『サンリオSF文庫総解説』より

 大野万紀

 牧眞司・大森望編『サンリオSF文庫総解説』(本の雑誌社)掲載
 2014年9月18日発行
ISBN978-4-860-11260-8


■エンパイア・スター サミュエル・R・ディレーニ
 若きディレーニ(これはサンリオ表記。ハヤカワではディレイニー)が、最も才気溢れていたころ、『バベル−17』と同じ1966年に出版された短いけれど大傑作(本当に大傑作なんだから!)。
 辺境の少年が宇宙を旅してエンパイア・スターへと至る冒険と成長の物語であり、後の「スター・ウォーズ」にもイマジネーションがつながる大スケールのスペースオペラであると同時に、シンプレックス、コンプレックス、マルチプレックスという意識と観点のあり方、時間と空間が混ざり合い、過去と未来がつながりながらも、その中で人々の運命と関係が重なり合っていく、そんな複雑で多層的で本格SF的な構造と、それを直感的に理解させる、軽やかで若々しい語り口。本当に夢中になって読んだものだ。
 久しぶりに読み直してみても、あのころの高揚した気分が戻ってくる。決して難解な文章でもない、こんな短くユーモラスで、若者らしい才気に満ちたSFに、これほど豊かなイマジネーションと深い考察が満ちているなんて。ちっとも古びてなんかいない。最後の、マルチプレックスな意識によって、この簡潔な物語に、いかに多くのことが重ね合わされていたかわかるところなど、読みながら涙がにじんでくるほどだ。
 サンリオ版の訳者、米村秀雄はぼくの大学でSF研を立ち上げた仲間だ。手書きのガリ版刷りの同人誌に、彼自身のイラスト付きで一挙掲載されたこの小説を、ぼくらはそれがいかに面白く、いかにすばらしいか、誰かれかまわず吹聴してまわったものだ。
 それがサンリオSF文庫の一冊となることが決まり、加藤直之の表紙で(オカリナを持ったコメット・ジョー、そして八本足の悪魔猫の可愛らしいこと)出版された。そしていまだに多くのSFファンの心をつかんでいる。2014年のオールタイム・ベストSF(SFマガジン七百号)で、海外長篇部門の二十八位に入っているのだ。ちなみに前回2006年のオールタイム・ベストSFでは二十位。ずっと絶版であるにもかかわらず。
 本書は、1993年に岡部宏之による別訳(同題名)が『プリズマティカ』早川書房に収録されている。が、これも絶版。いずれ国書刊行会から出る予定の短篇集『ドリフトグラス』に新訳で収録されるとのことだが、いつになることだろうか。

■ロードマークス ロジャー・ゼラズニイ
 永遠の過去と未来を結び、時空を貫いて続く〈道〉。ありえたかも知れないさまざまな現在への枝道、細道が分岐し、どんな時代のどんな場所へも行くことができる。限られた能力をもつ人々だけが、その出入り口を見つけ、〈道〉を進むことができるのだ。
 その道を、危険な荷物をピックアップ・トラックに積んで、過去や未来へ運ぼうとする、いつも葉巻をくわえたタフな男、レッド。彼の傍らには美少女(に違いない)の声をもつおしゃべりな詩集型のコンピュータ、〈悪の華(フラワーズ・オブ・イーヴル)〉と(こっちはもう一人の主人公がもっているのだが)〈草の葉(リーヴズ・オヴ・グラス)〉。
 そして彼を標的にして襲ってくる、〈黒の十殺〉と呼ばれる殺人ゲームに雇われた、恐ろしく凄腕の殺し屋たち。格闘技の達人である修行僧や、脳だけ人間のサイボーグ戦車、さらにはコントロールされたティラノザウルスまでも。
 いっぽう、彼の友人で、一個のウィルスから惑星全体まで破壊できるというエイリアンの残した最終兵器は、陶芸が得意で、普段は枝道の先にあるアビシニアの山奥で壺を焼いている。
 〈道〉を行き来する人々の中には、ヒットラーやサド侯爵の姿もある。レッドの息子のランディも、この〈道〉に入り込み、父を捜して時空の旅を続ける。
 そして空には、すべてを超越したベルクウィニスの大ドラゴンが悠々と羽をはばたかせている……。
 何このラノベと思われるような、全能感たっぷりのプロットだが、ぼくにとって本書はゼラズニイの最高傑作のひとつである。エンターテインメントとしてストレートに読んでも面白いし、作者のお遊びをゆっくり味わってもいい。
 とにかく何もかもがかっこいいのだ。カットバックが繰り返され、時間線も人物も入り乱れ、凝りに凝った複雑な構造をしているのだが、でもそれがとても読みやすい。何も考えなくても楽しく読める。そして敵も味方も、人間もコンピュータも殺戮機械も、、登場人物たちのみんな生き生きとして魅力的なこと。 
 複雑な時間線の謎解きは、読んだ後で津田文夫(彼も海外SF研究会の古い友人だ)の解説を読めばいい。そこでも述べられているが、このマルチプレックスな世界観は、まさにゼラズニイが書いたもうひとつの『エンパイア・スター』だといえるだろう。

