SFアドベンチャー 1988年1月号

カウント・ゼロ   ウィリアム・ギブスン

 『ニューロマンサー』に続く〈サイバーパンク〉SFの旗手、ウィリアム・ギブスンの長篇第二作である。
 舞台は『ニューロマンサー』と同じ未来世界。ニューヨーク、パリ、メキシコ国境、そして軌道上の見捨てられたコロニー。登場人物は、やばいソフトを使って電脳空間に入り込んだとたん殺されかかる新米ハッカー〈カウント・ゼロ〉ことボビイ、企業間戦争のコマンドとなって人材の引き抜き作戦を遂行するターナー、大富豪ウィレクのもとで謎の芸術品を追う元画商のマルリイ。物語はこの三人の主要人物を交互に追って、ハードボイルド風に展開していく。初め無関係に思える三人の運命は、電脳空間のネットワークの中で複雑に絡み合い、最後には一点に集中する(しかし別のレベルで見れば、三人は最後まで無関係に終るともいえるのだ)。
 前作ほどの衝撃力はないが、これはこれで面白い娯楽SFである。あらかじめ『ニューロマンサー』を読んでいないとわかりにくい点があるというのは欠点だが、むしろ『ニューロマンサー』よりも取っつきやすい、ストレートな近未来SFとして読める。逆にひとつひとつ仕掛を読み解いていくような楽しみは少ない。小説としての完成度はいくぶん高くなったようなのだが(キャラクターがより人間的にわかりやすくなった、というような意味で)、読み終ったあと、何か当り前のSFを読んだ感じがしてしまうのは、やっぱり『ニューロマンサー』のあとだから仕方がないんだろうなあ。
 ギブスンという人は、コンピュータについてはあんまり詳しくないそうだ。技術的な面もそうだが、ユーザーとしてもパソコンやワープロを使い込んだという経験はないらしい。それが欠点だというつもりはないが、そういう目で見ると、彼の描く電脳空間はテレビのコマーシャルに出てくるCGの世界なのだなということがわかる。すべてが抽象的、視覚的で、手触りがないのだ。彼の描く現実世界がリアルに薄汚れているのに対し、電脳空間は清浄で幾何学的なイメージに満ちている(まあ、デッキがそういう風に編集して見せているからではあるが)。エンジニアが設計したものではなく、アーティストが描いたものなのである。それが間違っているといいたいのではない。それも現代を象徴する記号なのだから。しかし、現実に近未来に現われてくる人間とコンピュータとの関係は、もっと違うものとなる可能性がある。その兆候は、例えば矢野徹氏の『ウィザードリィ日記』の中にも現われていると思う。
 かつて、SFにおいてコンピュータは神だった。底知れぬ力を持つ巨大コンピュータがピカピカの清潔な神殿に鎮座し、白衣の技術者たちが最高位のエリート神官としてそれに仕えていた。これはある程度当時の現実をデフォルメしたものだった。分散処理の時代、パソコンの時代になって、現実の状況がまず変化した。コンピュータは俗化し、神秘性は失われた。神官たちはもはやエリートではなく、エンドユーザーから怒鳴られるだけのさらりまんになった。神秘性は個々のコンピュータを離れ、システム全体に分散された。「どうしてお金が出てくるの?」「どこかで誰かがうまくやっているのさ」ギブスンにとって、電脳空間とは神秘的な誰かがうまくやっているどこかである。それは聖なる空間であり、ブードゥの神や聖処女が立ち現われるもうひとつの世界なのだ。これは確かに現代のある一面を捉えている(あのコマーシャルに出てくる銀行のおじさんのように)。でもその感性は、今やむしろ古風な気さえする。いいや、だからこそかっこいいのだよ。

機械たちの時間         神林長平

 本誌に連載された長篇SFである。アドベンチャーSFとは銘うたれているが、派手なアクションやストーリー展開で読ませるものではなく、現実感覚の崩壊するディック的な世界を描いた、どちらかといえば思弁的なSFである。とはいっても、もちろん退屈な実験小説ではなく、娯楽SFとしての筋は通っているので、安心してほしい。
 主人公は火星陸軍の兵士として無機生命体マグザットと戦ってきたハイブリッドソルジャー。脳にTIPと呼ばれるコンピュータが組み込まれていて、人間としての意識とTIPが独自に下す指令への反応という二重の自己をもっている。しかし物語はあくまで人間の立場から描かれ、TIPは彼からみれば他者である。その彼はなぜか一九八六年の日本にいる。マグザットとの戦いで時間を飛ばされたのか? それともここはシミュレーションされた電脳空間なのか? やがて戦友からの呼びかけがあり、二〇世紀の現実は崩壊して、彼は二二世紀へと飛ばされる……。
 様々な謎が現われるが、すべてが明確に答えられるわけではない。答えが重要なのではなく、問いかけが重要なのだ。本書で作者が特に力を入れて考察しているのは、機械知性にとって時間とは何か、という疑問である。物理的な時間ではなく、意識の流れとしての、記憶の連鎖としての時間。これまた認知科学の重要なテーマのひとつである。本書では、生体と機械の時間は逆転しているというアイデアが語られている。評者はこのアイデアに対して何らコメントする立場にないが、コンピュータの意識といったものを考えるとき、時間に着目するというのは面白いと思う。いわば電脳空間(サイバースペース)に対し、電脳時間(サイバータイム)を描いたSFということになるだろう。


SFアドベンチャー 1988年2月号

世界の果て      ジョーン・ヴィンジ

 ヒューゴー賞受賞作『雪の女王』の続編である。続編とはいっても、本書だけ読んでもさほどまごつくことはない。背景と登場人物は共通しているが、十分独立した別の物語として読める。『雪の女王』が長く複雑な、どちらかといえば異世界ファンタジイに近い雰囲気の作品だったのに比べ、本書はコンパクトでよりSFらしい物語になっている。
 惑星ティアマットを離れ、新任地で〈主導世界警察〉の警視をしていたグンダリヌは、行方不明となった愚かな兄たちを捜すために〈世界の果て〉にいた。ここはその名の通りの辺境惑星で、その奥地には人間を惑わし、様々な怪奇現象を起こす謎の〈火の湖〉がある。それは単なる熔岩の湖かも知れない。あるいは原子一個ぶんのサイズのブラックホールかも知れず、地獄への入口なのかも知れない。彼はこの地で知り合った一癖あり気な男たちと共に、奥地への旅に出発する。そこで彼らが出会ったものは……。
 というように、本書は典型的な冒険SFの体裁を備えている。しかし、物語の中ごろから優勢になってくるのは、派手なアクションというよりも、主人公の生まれ育った文化的背景や彼の内面的な苦悩、前作ともつながる〈巫子〉の能力の謎、そして何よりも幻想的な〈火の湖〉の存在といったものである。一度失われた〈旧帝国〉の遺産の上に成り立つ宇宙文明――この設定はSFではあまりにもありふれたものだが、ヴィンジの手にかかると、いかにもしぶい本格SFとなるのだ。日本ではあまり評価の高くないヴィンジだが――それもわかるのだけれど――評者はわりと好みなのです。目新しさはなく、結末もちょっと甘いと思うが、やっぱりこの〈火の湖〉のアイデアはいい。SFです。

