鬼平の料理教室


(1)
(2)
『 彦十は、まさか[本所の銕]が火付盗賊改方の頭領様になっているとは気がつかない。 二ツ目橋の[五鉄]という
軍鶏なべ屋へ入って熱い酒をのませると、平蔵が何を問うたわけでないのに、 油紙に火がついたように、ぺらぺらとしゃべりはじめた。 』
「五鉄」をみつけた。両国から清澄通りを南に、ニ之橋の手前を左にまがり次の交差点の角にある。 その店の名は「五代目 かど家」である。料理は勿論「しゃも鍋」。八丁味噌仕立ての味噌鍋であった。
                                   五代目 かど家 (Tel 03-3631-5007)


(3) 『 「なるほど」
  「こうなると、蛇の平十郎のうごきが、おれは気になってきた・・・」
   このとき利右衛門が、手料理の白魚と豆腐の小鍋だてと酒をはこんできた。
  「や、これはよい」
  「春のにおいが湯気ににたちのぼっているな、左馬」                 』

 この時代には白魚が隅田川でたくさん漁れた。江戸でなくても終戦直後の隅田川では、白魚がみられたそうだ。都市の繁栄と自然の保全の問題は難しい。白魚と豆腐の小鍋だてとはどのようなダシ仕立てだろうか。来春には試してみたいと思う。


(4) 左の写真は本文の「さなだや」の位置にあるそば屋である。枕橋のたもとの東武伊勢崎線の高架下にある。昭和40年代のはじめ、恐らく本文の著者はここから隅田川をながめ原稿を書いたのだろう。
「そば切り」は寛文4年(1664年)にはじめて江戸で売られるようになったという。鬼平の時代はそれから130年たっている。天麩羅そばが開発されてもおかしくない。
鬼平のそばや  

  

  

  

  


(5)  昌平橋を南に歩き左折すると、むかし連雀町と言われた一郭がある。ここは戦災をまぬがれたため、古い店が残っている。そばの「神田藪蕎麦」、あんこう鍋の「いせ源」、鳥屋の「ぼたん」、洋食屋の「松栄亭」が有名である。
 先輩であり、かって上司であったコンサルタントの社長に「藪」と「いせ源」に案内された。「藪」での接待は「はじめは蕎麦屋で接待?」と怪訝な顔をされるが、席を立つ段になって喜ばれるそうだ。確かに小柱のかき揚げもよく、そば味噌が酒にとてもあう。「藪蕎麦」の系列はこの店を筆頭に、明治の初年に、浅草の蕎麦屋「中砂」から発しているという。
昌平橋 浮世絵

 [散歩のとき何か食べたくなって](池波正太郎著)


(6)
(7)
 「五年目の客」(P47-48)より、
「それならひとつ、粂八と三人で、こってりした女を抱きに行こうではないか」
息まいたものだ。
「ほほう……左馬には、まだ色気があったのか?」
「当り前だ。五十まではやるとも」
「ふ、ふふ……」
 平蔵は、あぶらののった沙魚(ハゼ)を、生醤油と酒で鹹めにさっと煮つけたのを口に入れて、
「女より、このほうがよい」
 少し古くなるが、月に2〜3度釣りをしていた頃がある。秋口の手軽な釣りはハゼ、キス、めごちの
五目つりである。その釣果を自らてんぷらにし、仲間との酒盛りは格別であった。
「女より、このほうが」という煮付けは 鍋に酒を150cc、みりん大匙5、醤油大匙5を煮立て、落とし
ふたをして煮たものか。針しょうがも入れたい。

(8) 門前仲町から清澄通りを北に歩き、新大橋通りとの交差点が森下町。ここに「みの家」がある。木造の古い造りの広間に、長いテーブルにガスこんろが並び、「さくら鍋」(馬肉鍋)がのる。鍋は馬肉、長ネギ、しらたき、味噌仕立て。馬刺しもあり、安くてうまい。深川の味のひとつ。