■逆転世界 クリストファー・プリースト
 異星とも地球ともつかぬ荒廃した大地を、どこまでも移動して行く都市〈地球市〉。二百年前の建設者たちの技術をギルドの厳しい徒弟制によって守り伝えながら、荒野にレールを施設し、ウインチで巻き上げ、川には橋を架けて、決して止まることなく進む。あらゆる犠牲をいとわず、都市のすべての力を注ぎ込んで。なぜそこまでして都市は進み続けなければいけないのか。
 その答えはこの世界の驚くべき構造にあった。そこで『逆転世界』というタイトルが生きてくるのである。初めて原書で読んだときは、このとんでもない発想にびっくりしてみんなに話しまくったものだった。でも本書でその真相が暴かれるのは話がずいぶん進んでから。それまでは、見習いギルド員の主人公が一人前になるまでの、地味で日常的な毎日、その独特な文化と生活が、リアリティたっぷりに描かれていく。少しずつ、この世界の不可解さを小出しにしながら。
 だからここではその謎については語らないが、読者は物語の中盤で明らかにされる、そのものすごいイメージに圧倒され、驚愕することになるだろう。もっとも、本作もプリーストの作品らしく、結末の謎解きには明らかな矛盾を含み、曖昧さを残したまま、多様な解釈が可能なままに終わる。
 本書は本質的にはいかにもイギリスSF的な、地味で堅実な作品である。決して設定やアイデアだけで驚かせるような小説ではない。むしろ、中世的なギルドで働く人々の汗や息遣いが感じられる、歴史小説を思わせる重厚で読みごたえのある小説なのである。だからこそ、その世界観、明らかに矛盾する二つの世界が重ねあわされているさま、その認識の多義性に関しては、小説の中で生きている人々と同様に、そのまま受け取るべきだろうと思う。この世界や認識の多義性というテーマは、後のプリーストの作品ではますます中心的なものとなっていく。さらにそれは、量子力学や並行宇宙の概念とあいまって、プリーストのみならず、現代SFのきわめて重要なテーマのひとつとなっているのだ。
 本書の訳者、安田均氏は、今ではゲームの世界で有名だが、当時の海外SF研究会の中心人物であり、ずっといっしょに活動してきた先輩でもある。
 なお、本書は1996年に剏元SF文庫から再刊された。

