長谷川平蔵の時代


(1)  [鬼平犯科帳の世界と橋」 このホームページのタイトル。池波ファンは大勢いますが、このホームページは、鬼平犯科帳からその物語とその中に出てくる江戸の橋と現代の橋を結びつけて発信したい。それでは鬼平犯科帳 第一巻の「唖の十蔵」からスタートする。
 鬼平、本名は長谷川平蔵宣以。天明7年(1787年)寛政の改革を行った松平定信によって火付盗賊改役に任じられ、寛政7年(1795年)になくなった。長谷川平蔵についてもこのシリーズで紹介していく。


(2)  私は橋梁を中心に陸上の構造物のつくることを生業にしている一人である。橋は縄文・弥生の時代から丸木橋に始まり、蔦でつくった吊橋、石の橋などがあり、馴染み深く親しみのある構造物である。それは橋が人の出会いもあれば、別れもある人生ドラマの舞台にもなるからかもしれない。長谷川平蔵の物語に出会いと別れの舞台がある。江戸時代の鬼平の世界にその舞台を見てゆきたいと思う。それでは 「鬼平犯科帳 第一巻 本所・桜屋敷」から本所・深川界隈を歩いてみることにする。
 鬼平、本名は長谷川平蔵宣以である。天明7年(1787年) 寛政の改革を行った松平定信によって火付盗賊改役に任じられ、寛政7年(1795年)50才で亡くなった。


(3) [鬼平犯科帳の世界と橋]も3回目になった。できるかぎりこのホームページを1ヶ月に1回は追加・更新したいと考えている。新のページを開くには作家でもないのにそのために現地へ行ってみる必要もあるから楽しい。人との出会い・人と別れの人生ドラマの舞台と同様に、このホームページが池波小説のファンで、橋に興味のある人の出会いとなれば幸いである。
犯科帳は本所・深川をその舞台の中心として展開する。隅田川から東に向かって水路は北から北十間川、竪川、小名木川、仙台堀川が走る。本所は北十間川と竪川の間、深川は竪川から南側の区域である。
 鬼平、本名は長谷川平蔵宣以である。長谷川平蔵が、「本所の銕」と言われた頃住んでいたところは、「南本所三之橋通」現在の地名では「江東区菊川3丁目16番地」だそうである。その後平蔵は目黒に引越しているが、その屋敷に遠山の金さんで有名な「遠山金四郎」が住んだ。
                (滝川政次郎著 「長谷川平蔵」 中公文庫)


(4) [鬼平犯科帳に出てくる橋]をみると、犯科帳1巻にはまだ紹介していない橋があるが、巻を進めて後ほど紹介したいと思う。
 今回は犯科帳2巻に進んで取材することにする。松平定信が老中首座になり、寛政の改革を始めたのが天明7年7月(1787年)、長谷川平蔵の「火付盗賊改方」への就任が天明7年9月である。平蔵の進言で石川島に人足寄場ができたのは寛政2年(1790年)。人足寄場は無宿人者激増対策として、無宿人の犯罪の防止と生産技術を身につけさせ生産人口として元の人別に返すことが目的であった。この人足寄場は幕末維新まで続き、徒場、懲役場、因獄署、監獄署と名称が改称され、明治28年に取り壊されたという。


(5)  火付盗賊改方の役宅は清水門外とある。手元にある嘉永2年(1863年)の切絵図では、清水御門の外側に「御用屋敷」が描かれている。これがその役宅であろう。現在の地図で見れば、千代田区九段南1丁目の麹町税務署の辺りと思われる。今回の舞台ははじめて本所・深川から両国橋を渡り、神田川を挟んだ下谷・浅草と現在の日本橋〇〇町(たとえば日本橋人形町など)とよばれる地域であり、昌平橋はその神田川に架かる橋である。
 現在では秋葉原を降り電気街をお茶の水に向かうと、和泉橋、万世橋、昌平橋、聖橋の順に橋が架かっている。またその昔、この土手は柳原の土手といわれた。


(6)  犯科帳には蕎麦屋がよく出てくる。「そば切り」は寛文4年(1664年)から始まった。

 「ソバの科学」(長友大著)によれば、文化から慶応までの60年間おおむね16文であったという(二八ソバとは粉の割合)。貨幣価値や物価は、その時代の経済状況で変化するので評価はむずかしいが、16文は現在ではいくらになるだろうか。
 文政1両小判は純金が約7グラム強、グラム1400円とすれば(10.25終値 1377円)1両は1万円である。1両が4000文(公定価格、一般相場は6000文)としても1文は2.5円。16文は40円である。また 天明7年の米騒動の時、米1両1斗5升とある。現在の米の価格を10k6000円(4斗60kgとして)とすれば、1両1.5万円。それでも16文は60円である。現在のもりそばは立ち喰いソバでも300円程度、江戸の5〜7倍である。現代の豊かさ・便利さを考えれば、この位の差は至極当然というべきか。


(7)  このシリーズの(7)は「鬼兵犯科帳4巻」から取材して、2巻から4巻に移る。長谷川平蔵は天明8年5月から9月の5ヶ月間は火付盗賊改役を解任されている。この間を利用して、平蔵は京都に遊び、事件も解決している。そのため3巻の物語は京都であり、出てくる橋も京都の橋である。取材ができた時に3巻の橋は紹介したい。
 日の出桟橋から浅草行きの水上バスに乗ると、勝鬨橋に始まり佃大橋、隅田川では一番新しい中央大橋、永代橋の順にいろいろな橋の形式にであう。吾妻橋の袂で水上バスを下船。吾妻橋は鬼平の時代では

 大川橋と言われたものだ。ここから上流に隅田川の右岸が隅田川公園。春の桜は現在もよいが、ホームレスのダンボールホームだけは興ざめ。
 琴問橋をすぎ西側高台に待乳山聖天がある。聖天様は江戸時代から下町庶民に夫婦和合にご利益ありとして親しまれたという。この浅草聖天町に池波正太郎は関東大震災の年(大正12年,1923年)に生まれた。今戸橋は新吉原へ続く山谷堀に架かっていた橋である。


(8) 営団地下鉄東西線の茅場町から永代橋の下をぬけると、次が門前仲町である。西船橋側から外に出ると永代通り。左側に行くと富岡八幡宮の鳥居があり、正面に本殿がある。この深川八幡祭りは江戸三大祭の一つ。文化四年(1804)の祭りに永代橋が落橋、多数の死者を出したという。本殿の東側には横綱力士碑がある。碑には初代横綱明石志賀之助から45代若乃花まで、新しい碑に46代朝潮以降65代貴乃花までが刻まれている。富岡八幡宮での相撲興行は貞享元年(1684)に始まったという。鬼平の時代には鳥居より境内に茶屋、料理屋が軒を並べていたとあるが、今は茶汲女が出る雰囲気はない。小生がここに訪れたのは七五三の季節。小粋な芸者姿に着飾った七五三にふれ、深川を見、辰巳芸者の面影を感じた。