銀河英雄伝説 一〇       田中芳樹

 完結した。はは、ついに完結しましたね。と前に使ったフレーズをついまた使ってしまいましたが、『銀英伝』全十巻堂々の完結であります。作者自身十巻で終ると宣言しての完結ですから、何もいうことはないわけですが、正直なファンの心理としては、シリーズものは完結することなく無限に続いてほしいと思うものでしょう(そして評者もそういうファンの一人であります)。
 さてストーリーやキャラクターについては本誌の別冊特集も出るということなので、ここでは例によってSFとしての『銀英伝』という角度から捉えてみることにしましょう。となると、すぐに思い浮かぶキーワードは「スペースオペラ」であり、「未来史」です。「スペースオペラ」については議論する必要もないでしょう。何万隻という数の宇宙艦隊が壮絶な戦いを繰り広げ、個性ある魅力的な英雄たちが堂々と活躍する、まさにE・E・スミスやエドモンド・ハミルトンの大スペースオペラを現代に蘇らせた感があります。しかもその描写力は並大抵のものではない。映画『スターウォーズ』がスペオペを読み慣れた目にも衝撃的だったように、『銀英伝』の大艦隊同士の戦闘シーンは、他に見られないずば抜けた迫力をもっていました。また「未来史」についても、作者自身が本書を「架空歴史小説」と呼んでいるように、まるで中国の史書を読むようなタッチで宇宙帝国の興亡が語られ、最初に読んだときこれは宇宙版『三国史』じゃないのかと思ったほどです。ここにもまた作者の独特の魅力があふれているといえるでしょう。
 ところで、本書をSFという観点からみると、作者が実際に書きたかったのが「架空歴史小説」だったからでしょうか、従来の伝統的なSFの志向とは異なっている点に気が付きます。そのひとつが科学技術の扱いです。例えば宇宙艦隊の戦闘シーンにしても、科学的に正しいかといえば、ちょっと疑問でしょう。もちろんそのこと自体は大きな問題ではありませんが、このシリーズには従来のSFに見られた宇宙船や兵器に対する細部へのこだわりや、宇宙文明に関するSF的なアイデアといったものがあまり見られないのです。事実、科学的な正確さという点については、作者はあえて「サイエンス・フィクション」にはこだわらなかったように思えます。全編を通じて科学者や技術者はあまり登場せず、戦略や戦術の描写はあっても、軍事技術的な側面にはほとんど触れられていないようなのです。SFという観点から見た場合、これはかなり異質なことです。果して新兵器の出てこないスペースオペラがこれまであったでしょうか。実際、『銀英伝』の世界では科学技術の進歩は止まっているようです。また社会構造等についても、政治勢力の平面的な興亡があるだけで、本質的・革命的な変化はないようです。SFとは変化の文学だという定義がありますが、それからすれば本書はSFとはいえないことになってしまいます。
 しかし、本書がSFの定義にかなうかどうかはともかく、全十巻のボリュームを飽きることなく読ませる、すばらしく面白い娯楽小説であることは確かです。また、本書のような未来の宇宙を舞台にした「架空歴史小説」をSFではないと決めつけるのも愚かなことに思われます。『帝都物語』よりはるかに常識的なSFに近い外見を持ちながら、本書は同じようにきわどいSFの外周部を形作っている作品だといえるでしょう。そしてそれこそが、わが国のSFが達成しつつある領域拡大のひとつの成果だといえるのではないでしょうか。とにかく、〃後世の歴史家たち〃と共に、完結を祝いたいと思います。


SFアドベンチャー 1988年3月号

進化の鎮魂曲         豊田有恒

 本誌に五年前から掲載された六篇と書き下ろし一篇を含む連作短篇集である。著者の得意な古生物学テーマ、進化テーマの作品が集められている。
 本書の特徴は、科学的なテーマの解説に時にはいささか過剰と思えるくらいの分量が割かれていることである。ストーリーそのものは重要ではなく、進化の現場を目で見ること、科学が明らかにした太古の大事件を迫真的に描くことに作品の主眼が置かれているように思われる。その点、本書は様々な新知識――天然原子炉、恐竜温血説、隕石衝突による大滅亡、人類の起源、等々――を小説形式で描いた、この分野の啓蒙SFとして大変興味深い。同じような説明が繰り返し現われるので、はじめ少しくどいようにも感じたが、逆にだからこそ一般読者にもわかりやすいものとなっているのだろう。迫真的な描写という点では、恐竜の滅びた日を描いた「大破局」、新生代の巨大哺乳類どうしのスローモーな、だが力あふれる戦いを描いた表題作など、いずれも印象的で一読の価値がある。
 なお、本書では生物の進化を人間の歴史とのアナロジーで語っているところが目立つ。これは理解の容易さという面からは面白い方法だと思うが、あまり科学的とはいえないだろう。もう少し進化のメカニズムに踏み込んだ、より科学的、あるいはSF的な議論がほしかったような気がする。その意味では、進化の原因をSF的仮説として述べた「進化の引金」が面白い。
 いずれにせよ、本書は日本SFでは数少ない科学重視の作品集である。また著者が昔から書き続けてきたテーマの、すぐれたスケッチ集ともなっている。そのいくつかは、今後ぜひ長編化して頂きたいと思った。

虚無回廊 TU         小松左京

 八六年から八七年にかけて本誌に連載された長編SFである。本当に多くのファンが待ち望んでいた通りの、本格SFの傑作だ。ここには大宇宙がある。大文字のセンス・オブ・ワンダーがある。深い科学的・哲学的スペキュレーションがある。だがきわめて残念なことに、まだ完結していない。それだけが本当に残念だ。早く続きが読みたい!
 SFファンにとって、この種の本格SFというのは、徹夜してでも一気に読まなければならないものなのだ。そこでいったん本を置き、悠久の時の流れ、果てしのない宇宙空間にしばし呆然と我を忘れ、余韻を楽しむ。それからまたあちこちとディテールを楽しむために読み返す……と、こうでなくちゃあいけない。一番いいのは、本書を買って読まずに置いておくことだろう。そして一刻も早く続きが出るよう、作者や出版社にお願いすることだ。さあ、いますぐハガキを書きましょう(聞いた話では今年中には本誌への連載が再開されるということだが)。
 とはいうものの、評者は精神衛生上悪いと思いつつ、連載時にも読んだし、いままた単行本で読み返してしまった。だって面白いんだもの。で、案の定、早く続きが読みたい病に悩まされている。いってみれば、これから一同を集めていよいよ探偵の謎解きが始まるというところで、第一部終了なのだ。これはつらいよ。謎解きそのものはテーマとの関連で考えればある程度予想はつくのだが、それを作者がいかに語るかということが重要なのだ。なにしろ『果しなき流れの果に』から二十年の時間がたっているのである。その間の科学の成果と、作者の経験、思索の深まりがそこには反映されているはずだ。
 実は、本書についての最もすぐれた解説は、本書の帯に書かれた堀晃氏の推薦文である。一、二巻とも、帯は必ず残しておくようにしなさい。評者としてはつけ加えることもあまりない。本書が小松SFの中で、『果しなき流れの果に』から「神への長い道」『継ぐのは誰か』「結晶星団」「ゴルディアスの結び目」とつながる作品群の正当な後継者であるという氏の意見には全面的に賛成である。本書でも例えば前半部は『さよならジュピター』と同様の近未来ハードSFとして読むことができる。それだけでも大したものであって、コンピュータやAI、言語理論についての的確な認識と将来展望が描かれている(科学技術の現状を単に理解しているだけでなく、さらに専門の研究者にも刺激となるようなアイデアを示している点で、きわめて優れたものだといえる)が、後半部についていえば、まさに作者以外の誰にも書けない世界が展開しているのだ。その第一のテーマは、乱暴ないい方をすれば、宇宙における人間の実存とは何か、個の、種の、生命の、主体性とは何か、何で我々はここにいて、何処へ行こうとしているのか、ということである。それを「私」の問題としてより、宇宙における意識の一般論として考えようとするのだ。実に本格SFでしか扱えないビッグテーマだといえる。このようなビッグテーマを正面から扱う作家は、海外でもほとんどいない。しかし、昔からSFファンが最も優れたSFに感じた魅力は、このようなビッグテーマへの、いささか気恥ずかしいくらいなストレートな取り組み方だったのではないだろうか。本書にはまぎれもなくそれがあるのだ。
 長さ二光年の巨大な円筒物体SS。宇宙の知的生命体を呼び寄せる誘蛾灯のようなそれは、意識のるつぼであり、次のレベルの変化への子宮なのかも知れない。自己参照宇宙論では宇宙はそれを認識するものを必要とするという。早く続きが読みたいよー!