■去りにし日々、今ひとたびの幻 ボブ・ショウ
 SFではたった一つのアイデア、たった一つのガジェットが大きな力を持ち、その後の多くの作品に影響を与えるということがよくある。タイムマシンなどがそのいい例だ。それらに比べればはるかに地味だが、ボブ・ショウの考え出したスローガラスもそんな一つだ。
 ガラス窓の厚さを光が通過するのに、何年もかかるような、そんな不思議な性質をもったガラス。つまり数センチの厚みが何光年もの距離に相当する。
 これが具体的には過去の光景を今見ることに使われる。本書のもとになった短篇「去りにし日々の光」(1966年)では、風光明媚なリゾート地にスローガラスを並べ、何年ものとして売る商売が描かれる。このガラスを家の窓に取り付ければ、美しい海岸の風景が何年間か窓から見え続けるというわけだ。ささやかではあるが、心に染みるアイデアだ。
 もっとも現実の過去を映し出す窓というこの装置は、そんな牧歌的な使い方だけで終わるものではない。犯罪捜査、軍事利用、要人暗殺、そしてあらゆるものを監視する記録装置として……。
 本書は、そんなスローガラスの発明者を主人公に、それまでボブ・ショウが書き続けてきたスローガラス・テーマの短篇を、そのままつなぎ合わせる形で長篇化したものである。同じ一つのアイデアを、さまざまな観点から描き、それを作者が得意とする細やかな人間描写を軸に語ったものだ。何しろ、本書の縦軸にあるのは、仕事一途な主人公の、妻との感情のもつれと、新たな恋なのだから。過去と現在の現実を結びつけるスローガラスの存在がそこに深く関わってくる。
 まあ正直なところ、そっちのドラマはやや退屈で、それほど心に残るものではない。心に残るのは中に仕込まれた短篇の方である。とりわけ「去りにし日々の光」は、今読んでもしみじみとした感動がある。もっとも、デジタルな記録に充ち満ちた現代の読者にとって、スローガラスというガジェットにはさほど感銘はわかないだろう。だが監視カメラが街中にあふれ、人々が携帯やスマホで撮影した映像がネットを飛び交う現代こそは、スローガラスが現実になった時代と考えてもいいのではないか。このテーマをより現代的に発展させたのが、アーサー・C・クラークとスティーヴン・バクスターの『過ぎ去りし日々の光』(ハヤカワ文庫SF)である。

■新しいSF ラングドン・ジョーンズ編
 60年代の後半、SFのニュー・ウェーヴという運動があった。バラードやオールディス、本書でも序文を書いているムアコックなど、おもにイギリスが中心(というか、ムアコックが編集していた〈ニュー・ワールズ〉誌が中心)のムーブメントだった。そのあたりの詳しい話は、本書の訳者解説で、亡き野口幸夫氏が書いているとおりである。実際この解説はすばらしい。日本におけるニュー・ウェーヴ・シンパとしての氏の個人的心境も含めつつ、ムアコックが時代の流れの中でジャンルSFの革新を目指しながらも、資金を得て雑誌を売るという現実的な側面にも力を入れて、精力的に活動していたことを描き出しており、とても面白く読める。なお、ぼく自身のニュー・ウェーヴ観は、その運動がジャンルSFに刺激を与え、その後のSFを変えていったことは事実だが、ニュー・ウェーヴとして書かれた作品自体は、バラードなど一部を除いて、今となってはほとんど読む必要はない、というものだ。実際、まさにこの運動のど真ん中で編まれた本書を読んでも、何か新しい(と作者の思う)ものを書こうとする、若々しい熱気は感じられるものの、思い入ればかりが先走って、ほとんど痛々しいくらいである。作者の多くが、あくまでSFやファンタジイの内部で「新しいSF」を書こうとし、その「新しさ」をどこに求めるかわからず、時代の政治的な断片や、心象風景の微分的な描写をばらまいて、それが「現代」や「未来」を描くと思っているようなのである。とはいえ、それこそがあの時代の若者たちの、ありふれた雰囲気だったのだけれど。
 ところが、ずいぶん久しぶりに本書を読み返して驚いたのは、ジョン・スラデックの中篇「使徒たち─経営の冒険」だった。これは傑作だ。文体はニュー・ウェーヴ風。狂騒的な時代を背景にし、モンティ・パイソン的、あるいは筒井康隆のスラップスティック小説的なドタバタである。だがここに描かれた断片は正しく二十一世紀の現代へとつながる本物の断片だ。インターネットなど影も形もない時代に、まるで今を描いたかのようなスペキュレーション。円城塔が書くみたいなひねったハードSFといってもいい。
 編者のラングドン・ジョーンズはマーヴィン・ピークおたくで短篇集『レンズの眼』が出ているが、本書には作品どころか何も書いていない。