(9)  長谷川平蔵が火付盗賊改役に任じたのは天明7年(1787年)から寛政7年(1795年)の間である。今から200年前が平蔵の活躍した時代であるが、西欧列強の日本開国へのアプローチが始まっている。
 寛政4年(1792年)には大黒屋幸大夫がロシア使節ラクスマンに護送され帰国している。幸大夫は天明2年(1782年)伊勢を出帆し、アレウト列島に8ヶ月の漂流の後、漂着した。3年後、ロシア船でカムチャッカに渡り、ついにペテルブルグまで行きエカテリーナ女帝に拝謁し帰国した。これは井上靖の「おろしや国酔夢譚」(文芸春秋)にくわしい。また、寛政1年(1789年)は、谷風梶之助が第四代横綱になった年であるもある。


(10) 鬼平犯科帳と橋のシリーズも(10)となった。橋の写真の撮影も忙しいが、江戸時代(200年前)の世界の紹介も材料集めが忙しく、ホームページの作成も義務が先になってきた。
 現在は江戸前寿司とはにぎり寿司をいい、日本全国に江戸前がある。「江戸ッ子の生活」(芳賀 登著、雄山閣)によれば、『 江戸前の海とは、江戸町の前の海で、その範囲は平蔵の死後20年たった文政ごろ(1818-1830年)では品川一番棒杭と深川洲崎の松棒杭とを見切りにして、その前の海を江戸前という』と書かれている。この江戸前の海でとれる魚介が本来の江戸前の寿司ねたである。「にぎり」といえばマグロだが、東京湾にはマグロはいないので、江戸前のねたではない。とれた魚介類を列挙すると、魚では、タイ、スズキ、ボラ、黒タイ、コチ、ヒラメ、メバル、キス、ハタ、カサゴ、トビウオ、サヨリ、タコ、イカ、アジ、イナダ、コハダ、アナゴなど、貝類では、アワビ、トコブシ、アオヤギ、タイラギ またエビではクルマエビ、シバエビ、アカエビなどである。
 江戸前を東京湾として、筆者の釣りの経験からいえば、ヒラメ、トビウオ、ハタを除けば、今でも釣果はある。再生産の豊かな海は大事にしたいものだ。


(11) 吉村昭著に「関東大震災」がある。文春文庫としては1977年が第1刷であり、20年前に出版された本である。筆者は阪神・淡路大震災の後、この本にであった。この本は多数の文献と体験者の話をもとに書かれたものである。震災で最も悲惨であった本所・横網町の被服廠跡のその光景が詳しく書かれている。
 この被服廠跡は平蔵の時代は御竹蔵、幕末は米蔵、明治以後 陸軍倉庫、陸軍被服本廠とかわり、面積は約 24,000坪、ここで 38,000人が亡くなった。この人数は1坪に 1.6人も死亡したことにもなる。これは地震後持ち出した家財の火災による。隅田川の橋は新大橋と両国橋の他は、地震による落橋でなく、消失したという。これも持ち出した家財への引火がその原因という。
 相撲で知られている両国国技館の北側の横網公園が被服廠跡である。


(12) 今回の「大川の隠居」は著者の自選作品の一つであり、また読者アンケートの一位の作品である。犯科帳では話の終わり近くでは斬り合いが起こり、「粟田口国綱」がうなるが、「大川の隠居」では斬り合いはない人情みのある作品である。
 元盗賊の友蔵がいたずら心で、風邪で寝込んだ平蔵の部屋から父・宣雄ゆずりの銀煙管(キセル)を盗んだ。友蔵が持っているのを目撃した平蔵は、今度は粂八と組んでまんまと銀煙管を取り戻した話。舟の上での船頭とのやりとりから、江戸の人情・風情が伝わってくる。「大川の隠居」とは五尺(1.5m)をこえた7・80年は生きている鯉である。


(13) 「ミクロコスモスの実験」というのがあるそうである。(石川英輔著 大江戸エネルギー事情)
 ガラス容器に砂や小砂利を入れ、小魚・水草・バクテリアと水・空気を密封する。外部からのエネルギーは光と熱。注意深く管理するときわどいバランスの上で、生命のいとなみが継続するという。地球上の環境は充分の容積があるとはいえ、人間も地球のミクロコスモスに生きているのだという。江戸時代はまさしく太陽エネルギーによる再生産の中で生活してきたが、現代は過去の太陽エネルギーの蓄積である石油・石炭エネルギーを消費して豊かな生活がなりたっている。21世紀のエネルギーは水力、風力、潮力、地熱、太陽電池などの他に、大消費に耐えるエネルギーを何にもとめればよいのか、原子力を含め考えなければならないと思う。


(14)  江戸町奉行は大岡越前守忠相と遠山左衛門尉景元が有名である。忠相(タダスケ)は享保2年(1717)〜元文1年(1736)を南町奉行として、景元は天保11年(1840)〜天保14年(1843)を北町奉行と弘化2年(1845)〜嘉永5年(1852)を南町奉行として活躍した。手元の資料では、江戸265年間に92名が南・北町奉行を勤めている。5・6年が勤続年限というところか。現在の東京駅八重洲口の外堀通りは江戸城の「外堀」であった。この堀に北から、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋が架かっていた。北町奉行所はこの呉服橋、南町奉行所は数寄屋橋のいずれも外堀の城側にあった。現在の位置関係でいえば、北町奉行所は東京駅、南町奉行所は有楽町駅近くにあったことになる。


(15)  鬼平犯科帳の作品の中に出てくる橋は、その数を正確に拾っていないが、「永代橋」が筆頭だと思う。
初代の永代橋は、五代将軍綱吉の50歳の記念に架橋(元禄11年 [1698] )された。年月が経て架替えを幕府に要請したが、財政難を理由に廃橋を申し渡されたために、町方が通行料を2文徴収して維持管理を行うことで存続が図られたという。
永代橋の悲劇は文化4年(1807) 富岡八幡宮の祭礼の日に起こった。すでに100年を経た木橋である。杉本苑子著の「永代橋崩落」にその哀感が描かれている。その後 明治4年に木橋が架橋され、明治30年に道路橋として初めてプラットトラスの形式で「鋼」橋が架橋された。大正12年(1923)の関東大震災で床組が木製であったため焼け落ちて、新たに大正15年(1926)に現在の重厚な下路式タイド・アーチ橋が架橋されている(川崎造船所製)。
 永代橋の名はそのむかし東側の島が永代島と呼ばれていたからという。


