もしもピアノが弾けたなら
 
〜西田  敏行〜
 

  
 
 もしも ピアノが弾けたなら
思いのすべてを歌にして
君に伝えることだろう
 
 
昭和 56年、ドラマで池中玄太を演じた西田敏行の歌。   

阿久悠さんはいう。   

この頃あたりから男のタイプが変化してきたように思う。
もてる男の主流ははっきりと、背も高く、顔もよく、明るく、楽しく、軽やかでという条件になり、
それまでの男が心の支えにしていた誠実さも、重厚さも、謙虚さもすっかり旗色が悪くなる。
それは同時に、生き方に関しても言えることである。
不器用の奥の真の強さもやさしさも、パフォーマンスがないと感じてもらえない世の中の薄さに、少し寂しさを覚えていたのである。
 

「ピアノ」は、ピアノであってピアノでない。
少しばかり器用なサービス精神と解釈してもらってもいい。
一言でいいのになぁと思いながら、その一言を飲み込んでしまういじらしい男が、ちょっと前までいたのである。
...

西田敏行が演じる鶴を映すカメラマンの池中玄太は、それほどまでに禁欲的ではない。
むしろ饒舌にしゃべり、滑稽に振る舞うところもあるのだが、しかし、よく見ると、心のいちばん深いところには頑固さ、不器用さもあって、僕はそれに「願い」を託してみたくなった。
ただし、それらを旗印にして時代錯誤にはなりたくないので、「ピアノが弾けたら」という言い方を選んだのである。
 

      
だけど  ぼくにはピアノがない...
きみに聴かせる 腕もない 
心はいつも半開き
伝える言葉が残される
      
いい歌詞だと思う。
「わかってくれよ」という思いがありつつも、
ストレートにいわない。
わかってくれなくても、
それでいいと思っている。
 
いいですね、この感覚。
「おぢさん」にはしっくりくる。

現在、池中玄太より体重で1キロ勝っている。