SFアドベンチャー 1988年4月号

87年のSF         大野万紀

 一九八七年という年はSFにとって重要な年だった。まず〈サイバーパンク〉がその全体像を明らかにしてきた年だといえる。それはSF界を越えて、マイナーではあるが一つの流行語にまでなったとさえいえる(テレビを見てたら、映画の『ロボコップ』をサイバーパンクといって紹介しているおじさんがいました)。グレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』、ウィリアム・ギブスンの『クローム襲撃』と『カウント・ゼロ』、ブルース・スターリングの『スキズマトリックス』、それにルディ・ラッカーの『時空の支配者』も含めると、『ニューロマンサー』以後の〈サイバーパンク〉の話題作はほとんど網羅したことになるのではないか。このように客観的には八七年は〈サイバーパンク〉の年だといってもいいくらいなのだが、なぜか個人的にはそれほどの印象がない。というのも、評者にとってはもっと重要なことが起こっているからだ。はい、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの訃報であります。そしてアルフレッド・ベスターの。『愛はさだめ、さだめは死』と『たったひとつの冴えたやりかた』というティプトリーの八七年に翻訳された二冊の短篇集はその衝撃的な自殺の報とあいまって、〈サイバーパンク〉の全てを合わせたより、評者には印象的なものだった。それが八七年は重要な年だという根拠の一つにもなっている。そのほかにもコードウェイナー・スミスの『ノーストリリア』、キース・ロバーツの『パヴァーヌ』、ジョン・ヴァーリイの『バービーはなぜ殺される』といった個人的に大好きな作品が訳されたことも大きい。その『パヴァーヌ』を出したサンリオ文庫も、ディックの作品を最後になくなってしまった。これも重大事件だ。翻訳SFではほかにもオースン・スコット・カードの『エンダーのゲーム』を注目作に挙げたい。
 日本のSFに目を移すと、まずは田中芳樹の『銀河英雄伝説』と荒俣宏の『帝都物語』の完結が挙げられる。このふたつの堂々たる物語性をもったシリーズは、日本SFの独自の可能性を境界線上で拡大したものだといえる。その一方、伝統的なSFのテーマをストレートにかつ重厚に展開した作品(未完ではあるが)小松左京の『虚無回廊』は、まちがいなく八七年の最大の注目作である。また個人的に目立ったところとしては、短篇ながらストレートなSFの面白さで読ませる草上仁の『こちらITT』、SFかどうかはわからないがとにかく面白い清水義範の『国語入試問題必勝法』、まだデビューしたばかりだが、本格SF作家誕生の期待がもてる柾悟郎の作品などが挙げられる。
 そのほかの話題として、パソコン通信ネットワークの発展(PC−VANにもSFのSIGができたし、ティプトリーの死を伝えてきたのも海外のパソコン・ネットだった)、またコンピュータ関連で矢野徹の『ウィザードリイ日記』をぜひ挙げておきたい。

ノヴァ   サミュエル・R・ディレイニー

 とっても素敵なSFだ。二十年前に書かれた作品だが、ここには若さがあふれている。生き生きとして、鮮烈で、ちょっとナマイキで、ペダンティックで、ひとことでいえば、かっこいい! そして、とても美しく、華麗な文章。壮大なスペースオペラにして、意識の深層に響くシンボルとアレゴリーに満ちた未来の神話。タローと聖杯、超重元素と感覚シリンクス。機械と人間の一体化。登場するのは裸足のジプシー少年と、饒舌なインテリ青年と、ものに憑かれたような船長と、邪悪なプリンスと、美しく謎めいたその妹……。そして舞台は潮の香りと漁師の声が聞こえるイスタンブールの下町から、灼熱した熔岩の割れ目が光るトライトンの酒場へ、さらにプレアデスの凍った都市にある大邸宅から、爆発するノヴァの中心へと広がる……。あなたがSFファンなら、本書は一ページ一ページを読むことが快感であるような、そんなとっても心地のいいSFであるはずだ。
 これは子供の頃からスペースオペラが大好きな、同時に正統的な科学と文学に深く傾倒し、とはいっても本の虫であるよりも外に出る方を好む早熟な少年が(まあディレイニーが本書を書いたのは二四、五才の時だから、少年とはいえないが)、スペオペと芸術の統合を目指してありったけの技巧を凝らし、思いっきりいろんなテーマを突っ込んだ、マルチプレックスな青春SFなのである。こういうのって、ちょっと頭のいい野心的なSFファンなら、たいがいやってみたいと思うものなんだよね。まあ無惨な失敗をするのが目に見えているのだが。うまくいくのはディレイニーのような(そしてベスターやコードウェイナー・スミスのような)本当の天才の場合だけだ。
 本格SFというものはそのままでも文学や芸術でありえるかも知れない。でもあからさまなスペオペを同時に様々なレベルで楽しめるものにするには、ちょっとした気負いと技と才能が必要だ。若いディレイニーはそれをやった。だから、本書を讃えるならばそこにある複雑なアレゴリーのネットワークを分析することよりも、それをうまく明快なスペースオペラの枠組みに包み込んだことこそを賞賛すべきだろう。表面的なレベルであまりに読みやすいことを非難してはいけない。荒俣宏氏のことばを借りると、これは「サブリミナル小説」というべきものである。各種のシンボルは無意識に訴えるために選ばれたのであり、意識的に分析されるために置かれているのではない。それは後でゆっくり考えればいいのであって、とりあえずは無意識がその深みを感じ取ってくれればよいのだ。
 とはいうものの、本書が若々しい小説であるという理由には、そういう構造を作者が喜々として開けっぴろげに語ってくれているということがある。変な韜晦はなくて、手の内を自信をもって見せてくれているのだ。さわやかな同志的友情(?)。小説の中で作者自身が楽しげに語りかけてくる。猫とネズミ(カティンとマウス)がディレイニーの直接の分身であることは明らかだろう。作者はギターを抱えてヨーロッパを放浪していたことがあり、本書も一部はギリシアで書かれている。マウスの感受性とカティンの才気はディレイニーその人のものである。本書はわりとストレートで私的な青春小説でもあるのだ。
 わー、おおげさな文章になってしまった。実をいうと評者にとって本書はたっぷりと思い入れの詰まった作品であり、こういう作品を書評するのは、いささか気恥ずかしいことなのである。オーバーな表現はどうかお許しを。とにかく、この傑作がついに日本語で読めることを心から喜びたい。

敵は海賊・猫たちの饗宴     神林長平

 宇宙海賊課刑事の黒猫型宇宙人アプロと相棒ラテル、そして人工知能をもつ戦闘艦ラジェンドラのトリオがくりひろげる、ちょっとシリアスなドタバタコメディ。シリーズの長篇第二作である。
 このシリーズは明らかにコメディをねらったドタバタSFなのだが(町の人々が猫になっちゃったり、情報軍とのとんでもない野球試合があったり)、その一方でいかにも神林SFらしいシリアスな趣向がいろいろ凝らしてあるのが楽しい。前作もそうだったが、本書も作者はCATシステムというコンピュータだということになっている。ちゃんとコピライトの表示もしてある。実際本書の中ではコンピュータたちが人間以上に大きい顔をして出てくる。ラジェンドラしかり(ラジェンドラが野球に参加するシーンは笑った)、メニアックしかり。逆にいうと人間もコンピュータのソフトウエアと大差はなく、リアルとファンタジイの区別は重要ではない。ついでにいえば、シリアスとコメディの区別も。ここでは「現実というのは幻の一形態にすぎない。物の形など、幻にすぎない」という神林SFの原則が貫かれている。そして本書を成り立たせている言語の問題。「抽象的で人工的な言語空間が、表の世界だ。おれは、ジュビリー、言葉に支配されたくはない」と宇宙海賊はいう。もはや彼らはスペースオペラの宇宙海賊の役割を超越し、エントロピーの擾乱者としての宇宙的な意味を持ち始める。そこに本書の作者であり、物語の中では敵でもあるCATSがからんで、あらゆるものが人工的で不安定な、いいかえればハチャハチャな世界を作り上げるのだ。もちろん、そういうことを深く考える必要はない。楽しく読んで、それで充分なのだけれどね。