(16) 前回は永代橋を紹介したが、今回の「豊海橋」は日本橋川の出口に架かっているフィレンディール橋である。
当時の永代橋は隅田川の上流側に架かっていたが、現在は下流側に架かっている。豊海橋は永代橋西詰めの「永代橋西」を左折してすぐにある。当時はこの橋のたもとに船番所があり、ここを通って日本橋と江戸橋の間の北岸にあった魚河岸に魚が上げられた。
 火付盗賊改方の役宅(現在の九段合同庁舎付近)からは、永代橋までは約5km、1時間程度で歩けた距離であり、大川を渡って深川になる。


(17) 明暦3年(1657)の明暦の大火・振袖火事までは、千住大橋のほかに隅田川には橋はなかった。明暦の大火での死者は10万人以上といわれ橋がなかったために逃げ場を失い、災禍を増大させた。幕府も防災の観点から橋の必要性を認め、3年後の万治3年(1660)に両国橋を架橋した。
 長さ96間とあり、173m、現在の橋より長い。両国橋の名は武蔵と下総の両国を繋ぐ橋から名づけられた。橋の完成により本所・深川の開発が進み、両岸には火除地として両国広小路が設けられ、料理屋や待合、見世物も出、江戸一番の盛り場になったという。右の絵はその様子である。現在は両国の名は西岸側には残っていない。


(18)  江戸に湯屋(銭湯)が開業したのは、天正19年(1591年)というから、まだ秀吉の健在の時代であるが、江戸は家康による江戸城の整備をはじめとした建設ブーム。この後の慶長19年には各町々に風呂屋ができ、湯女(ユナ)がいたというが、普通の湯屋は男湯・女湯の区別のない混浴の「入込湯(イレゴミユ)」であった。鬼平犯科帳には風呂屋の場面は出てこないが、長谷川平蔵が火付盗賊改役で活躍した寛政3年(1791年)に、時の老中・松平定信により「入込湯厳禁の触れ」が出た。「混浴はダメ」というお触れである。そのため、日を定め男女が交互に入浴したようであるが、一日の売上げが少ないことから、浴槽を簡単に仕切ったり、羽目板をたてて男女別にしたという。 しかしその後、庶民は「混浴」を不都合とはせず、お触れも無視され、明治20年頃までは入込湯の方が自然であったようである。


(19)  1・2月はゴルフに遠のき ホームページ作りに励み、週1以上のペースになっている。今回は「錠と鍵」この犯科帳の中で、時々蔵破りのためには「金蔵の錠前を蝋型にとったものから、これにぴたりあう鍵をつくる。」とあるが、「錠前の蝋型から鍵をつくる」と言っても、それで錠前を開けることがはたして可能だったのだろうか。
 ヨーロッパで発明された錠の代表は、ヴォード錠といわれる錠前で、錠の中に突起を作ってその突起をさけて鍵が回転できれば、錠前は開く構造であり、一般に現在使われているのはこの形式の錠前(最近では単に鍵といっているが、錠は Lock で、鍵は Key )である。
 一方、日本の伝統的な錠前は「海老錠」いわれる錠前である。構造は細長い棒のような鍵を差し込んで、二叉に開いた板バネを徐々に閉じれば、錠前は開く構造である。従って錠前の鍵穴の形状と鍵の先端の形状とが正確に一致すれば開くことができる訳である。(大江戸テクノロジー事情 石川英輔著)


(20)  早くも今回でこのシリーズも20回になった。インターネットは現在の時刻のなかで、グローバルな世界との出会いを与えてくれている。このページでは、橋は出会いと別れの場所との思いから、平蔵の江戸の橋と現在の橋をつないできた。現在と現在のサーフィンでなく、現在と江戸とのサーフィンかもしれない。現在と江戸のサーフィンといえば、石川英輔著の講談社文庫の大江戸シリーズが楽しい。
「大江戸神仙伝」「大江戸仙境録」「大江戸遊仙記」「大江戸仙界紀」とあり、愛読している本である。現在には美人で編集者の「流子」がおり、文政の江戸にはしゃきしゃきの辰巳芸者の「いな吉」がいる。二人の亭主が現代と文政をサーフィンできる転時能力者の『私』。いい気なものだが、小説家はさすが想像力豊かである。


(21)  平蔵の活躍の時代に少し遅れて、歴史に名をなした男がいる。
淡路島に生まれた一人の男が神戸の回船業者である北風家の援助を得て、若くして水夫から、船持ち船頭になった。その男とは高田屋嘉兵衛である。北前船による大阪・蝦夷間のピストン輸送を繰り返し財をなした。このシリーズの(9)千鳥橋で、寛政4年(1792) 大黒屋幸太夫が幕府との通商を求めたラクスマンに伴われ帰国したことを書いたが、寛政10年(1798)勘定方の近藤重蔵のエトロフ島の領土確認を受けて、高田屋嘉兵衛は苦労の末、エトロフ航路を開発したという。海運の成功にあわせ、幕府の蝦夷政策の御用を受けて、活躍し北方領土に日本人の足跡を残した。
 淡路島の五色町には生家の近くに「高田屋嘉兵衛記念館」がある。3年程前明石に赴任していたおり現地を訪れたことがある。「菜の花の沖」(文春文庫 6巻)は司馬遼太郎の描く高田屋嘉兵衛の生涯である。


(22)  今回の作品の本門寺はいわゆる池上本門寺(東京都大田区池上1丁目)。JR蒲田から東急池上線で池上駅で降車。本文にも詳しく紹介されているが、日蓮大上人は病気療養のため常陸の国(茨城)に行く途中、この池上の地で病が重くなり入寂した。享年は60歳。荼毘にふされた後、遺骨は身延山に送られたという。
 江戸時代には、徳川家や大名家の信奉も深まり寺勢は栄え、特に9代将軍家重(在位1745-1760)の母深徳院の菩提寺になってからは幕府から特別な待遇を受けたという。長谷川平蔵も本門寺に参拝に行く。この本門寺の石段で、「凄い奴」と戦うのが今回のストーリー。危機一髪、柴犬に助けられた。この犬を門前の茶屋から貰いうけ、清水門外の役宅で飼われることになる。
 平蔵は名をタロからクマにかえ,話に色をそえている。


(23)  千住大橋は文禄3年(1594)というから慶長8年(1603)の徳川幕府の開幕より9年前、伊達正宗が材料を調達し伊奈備前守が橋奉行として隅田川にはじめて架橋した橋だという。
 右の写真は江戸名所図絵の千住川であるが、江戸名所図絵が出版されたのは天保7年(1836)というから、この絵に描かれた橋は、最初に架橋された橋ではなく何回か架替えた橋だと思われる。この千住大橋の橋長は 66間(118.8m)、幅員は4間(7.2m)。絵をみると16径間あるから、1支間長は約7.5m程度。学生時代の橋梁工学の教科書を見てみると、木橋の設計例の支間も8mとなっている。調達できる木材寸法からすれば、この程度の支間が木橋の標準支間というところか。