■夢の蛇 ヴォンダ・N・マッキンタイア
 核戦争後の荒廃した世界。砂漠が広がる荒野に、人々は小さな村や町に別れて細々と暮らしている。本書のヒロイン、スネークは、特殊な技能を持つ〈治療師〉として訓練され、一人で村々を回っては、連れている三匹の蛇、〈砂〉と〈霧〉と〈草〉の毒素をもとに病を治療したり予防したりすることを生業としていた。だがある村で、三匹のうち一番重要な夢の蛇である〈草〉が、毒蛇を怖れる村人によって殺されてしまう。夢の蛇は彼女自身が〈治療師〉の本部で遺伝子操作によって作り出したものだった。
 新たな夢の蛇を求めてのスネークの旅が始まる。人々との出会い、別れ。太古のクレーターには致命的な放射能が残り、うかつに近づいた者の命を奪う。科学技術の残滓を今に伝える都市もあるが、彼らは周囲の人々を閉め出している。〈草〉を殺してしまった村の青年は、罪の意識と彼女への想いから、スネークの後を追う。また危険で暴力的なひとりの異常者が、彼独自の理由から彼女を襲おうとする。
 本書が優れたSFであるのは、科学技術や社会に対する多義的な観点がしっかりと描かれているからである(さらにロマンス小説的な隠し味もあります)。
 ヴォンダ・N・マッキンタイアはワシントン大学で大学院まで進み、遺伝学を学んだアメリカの女流作家。1970年、新しいSF作家を育てるクラリオン・ワークショップに参加し、才能を認められてSF界にデビュー。本書のもととなった74年の中篇「霧と草と砂と」でネビュラ賞受賞。78年に本書でヒューゴー、ネビュラ両賞受賞に輝いた。82年にはスター・トレック小説を出版。以後、スター・トレックを中心に映画のノヴェライゼーションを数多く執筆している。彼女のスタトレファンぶりは筋金入りで、それらは決して生活のために書いたというものではなく(確かにそういう面もあったのかも知れないが)、優れたSFとして高く評価されている。また97年の歴史ファンタジイ『太陽の王と月の妖獣』がネビュラ賞を受賞している。
 本書は1988年に、ハヤカワ文庫SFで再刊された。なおサンリオ版の解説は山田和子氏によるものだが、ハヤカワ版の解説は大野万紀が書いており、ネットでも読める。蛇足ながら、大野万紀=タイヤ・マンキで、作者名のアナグラムからきているのです。

