吉村昭著に「関東大震災」がある。文春文庫としては1977年が第1刷であり、 20年前に出版された本で、小生は阪神・淡路大震災の後、出会った。 この本は多数の文献と体験者の話をもとに書かれたものである。震災で 最も悲惨であった本所・横網町の被服廠跡のその光景が詳しく書かれて いる。 この被服廠跡は平蔵の時代は御竹蔵、幕末は米蔵、明治以後 陸軍倉 庫、陸軍被服本廠とかわり、面積は約 24,000坪、ここで 38,000人が亡 くなった。この人数は1坪に 1.6人も死亡したことにもなる。これは地 震後持ち出した家財の火災による。隅田川の橋は新大橋と両国橋の他は、 地震による落橋でなく、消失したという。これも持ち出した家財への引 火がその原因という。 相撲で知られている両国国技館の北側の横網公園が被服廠跡である。
「剣客」[鬼平犯科帳(6)文春文庫 P77-78]
『 大川(隅田川)が、中天からの春の日をうけてとろりとしていた。
行き交う船の群も、なにか、ゆったりとした感じで川面をすべっている。
左手に、その大川をながめつつさしかかった深川・清澄町のあたり。
町屋と松平陸奥守下屋敷の塀外をすぎようとして、
「忠吾よ」
と、編み笠の中から長谷川平蔵が、これも平蔵同様の編笠・着ながしの同心・木村忠吾へ、
「腹が、へってきたな」
「はっ、それはもう……今朝は、また格別にお早く、役宅をお出になったのでございますか
ら……」
と忠吾め、得たりとばかりに生つばをのみ下し、
「万年橋のたもとに、桐屋と申して、ちょいとその、うまい田楽を食べさせます」
「くわしいな」
「は……昨年、秋ごろより、深川、本所は私めの受けもちでございまして……」
「深川、本所はむかしから、安くてうまいものがある土地よ、なあ忠吾」
「は……いかさま……」
「女も安くてうまい」
「へ……それは、存じませぬことで」
やたらにへどもどする忠吾へ笑いかけつつ、平蔵が松平屋敷と清澄町の町屋との横道を行
きすぎた。 』
隅田川の清洲橋を渡り、左折して小名木川に架かる橋が万年橋である。
藤沢周平の「橋ものがたり」は市井人情ものであるが、『約束』は
「幸助」と「お蝶」の五年後の万年橋での再会である。幸助は錺(カザリ)職人、
お蝶は幼馴染みであるが、いまは酌とり女中。貧しさ故の現在の境遇。葛藤の
中での万年橋の上での出会いの話である。
戦後の高度成長期以降にはない話でも、この話は江戸ほど遠い昔の話でもな
い。江戸期の橋は現在のJRの駅のようなもので、目印であり、人が集まり、
出会い、分かれる場所であった。
この万年橋から北に約200m行くと、江東区芭蕉記念館がある。
入場料:大人100円。
型式 :トラスドランガー橋 川崎重工施工
左の写真は小名木川から大川(隅田川)を見た北斎の万年橋下である。
遠くに富士山が見えている。地図はこちら。
[剣客に出てくる橋]
万年橋 千住大橋 新大橋 上ノ橋
平蔵の時代、芝・神明前に[弁多津]という店があったという。ここは「のっぺい汁」が名物であった
(6巻 礼金二百両)。
『 平蔵が注文しておいた熱い[のっぺい汁]と酒がはこばれてきた。
大根、芋、ねぎ、しいたけなどの野菜がたっぷりと入った葛(クズ)仕立ての汁へ口をつけた平蔵が、
「うまいな」……………… 』
「のっぺい」は広辞苑では「能平」「濃餅」。のっぺい汁は会席料理だそうである。
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(la7m-ymnk@asahi-net.or.jp 山中 政好 )