(24)  この欄はその時々の想いで、鬼平犯科帳の作品や作品に出てくる橋と関連ないテーマもとりあげ書いている。今回の「両国橋」は、(17)の「弥勒寺橋」で触れているが、明暦3年(1657)の明暦の大火の後、千住大橋に続く隅田川に架かる二番目の橋として架橋された。
 永代橋は町人の管理であるのに対し、両国橋は幕府の管理する橋で、両国橋の両岸は広小路ができ賑わったという。また 両国橋は江戸時代に二度流失し、焼落ち五度におよび破損は十数度にわたり改築されたともいう。勿論 当時の賑わいは石川英輔著の「大江戸シリーズ」のように「転時能力」があれば確かめようもあるが、転時能力のない筆者は体験しようもない。
 現在の両国の賑わいは新宿・渋谷に比べくもないが、両国といえば、現在は大相撲の国技館と東京江戸博物館である。江戸東京博物館には、当時の「日本橋」が檜の木肌も美しく原形模型でできている。


(25) 朝鮮通信使は慶長11年(1606)の将軍秀忠の時代から文化8年(1811)の間に12回の渡来があった。朝鮮通信使の派遣は朝鮮国王の書簡を将軍に渡すためであったが、真の目的は北方民族に対応するために日本と政治的安定を図り、日本の朝鮮進出の意図を探ることにあった。
 宝永7年(1710)に朝鮮通信使を迎えるために、芝口御門を設け「新橋」は「芝口橋」と呼びかえられたが、その後御門の焼失により芝口橋は「新橋」にもどったという。いわば、芝口橋は新橋の別名。この由来を書いた芝口御門の碑が銀座の天ぷら屋「天国」の南側にある。右の絵は明治40年(1907)の新橋付近である。当時の「新橋」と左手に「新橋ステーション」がみえる。現在はいずれもないが、新交通「ゆりかもめ」の新橋駅から「新橋ステーション」の発掘状況を望見することができる。


(26)  江戸煩い(ワズライ)。 白米を常食に副食のない食事はオイル切れのガソリンエンジンが過熱して焼付くように、若者の躰が焼付くのが江戸煩い。これがビタミンB1の不足からくる脚気である。
 吉村昭著の「白い航跡」は慈恵医大の創設者・高木兼寛の生涯を描いた小説であるが、明治10年代の海軍における脚気解決の苦闘が描かれている。高木は臨床医学の見地からパン食では脚気の発生をみないことから、麦飯を導入して脚気を激減させた。これに対し陸軍医官であった森林太郎(鴎外)は脚気細菌説を主張し激しく論争したという。
 脚気での死亡者は大正時代には年間2万人にも達したそうである。決して「江戸煩い」でなく「明治・大正煩い」でもあった。脚気薬としてのビタミンB1を、鈴木梅太郎が米の糠から発見したのは明治44年(1911)。現在は脚気の病を耳にすることはないが、その対策の発見は小生の生まれる30年前のことでしかない。


(27) 平蔵が火盗改役として活躍したのは、天明7年(1787)から寛政7年(1795)。この時期は天災とそれによる百姓一揆、米騒動が激しく発生した時期である。平蔵を火盗改役に就任させた人事は、時宜を得たものといえる。
 天災といえば天明3年(1783)の浅間山の噴火がある。現在の暦でいえば、噴火は5月9日に始まった。次に6月25日、7月17日と断続的に噴火した後、7月26日からは毎日噴火を繰り返し、8月5日に「天明の浅間焼け」と言われる大噴火が起こり、最後に粘性の強い溶岩流を吐き出した。これが「鬼押出し」の溶岩流である。この噴火での死者は2万人という。
 噴火の3年後(1786年)、田村意次は飢饉による一揆・打ち壊しにより失脚した。一方1789年はフランス革命の年である。これもその数年前から続いた低温と凶作による社会不安が引き金になっている。いずれも浅間山の大噴火による地球規模の異常気象が考えられるという。この時代に「長谷川平蔵」がいた。


(28) 今回は「新大橋」の話である。両国橋が架けられたのは「明暦の大火」(1657年)の3年後で、武蔵と下総両国をつなぐ橋として両国橋と名付けられたが、通称は「大橋」。新大橋は33年後の元禄6年(1693年)に、隅田川に架かる2番目の橋として架橋され、両国橋の「大橋」に対して「新大橋」と名付けられたという。
 橋長は108間(194m)。高橋脚であったことは下の「江戸名所図絵」からわかる。江戸の話になると参照されるこの「江戸名所図絵」は、天保7年(1836)に出版されたという。この図絵は文字通り江戸の名所ガイドブックで、図は「新大橋・三派」の一部であるが、当時の賑わいの様子が自然な形で生き生きと伝わってくる。


(29) 文春文庫の『鬼平犯科帳 お楽しみ読本』の「鬼平に学ぶマネジメント術」は、元出雲市長で、現在衆議院議員の「岩国哲人」さんの話。
この中に『ニューヨークの摩天楼の36階で日本の地酒を飲み、日本の料理を味わいながら、ビデオで「鬼平犯科帳」を見るというのは「殿様」どころか、「王様」のきぶんだった。』とある。また『組織の指導者としての鬼平の魅力、筆頭補佐の重要性、部下への心遣い』など、犯科帳の魅力が書かれている。
 3週間位前に、あるパーティでご本人にお会いし、話をする機会があった。
「ニューヨークでの犯科帳、いいですね」と声を掛けさせてもらったところ、ご本人から文字通りの「夜景を前に、日本酒の地酒と鬼平」の話をうかがった。
「鬼平の強さと優しさ」の話も印象深く、楽しいパーティであった。


(30) 今回でこのシリーズは30回を迎えた。テレビにも鬼平が戻り、このシリーズも時宜を得たかと思う。ただ少し調子にのって年初から週一ペースできたが、海外出張も控えこのペースは落ちると思う。ご容赦願いたい。
平蔵と定信は同時代の人。人足寄場は「平蔵」の建議と「定信」の命で平蔵が開設した。これも定信の仁政の一つとなるが、「江戸町会所と七分金積立」は定信の仁政といえるものである。「天明の飢饉」に端を発した一揆・うちこわしの対策として計画されたのが、「江戸町会所と七分金積立」である。江戸八百八町といわれる町内は、地主を中心に運営される。地主はその町内の地代と店賃を収入とし、一方 道路、水道、消防等々の現在の自治体予算はその地代・店賃収入からまかなわれていた。このいわば自治体予算が「町入用」といわれ、この予算を「削減」し、その金額の7割を積立て、「飢饉や災害」の救済に備えようとするものである。これにより江戸三大飢饉の「天保の飢饉」は救済されたという。
                                 「藤田覚著 松平定信 (中公文庫)」