SFアドベンチャー 1988年5月号

岬一郎の抵抗           半村良

 毎日新聞に連載されていた長篇小説。超能力者と一般社会の関わり合いをテーマにしたSFだが、本書はそれを思考実験として真正面から考察した、本格的なスペキュレイティヴ・フィクションの大作である。
 舞台は東京の下町。この町のアパートに暮らす、しがないサラリーマン岬一郎が、ある日とてつもない超能力に目覚める。彼を利用しようとする者、危険視する者、信仰する者など、様々な人間模様が描かれるが、彼はその能力が強大になるに従って、人類の中における超人類としての自らを自覚し、ほとんど聖者のような存在となっていく。必然的に起こる権力との戦い。だが多くの同テーマの作品と違い、本書ではこの戦いはドラマチックな盛り上がりを見せない。真の戦いは目に見えないところで行なわれているからだ。それはちょうど遠い国の戦争をニュースの断片で知るのと似ている。岬一郎自身がそのフィルターとなっているのだ。超能力者ではなく、まして聖者ではないわれわれには(そして本書の登場人物たちにも)、岬一郎の真の苦闘は見ることができない。
 本書の舞台となる町にはちゃんとした地名がついている。東京都江東区松川三丁目。こういう地名が実在するのかどうか評者は知らないが、いかにもありそうだし、その日常風景のリアルな細密描写がますますその感を強める。新聞連載時には、町の人々をしわの一本一本まで描いた挿絵が、さらに効果を高めていた。読者にとって、この町とその住人たちは、どこかよその土地に住む他人でありながら、何の違和感もなく接することのできる日常の風景に見えるのだ。それは新聞の三面記事やテレビのニュースで、日々目にしながらまたすぐに忘れ去る、そういうものと似ている。そしてこのことは、下町に超能力者が現われたという(馬小屋に生まれたキリストとパラレルな構造を持っていることにも注目したい)ひとつの大事件を、SF的で非日常的な次元から、たちまち三面記事の次元に引き下ろす。人類の進化という大きなSF的テーマを扱っているにもかかわらず、物語は徹頭徹尾日常の視点から描かれるのである。下町のおじさんやおばさんのゆっくりした時間が、本書では最後まで流れているのだ。
 本書の主人公といえる野口は、いわば〃降りた〃人間である。かつては辣腕の雑誌記者で、政財界の裏側の非日常的な時間の中を飛び回っていた彼は、今はこの町で小さな印刷屋をやっている。彼は本来なら岬一郎事件のただなかにいて、その様々な展開をわれわれにレポートしてくれるべき人間だった。物語の途中までは実際そのように進むのだが、事態が進展するに従って、内面的な変化はともかく、彼は事件から疎外されてしまう。ただの町の人の一人になってしまうのだ。町の外では、マスコミがなにやら騒々しいレポートを流している。だが町内の人々はそんな騒ぎはうさん臭いものだと知っている。よそ者はおおげさに色々なことをいうかもしれないが、岬さんは神様みたいないい人だよ。つまり、そういうことにすぎないのだ。
 おそらく第三者の目から見ると、岬一郎が本当に超能力者だったのかどうかはわからないはずだ。雑誌やテレビが誰かを超能力者だといったところで、信用できるものではないことは御存知のとおり。大勢の人が生神様だと信じ、その人のおかげで医者に見放された難病が直ったとかいう人が、本当に超能力者かというと、現実には単なるサギ師である可能性が高いものだ。実際にそういう人が逮捕されたとかいうニュースもある。超能力テーマをリアルにつきつめるなら、結局本書のような結論に至るのかも知れない。


SFアドベンチャー 1988年6月号

蜂工場         イアン・バンクス

 去年イギリスで開かれた世界SF大会へ参加した友人が、イアン・バンクスという作家がすごい評判だったと教えてくれた。たくさんのファンが、「彼の作品は読んだか? まだならぜひ読め」と、異口同音にいっていたという。そのイアン・バンクスがもう翻訳で読めるのだから、日本と海外の時差も小さくなったものだ。
 本書はしかしSFではない。SFに近い要素もあるのだが、現代のイギリスを舞台にした心理的な恐怖小説である。超自然的な要素はない。またグロテスクな話ではあるが、スプラッター的な描写は少ない。荒涼としたスコットランドの小島で元ヒッピーの父親と暮らす少年。学校へも行かず、自分だけの世界に閉じ込もって小動物を相手に儀式的な残虐行為を行なう彼は、我々の基準からすれば確かにまともではないのだが、決して怪物的な殺人鬼といったものではなく、我々にも理解可能な少年である。精神病院を脱走して帰ってくる彼の兄にしても、結局は単なる病人にすぎない。この小説が読者に恐怖感やおぞましさを感じさせるのは、ショッキングなシーンにつながる異常さが、ごく普通の人間の心の中にあるものとほんの紙一重のものだからである。これは怖い。ま、チェーンソーを持った狂人の殺人鬼が追っかけてくるのも怖いけど、ふと知り合ったまともそうな女性があなたのペットを煮殺すのも怖いでしょう(本書の話ではないので、念のため)。
 ところで、ここで詳しく書くわけにはいかないが、本書の設定にはかなり無理な点があるといわざるをえない。SFやファンタジイなら許される範囲のものなのだが、ちょっと気にかかった。むしろはっきりSFにした方がよかったんじゃないだろうか。

驚愕の荒野           筒井康隆

 読みやすい実験小説。構成としては前衛的だが、ベースとなる物語は決して難解なものではない。作者の最近の実験的な作品を敬遠していた向きにも、ぜひ読んでみてほしい作品である。何よりも短いので楽に読める。
 本書を開いてまず驚くのは詩集のようなそのレイアウトだ。各ページの下半分に物語が印刷され、上部は空白になっている。この空白は、活字とわれわれの間に広がる空間を否応なく意識さえ、われわれがストレートに物語の中に溶け込もうとするのをやんわりと妨げる。これは紙の上に書かれた物語であって、あなたはその読者にすぎないのだということを、つい目に入るこの空白が、さりげなく指摘しているのだ。
 これは完結した物語ではなく、その断章である。さらにその中に、より小さな物語の断片が含まれている。断片と断片の間には時系列的なつながりがあるが、大きく抜けている部分もあり、またその間にこの物語を読む子供たちの情報が割り込んでいる。終わりの方ではこれらがさらに細片となり、文字通り切れ切れになってしまうのである。
 評者はここでコンピュータ的発想の比喩を使いたい誘惑にかられる。つまりこの全体を暴走したコンピュータ・システムに喩えるのである。もともとここには物語の情報を蓄えたファイルがあった。そこには生き生きとした幻想的な物語が語られているのだが、コンピュータから見ればそれは単なる文字の列である。物語を読む子供たちの物語は、これより一つ上のレベルで動いているプログラムである。しかしそれもシステムから見れば一つのファイルに過ぎない(現在のコンピュータ・システムでは、情報であるデータとそれを操作するプログラムの間には本質的な差はないとされている)。さらにその上に、システムの動きをモニターで監視している者がいるとしよう(それがわれわれだ)。モニターテレビに映し出されるのは、時々刻々のシステムの状況である。ある時はそれはプログラムの動きであり、またある時はデータの内容そのものである。データ(物語)を読んでいるのはわれわれではなくプログラム(子供たち)なのだ。われわれはそれを観察している第三者にすぎない。やがてどこかで障害が起こり、システムは暴走する。切れて空回りする映画のフィルムを見るように、無意味な空白の中に断片的な情報が現われては消える。実際、本書の最後の部分では、暴走したコンピュータの画面上に現われる切れ切れな意味を、目を凝らして読みとろうとするのと同じような緊張感が味わえる……。
 本書に描かれた物語は、どことも知れぬ幻想的な世界でたくましく生き続けようとする少年たちの、暗いがすがすがしさの残るファンタジイである。おそらくは仏教的な地獄の風景に近い、苦痛と争いに満ちた世界。死後の世界? しかもそれはさらに輪廻する複数の世界に階層化され、登場人物たちはその中で死んではまた生まれ変わっていく。だが彼らの多くは、地獄の亡者というにはあまりにも明るく、前向きだ。ファンタジイ世界の冒険者たちのように、彼らは積極的に仲間をつくり、戦いに挑み、どこかへと進んで行く。それが結局は賽の河原で石を積む子供たちと同じ行為なのだとしても。
 この背景となるどこか日本的な風景は、作者の過去の幻想小説に現われたものと、おそらく同じものだろう。なぜかなつかしい感じがする風景。夢の中で見るような、どこかセンチメンタルで郷愁を誘う、そして恐ろしいものの潜む〃場〃である。それを冷静に外部から観察する視線。この二重性に、SFとの関連を見ることはできないだろうか。


