフィンジャー

 ジョージ・アレック・エフィンジャーという名は、評者にはある種のなつかしさをもって響く。七〇年代にヴォンダ・マッキンタイアやエド・ブライアントらと共に登場し、特に短篇の分野で目ざましい活躍をした。ネビュラ賞やヒューゴー賞の候補に毎年のように名が上がり(そしてすべて落選した……と彼は自嘲的に書いている)、評者たちの大いに注目していた作家だった。しかし、次第に名前を聞かなくなり、マッキンタイアらと同様、映画のノベライゼーションでしかお目にかかれないようになってしまった。もちろんその間も彼はSFを書き続けていたわけで、八四年の短篇「まったく、何でも知ってるエイリアン」は珍しくSFマガジンへ翻訳され、かなりの話題になった。
 本書はそのエフィンジャーの八七年の長篇である。〃サイバー〃な未来を舞台にした娯楽性たっぷりのピカレスク・ノベルで、決して「スケートをはいた蜘蛛のようにクレージーな、とてつもない傑作」(ハーラン・エリスンが本書を推薦していった言葉)といったものではないのだが、物語の面白さ、小説のうまさはさすがにベテランの味である。アラブ世界の暗黒街を舞台にしていて、なじみのない言葉が頻出することはギブスンもまっさおという感じなのだが、それでもめちゃくちゃ読みやすいのだ。主人公がワルとはいえ、とても好感のもてる人物だというのもその理由のひとつだろう。もちろん、聞き慣れない造語をほとんど気にならないくらい日本語にとけこませてしまった訳者の腕前が誉められるべきなのはいうまでもない。
 ブーダイーンは未来のアラブ世界にある犯罪都市である。主人公のマリードは北アフリカに生まれ、ここへ流れてきた一匹狼。その彼が血なまぐさい連続殺人に巻き込まれ、この街の顔役から事件の捜査を命じられる。敵はどうやらモディーと呼ばれる人格モジュールを脳に組み込んで、誰か他人になりきった殺し屋らしい。その背後にいるのはいったい誰か? マリードはブーダイーン警察のオッキング警部補と協力して捜査するよう命じられたのだが、どこか裏のある警部補は非協力的だし、ほとんど捜査に進展のないまま、残虐な殺し屋はしだいにマリード自身の身辺に迫ってくる。おまけに顔役からはマリードの肉体を改造し、モディーやダディー(これはアドオン。つけている間、脳に一時的な知識を与えてくれるチップだ)を取り付けられるようにしろと命じられる。これは彼のポリシーに反するのだが、この街にいる限り顔役には逆らえないし、それに生身の肉体でこの敵と戦うのは不可能みたいだ。彼がいやいやそれを受け入れた時、敵はついに彼に挑戦状をたたきつけ、もはや対決を引き延ばすことはできなくなった。今の彼は昔の一匹狼の好漢マリードではなく、ボスに雇われた武器の一人になってしまったことを、街のみんなは知っているのだった。逃げるところはない。対決の時が迫った……。
 SF的にはこれといって新しい要素があるわけではない。小わざはいろいろ効いているが、大わざはなく、いたってストレートな娯楽読物である。でも、その小わざのきかせ方がすごくうまいのだ。思わず読者をにんまりとさせるような場面がいくつもある。それがとってつけたようではなく、物語にうまくとけこんでいる。すなおに読んでも面白いが、ファンが読めば大喜びというパターンだ。それと、やっぱり主人公の造形。これがいい。元気のいい小悪党で、にくめないやつ。威勢のいいたんかをきるが、後がうまくいかない。彼に感情移入した読者は、結末の苦い孤独感を共に味わうことになるだろう。


SFアドベンチャー 1990年1月号

ゐのした時空大サーカス     山田正紀

 山田正紀の長篇。SF的な体裁をとっているが、むしろ人間にとっての時間の意味を文学的・情緒的に描こうとしたファンタジーである。
 ある中年男の物語である。彼は内気だった子供のころから、しがないサラリーマンの日常をおくる現在まで、ずっと自分とこの世界との間に何か本質的に相容れないものがあるように感じてきた。彼はすでに四〇歳を過ぎ、もう人生に先がないと実感するとともに、もしやり直すならこれが最後のチャンスとも感じている。とにかく自分の今の生活にそこそこ満足していながらも、これは本当ではないような、そんな気がしてならないのだ。そういう疎外感に見舞われる時、彼は昔出会った小さなサーカス団のことを思い出す。漂泊の旅を続ける、そのみすぼらしい一座に、失われたチャンス、なくした夢、もうひとつの別の時間を仮託しながら。甘く切ない中年男の感傷……。
 ありがちな話である。作者はそのありがちな感傷に、SF的な枠組みを与えようとする。このサーカス団が実は三億年前に他の星から来た人々で、彼らは――つまりわれわれ人類の本来の姿なのだが――時間を自由に行き来する能力を持っている、そしてその能力を忘れ、時間コンプレックスに陥っているのがわれわれなのだ、と。だが、作者はそういうSF的枠組みをストレートに受け取れるようには描いていない。本格的なSFのアイデアとして人間の疎外された時間を説明するというよりも、例の中年男のどうしようもない感傷に対する一種の救済として描かれたもののように思われる。読後感は異なるが、ヴォネガットの(というよりキルゴア・トラウトの)書きそうなSFだという気がした。