(31) このホームページも勝手に「鬼平犯科帳の世界と橋」のタイトルをつけてさせてもらっているが、文春文庫の犯科帳シリーズの中に題名を「鬼平犯科帳の世界」とした文庫本がある。その巻末に登場人物の屋敷、茶屋・船宿などを紹介した「鬼平江戸絵図」が載っている。この絵図に竪川の北側で馬車道通り近くに、現在の地名で言えば墨田区緑4丁目に「銕三郎時代の長谷川邸」があると書かれている。
 また 中公文庫には「長谷川平蔵」を主題にした瀧川政次郎著の「長谷川平蔵ーその生涯と人足寄場」ある。この著者は「平蔵」の研究者で著名の方であるそうであるが、この本では、平蔵の本所の屋敷竪川の南側、現在の江東区菊川3丁目16番地で、後にあの幕末の江戸町奉行「遠山金四郎」の屋敷もなったとある。筆者には現時点でどちらが正しいのか判断資料はないが、どちらかといえば後者の説が正しいのではないか考えている。しかしこれは「鬼平の疑問」の一つである。どなたかご存知であれば教えて頂きたいものだ。


(32) 江戸の人口は100万人。江戸は当時としても世界有数の巨大都市であった。平蔵が50才でなくなったのは寛政7年(1795)である。
これより70年前の享保10年(1725)、吉宗は江戸町方の人口統計を調べさせたという。勿論、武士を除いた町方の人口であり、その数は男 301,920人、女170,576人。男女の比としては65:35、およそ男2人に、女1人という人口構成であった。
 武士の人口ははたしてどうだったか。江戸は軍事都市である。軍事機密は公表しない原則から、軍事規模を示す武士人口の記録はないために、江戸の人口100万は米の消費などから推定した値であるとう。この結果、武士も約50万人。旗本、御家人の他、300大名の参勤交代による単身赴任の武士その構成員。したがって武士・町人合わせても男2人に女1人の比率は変わらなかったという。
「火事と喧嘩は江戸の華」の喧嘩は女性の絶対的不足からきている。吉原・新吉原の傾城商売の繁栄や江戸庶民文化の浮世絵の枕絵もその結果であるという。また犯科帳の話に「男色一本饂飩」があるが、ホモも江戸の病気であった。


(33) 6月5日から20日間、アメリカ・カナダを旅行した。順序から言えば、旅行した順序で話をすべきであるが、最後に寄ったサンフランシスコの話からしたい。
 前回の32編では江戸の人口と男性と女性の比は2:1、ホモの世界もあったと書いた。カナダのトロントからサンフランシスコに寄り、案内された先はツイン・ピークである。緯度の高いトロントよりサンフランシスコは涼しく、ツイン・ピークは風も強かったが、ここからゴールデンゲートブリッジもオークランドへ渡るベイブリッジも見える。なるほど、サンフランシスコに初めて訪れた人を案内する所としては適当で、地図を上空からみた感じだ。
 そこからダウンタウンのホテルまでの途中の話が今回の話。町の名前までは記憶がないが、アパートのベランダや玄関に旗がたっている。その旗は同性愛者の自己主張であるという。サンフランシスコは制度的に同性愛者の家庭を一家庭と認め、住民登録ができる都市という。バスから眺めれば、確かに一組のペアは男・男、女・女のペアが多い。ガイドの話では6月29日(日)にはサンフランシスコで40万人のホモ・ヘスティバルが開かれるそうであった。すでにこの時帰国しているが確かめてはいない。江戸と違って男性と女性のバランスだけではないらしい。それは何故か理解できる話ではない。


(34) 「酒」のディスカウント店ができてどのくらい経つだろうか。酒も20%の値引きがあたりまえは、酒飲みにはうれしい。江戸時代も、現在と同じほどに酒を飲んでいたことは知られており、酒は当時も優れた商品であった訳だ。平蔵とほぼ同時代に生きた男で、酒のディスカウント商法で儲けた江戸っ子商人・豊島屋十右衛門がいる。今回はその話。
 酒は元値、つまみの味噌田楽も大きくて安く売った。13巻の「一本眉」に出てくる「治郎八」のような盗んだ金の再配分として元値で振る舞ったわけではない。確かに江戸名所図絵に「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商う図」があるが、雛祭りの白酒を買いに人が殺到している。毎日、酒樽が十、二十とあくほど繁盛した。樽は、当時酒造原価の一割程度で、商売の秘訣は薄利多売で酒を売り、その空いた樽を売って儲けを出したという訳である。
 「酒」のディスカウント店は最近始まったことでもなく、200年以上前の江戸の町にもあったという話である。


(35) 年表の天明5年(1785)をみると、「幕府、輸出用の煎海鼠、干鮑、鱶鰭、昆布を迥国して買い取ることを中止し、長崎会所の直買入とする。」とある。煎海鼠、干鮑、鱶鰭はいずれも俵物といわれ、中国への輸出のために生産された産品である。この話が目に付いたのは、数年前読んだ「ナマコの眼」(鶴見良行著)という本を思い出したからである。
 ナマコといえば、青ナマコと赤ナマコがあり、岩礁育ちの赤ナマコが美味とされている。その食べ方は三杯酢による「ナマコ酢」と腸の塩辛の「このわた」、卵巣の「このこ」が珍味である。しかし「煎海鼠」(いりなまこ)はといえば、一旦湯がいて乾燥させた乾物(生きたナマコは95%水分で、煎海鼠は5グラム位、すべて蛋白質という)食べるためには数日かけてもどし、中華料理の煮込み料理に使われゼラチン質のなめらかな舌触りを楽しむ素材である。
「ナマコの眼」は南はオーストラリアからインドネシア・フィリッピン、日本に広がる東アジアの「ナマコ」の世界を調べている。ただのナマコが江戸幕府をささえた輸出産品になった話も詳しく書かれている。このようなテーマが研究されるということは、文化は単なる経済原則では成り立たないことを証明しているように思える。紹介したい本である。この本から改めて取材させてもらうつもりだ。


