鬼平犯科帳のホームページ(思案橋)

[鬼平犯科帳の世界と橋 ](12)

今回の「大川の隠居」は著者の自選作品の一つであり、また読者アンケートの一位の作品である。犯科帳では話の終わり近くでは斬り合いが起こり、「粟田口国綱」がうなるが、「大川の隠居」では斬り合いはない人情みのある作品である。
 元盗賊の友蔵がいたずら心で、風邪で寝込んだ平蔵の部屋から父・宣雄ゆずりの銀煙管(キセル)を盗んだ。友蔵が持っているのを目撃した平蔵は、今度は粂八と組んでまんまと銀煙管を取り戻した話。舟の上での船頭とのやりとりから、江戸の人情・風情が伝わってくる。「大川の隠居」とは五尺(1.5m)をこえた7・80年は生きている鯉である。


「大川の隠居」[鬼平犯科帳(6)文春文庫 P186-187, P208-209]

 
『 二人は日本橋の南詰から江戸橋へ出て、これを北へわたり、小網町の河岸道を、堀江・六間町
 へ出た。
 日本橋川からの入り堀にかかる思案橋のたもとに[加賀や]という船宿がある。
 そのころ江戸の町は大川(隅田川)をはじめ、いくつもの川と、縦横に通じた堀江がむすびつ
 いており、
「……市中といへども遠路に往くには舟駕を用ふることしばしばなり。雨中の他行などにはいよ
 いよ多し」
 と、ものの本に見えているように、こうした舟便のための船宿は、江戸市中に四百をこえたと
  いわれる。
 さらに船宿は、酒も出し料理も出し、小ぎれいな部屋もあり、男女の密会などには絶好の場所
 でもあって、利用度がまことに多かった。                  』

『 舟は大川橋(のちの吾妻橋)をくぐり、尚も、大川をさかのぼっていた。
  西岸は、浅草・山之宿の町なみの向うに、金竜山・浅草寺の大屋根が月光をうけて夜空に浮き
 あがり、東岸は、三めぐりの土手から長命寺、寺嶋あたりの木立がくろぐろとのぞまれる。
「旦那。明日は雨になりますよ」
 と、友五郎。
「何をいう。月が出ているでないか」
「月よりも、大川の隠居のほうがたしかでございますよ」
「大川の隠居?」
「ほれ、ごらんなせ。あそこに出て来ましたよ」
 友五郎が舟ばたを、手で拍子をとって叩きながら、大川の川面へ向かって、
「おう、隠居。ひさしぶりだな」
 まるで、人にはなしかけでもするように声を投げると、川面が大きくうねった。
 そこへ四川を移した平蔵が、おもわず、
「あっ……」
 といった。
 川波のうねりが、たちまちに舟ばたへ近寄ったかとおもうと、そのうねりの間から魚の背びれ
 があらわれた。
 魚も魚、平蔵と友五郎が乗っている小舟ほどもあろうかとおもわれる、大鯉の背びれなのであ
 る。
 江戸の、しかも川向うの本所に育った長谷川平蔵だが、こんな大鯉が大川に棲んでいようとは、
 考えても見なかった。                          』



 この話の思案橋は日本橋川の江戸橋と鎧の渡(現在 鎧 橋)の間に入る内堀に架かっていた橋であるが、 現在はこの堀は暗渠になって埋め立てられている。先日 現場へ往ってみたが、都・下水道局の工事が行 われていた。「思案橋」は現在はない。この堀の奥には「親父橋」という名の橋があったという。←吾妻橋
 左の写真は吾妻橋。安永3年(1774年)に初めて架橋された。当時の名は大川橋。千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋についで出来た5番目の橋。右手のオブジェはアサヒビールである。地図はこちら。

 

 

 

[大川の隠居に出てくる橋]  日本橋 江戸橋 思案橋 新大橋 両国橋  大川橋(吾妻橋)今戸橋  



 

本所二ツ目の軍鶏鍋屋[五鉄]は犯科帳の中で一番よくでる店である。
 亭主は三次郎。二階におまさが住んでいる。[五鉄]のモデルは『かど家』。清澄通りを行き、竪川の手前を左折して、次の信号のかどにある。(tel 03-3631-5007)。
軍鶏鍋は6000円。
神田の『ぼたん』も鳥鍋であるが、すき焼風、こちらは名古屋風の味噌鍋である。

 

 



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                 (la7m-ymnk@asahi-net.or.jp   山中 政好  )