(9)
(10)
「おしゃべり源八」に続く「兇賊」に、当時 新シ橋、現在の美倉橋の辺に「九平の居酒屋」があったという。ここは『芋酒』と『芋膾(ナマス)』が名物。芋酒の芋は山芋、芋膾の芋は里芋。文章をたどると「里芋の子を皮つきのまま蒸しあげ、いわゆる[きぬかつぎ]をつくり、鯉やスズキなどを細目につくって塩と酢につけておき、芋の皮をむいて器へもったのへ魚の膾をのせ、合わせ酢をかけまわし、きざみしょうがを添えた料理」とある。里芋の子芋はともかく、鯉やスズキの新鮮なあらいを手にいれるのが難しいが、一度試してみたいものだ。


(11)
 平蔵の時代、芝・神明前に[弁多津]という店があったという。ここは「のっぺい汁」が名物であった
(6巻 礼金二百両)。
『 平蔵が注文しておいた熱い[のっぺい汁]と酒がはこばれてきた。
 大根、芋、ねぎ、しいたけなどの野菜がたっぷりと入った葛(クズ)仕立ての汁へ口をつけた平蔵が、
「うまいな」………………                    』

「のっぺい」は広辞苑では「能平」「濃餅」。のっぺい汁は会席料理だそうである。

(12)
  本所二ツ目の軍鶏鍋屋[五鉄]は犯科帳の中で一番よくでる店
である。亭主は三次郎。二階におまさが住んでいる。
[五鉄]のモデルは『かど家』。清澄通りを行き、竪川の手前を
左折して、次の信号のかどにある。(tel 03-3631-5007)。
軍鶏鍋は6000円。
神田の『ぼたん』も鳥鍋であるが、すき焼風、こちらは名古屋風
の味噌鍋である。

(13) 1月2日のNHK「大江戸バラエテイー」で「江戸前の元祖は?」とのクイズがあった。たくさんの方が見たことだろう。
 江戸の初期にはウナギは裂かずに口から串を刺して焼いた。この姿が蒲(ガマ)の穂に似ているので蒲 焼とついたとか。食べ方を蒸してから焼くことで、食べやすく人気がでた。この料理法が江戸風の食べ 方であり、ウナギの漁場が江戸の鼻さき、築地と鉄砲洲にかけての地区であったから、「江戸前」は 寿司ではなくウナギが元祖なのである。


(14) 隅田川の堤防の内側に遊歩道が整備され、この正月にも「七福神めぐり」のおりハゼ釣りが見られ、数匹をあげていた。ハゼは河口付近の汽水域で、砂泥質の海底を好むが、隅田川に戻ってきたのであればうれしい。「日本さかなずくし:3集」によれば、東京湾にいるハゼの推定数は40億匹だそうである。キス、ハゼ、メゴチは天ぷらネタであるが、ハゼの天ぷらは絶品。  


(15)「海福寺」門前の「一本饂飩」は『五寸四方の蒸籠ふうの入れ物へ、親指ほどの太さの一本うどんが白蛇のようにとぐろを巻いて盛られたのを、冬はあたため、夏は冷やし、これを箸でちぎりながら、好みによって柚子や摺胡麻、ねぎをあしらった濃目の汁をつけて食べる。 』
 とある。このようなうどんを食べさせる店を知らないので、自分で試してみることにした。
 強力粉、薄力粉半々。塩を入れしっかり練る。1時間位寝かした。親指ほどで、白蛇のようにとあるので、ひも状にしてたっぷりとした熱湯でゆであげた。汁は花かつお、昆布をたっぷりいれ濃縮ぎみのだしに、濃口しょうゆにみりんもたっぷり。ネギと七味を薬味に暇な休日の昼時の食事にはまずまず。もう少し手をかけた手打ちうどんのほうがよりベター。