(36) 前回に続いて「ナマコの眼」(鶴見良行著)から。
 江戸時代は鎖国の時代。長崎の出島を通して、明と蘭にわずかに開いていたというのが、中・高の歴史教育であった。寛政年代は平蔵と寛政の改革の時代であるが、長崎に入港する唐船の積荷は生糸あるいは絹織物であったという。消費経済は地方にも浸透し、唐船からの輸入が減れば物価は高騰する。そのために、幕府としては輸入が強いられ、一方金銀銅も枯渇したために、これに換わるバーター商品が必要になった。これが俵物(ひょうもつ)といわれる干し海鼠、鱶ヒレ、干し鮑と諸式(しょしき)と呼ばれる、昆布、するめ、かつおぶし、煮干しなどであった。
この俵物・諸式の中で最も重要な商品が「干しなまこ」であったことは驚きである。しかも バーター商品がなぜ海産物であったのかについても、幕藩体制、百姓、コメ経済のタテマエの維持であったと「ナマコの眼」は説いている。


(37) 鬼平犯科帳に出てくる「橋」の紹介を目的に、平蔵の活躍した時代についても、手元にある本や資料からネタをあさり書いてきた。まもなくこのホームページも1年になる。この間、国内はもとより、ロンドンやバンコックの方からもメールを頂き、そのため 帰宅してメールを開くのが楽しみになった。
今回の夏休みの機会に、タイトル画面の欄外の『鬼平犯科帳に出てくる「橋」』を、鬼平犯科帳全24巻について整理してみた。単に切り絵の中だけでなく、当時の場所に名が残っている橋は、早い巻の中に積み残した5橋を入れておよそ50橋となる。この数字をこのホームページの目標としていくことにしたい。
 ところで、このHPで利用しているサーバ容量は現在約8MBである。写真類は画質を落としてもアクセス時間を短縮するために、JPEGで高圧縮していることで容量がセイブできていると思うが、アサヒネットは25MBまで、基本料金(1900円/月、私は娘と家族会員で2400円/月)で利用できるので、まだまだ容量の心配は皆無である。がんばれということだろう。


(38) 干し海鼠、干し鮑は「俵物」、コンブ、スルメは「諸式」と言われた。スルメは「松前スルメ」がその代表で、13代藩主松前道広の時代(1765-1799)に開発されたという。ちょうど平蔵の活躍の時代であり、200年前である。講談社の新書の中に「イカはしゃべるし、空を飛ぶ」(奥谷喬司著)という本がある。イカ釣りに励んでいた頃でもあり、タイトルもおもしろいので読んだ本である。
 イカの推進力は漏斗からのジェット噴射によるという。漏斗が足先に向いていれば、ジェット噴射の反力で後方に進み、前進する場合には漏斗を180度回転させジェット噴流を噴射する(足の方が頭でその方向が前進)。360度回転するのも漏斗の方向をかえることで自由自在。漏斗には逆止弁もついているという。海の単車である「ジェットスキー」もイカの推進原理と同じとか。イカは先端技術を利用しているとは驚きである。
 イカは空中飛行もできる。先尾翼型の「滑空飛行機」で主翼はヒレではなく足を拡げた楕円枠が主翼となり揚力を得るという。「松前スルメ」は平蔵の時代に開発されたといっても、材料のスルメイカには20世紀の先端技術が詰め込まれていたとはおもしろい。


(39) シリーズ(9)の中で、「おろしゃ国酔夢談」(井上靖著)の大黒屋幸太夫は、江戸への回船の途中破船して、アレウト列島に漂着したことについて書いた。幸太夫は、ペテルブルグまで行きエカテリーナ女帝に拝謁、ラクスマンに送られ、寛政4年(1792)に帰国した。
 吉村昭著の小説に「花渡る海」がある。種痘を持ち帰った「久蔵」という男の話である。文化7年(1810)、江戸に向かう新酒番船という千石船に乗り、荒天のため船は破船してカムチャッカ半島に漂着した。オホーツク、イルクーツクと回送されたが、ロシア艦長ゴロウニンとの交換のために、幸太夫と同様に送り返された男である。文化8年は、 シーボルトが着任した文政6年(1823)より12年前のことである。この頃すでに極寒のオホーツクでは、種痘が普及しており、「久蔵」はこれを習い持ち帰った。本の題名の「花」とは種痘の花の意であるが、久蔵は発痘によるおできの花を咲かせることはできなかった。また(21)に書いた高田屋嘉兵衛もこの「久蔵」に接触している。


(40) 平蔵の活躍した時代は今から200年前、天明(1781〜1788)-寛政(1789〜1800)の年代である。天明期は浅間山の噴火、冷害・飢饉、一揆・打ち壊しと社会不安が高まり、老中・田村意次もそのために失脚し、松平定信による寛政の改革の始まった時代である。
 この社会騒然とした天明の7年(1787)に、「七十五日」という奇妙なタイトルの本が出版されたそうである。この本は菓子・酒・蒲焼・鮨などの初物狙いの今にいうグルメ案内であった。題名の意味は「初物75日」、「初物を食べれば75日命が延びる」との説をもじったものである。初物の筆頭はなんと言っても「初鰹」。その値段は一本2両したという。今の値段では金価格で換算して3万円、通常の購買価格でいえば20万円にもなる。これこそ「べらぼうめえ!」の値段であった。
 初物としては初鰹の他に、新酒、新蕎麦、若鮎、若餅、早松茸、新茶、初ナスなどがある。初鰹は江戸っ子の垂涎の的であり、初鰹に対する江戸町人たちの情熱の高まりが、「江戸っ子」を作りあげた。「通」・「粋」という価値観もこの物騒な時代に形成されたという。「江戸っ子」、「通」、「粋」も200年経過しているが、風化が現在どの程度進んでいるのかわからない。「豆腐百珍」も天明2年の出版である。
                                「江戸の料理史」(原田信男著:中公新書)


(41) 江戸の料理屋として「八百善」が有名であるが、八百善はペリーへの饗応料理も担当したという。元禄の頃、八百屋善太郎が神田で百姓のかたわら野菜や乾物を商い、後に料理屋になったという。
 八百善に関する話としては、「客が二、三人で極上の茶とうまい香の物のお茶漬けを注文したら、お茶漬けは結構な味ではあったが、その勘定書はなんと1両2分であった」とか「大根の漬物のハリハリ漬が15cm程度の器で300疋(1疋は25文)であった」とかいう話が残っている。八百善は材料を吟味し、手間暇をかける。ハリハリ漬の場合、細根大根1把の中から2、3本しか使わず、辛みを出さないために水でなく、味醂で洗って漬けたので美味であったという。
 平蔵の火付盗賊改の在任の時代は3代目善太郎が当主で、平蔵も八百善を当然知っていたはずである。しかし、さすがに400石程度では、八百善に行けなかったのだろう。24巻の「鬼平犯科帳」の中に、八百善を思わせる料理屋は出てこない。酒好きの平蔵も武士ではあっても高級料亭には行けない庶民であった。
 宮尾登美子著に「菊亭八百善の人びと」という小説(新潮文庫)がある。江戸時代の高級料亭であった「八百善」の現代に続く江戸・高級料亭を描いた小説である。