SFアドベンチャー 1988年7月号

独裁者の城塞       ジーン・ウルフ

〈新しい太陽の書〉四部作完結編である。
 このシリーズはアメリカで大変な絶賛を受けたものだが、日本では(一部のファンを除いて)あまり評判にならなかったようだ。客観的に見ればそれも無理からぬ点があったように思う。字のぎっしり詰まったぶ厚い翻訳ファンタジイ。わかりやすい一直線のストーリーはなく、主人公の回想をもとにとてつもなく込み入った(時には不条理とさえ思える)物語がえんえんと続く。何度も前に帰らなければ話についていけなくなるややこしい伏線。すかっと明るいフラットな世界とは正反対の、重い、暗い、陰鬱な、何層にもなった複雑で濃密な世界……。
 けれども、このシリーズには、多少努力してでも、エピソードの一つ一つをじっくりと読み解いていきたくなる、そういう魅力、面白さがあると評者には思える。いや、頭を使ってパズルを解くように読め、というのではない。パズルは自然に解けるし、また一つや二つ謎を見落としていても、それほど大した事ではない。これは謎めいた不思議な冒険譚を、とりとめなく思い出すままに語ってくれる、〃すごい爺さん〃のお話なのだ。ある時は恐ろしく、ある時は美しく、またある時はほら話のようなそのお話……。
 遠未来SFといういい方がある。遥かな未来世界を舞台にしたこの種のSFは、ファンタジイと限りなく接近する。とほうもなく発達した科学は魔法と見分けがつかなくなるというわけで、この領域ではSFとファンタジイの見かけ上の差というのはほとんど意味がなくなり、かろうじてその基調となる視点によって区別され得るものとなる。それは、単純化していうなら、人類や文明の運命にポイントがあるのか、主人公たちの個人的な運命にポイントがあるのかということだ(これとは別のパターンもあるが、ここでは詳しく触れないことにしよう。一例として、第一巻のあとがきに紹介されているアルジス・バドリスの考え方がある。彼のファンタジイの捉え方は評者と若干異なっている)。ジーン・ウルフの四部作がSFかファンタジイかと議論されるのはこのレベルにおいてである。疑似科学的な説明やSF的小道具・大道具が出てくるからではない。その背後に人類や文明の未来に対する思弁があるかどうかということなのだ。
 そして、それはあるというのが結論だ。それもたっぷりと。しかし、その一方で、それがはっきりと語られてはいない、様々な断片から読者が組み立てなければならない、ということも事実である。本書『独裁者の城塞』は、四部作の中でそれが最も明確に語られている巻であり、だからシリーズ全体をはっきりとSFに傾ける、起承転結の結にあたる巻だといわれているのだ。
 本書ではこれまでの疑問のいくつかにSF的な説明が与えられ、この世界の成立ちが(すかっと明快にではないが)宇宙的規模で解明される。でも、評者にとっては、それゆえに四部作の中で最も魅力に乏しい巻となってしまった。まあそこまでいってはいいすぎなのだが、それまで努力をしながら読んでくると、今度はそれが癖になって、あいまいにほのめかされているだけの方がいい、という気分になる。正面からずばりといわれると、何かあからさまな感じで赤面してしまうのだ(何の話だって? はい、SF性の話です)。
 ともあれ、本書で四部作は堂々完結。今までつん読していた人は、ぜひ第一巻からじっくり時間をかけて読んでみて下さい。ある程度読み進むと、面白くて止まらなくなるはずです。メモをとって読むのがいいかも知れない(それだけの価値はあります)。 


SFアドベンチャー 1988年8月号

優雅で感傷的な日本野球    高橋源一郎

 第一回三島由紀夫賞を受賞した作品。うーん、SFとはいえない。で、もちろん野球小説ではない。純文学といったら何のことかわからないし、やっぱり実験小説と呼ばれるものでしょうか。そういう所属不明なわけのわからなさでは、SFといっていいのかも知れない。マンガという方が近いような気もするが……。
 野球がテーマになっているのだが、それはたぶんSFで宇宙テーマとか時間テーマとかいうのと同程度の意味だ。つまり、おそらくは作者があの阪神タイガースの優勝という〃異常事態〃を契機に、日本野球というわれわれの深層意識に食い込んでいる不思議な存在をあらためて意識し、とめどない知的な饒舌を開始したというわけなのだろう。ね、いるでしょ、野球の話から突然自由連想的なおしゃべりを始めるやつってのが。確かにあの阪神の優勝・日本一というのは、どこか別の時空の出来事のような異常さがあった。トラキチの潜在意識が日本列島の時空を揺るがし、常識を越えた奇跡を起こした。阪神が日本一になった日、たまたま京都でSFフェスティバルが開催されていたという事実を知る人は少ないだろう。あの夜、異様な空気が関西の各都市を覆ったのだ。うーん、やっぱりSFかなあ。
 本書はそれとは関係なく、いくつかの断片的で奔放な文章から成り立っている連作長篇である。それらの断片は〃ある意味で〃野球と関係している。世界中の本から野球に関する記述を書き移そうとしている男の話がある。だがそれは直接野球のことを書いた記述というよりは、何かの啓示のように、ワープロの変換キーを押すことによって思いがけず現われて来る言葉のように、彼にとっての野球を思い起こさせるものなのである。ルナールの『博物誌』、ヤクルトおばさん、中島みゆきの詩、そして野球とは何の関係もないことが書かれている『テキサス・ガンマンズ対アングリー・ハングリー・インディアンズ』という断章。あるいはカントを読み、実践理性によってスランプ中も勝ち続けるエース・ピッチャー。彼はまたライプニッツに倣って野球の中に単子を見る。あるいは失われた野球を捜し求める叔父に、野球の手ほどきを受ける少年。「注意しろ、耳を澄ませろ。この世の中に野球と無関係なことはひとつもない」そして彼は、ある時は二時間以内に九百個の野球詩を作る荒行、ある時はリモコンを握りしめて毎日百本以上のポルノビデオを鑑賞するというハード・トレーニングに耐えるのだ。あるいは〃監督〃が語って聞かせる「日本野球創世綺譚」――これは傑作。評者は思わず笑いころげた。ほとんど筒井康隆している、なんていうと作者に怒られるだろうか。この監督はとにかく〃影響力を行使〃する。それはもうすごい威力なのだ。そして神を任命する。NTTのファクシミリ回線を司る神や、朝日新聞土曜日経済欄の神など、監督によって神に任命された選手は数多いという。それにまた「早駆けのニワトリ」と「腹ペコのオオカミ」についてもよく知っている。きわめつけは「日本野球」の創世神話。監督によると、様々な神を経て生まれたネケレケセマッタ神が「日本野球」を創造したのだそうだ。この神は妹とあちこちを旅しては「日本野球」した。すなわち、交換したり、省略したり、引いたり、縮小したり、抹消したりしたのだという。よくわからない? 評者だってよくわかりません。でもとにかく面白い。R・A・ラファティのほら話SFみたいに、やたらと面白く読むことができた。こういうのが三島由紀夫賞を取る「日本文学」なら、もっと読んでみたい気がする。