(16) 作品には上野山下に平蔵の父・宣雄がはじめにひいきにした川魚料理の「伊勢屋」があり、平蔵の大好物は「鯉の洗いへ葛そうめんをそえたものに、卵の黄身を月に見立ててあしらったもの」とある。
 1月下旬に、上野山下の「伊勢屋」でなく、高ばしの『どぜう伊せ喜』によった。同じ川魚料理でも、ドジョウ鍋がメインである。「鯉の洗い」もよかった。
                    (江東区高橋2−5 03-3631-0005)

 

  


(17) 犯科帳では「酒」をよく飲む。この頃の酒は灘、伏見など上方からの「下り酒」が8、9割と江戸近辺の「地回り酒」である。上方から運んでも品質が変わらなかったのは、火入れの技術(低温殺菌法: 55℃程度の温度で15分)がすでに確立していたから。
 ヨーロッパではこの技術をワインに利用したのはパスツールの発見(1864年)以降で、もちろん日本酒の方が早い。
 また「くだらない」とは「下だったものでない」、「上方のものでない」から「上等ではない」、「 価値がない」となったそうだ。

(18)京橋の大根河岸の「万七」の名物料理は、(用心棒:p30-p32)
『 名物の兎の吸物は、葱と生姜をあしらったものだが、さすがに 名物だけあって、淡泊な兎肉の脂肪が 出汁にとけあい、なかなか に美味である。 』
 とある。小生は、兎肉について何の経験もないが、この時代には山鯨(猪)と並んで、兎肉は食されたのだろうか。
 両国橋のたもとの「ももんじゃ」は猪がトレードマークで、猪、鹿、熊、狸はあったが、兎肉は確かなかったと思う。


(19)  左の絵は「守貞漫稿」の豆腐売り。現在でも絵のような豆腐売りから軽四輪にはなっているが場所によっては売りに来る。豆腐は日本人の食べ物の中で、いうまでもなく最もみじかなもの。
 大豆は良質の植物性タンパク質と脂肪を含み、豆腐は大豆の良さに苦汁 (ニガリ)の塩化カリウムが絶妙な働きをするそうだ。沖縄の長命はその豆腐にあり、毎日必ず食すべしという。最近、自分で豆腐を作った。その講釈はまたの機会にしたい。
 

  


(20) 「うな丼」の由来にこんな話を見つけた。江戸の文化年間(1804-1818)に「大久保今助」という男がおり、芝居の金主をしていた。
 鰻がすきだが忙しく食いにいけない。そこで焼きざましはいやなので、鰻屋に丼に熱い飯をいれて持たせ、それに焼きたての鰻をいれて持って来させて食べた。これがうな丼の起源だそうである。こんなことから、当時もうな丼は蒲焼きよりも下等と軽蔑されていたという。  また 裂いた泥鰌とささがき牛蒡の上に、玉子でとじた鍋が柳川なべ。柳川とはなにかいわれがあるかと思えば、この柳川は柳川という店からはやったという単純な話。
                  (三田村鳶魚著 「娯楽の江戸 江戸の食生活」中公文庫)


(21)

  江戸時代、白魚を将軍に納めるときは、「御用白魚」と金文字で書いた朱塗りの箱にいれたそうである。これを「御用の白魚」。
 季節は2月から4月。東京湾ではシラウオは絶滅したというが、5〜6年前の桜の頃、勝山での釣りの帰りに、富津市の上総湊の小さなお店で「躍り食い」を楽しんだことがある。今がその季節。できれば序々にでも漁が復活し、食したいものだ。
  


(22)『白い粉』は博打の負けから勘助が平蔵に一服もる話だが、その中で
『上方でいう〔あぶらめ〕という魚。
 関東では鮎並(アイナメ)というし、江戸へ入る小さなのを〔クジメ〕ともよぶ。
 平蔵は、これを辛目に煮つけたものが、好きであった。  』
とある。
 盛川宏著「釣魚しゅんの味」によれば、アイナメの地方名は、 アイナ・エイナ・ナメイオ・ネウ・ネウオ・シンジョ・アブラメ・アブラコ・ベロ・シジュウ・コモズミ ・モズ があるという。
 平蔵の場合は「辛目がよい」のだろうが、盛川によれば「煮るときは、あまり濃い味つけにしないほう がアイナメの本来の味が生きていい。カサゴやタイのように濃くせぬことが条件」とある。
 いずれにしても味覚には嗜好差がある。