(42) 最近読んだ本に吉村昭著の「冬の鷹」(新潮文庫)がある。この小説は明和3年(1766)のオランダ商館長一行に同行している大通詞の吉雄幸左衛門を、前野良沢が杉田玄白を誘いオランダ語研究について教授を受けるために訪れた処から始まる。前野良沢、杉田玄白といえば、中学の頃習った「解体新書、ターヘルアナトミア」の翻訳者である。良沢はすでに44歳、玄白は34歳であったという。この後、良沢は長崎に遊学し「ターヘルアナトミア」を入手した。この本の図が、小塚原の腑分けとそっくりなことから、翻訳を決意した話である。その後の苦労話も勿論語られている。
 解体新書が出版されたのは、安永3年(1774)の8月だそうだ。この年、良沢より20歳以上若い平蔵は31歳で、4月にはじめて西城御書院番になった。「旗本」とは大将の旗の許に詰めている侍の意であるが、将軍の近衛兵・親衛隊である。その警務の任務の一つが御書院番で、交代で白書院の詰所で将軍を護衛することであったという。
 平蔵は50歳で死んだが、良沢も玄白も若い平蔵より長寿で、良沢は享和3年(1803)81歳で、玄白は文化14年(1817)85歳でなくなった。平蔵が解体新書を読んだとは思えないが、杉田玄白の名は知っていたかもしれない。(良沢の名は解体新書の訳者として記述されていないという。)


(43) 今年(1997)の6月、調査団に参加する機会を得てアメリカ・カナダを訪れたが、最初の訪問地であるニューヨークで、メトロポリタン美術館を見学した。半日の予定では、平凡に印象派と日本のコーナーの見学であったが、幸運といえるのか「子供には見せるべからず」として「喜多川歌麿」の8枚組の枕絵が展示されており、日本美術を代表していた。<BR>
 歌麿は宝暦3年(1753)生まれという。長谷川平蔵の生年月日は正確にはわからないというが、延享2年(1745)と推定(瀧川政次郎著:長谷川平蔵)されている。平蔵と歌麿は8歳年違いであるが同時代の人である。歌麿が「喜多川歌麿」と名乗ったのは「天明4年(1784)」。「婦女人相十品」「婦人相学十躰」などの美人画は「寛政4年」頃の板行で、歌麿が40歳の作品という。平蔵が火付盗賊改であったのは「天明7年(1787)」から「寛政7年(1795)」であったから、平蔵も歌麿の美人画は見ていたと考えられるし、平蔵の正確からすれば「枕絵」も、「鶴や」の密偵・小房の粂八あたりから手に入れていたかもしれない。<BR>
 歌麿を主人公にした小説といえば、藤沢周平著の「喜多川歌麿女絵草紙」(文春文庫)がある。歌麿の女房は門人の「千代女」が通説というが、この小説では千代女は後妻の縁談を得て歌麿から去っていく。


(44)鬼平犯科帳は、1巻に6〜7編の話で成り立っている。その1編の中に現れる「橋」を『鬼平犯科帳に出てくる「橋」』に整理しているが、これはこのシリーズを進めるにつれ追加してきたものである。今回これを例えば「両国橋」は何編の話にでてきたかを整理したのが、『*犯科帳に登場した「橋」の回数*』である。
 登場する橋は104橋、登場回数の上位は、1位「両国橋」が24編。2位「二ツ目橋」が16編ここには平蔵のなじみの軍鶏鍋屋「五鉄」ある。「永代橋」は3位で15編に登場する。これで科帳の舞台が本所・深川が中心であることでもわかる。4位に「万年橋」が12編に登場するが、この「万年橋」はシリーズ(11)に紹介した小名木川に架かる北斎の浮世絵でも有名な「万年橋」とシリーズ(41)の三原橋の中で登場する「万年橋」の同名の橋があり、同じ橋として集計されている。5位は「日本橋」と「弥勒寺橋」が10編。弥勒寺門前には凧の骨のような名物婆さんの「お熊」がいるが、このお熊婆さんには平蔵も弱い。7位以降に「千住大橋」、「中ノ橋」、「昌平橋」が続く。
 104橋の橋を「鬼平犯科帳」に登場させ、平蔵を活躍させる「池波」小説は言うまでもなくたのしい。


(45)平蔵は延享2年(1745)、前回の喜多川歌麿は宝暦3年(1753)、今回の小林一茶は宝暦13年(1763)、いづれも生まれた年である。一茶は平蔵より18歳年下で親子に近い。
 一茶は15歳の年に信濃から江戸に奉公に出たが、腰が落ち着かず米屋、筆屋を転々とした。「三笠付け」という戯れ歌作りで、秀句に対する賞金を時々稼ぎ俳諧師として認められるようになったという。一茶は文政10年(1827)65歳でなくなったが、生涯に作った発句は2万句。およそ1日1句のペースで作ったわけである。この時代1日1句創作しても、発句の板行(出版)で生活ができた訳でなく、相撲でいうタニマチといえる発句道楽の豪商の庇護や弟子めぐりしての一宿一飯の世話で生きていた。根なし草の貧乏暮らしである。

 『 秋寒むや行先々は人の家 』

しかし 文筆では飯が食えないにしても、俳句という高尚な趣味をもつ江戸文化をささえる富裕な人びとが、それぞれの地域にいたことは確かである。
                             藤沢周平著 『 一茶 』(文春文庫)


(46)鬼平犯科帳は24巻が最終巻である。前回は23巻の「囮(おとり)」に出てくる「猿江橋」を紹介したが、24巻の橋は「相模殿橋」「両国橋」などすでに訪れているので、もう一度 犯科帳の1巻に戻り、この後 洩れた「橋」を紹介したいと思う。
 2ヶ月ほど経ち、少々旧聞になるが、2月10日(火)〜3月1日(日)の会期で「上野の森美術館」で『大歌麿展』が開かれ
た。(43)の「亀久橋」で、歌麿について触れたこともあり、この展覧会に行って来た。『大歌麿展』としたタイトルも大げさ
でなく、世界中の美術館の「歌麿」を集めてきている。
 数えてはいないが約300点位の歌麿が展示されており、プリントで見てきた本物の寛政3美人、「宮本豊ひな」「難波やき
た」「高しまひさ」を見ることができた。会期の終わりでもあったためか、会場は大変な混雑をしていた。
 「亀久橋」で、「歌麿は宝暦3年(1753)の生まれ」と書いたが(新潮社:とんぼの本「歌麿」)、展覧会では歌麿の生年月日
は不詳と書いている。確かに、新潮社が別に発行している「新潮日本美術文庫:喜多川歌麿」の年表でも宝暦5〜7年ころの生ま
れとあり、「正確には歌麿の生年月日は分からない。」というのが正しいようである。
 興味深かったのは「東洲斉写楽」は「歌麿」であったとして、写楽と歌麿を対比して展示していたことである。写楽は寛政6年
(1794)から7年(1795)にかけ、わずか11ヶ月で140点の作品を残し消えたという。
 現在も「写楽」の謎解きが続いているが、寛政7年になくなった平蔵は「写楽」の正体が「歌麿」だと知っていただろうか。