SFアドベンチャー 1988年9月号

サターン・デッドヒート    グラント・キャリン

 これからは再びストレートな〃物語〃の時代だ――と、そういう気がする。サイバーパンクもいいけど、もっとスカッと単純で一直線な物語性を持った、SFっぽいSFが読みたいという、そういう読者も多いのではないだろうか。評者はどちらかというと複雑なプロットを持った(ただしその背後には一本筋が通ってないと、単なる混乱になってしまう)SFっぽいSFというのが好みで、だからサイバーパンクも決して嫌いではないのだが、でも季節はもう暑い暑い夏、星がいっぱいの宇宙で追いかけっこをするという、こんなストレートな宇宙冒険SFもいいなあと思う。いいえ、はっきりいえば大好きです。
 本書は中篇版が以前SFマガジンに掲載されたことがあるので、内容についてはご存じの方も多いだろう。土星の衛星で異星人の遺物が発見された。スペースコロニーの大学で考古学を教えるクリアス教授が、そこに記された図形の解読にあたる。その結果、土星近傍に同様な遺物が隠されており、それを見つければ異星人からの〃秘宝〃が手にはいるらしい、ということがわかる。そうして始まる地球対コロニーの宝物争奪戦。といっても、派手なドンパチというよりも、ジェットコースター感覚の追いかけっこが中心なのは、夏向き気分でとってもよろしい。
 主人公のクリアス教授はもともと学究肌のあまりぱっとしないおじさんだったのだが、コロニー上層部の強引なやり方によってこの事件に巻き込まれ、それに反発しながらもついついのめり込み、ついにはヒーローにまでなってしまう。敵を含めて、誰からも好かれるという、なかなかステキな味のあるキャラクターである。この他にも土星のリングの隙間を超絶的な操船技術ですり抜けて見せる天才少年とか、魅力的な人物が多く登場する。またそれらの人物がみな人間的な温かみを持って描かれているのも好ましい点だ。
 著者はNASAの宇宙ステーション計画に参加し、宇宙物理学、生理学、生物物理学の博士号を持つ科学者だということだが、ハードSF的な側面は物語中によく消化されていて、あまり派手に前面に押し出されてはいない。土星のリングの描写などに、いかにもそれらしいというところが見られるが、一般の読者には気がつかない人も多いだろう(別にそれでかまわないのだけどね)。土星近傍の宇宙空間を舞台にしているというので、かつて天文ファンであったというオールドSFファンの郷愁を誘う点も多い(これは解説で指摘されている通り)。天体望遠鏡を持った子供がまず見ようとするのは月と土星だ。そういうみずみずしさを備えた、ハインラインのジュヴナイルを思わせるSFらしいSFだという解説の指摘も全くその通りと思う。
 ただし、この作者、物語作りの腕は悪くないのだが、小説の描写力という点ではもうひとつなのですねー。コロニーは地球の軌道上にあるのだが、ついつい土星との距離感を忘れてしまう。太陽系の広さとか、土星の巨大さ、リングの壮観、衛星の奇妙さ、コロニーや宇宙船内の生活のそれらしさ等々、要するに魅力的なSFXがちょっぴり足りないのだ。これがあれば本当に第一級の娯楽SFになったのにと惜しまれる。小説におけるSFXとは、単なる描写のもっともらしさを越えて、イメージ豊かに読者に訴えかけてくる文章上の〃効果〃である。センス・オブ・ワンダーもそこから生まれるのだ。昔から宇宙SFには舞台の広がりにイメージの広がりが追いつかないという問題があった(せめて対数スケールでいいから追いついてほしいと思う)。この点では、舞台が太陽系を越えて広がるという続編にぜひ期待したい。

パパの原発      マーク・レイドロー

 サイバーパンク派と目される二〇代の新鋭作家による、ブラック・コメディ。ただし、タイトルやあらすじ紹介から想像されるような〃まともな〃コメディではない。
 …お向いのご主人は、なぜかわが家を目のかたきにして、わざわざ家庭用ミサイルを設置しちゃうし、それに対抗したうちのパパなんて、ガレージに原発をつくっちゃった!…というような話だったらほんとはよかったんだけどねぇ。それなら、〃お隣もの〃のホーム・コメディに軍拡競争や原発問題をからませて諷刺するといった、お定まりではあるがそれなりに筋の通った小説になっていただろう。たとえ五〇年代のシェクリイのエピゴーネンだといわれようとも。ところが現代っ子のレイドロー君は、ちょっとでもまともに話が展開しかかると、すぐにチャンネルを変えてしまう。だから話はぐちゃぐちゃ、ここはどこ? わたしはだれ? の世界になってしまうわけ。それがメディアの現代だ、といわれれば、そうですかという他はないのだが。ちなみにサイバーパンクSFというのはメディアSFと呼んだ方がよりぴったりくるのではないだろうか(スチュアート・ブランドの『メディアラボ』を読んで特にその感を強くした)。それはともかく、本書はその場その場のギャグを楽しみ、宗教的保守主義への恐怖を味わう、というのが正しいSF現代っ子の読み方なのだろう。いやー、ギャグは確かに面白かった。特に両親が主人公の青年に「実はお前はホモだったのよ」と〃告白〃するところは笑った。他にも面白いところはあるのだが、元ネタがわからない(わかってもピンとこない)のが多くて、そういうのはちょっとうっとーしい。まあシェクリイと張り合うにはまだまだ早いようですね。


SFアドベンチャー 1988年10月号

二〇六一年宇宙の旅   A・C・クラーク

 スペースシャトル〈チャレンジャー〉の悲劇が、まだしばらくは書かれないはずだった『二〇一〇年』の続編をクラークに書かせてしまった。作者の覚え書によれば、『二〇一〇年』の続編は今年木星に到達するはずのNASAのガリレオ探査機の成果を得て、一九九〇年頃に書かれる予定だった。だが〈チャレンジャー〉の事故によりガリレオ計画は延期されてしまう。クラークはきっぱりという。「わたしは待たないことにきめた」
 クラークは新しい木星の情報の代わりに、ハレー彗星に関する最新の知識を用いて本書を書いた。二〇六一年はハレー彗星の次回の接近の年にあたる。『二〇一〇年』がボイジャーの産物であるように、本書は直接には八六年のジオットを始めとするハレー彗星探査計画の産物であるともいえる。従って、小説として本書を見た時、ハードSFファン以外には物足りない点が多いかも知れない。本書は『二〇一〇年』のストレートな続編というより、次の大きな展開に向かう幕間の一エピソードというのがふさわしいようだ。ストーリーとしては不時着した宇宙船への救難活動がメインになっている。フロイド博士(ほとんどクラークその人だ)がまだ現役でがんばっていたり、ハレー彗星や木星系の奇観、豪華客船を思わせる宇宙船での太陽系横断などわくわくするシーンは多いのだが、本書の真の魅力は、最新の科学知識をいかにもロマンティックなものとして、小さなエピソードの連続で表現するクラークの手慣れた筆致にある。ハードSFファンにはそれがこたえられないのだ。評者には救援に向かうため最高速で太陽系を横断する宇宙船のエピソードが特に印象に残った。その光は地球から肉眼で見えるのである。これはすごいよ。

マイ・ブラザーズ・キーパー    チャールズ・シェフィールド

 カタカナのタイトルがどうもしっくりこないが、つまり双子の兄弟が事故にあって、死んだ兄の脳の一部が弟に移植され、それが次第に弟の意識に割り込んでくる――というわけで、「我が兄を内に持つ者」といった意味になるのだろう。聖書のカインとアベルの物語などとも関連があるようで、なかなか象徴的なタイトルである。ただ本書はこの設定から想像されるようなゴシック・ホラーではなくて、軽快な娯楽冒険小説となっている。兄は合衆国諜報員だが、弟はただのピアニスト。手術の後、彼は謎の組織に追われ始める。少しづつ明らかになってくる生前の兄の行動。移植されたのは兄の右脳であり、言語中枢を持たないため、弟と言葉によるコミュニケーションはできない。ときおり現われる映像や漠然としたイメージが兄からのメッセージである。この辺がいかにもハードSF作家であるシェフィールドらしいところである。
 それにしても、本書はSFというよりは普通の冒険小説である。ヒーローやその周囲の登場人物の人物描写が良く、いくぶんバイオニックものの雰囲気もあって、肩の凝らない娯楽読物となっている。類型的は類型的なのだが、それだけツボを押さえた小説というわけである。シェフィールドは本来科学者であり、小説は余技として始めたはずだ。評者はこれを読んで、有名な天文学者フレッド・ホイルの、本格SFとは別系列の作品を思い浮かべた。あちらの科学者って、本格的なハードSFだけじゃなくて、肩の力を抜いたこういう娯楽作品を軽く書いちゃうんだよねぇ。それでもそこそこの水準に達しているんだから、えらいもんだ。むしろ本格SFには力が入りすぎて、こういう作品の方が一般には読みやすかったりするのです。