(23)  今回の『犬神の権三』の中で

『浅蜊の剥身を、塩と酒と醤油で、うす味に仕たてた出汁で葱の五分切といっしょに、さっと煮立てて、「さ、いっぺえ飲んなよ」 』
と、こんな文章が出てくる。 こんなのを読むと、酒好きはすぐ食べ(ヤリ)たくなる。生のあさりの剥身は手に入りにくいが、スーパーの冷凍剥身でも結構できる。深川の名物丼は深川丼だが、炊きあげたご飯に、この要領で煮立てたあさりをのせた丼が深川丼。輸入もので少しかたいが、深川丼とあさりの佃煮のための冷凍剥身のまとめ買いも役に立つ。
 


(24)本文に「白髪そば」がでてくる。蕎麦の外皮の混入した黒みの「そば」に対して、胚乳部のみの上割れだけを使ったそば粉で打った「そば」は純白である。勿論 歩留まりが悪いから高価。「そば」の吟醸・大吟醸である。
 「二八そば」は十六文の代価の呼称が正しく、原料比率ではないそうだ。
 二八が原料比率とすれば、「不純物の小麦粉を混入させた」、「そば打ちの腕が悪い(粘りがすくないため打ちにくい)」ことを自ら公表していることになる。そんな商売する馬鹿はいるか?。これが論拠。またその当時、原料比率を正直に標示した「正直蕎麦」もあったというし、現在の「生蕎麦」とは混じりけのない蕎麦からきている。
 

(25)先の「蛙の長助」で長助がおきよと亭主の庄次のやっている「屋台のおでんや」に借金の取り立てに行くシーンがある。
おきよは長助がおきちに生ませた娘。おでんの始まりはコンニャクや大根の味噌田楽であるが、「酒」と「おでん」といえば、いわゆる「関東煮」のおでんである。おでんの材料ははんぺん、ちくわ、薩摩あげなど、練り物が主体。
蒲鉾は室町時代から始まったというから、平蔵の時代のおでん種も現在と同じだと考えてそれほど違っていないかもしれない。
 

(26)今回は木村忠吾が海福寺門前の一本うどん屋で、男色の男に狙われた話。「一本饂飩」についてはシリーズ(15)の「永代橋」の鬼平料理教室で、試作したことを書いた。
 石下直道著の「文化麺類学ことはじめ」(講談社文庫)には中国・日本・アジアの麺とイタリアのパスタについて、蘊蓄が述べられている。ソバは15世紀以降ことだが、平安時代の文献に「むぎ縄」という言葉が出ているそうである。この「むぎ縄」から一本うどんが連想されたのか、現実に一本うどんがあったのか、池波氏に聞くほか手元の資料からは確かめようがない。

(27) 鬼平の卵酒 <11巻『毒』> の話

「久栄は、……、火鉢の前へすわり、手ずから卵酒をつくりにかかった。小鍋に卵を割りこみ、酒と少量の砂糖を加え、ゆるゆるとかきまぜ、熱くなったところで椀へもり、これに生姜の搾り汁をおとす。これが平蔵好みの卵酒であった。」

 日本酒100cc程度に、小さじ一杯の砂糖と卵を1コ。本文にあるとおり、ゆっくりかき混ぜ、搾り汁をいれた。卵酒の話は聞いていても呑んでみたのは、初めてである。生姜の味が風邪薬のイメージと結びつく。砂糖はなくてもいいのでは。
 


(28) 『雨隠れの鶴吉』のなかで 「鶴吉と録之助は一刻ほど、豆腐の田楽で酒をくみかわし、……」とある。
 しかし 犯科帳にはあまり豆腐料理は見あたらない(仕掛人・藤枝梅安では彦次郎の豆腐好みや「梅雨の湯豆腐」があるが)。
 天明2年(1782)には『豆腐百珍』が出版された。これには文字どうり豆腐の料理法100種が解説されているという。天明2年は平蔵の時代である。『豆腐百珍』を調べて、このHPで料理法を今後紹介したいと思う。こうご期待!!
 