アヴァロンの闇     ニーヴン&パーネル&バーンズ

 おなじみニーヴン&パーネルと、それにバーンズも加わったトリオ合作という珍しい長篇SF。それにしてもこれは強力な合作チームだ。
 良くも悪くもベストセラーSFである。つまり、とても面白い。長いけれど読ませる。一方SFとして、あるいは小説として、これはといえる点はあまりない。でも、そういうのが全くないのが普通のベストセラーSFなのだから、りっぱなSF的なアイデアがちゃんと入っているだけでも、さすがはニーヴン&パーネル&バーンズ(長い!)なのだ。
 孤立した惑星植民地を襲う恐ろしい異星の怪物たち! まるで「エイリアン2」を思わす怪物と人間の死闘。でも、大昔ならともかく、今こういう話を書くというのは作者の実力の証明なんですねえ。それも単に映画と張り合うような迫力ある描写を文章で描き出すだけでなく(それだけならホラー系のベストセラーに時々見られる)、その背後にSF(サイエンス・フィクション!)でしか現わせないしっかりした架空世界の構築をもつ――つまり、あまり書くと読んだ時の衝撃が薄れてしまうけれど、襲って来る怪物が決して得体の知れないお化けなんかではなくて、ちゃんとした生態をもつ異星の生物であるということ。そしてその怪物が単に恐ろしい人間の外敵というのではなくて、人間の営みと大きな一つの系をなす、相互にインタフェースをもつ大きなシステムの中にあるということ――こういうことがちゃんと描かれていることが重要なのである。もちろん欠点はいろいろある。登場人物が(今風に)類型的すぎるところとか、興をそぐ余分な挿話があったりとか。でも面白い。やっぱり、ニーヴンはりっぱなSF作家なのです。


SFアドベンチャー 1990年2月号

ウェットウェア      ルーディ・ラッカー

 このまえ翻訳された『ソフトウェア』の続編。翻訳されたのはこのまえだが、前作は八二年の作品。本書は八八年の作品で、執筆には六年間の間がある。この間にサイバーパンクが興り、そして滅びた(?)わけだね。
 そして、この間に月ではバッパーたちの革命が起こり、それが人間たちによってつぶされ、その後また、さらに進化したバッパーたちが人間を超越しようと試みている……といったところが背景だ。バッパーというのは自意識を持ったロボットたち。でも、彼らの思考は人間とはやっぱり異質だ。
 ラッカーの作品はディック的といわれる。それはそうなんだが、ディックが人間を〈人間〉と〈アンドロイド〉に分けたのに比べると、ラッカーのバッパーはもっと〈非〉人間的であり、異質である。と同時にラッカーの書く人間も、なかなか融合(マージ)していたりして、ちょっと変です。この背後には、どうやら人間の頭の中にある意識(ウェットウェア)もロボットのソフトウェアも、結局は数学的な高次ヒルベルト空間でのフラクタルなセルオートマトンのパターン生成(ちなみに「細胞オートマトン」という訳語はちょっといただけない)であるという作者のサイバーな主張があるようだ。
 前作がややとっつきにくかったのに比べ、本書はずっと読みやすい(?)。話はあいかわらずぐちゃぐちゃだけど、とっても気持ちが良くて不気味だ。うーん、書評になってないなあ。くねくね。傑作だと断言したい衝動にかられるのだが、一般の読者のことを思うと躊躇してしまう。ケルアックとポウの文体で話し合うロボットなんて、ほんとによくやるよ。翻訳もポップでマッドな傑作だ。言語感覚抜群の、超一流マッドSFです。

アビス    オースン・スコット・カード

 本書はちょっと変わったノベライゼーションである。「ターミネーター」、「エイリアン2」の監督であるジェイムズ・キャメロンの新作映画をカードが小説化したものなのだが、ほとんどキャメロンとの合作といえるぐらい、映画との結合度が強いのだ。しかしそれは、決して映画の脚本をそのまま小説にしたというようなものではなく、あくまで作家としてのカードが映画の製作過程をその目で見ながらディテールをふくらませていった、映画との相互作用によって作られた作品なのだ(このあたりの事情は監督と著者のそれぞれのあとがきに詳しい)。
 だが、本書は何よりも、非常にストレートで感動的な、読みごたえのあるSFなのである。深海底を舞台にし、登場人物の人間関係を詳細に描き、謎と、冒険と、そして異星人……。確かによくあるお話だ。おまけにこれは最近出た他の二篇のSF、アーサー・C・クラークとジェントリー・リーの『星々の揺籃』、マイクル・クライトンの『スフィア』にそっくりの設定ではないか。だが本書の読後感は他の二篇に比べてもはるかにSF的で、スケールの大きなものである。後半多少無理なところはあるが、実にカードらしい、すなおで前向きなSFになっているのだ。これはカードが海底の閉ざされた空間でのドラマを描きながらも、種としての人類といった視点を常に失わないからだろう。
 ところで本書の主人公である男女の描き方は、いかにも現代的なように見えるが、昔のよくあるパターン――ひたすらわがままで意地っぱりな亭主(でも仕事はできる)と、それを静かな愛情で見守るしっかりものの女房――を逆転させたものじゃなかろうか。だからどうだというわけじゃないけどね。


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