SFアドベンチャー 1988年11月号

ブラックホールを破壊せよ    J・クレイグ・ウィーラー

 テキサス大学の天文物理学者が書いた娯楽SF。主人公はCIAの科学情報部長。ソ連空母で発生した謎の火災を発端として、米ソ間に戦争の危機が起こり、スペース・シャトルやキラー衛星を使った宇宙空間での小競り合いがあり、CIA内部の権力闘争や、ソ連スパイとの接触や、いろいろなサスペンスをからませて、やがて地球の破滅を招きかねない恐るべき事件の真相(といってもすべてがブラックホールのせいだというのはタイトルでわかっちゃうんだけど)が明かになる。というように、SFと今はやりのハイテクがらみの軍事サスペンスとの接点のような作品である。著者はトム・クランシーの『レッド・オクトーバーを追え』に刺激されて本書を書いたらしいが、専門知識を駆使して書いたというわりには、それは表面にはでてきていない(地球を貫通する軌道を持ったマイクロ・ブラックホールが宇宙から来たものではないとする議論や、それがホーキング効果でなぜ蒸発してしまわないか、といったあたりにわずかに現われてはいるが)。むしろキラー衛星とスペースシャトルの戦いの描写の方に、それっぽさが出ているような気がした(これはなかなかの迫力。宇宙飛行士が素手で衛星を破壊するのだからすさまじい)。
 訳者のあとがきにはハードSFのファンとしてひっかかるところがある。訳者は科学雑誌や一般向け科学解説書などでよく見かける方なのだが、SFの中には著者に科学知識が不足していて、まったく現実とかけ離れたものが多いと述べた後、「本書は著者の了解を得て、あまりに専門的すぎる部分など、一部を割愛してある」と書いている。そこが読みたかったのに! というハードSFファンも多いんじゃないだろうか。

スバル星人          大原まり子

 『処女少女マンガ家の念力』で始まったこのシリーズもこれで三冊め。ところでこれは何シリーズっていえばいいんだろう? ミヤコ先生シリーズ? リーベント下高井戸五〇三号室シリーズ? それはともかく、初めて読んだ時の衝撃は薄れたものの、本書がなかなか〃変な〃小説であることは間違いない。ここで〃奇妙な〃小説というと、文学的にしゃれた、味のある、といったニュアンスになってしまうが(そうじゃないというわけじゃなくて)、ここはちょっと大阪弁っぽく「変なやつぅ〜」という軽いタッチでいきたいと思う。誰が変なやつかって? そりゃあスバル星人ですわ。世田谷は三軒茶屋あたりの路上でミヤコさんがばったり出くわした巨大アリのような異星人。基本的にはミヤコさん以外には感知できないのだが、例外もあり、周囲への物理的な影響力もある。例えば食べ物が皿から消えたりとか。それが透明人間になったり、ゴルゴ13を演じる高倉健に植木等を混ぜたような〃かっこいいオジサマ〃になったりして、ミヤコさんを第一印象がホンダシティカブリオレの超高性能小型宇宙船に乗せて、いろいろと遊んでくれるわけです。例えば四五〇〇万円のロシアン・セーブルの毛皮のコートをヒヤカシで試着したのち、そのまま盗んで逃げるとか。青山通りでヤクザにドつかれそうになるが、車ごと空中に舞い上がって逃げおおせるとか。ミヤコさんのちょっと恥ずかしい願望充足。
 でも、楽しいだけの話にならない。それはミヤコさんを取り巻く霊の(あ、例のと変換するつもりが、こっちの字が出た。でもこっちもある意味で正解だなあ)人々が複雑にからんでくるからである。運命とか、因縁とかそういったややこしい関係性が、ファッショナブルで躁病的な文体の下に重く、おも〜く横たわっている。このあたり、高級マンションと学生アパートみたいに文体は違うけど、岬兄悟を思わせるところがあるなあ。もともと作者には乱雑な現世の背後にある(より高次元な……宗教的ともいえる)秩序、あるいは〃システム〃への視線というのが感じられたのだが、この作品でもそれが強く押し出されている。ここでそれを現代の電子メディアがまき散らしシャッフルしている記号――情報の〃システム〃として捉えればサイバーパンクとの親近性がクローズアップされるだろうし、宗教的・オカルト的な隠された秩序として捉えれば、えーと、まあ似たようなものかも知れない。女性週刊誌やテレビのワイドショーを見ればわかるように、流行のファッション、ブランドもの、かっこいいお店の記事と、どろどろした人間関係、オカルト、霊的なあれこれの記事は、隠れた次元の秩序の元に断片化され、新たに配列されて、読者や視聴者に提供されているのだから。
 そういうわけで、本書は今までの三冊の中で一番あからさまにSFしているということができるだろう。スバル星人が出てきて願望充足してくれたり、ちょうどタイム・パラドックスもののように現実を修正して人々の記憶が変化したり、といった〃非・日常〃の部分が多く、わりと普通にSFとして読めるわけだ(SFじゃなくてオカルトだという意見もあるだろうが、ここでは厳密に区別する必要もないだろう)。その点、前の二作は〃超・日常〃小説だった。それは霊魂やUFOや何やかやがでてきても、前の作品ではそれらをシステムとして説明しようという姿勢がなかったからである。それらはミヤコさんや周囲の人々の日常の延長として、横糸のないままに、当人たちの個別な視点から描かれていた。今度はグローバルな視点が現われたのだ。さあ、あなたは神(システム)を信じますか。


SFアドベンチャー 1988年12月号

木星プロジェクト    G・ベンフォード

 グレゴリイ・ベンフォードのヤングアダルト向けSF。宇宙での生活、木星やガニメデの描写といったハードSF的側面もしっかりと書き込まれている。従来の重くて暗い作風に慣れた読者にはこれが同じベンフォードかと思えるほど、読みやすく前向きな小説になっているが、これはもちろん主人公が少年であり、その一人称で書かれているということが一番の理由だろう。でもぼくらの頭の中にあるSFの原型的な姿というのは、図書館で読んだハインラインとか、こういう未来を向いた目を持つ少年たちの物語じゃないのかな、という気がする。つまり評者には大変好感の持てる作品でした。
 舞台は太陽系の辺境ガニメデ(と同一軌道を回る研究ステーション)。研究所にいる数少ない少年少女たちの日常生活。彼らはこの閉ざされた環境の中で、木星研究を続ける両親たちと共に、自分たちの開拓者的な生活を誇りとし、ここで何かすばらしい科学的発見をすること(あるいはそのサポートをすること)こそを最重要の目標としている。とりわけ主人公のマットにとってはそうだ。彼には地球での生活など考えられない。しかし、地球の経済事情はそういうエリートたちの自己満足を許さず、プロジェクトの中止が決定される。そんな中で、少年たちは自分たちの信じるところに(あるいは子供っぽい衝動に)従って、逸脱した行動をとり始める……。結局はそれがうまくいって、SF的な大発見につながり、嬉しいハッピーエンドとなるわけだが、仮にうまくいかなかったとしても、本書はそれなりに納得のいく小説となっていただろう。ここまでうまくいっちゃうと、まるでホーガンみたいじゃないですか。いや、それはそれでいいのですけどね。