(29)「提灯は北辻橋をわたり、三ツ目をすぎ、緑町4丁目の〔湊屋〕という鰻屋へ入った。ここも小体な店だが、土地ではちょいと知られていて……」が今回の話の後に続く。
 今回の「北辻橋」の撮影の帰り、ここに出てくる〔湊屋〕ではないが、文字どおり「小体な鰻屋」に入った。
吾妻橋の東詰めの『東家』、大正10年創業の老舗である。「15分はかかりますよ」と張り紙されており、「パタパタ」と団扇の音が楽しみを増幅させてくれた。味は満足。
                                吾妻橋・東家 03-3622-9415

(30) 12巻の「見張りの見張り」の中に

『田螺(タニシ)は蝸牛のような形をした淡水螺貝で、水田や池沼にすみ、冬は泥中に隠れているが、
 水ぬるむころに這い出してくる。
 これをゆでて剥身にし、葱をあしらい、饅(味噌和え)にしたものは…………』

 とある。タニシは入社間もないころ、確かに「饅(ヌタ)」として、明石で食したことがある懐かしい食材。
今、東京で食べらる場所があれば、是非行きたいものだ。ご存じの方はご一報を。


(31)
 最近 東芝のDynabookからIBMのThinkPadにかえ、モバイル・タイプであるからと思い、大阪出張のおり
鞄に詰め込み、新幹線の中で初めて試してみることにした。東京を9時10分に出て、電源アラームが
10時55分、約2時間弱電池は保つことが確認できた。
 ここで書くことは、パソコンの話でなく、鬼平の料理の話。この出張で読んだ本の話からの取材。
文春文庫に昨年出版された「江戸こぼれ話」に「食もいなせな江戸っ子気質」がある。江戸の長屋のメ
ニューは
「朝食:炊きたてのめし・ワカメの味噌汁・糸引き納豆・沢庵漬、昼食:冷めし・卯の花いり、
 夕食:茶漬け・いわしの塩焼き」
とある。
本文の中に、実際はもっと簡素であったと書かれているが、このメニューであれば「江戸やまい」のメ
ニューではなく、昭和30年当時の筆者の子供の頃の献立と大差はないと思う。

(32)
 同じ13巻の「墨つぼの孫八」にこんな一節がある。

 『 「ま、飯を食べながらはなそう。さ、早く……早く爺つぁん、飯にしてくれ」
   舌が焼けるような根深汁(ねぎの味噌汁)に、大根の漬物。小鉢の生卵へ醤油をたらしたの
   を熱い飯へかけて、
   「む、うめえな……」                       』

 これは江戸っ子の朝飯の基本献立。筆者もこの朝食であれば、大満足。この「大根の漬物」はタク
 ワンでなく、ヌカみその「大根漬」の方がイメージにあう。池波先生、ちがいますか。

(33) 13巻の「一本眉」の中で、木村忠吾と清洲の甚五郎のこんな会話がある。
『 「酒の肴になりますかな。こんな顔が……」
  「なりますとも、なりますとも」
  「は、はは……」
  「うふ、ふふ……」
  蛤と豆腐とねぎの小鍋立てが運ばれてきた。
  「旦那。春になりましたなあ……」                』
 古くは桃の節句には蛤がつきものだったそうだが、蛤の小鍋立てが「春になりましたな」のアクセントになっている。
 さすがの池波節。この「蛤と豆腐とねぎの小鍋立」は「早春の鍋」