(47)J.F.ケネディが上杉鷹山を知っていた話は有名であるが、日本では上杉鷹山はあまり知られていなかった。それが最近の行財政改革の関心から、江戸時代の上杉藩の行政改革がで知られるようになった訳である。
 内村鑑三は明治28年(1895)に英文で「日本及び日本人」を書き、その後「代表的日本人」と改題された書物をケネディは読ん
でいたのだという。この著書は西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人を代表的日本人と挙げ、世界に誇れる
人物として紹介したものである。
 二宮尊徳もその一人。16歳で父親をなくし伯父の世話になった。仕事が終わった深夜、貴重な灯油を使っての勉強を叱られ、
尊徳は毎日干し草や薪を取りに山に行く往復の道で勉強をしたという。本を開いて薪を背負って歩く幼名「金次郎」の銅像が小学
校正門近くにあったのを覚えているが、すでに半世紀まえの話でもある。今は小学校には「金次郎」の姿はないというが、「努
力」「勤勉」は現代では不要ということか。
 尊徳は天明7年(1787)に生まれた。この年に平蔵は火付盗賊改めに就任しているので、平蔵とは40歳以上歳がはなれているこ
とになる。


(48)五月の末の日曜日に、4月21日から6月21日の会期で開かれている「伊能忠敬」展を観に、両国の「東京江戸博物館」に行ったきた。ここを訪れたのは今回で2回目であるが、この博物館は平成5年(1993)に開館してすでに5周年を迎えている。日本相撲協会の国技館はこの「東京江戸博物館」に隣接している。
 前回の上杉鷹山を知らなくても、伊能忠敬を知らない人は少ない。井上ひさしの「四万歩の男」はこの伊能忠敬の話である。そ
れぞれ約600ページ余りの講談社文庫5巻の大作で、小難しく忍耐つよい忠敬を親しみやすくユーモアのある忠敬として描き、
飽きずに読ませてくれる。
 忠敬は延享2年(1745)、現在の九十九里町に生まれ、宝暦12年(1762)に佐原市の伊能家の婿養子となったという。そして 寛
政6年(1794)に隠居し、翌年の寛政7年に江戸深川黒江町に出て、幕府天文方の高橋至時(ヨシトキ)の弟子になったという。この
年 忠敬は満50歳であった。忠敬の歴史に残る活躍はこの後である。15年に渡って日本沿岸を踏破し「大日本沿海輿地図」な
どを作成した。
 平蔵はこの寛政7年に火盗改めのまま亡くなった。時に平蔵も50歳で、平蔵と忠敬は全くの同年齢であった。「伊能忠敬」展
で大発見をした。


(49)最近読んだ本に「銭五の海」(南原幹雄著:新潮文庫)がある。司馬遼太郎に淡路出身の「高田屋嘉兵衛」について書いた「菜の花の沖」があるが、「銭五の海」は加賀・宮越出身の「銭屋五兵衛」の一代風雲記である。
 「高田屋嘉兵衛」は明和6年(1769)〜文政10年(1827)の人。幕府の蝦夷地直轄化の政策に乗り、「高田屋の函館」とも言われ
るほどの巨万の富を築いた豪商である。「銭屋五兵衛」は、嘉兵衛が生まれた4年後の安永2年(1773)に生まれ、嘉永5年(1852)
になくなった。銭屋五兵衛は嘉兵衛より4歳年下だが、両替商の父親が没したのちに五兵衛の活躍が始まったので、高田屋嘉兵衛
は28歳で北前船を持ち船にしたのに対し、銭屋五兵衛は海運に乗り出したのは39歳になってからである。
 いずれも米、塩、織物、雑貨を北に運び、蝦夷から昆布、胴鰊(ドウニシン)、干鰯を仕入れて巨利を得たが、銭屋五兵衛は密
貿易をしていた薩摩とも組み、竹島の海上 あるいは朝鮮や樺太に出かけて、中国、朝鮮、ロシアと密貿易をおこない資産は30
0万両を超えたという。
 高田屋は嘉兵衛がなくなって6年後、天保4年(1833)に、密貿易の罪で財産を没収され没落した。その後 高田屋のあと蝦夷を
おさえた五兵衛も、黙認していた密貿易を幕府が察知したのを知った加賀藩に銭屋の莫大な財産を没収され、嘉永5年(1852)に獄
死した。
 平蔵が50歳でなくなった寛政7年(1795)、高田屋嘉平衛は25・6才、銭屋五兵衛も21・2才であった。
 二人とも江戸末期に活躍したが、生を得たのが少し早かったように思われる。


(50) この鬼平犯科帳のシリーズも今回で50回になった。「鬼平犯科帳」 24巻にでてくる「橋」は筆者の調べたところでは104橋あり、このシリーズその半数を訪れたことになる。この「神田橋」を最終回として、このシリーズを終わりたいと思う。
 「犯科帳に登場した橋の回数」にもあるように、鬼平犯科帳に登場回数の一番多いのが両国橋である。これは犯科帳の主な舞台が平蔵の
青春の地、「本所・深川」であること、次は二ツ目橋が16回も登場する。これは「おまさ」の五鉄の近くであるからである。このシリーズで、この「二
ツ目橋」を訪れたことになっていないまま終わるのは、若干心残りではある。
 「二ツ目橋」は月島から門前仲町をぬけ駒形橋にいたる「清澄通り」が竪川を渡るところに架かっている。この清澄通りは現在「地下鉄・都営12
号線」の工事中で、この工事に付随して「二ツ目橋」も架け替え工事が行われており、このシリーズを始めた頃、写真がうまく撮れなかったのであ
る。
 前回の「平野橋」を掲載してから、11ヶ月もたってしまった。次のシリーズをどうしようかと思い、伸び伸びにしてしまったのである。人生にまつわ
ることはその終わりがあり、常に決まりをつけることは必要なことである。今回がこのシリーズの最後としてきまりをつけることにする。

 次のシリーズは「藤枝梅安の世界と寺と社(ヤシロ)」と題して楽しみたいと思う。