■老いたる霊長類の星への賛歌 ジェイムズ・ティプトリーJr.
 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアといえば、オールタイムベストにいくつも作品が入る短篇SFの名手であり、SFファンであれば誰もが知っているビッグネームの一人である。書く作品も凄いが、作者自身の経歴も凄くて、70年代からリアルタイムに追っていたファンたちに、何度も痛烈なショック(これをティプトリー・ショックという)を与えた伝説の人物である。1968年にいきなり謎の作家としてデビューし、70年代にはヒューゴー賞、ネビュラ賞を総なめにしていく、男性名だったが、実は女性だったとわかる、CIAの設立に関わるなどのとてつもない経歴が明らかとなる、そして最後には(本書の邦訳出版一年後のことだが)、アルツハイマーになった夫を殺して自殺。何という生涯。
 本書はそのティプトリーの第三短篇集(邦訳は本書が最初)で、中篇二篇を含む七篇が収録されている。ル・グィンの序文もいい。「ここには本物の物語がおさめられています」と。
 どの作品も語り出したらきりがないのだが、男性の滅びた世界を描きヒューゴー、ネビュラ両賞受賞の「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」、生物学的ハードSFであり、恐ろしく冷たい認識がショッキングな「汝が半数染色体の心」、はるかな過去からの生と死のせめぎ合いを描き、そしてついにそれが一人の少女の姿に結実する「すべてのひと再び生まるるを待つ」、まるで小松左京の作品を思わせるような骨太な宇宙SFで、探査船の乗組員たちが、ある惑星の恐るべき秘密を知る「一瞬のいのちの味わい」、どれもみな読み応えのある、そして異質な観念に満ちた傑作である。
 本書の解説を書いている鳥居定夫は、いわずと知れた水鏡子の別名。トリイ・テイプ=ティプトリーとなる。ウォーターミラージュニア=水鏡子よりまともな筆名だと思う(人のことはいえませんが)。しかし、この解説、75年にぼくが大学SF研のファンジンに書いたティプトリー論がほとんどそのまま引用されているので、恥ずかしくってとても読めません。あのころは原書の短篇集がやっと一冊出たばかりのころで、詳しいことはほとんどわからなかったんだよー。
 本書は1989年にハヤカワ文庫SFで再刊された。その際、一部の作品は訳者が変わって、伊藤典夫氏の新訳により訳し直されている。

■パヴァーヌ キース・ロバーツ
 一発の弾丸が女王エリザベス一世の命を奪い、スペイン無敵艦隊が英国を占領。宗教改革はつぶされ、世界はカトリック教会の支配するところとなった。そんな改変された世界のイギリス。二十世紀後半になっても、科学技術は抑圧され、かろうじて蒸気車や腕木通信の技術が社会をつないでいた。そしてようやく、人々の間に不満がつのりはじめる……。
 大地を力強く走る蒸気車を、汗だくになって動かす男たち。腕木通信の信号塔にこもって、各地を結ぶ情報を命がけで操作するギルドの少年。閉鎖的な社会を解放しようとし、挫折する修道士。法王の軍隊に立ち向かう、勇気ある若き女城主。本書ではそうした人々の姿がきわめて迫真的に、生き生きと描き出され、ファンタジイとも歴史小説とも違う、あり得たかも知れないもうひとつの世界を描いた、まぎれもない傑作SFである。
 本書がSFである理由のひとつには、この世界とわれわれの世界を結ぶチャネルとしての、遙か神話的な高みからの俯瞰的な視点をもつ〈古い人々〉の存在がある。そして四百年続いた中世的社会がこれほど短期間に変革を迎える背景には、SFではおなじみの、テクノロジーの自走性というテーマがある。この二つの視点が、本書の中で相まって、物語の面白さや登場人物たちの魅力だけにとどまらない、深みのある多層的な世界を描き出しているのである。
 キース・ロバーツはイギリスのSF・ファンタジイ作家。プロのイラストレータとしても活躍し、SF雑誌の編集もしていた。魅力的な魔女の活躍する《アニタ》のシリーズや、『パヴァーヌ』同様に重厚な長篇SFもあるのだが、いくつかの短篇を除き、翻訳された単行本としては本書が唯一のものである。
 本書は2000年に扶桑社から再刊され、その際にサンリオ版では省略されていた〈古い人々〉を象徴するマークも追加された。さらに2012年には、ちくま文庫で文庫化がされたが、ここでは章の並びが変更され、それまでの物語の時系列順から、原書通りの並びに変わっている。おそらくこれが決定版だといえるだろう。
 ぼくはいずれの版にも解説を書かせてもらったが、以前の解説を残したまま、新しい記事を追加する形とした。それが最後には、ロバーツの死について記すこととなってしまった。

 2014年8月


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