(34)「豆腐百珍」は、江戸のベストセラーであったというが、その復刻版を手に入れたいと思っているが、まだ実現できていない。出版されていないかと本屋をあさると、中公文庫に「新豆腐百珍」が見つかった。
これは京都の尼さんが書かいた本で、写真も豊富。さくら豆腐を食したいものと鑑賞している。
 創業300年という豆腐料理の「笹の雪」は、日暮里よりの鶯谷駅の近く。二度ほど訪れた。右の浮世絵は「笹の雪の女」。


(35) ナマコの話がでたので、干しナマコの戻し方を「きょうの料理 周富徳の広東料理は  野菜がうまい」から。
 @ たっぷりの熱湯で干しナマコを約1時間ゆで、ふたをして一晩むらす。2日め、3日めは水を替えて10分ゆで、蒸らす。
 A もどるにつれてだんだん大きくなる。十分に柔らかくもどったら、よく洗い、はさみで腹をさく。
 B ていねいに腸や砂を取り除く。生臭みや舌触りをそこなう原因になる。
 C 香味野菜をいため、その中で煮立て臭みをとる。
 

(36)「火つけ船頭」P186 から。この数巻、料理描写が少なかったが著者の久々の笑みが伺える描写である。
鴨の肉を、醤油と酒を合わせたつけ汁へ漬けておき、これを網焼きにして出すのは、久栄が得意のものだ。
 つけ汁に久栄の工夫があるらしい。今夜は、みずから台所へ出て行ったのであろう。
 それと、鴨の脂身を細く細く切って、千住葱と合わせた熱い吸物が、先ず出た。』

(37)『 京橋の東詰を北へ行った大根河岸に「万七」という小体な料理屋の二階の座敷に入り、先ず生薑と葱をあしらった兎汁で
  酒をのみ、しばらく休んだのちに、ここの名物の「桜飯」と魚の刺身で腹ごしらえするのが平蔵のならわしである。』
 とある。「桜飯」とはどんな混ぜご飯であろうか。
 広辞苑で「桜飯」と引くと「茶飯」とある。「たべもの江戸史」(永山久夫)によれば、茶飯は
「よき煎茶をほどよくほうじ、細かに揉んで、熟れる前の飯の上に振りかけ、熟れて後に軽く混ぜる。焼き塩を加減していれる」
 とあるが、なぜ「茶飯」を「桜飯」といったのか疑問は解けていない。
 

(38)  本文の「見張りの日々」に、そばがきの話が載っている。
 『 お熊は手早く、平蔵と松永の御代りのと、そばがきを二つこしらえた。
   さすが年の功で、こね方がまことに程よい。
   きざみ葱を散らし、醤油をかけまわしただけの〔そばがき〕なのだが、
  「こいつを、何年ぶりに口にしたことか……」
   さも、なつかしげに箸で千切って口に運びつつ、平蔵がいった。       』

  この盆休み、上野の忍ばずの池の蓮花を見た帰り、「池の端藪蕎麦」によったところ、本文のように、珍しくそばがきに出  会った。この店の「そばがき」は、釜揚げに使う塗り桶の中に湯をいれ、蕎麦だんごの形で出してきた。蕎麦つゆよりも濃い  めのたれときざみ葱などの薬味がついている。勿論、熱湯でこねただけより、このほうがよい。
 


(39)玉屋の酒の肴の話。

 「先ず、平蔵が大好物の酒の肴が出た。これは削ぎ取った鯉の皮を細く切って、素麺と合わせ
  た酢の物と、雄の鯉の肝の煮つけである。
  こうした料理は、他の料理屋では客に出さぬ。
  夏の鯉は味が落ちるというが、鯉の皮にふくまれた濃い脂を合わせ酢がやわらげていて、何と
  もいえぬ味わいだ。                                 」