赤い涙              東野司

 SFマガジンでデビューした作者の初めての短篇集である。作者にはシリアスな作風のものとユーモラスな作風のものと二系列の作品があるが、本書はシリアスなものがおさめられている。
 和製サイバーパンクというような言葉はどこにも書かれていないが、本書にはサイバーパンクの作品と共通する表面的な特徴があふれている。バイオチップ、ネットワーク、あふれるコンピュータ用語、ハイテクに群がるチンピラたち。ハードボイルド風な文体とやや過剰にセンチメンタルなところまでも。で、きっと出版社はあえてそのものずばりの言葉を避けたんじゃないかなと想像する。でも、どうせ純粋サイバーパンクなんてないんだから、そんなに気にしないで堂々とサイバーパンクで売ってもいいのにと思う。
 作者はコンピュータには詳しい人なのだろう。専門用語の使い方などはいかにもそれらしい。また未来社会の設定なども今の日本の最先端部分から作り上げたような、違和感の少ない、入り込みやすいものとなっている。
 六篇が収録されているが、いずれも力のこもった作品である。評者の好みでいえば「門ひらくときに」「任務」「こんにちは赤ちゃん」がいい。「門ひらくときに」はいかにもサイバーパンクという話。ちょっともたつくが、最後のネットワーク空間の描写が好きだ。「任務」は冷たい方程式テーマ。「赤ちゃん」はもっとマニュアルぽくってもよかった。
 本書のあとがきはテクニカルライターという作者の職業を反映してか、ユーザーマニュアル風に仕立ててある。面白いと思う人もいるかも知れないが、評者としてはもっとオーソドックスに作者の声が聞きたかったような気がする。


SFアドベンチャー 1989年1月号

邪眼 (イーヴル・アイズ)          柾 悟郎

 ハヤカワSFコンテストに入選してデビューした、いま評判の新人作家の初短篇集である。書き下ろし二篇を含む六篇が収録されている。
 本書の六篇はいずれも同じ未来の日本を舞台にした、連作といっていい作品群である。サイバーパンクとの関連が話題になっているが、大いに関連があるとすれば、そのハードボイルドでややセンチメンタルなスタイルと、人間の肉体や精神を機械とも交換可能なモノとして扱う視点だろう。だが、遺伝子文化共進化、カオスからの形態生成、機械のもつ人格情報といった、社会生物学や認知科学的なテーマは、どちらかといえばあの、人類とは進化とはといった大テーマに取り組む、オーソドックスな本格SFのものだといえる。
 作者はそういった現代科学と関連するテーマについて、あちこちで興味深い発言をしている。作品だけがすべてだ、というタイプの作家とは、明らかに異なるようだ。だが、確かに、そういった補助線を何本か引いてもらわないことには、一般の読者にとって、これらの作品で作者が考察しようとしているテーマを見いだし理解することは、かなり骨の折れる作業であるといえる。作品中では、それらのテーマは、どちらかというと情緒的にしか描かれていないからだ。そのレベルでは容易に理解できるのだが、その下にある現代科学の思想と論理は、わずかなキーワードとして現われているにすぎず、本当に理解しようと思うと相当の努力が必要となる。作者の選んだ領域は、まだまだ一般の読者にとってなじみの薄い分野だからである。
 一例として表題作で作者のデビュー作である「邪眼(イーヴル・アイズ)」を見てみよう。表面的には、主人公であるマインド・ソフトのデザイナーとその背後にある企業が、対立する新興宗教の教祖と闘うという話である。退廃的な未来社会、風俗、一匹狼的な感性を持つ雇われものの主人公。スピード感ある硬質な(そして、ちょっと気恥ずかしいくらい気負った)文体で語られる物語。だが作者によれば、そういうサイバーパンク的(あるいは、より作者に忠実にいえば、伊藤・浅倉訳のティプトリー的)なスタイルで描いたこの作品のテーマは、社会生物学で論争となった、遺伝子と文化の相互進化にあるという。確かに、この作品をもう一つのレベルで見ると、対立しているのは主人公=教祖=マリア対、主人公を雇っている専務に代表される企業・官僚制=そして「聖なる共感(ホウリイ・エンパシイ)」の体制である。ここには脳と遺伝子の対立、そして個性と文化の対立が、利己的な遺伝子と利己的な文化子をキーとして相互作用している様子が描かれている。ややこしいことに、作用はある時は正方向、ある時は逆方向で、しかも対立関係も互いに入り組んでいるので、最後の方でいくら説明されても読者にはよく理解できないのではないだろうか。またこのレベルの力学が表面的なストーリーにかなり強引な影響を与えているのも、気になる点である。同じように認知科学的テーマにとりつかれている神林長平のように、もう少し整理したなら、もっとよかったんじゃないだろうか、なんてね。いやー、でも読みごたえのある話だった。
 他の作品も、なかなか多層的な読み方ができるようになっている。で、他の作品では、デビュー作に比べ、さすがに表面的な物語が読みやすくなっていて、「お天気がとまらない」なども大変楽しく読めた(でもこの話の内容はとても難しい。カオスからの秩序形成時に強制振動としてミームが働いたら、といったような話だと思うのだが、評者にはよくわかりません)。また「風殻」は、C・スミスを思わすなかなかの傑作である。


SFアドベンチャー 1989年2月号

つねならぬ話           星新一

 星新一の最新短篇集。「はじまりの物語」「もしかしての物語」「ささやかれた物語」の三つのパートからなっている。
「はじまりの物語」は創世神話あるいは世界の成立ちについての物語であり、八篇が収められている。中国のチョイン一族の神話であるとか、海洋民族ロパホ族の神話であるとか書かれているが、おそらくすべて作者の創作だろう。いずれにしても、ここにはおおらかなほら話の豊かさがある。どうせ神様のすることだから、わけなどわからない。つじつまが合わなくたっていいのだ。という前提のもとに世界や物事の成立ちを語ろうというのだから、なんとも不思議なお話となるわけだ。とはいえ、これらは本当の神話ではなく、現代のSF作家の手によるものなのだから、その奇妙さは単に素朴なものというよりも、ひと味もふた味も違ったものとなる。最初にある「風の神話」では世界は自動販売機から生まれる。風が運んだカードがそれに入って、そこから川や海や太陽や動物や人間が生まれるのだ。寓意を求めてはいけないのだろうが、どこかSF的なアナロジーを感じさせる。現代の天文学を知っている読者にとっては、「さざれ神話」も面白いだろう。古典をそう解釈できるという面白さもあるが、それ以上に、科学も結局神話の一つなのかも知れないという相対的な視点がある。それは科学への懐疑というのではなく、だから同じように楽しめばいいという態度である。
「もしかしての物語」は伝説パートである。自然や物事の始まりを描く神話的ファンタジイが「はじまりの物語」なら、こちらは歴史上の人物についてのロマンチックな伝説を語っている。義経、マルコ・ポーロ(の弟)、豊臣秀頼を主人公にした三篇が収められているが、実をいうと評者には本書の中でこのパートが一番面白かった。要するに荒唐無稽、波乱万丈の大歴史ロマンなのである。本書の中では長い部類に入るが、ごく短い枚数の中で大長篇になるくらいの数々の冒険が、あれよあれよというぐあいに描かれている。ただ主人公たちはロマンチックな英雄というにはどこか醒めていて、どうやら現代人が乗り移っている感じがある。星新一の登場人物には、このように淡々としていながら印象的という、優雅で貴族的な人物が多いような気がする。ある意味でカッコいい今風のヒーローだ。それはともかく、本来長篇娯楽伝奇小説になるべき内容をとことん蒸留し、エキスとしているのがこのパートの作品だ。すべての枝葉をはしょりながらも大長篇を読んだ気分になる。もともと伝説の原型的な部分とはそういうものなのだろう。これらの話を長篇の娯楽伝奇小説にしたならば、通俗的すぎて面白味には欠けるかも知れない。でも、ぜひ読んでみたいと思う。
 最後の「ささやかれた物語」はもっと素朴で、いかにも民話風の味がある。作者の夢の中にささやかれた十四篇と、最後の一篇はあとがきといったところだろう。このパートの物語は本当に創作という感じがしない。浮遊霊が作者に乗り移ったというのを信じたくなる。どこかの昔話にありそうな、奇妙で謎めいた話ばかりである。だが「不思議だが、理屈は考えても仕方が無い。世の中はそういうものだ」というような諦観が共通して見られる。おそらく最初は、こういう、何だか不思議なことがあった、よくわからないが気になるといったところから、物語が始まったのだろう。それが神話や伝説へ、そしてファンタジイやSFへとつながっていったのだ。
 装丁がいい。どこか浮世離れた感じがある。詩集を思わせる大きな活字も、神話・伝説を語るのにちょうどいい雰囲気だ。


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