 とある。食べたことはないが、夏の酒の肴にはぴったりの感じだ。酒飲みの好物はよくわかる。


(40) 「納豆のザル底を買う朝寝坊」
 江戸時代、納豆売りは糸引き納豆をザルに入れて売り歩き、秤り売りをした。朝寝坊して、ザルの底に残った納豆を買って、朝飯にしたいうのがこの川柳。納豆を炊き立ての飯にのせて食べるのが江戸の朝飯の定番である。現在の納豆はパック化されているが、これは明治になって「わら苞(つと)納豆」が出てからという。
 日本の糸引き納豆の歴史はよくわからないそうだが、室町時代の記録には納豆の記述があるとのこと。糸引きナットウはジャワのテンペ、ヒマラヤのキネマ、日本の納豆とあり、日本にはジャワから南蛮渡来したのではないかという。「ほんと? カステラや天ぷらと同じなの!」、信じられない話である。
                          『料理の起源』(中尾佐助著:NHKブックス) 


(41)19巻にはよい材料がないので、今回は「藤枝梅安」から取材。

 「梅安と彦次郎は居間の長火鉢に土鍋をかけ、これに出汁を張った。
 笊に、大根を千六本に刻んだのを山盛りにし、別の笊には浅蜊の剥き身が入っている。
 鍋の出汁が煮えてくると、梅安は大根の千六本をを手づかみで入れ、浅蜊も入れた。刻んだ大根は、すぐ
 さま煮えあがる。それを浅蜊とともに引き上げて小皿へとり、七色唐辛子を振って、二人とも、汁といっ
 しょにふうふういいながら口にはこんだ。」

最近の大根は、おろし用の青首大根しかないが、調理はかんたんで熱燗の日本酒に向いている。秋も深まり季節も向いている。


(42) 20巻 「助太刀」( p225 ) から

『 長谷川平蔵は、少しはなれた衝立の蔭へ座り込み、小女に酒をたのんだ。
  …………………………………………………………………………………………
  小ぶりの茄子の糠漬けに練り芥子をそなえたものと、酒が運ばれてきた。この茄子が意外にうまい。』

 とある。小ぶりの茄子は秋の茄子。『秋茄子を嫁御にくわせるな。』という言葉があるが、これは嫁いびりでなく、秋茄子は美味で食べ過ぎると躰を冷やし、母胎に悪いということだそうである。


(43)池波正太郎の生まれた近くの今戸橋の〔嶋や〕が犯科帳に時々登場する。(22巻 p45-p47)
 平蔵と筆頭与力の佐嶋忠介が見回りに出て〔嶋や〕の2階の座敷にあがり、
『 溶き芥子の薬味で、鰹の刺身。
  独活(うど)の和えものには、山椒の木の芽が香っている。
 「旨い」
  おもわず、長谷川平蔵が舌鼓を打った。         』

 とある。新年のこの季節('97.1)には少し早すぎるが、独活・山椒の木の芽、鰹とも初夏の味覚である。



(44) 31日の大晦日に行きつけの蕎麦屋に、家族3人でいったが、仕掛人・藤枝梅安の「晦日蕎麦」を思い出して、この編を正月休みに書いている。
 常在寺の老僕と僧が一人、何やら、いろいろな道具を小さな手押し車に積み、梅安宅へあらわ
  れたのである。
 「和尚さまのおいいつけで、まことに失礼ながら、こころばかりの……」
  と、僧がいい、道具をひろげた。
  大きな俎板に、ふとい麺棒、蕎麦粉が山ほど。柚子がたくさん。              』

 これは、梅安と彦次郎が年越しそばを食べに赤羽橋の蕎麦屋に出かけようとしているところへ、住職の好意で寺から、そばを打
ちに来てくれた場面である。ソバのうまさは「挽きたて、打ちたて、茹でたて」が3原則。
 家族3人で食べた大ザルは「茹でたて」であったのは確かだが。



(45)鬼平犯科帳は24巻が最後で、「誘拐」は未完である。著者が急逝したためだ。その24巻の「ふたりの五郎蔵」に『淡雪そば』の話が出てくる。  ( P105 )

『 山芋を擂りおろし、薄目の出汁で溶いたものを、熱いそばの上へ、たっぷりとかけま
  わし、もみ海苔を振ってだすのが淡雪そばだ。』

 白い山芋を春先の淡雪に見立てたのだろうか。今の『山かけそば』である。一方『とろろそば』は「そばつゆ」にとろろを入れ
た「ざるそば」である。


(46)この「浅草・御厩河岸」に『しんこ泥鰌』の話が出てくる。「しんこ」とは「新子」。「新子」とは遊里に初めてでた遊女や芸
者のことで、『しんこ泥鰌』はまだ手垢のつかないほっそりとした泥鰌のこと。

 「 おれが故郷じゃあね、しんこ泥鰌といって、小ゆびほどの小せえ泥鰌がとれる。父ちゃんは、
   こいつを鍋へ入れてね。ごぼうをこう細く切って、味噌の汁をつくるのがうめえのさ。大きい鍋
   にいっぱいこしらえてよ。おっ母と三人で、ふうふういいながら何杯も汁をすするんだ      」

近くのジャスコの魚売場にいくと、パックに入ったそれこそ小指ほどの『しんこ泥鰌』がいた。うれしくなって早速どじょう汁。
間酒を用意し、ひとり舌鼓をうって大満足でした。


(47)鬼平犯科帳には「池波正太郎・鬼平料理帳」(文春文庫)、仕掛人・藤枝梅安では「梅安料理ごよみ」(講談社文庫)、また剣客商売では「庖丁ごよみ」(新潮文庫)がある。池波小説には、料理場面がつきものであるが、その中では鬼平犯科帳は梅安、剣客商売より控えめである。
 この他 食べることの著書として「食卓の情景」、「散歩のとき何か食べたくなって」(新潮文庫)がある。食べることに興味
を失えば、生きることも意欲を失ったことになるが、著者の料理への貪欲なまでの興味には感嘆するばかりである。
 宝暦創業の人形町の「玉ひで」は親子丼発祥の老舗として有名だが、これらの著書には「玉ひで」も「親子丼」の話も出てこな
い。「玉ひで」の親子丼は地鶏と地卵でタマネギは入らない。著者は「親子丼」には全く興味がなかった証拠だろう。  


(48)「秋茄子の塩もみ」、ナスといえば、なぜか秋ナスになる。
 かって3坪程度の家庭菜園でナスを植えたが、数本のナス苗と、「しそ」を植えたら「柴づけ」ができるほどになった。ナスの
旬はもちろん「夏」と思う。しかし それでも「ナスは秋」。それほどうまいからだそうだ。
 仕掛人・藤枝梅安の「秋風二人旅」に、
  『なあに、それもこれも秋茄子がうまいからさ。諸事、食べすぎてはいけねえ』とある。
『旬の茄子を塩で揉んで、芥子酢しょうゆであえる』。これも私の夏の「酒のさかな」である。



(49)江戸の料亭といえば「八百善」。ペリーの来航の饗応に八百善を使ったという。(41)の「引き込みの女」でこの「八百善」について書いている。
先日 これをお読みになった宍戸信久さんという方からメールを頂いた。
 八百善の当主の名は「善四郎」が正しく、現在のご当主は10代目。また 両国の東京江戸博物館の7階と新宿高島屋の14階
に現在の八百善があるとのことでした。メールありがとうございました。 前回(48)は「伊能忠敬」展の東京江戸博物館見学であっ
たが、次回は東京江戸博物館の「八百善」料理としよう。


(50) 前回、東京江戸博物館に「八百善」があり、次回その報告をすると書いた。<BR>
ようやく行って来たので報告したい。東京江戸博物館の7階。1階のエレベータ近くの案内には「和風レストラン」とあるだけで「八百善」とはない。7階にのぼるとそこに始めて「割烹家 八百善」とある。店内は200坪の広さ。見晴らしもよい。<BR>
 写楽、広重、文晁、華山、光琳などの名をつけた懐石「御膳」が主なメニューで、中間のお値段の「文晁」を食した。2500円。<P>

 両国店:東京都墨田区横網1−4−1 東京江戸博物館7階 03-3626-8080<BR>
      月曜定休 11時〜21時(ラストオーダー19時)<BR>