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日本にいるときは、ふと思い立ってぶらりと一人旅というのをよくやっていた。ジェベル(バイク)やパジェロに寝袋、テントなど野営道具一式詰め込んで、日の出とともに、または金曜の深夜に予定を決めずにぶらりと旅立った。自分にとって「一人旅」とは「自分を取り戻す時間」でもあった。しかしタイに住むこと2年。まだこういう旅をしたことがなかった。理由はいろいろあるが、最大の理由は、車やバイクを所有することや運転することを会社から禁止されていたからだ。これで行動範囲は狭くなるし、自由気ままな一人旅ができなくなった。また、家族が一緒であると、異国の地で家族をアパートにおいて一人旅をすることに、精神的なブレーキがかかっていた。
2004年9月18日、とりあえずどこかへ言ってみようとアパートを出た。移動手段はタイ国鉄、飛行機、長距離バスとなる。国鉄は本数も少なく当日の切符の入手が難しい。飛行機となると、やはり出発前から目的地を決めないといけない。つまり旅の自由度が減ってしまう。そこで、長距離バス(ロットトゥア)を選んだ。タイの長距離バスはタイ全土の主な場所を網羅し、本数も比較的多い。国鉄で行くより早いというメリットもある。そこで、バンコクの長距離バスターミナルのあるモーチットへ向かった。背中の30LのNorth Faceのザックには最低限の着替えと地球の歩き方と小説一冊、モバイルツールを詰め込んだ。そしてポケットには護身用の小型のナイフ。タイは当然だが安全な国ではない。万が一のためにポケットに忍び込ませておいた。もちろんこれを手にする機会がないにこしたことはない。自己防衛の手段の一つである。モーチットへ向かう間にタイの地図を眺めながら、どこへ行ってみようか考えたが、目的地が決まらぬままモーチットのバスターミナルに到着した。モーチットに着く間、バンコクは日本の梅雨のような驟雨が降り続けていた。 バスターミナルの建物に入ると、バスの乗車券売り場の窓口がが左右数百メートルに渡って並んでいる。行き先ごとに窓口が設置されている。また同じ行き先でもバス会社が数社あるようだ。表示は基本的にタイ語であるが、英語の看板を出しているところもある。
モーチットのバスターミナル発券窓口
さて、どこへ行こうか。この期に及んでまだ決めかねていた。旅の時間は限られていた。土日に2日のみ。移動時間で10時間とかかかってしまうような旅はできない。3、4時間というところが丁度いい。また地図を広げてみた。バンコクから東北方面へ約250km、バスで3、4時間のところに、コラート(ナコーン・ラーチャシーマー)という街がある。タイの東北地方・イサーンの入り口の街である。街の規模はタイで2番か3番目の街だ。いきなりタイのド田舎へ行くのも今回は躊躇われる。一人旅のウオーミングアップとしてはそこそこの規模の街がいい。このコラートが最適ではないだろうか。コラート行きの窓口はいくつかあった。違いはよくわからないが、その一つへ向かった。バスはこの時間は20分に一本の割合で出ているという。次のバスのチケットを買う。コラートまで3、4時間、一等バスで157バーツであった。バス乗り場はどこかときくと、英語とタイ語で看板が出ているからすぐわかる、という。バス乗り場77番だからそこへいってそこに止まっているバスに乗ればいい、とのことだった。道中が長いこともあるから、水のボトルとチョコレートを買って、77番バス乗り場へ向かった。 バスのチケット。行き先と値段、乗り場の番号などが印刷され、バスの座席が手書きされている。
バスターミナルの発券売り場がある建物から77番バス乗り場へ向かう途中から。
これは僕が乗るバスではないが、これもコラート行。
バス乗り場にはモニターがあって音楽番組を流していた。画面にはなぜかELTが。
77番乗り場はすぐにわかった。またこのあたり一帯はコラート行きのバスの発着所であることもわかった。僕が乗る77番にはまだバスは到着していない。間もなく77番にバスがやってきた。バスのフロントウインドウに英語とタイ語で「バンコク コラート(場合によってはラーチャシーマー)」と書かれている。しかしバスを見て驚いた。ほかのコラート行きのバスはハイデッカータイプでそこそこきれいなのであるが、77番に滑り込んできたバスは、どう見ても一世代前の見劣りするくたびれたバスである。写真を撮らなかったのが残念だ。係員に本当にこのバスかとチケットを見せながら聞くと、そうだ、という。同じ値段でもこうもバスが違うとやはり損をした気分になる。いまさらどうしようもできないので、おとなしくバスに乗り込む。 バスに乗り込むと、女性の車掌がチケットを確認しに来る。乗客がすべてそろって、バスは定刻より10分遅れて出発した。社内を見渡してみると乗客は全員タイ人であった。先ほどまで降っていた驟雨がいつの間にか上がっていた。モーチットからハイウェイ高架下の道を北へ進む。ドンムアン空港の横を通り過ぎ、アジアウェイを北上していく。バスの中のモニターではアメリカの映画が上映されていたが、タイ語吹き替えなので言葉はよくわからない。しばらくすると女性の車掌がコーラと菓子パンを配り始めた。僕はコーラを飲みながら、地球の歩き方のコラートのページを読み始めた。
車窓の風景は毎日会社へ向かう見慣れた風景である。アユタヤの手前でアユタヤ方面とサラブリー方面に分岐するところを、バスはサラブリー方面へ向かっていった。景色は田園地たちと湿地地帯が流れていく。そしてところどころに工場が点在する。サラブリーに近づくと工場が多くなってきた。バスは休憩することなく走り続ける。サラブリーを抜けると景色に変化が現れてきた。バンコクではまず目にすることができない「山」が登場するのである。カオヤイ方面の山である。久しく山を見ていなかった。目に入る風景に山があるとこんなにも落ち着くものなのかと改めて驚いた。突然、左手に大きな湖。湖畔にはレストランが点在している。どうやらダム湖のようだ。一帯は観光地のようである。このあたりになるとバスは峠をいくつか越えていく。バンコクを出発して3時間10分、コラートの街へ入っていった。コラートは大きな街であった。郊外にはショッピングセンターが立ち並び、たくさんの車や人が行きかっている。バスの終点はコラートの町外れの第二バスターミナルである。しかしコラートの街へ入ると乗客は車掌や運転手に声を掛けると、好きな場所で降りることができるようだ。風景を見ていると、バスはMittraphap通りを走っているようだ。大きなショッピングセンターのところでかなりの乗客が降りる。地図を確認すると、この先左折してバスは町外れのバスターミナルへ向かうようだ。僕もこの場所でバスを降りた。 さて、どうしようか。初めての街である。まだ街の大きさや様子がまったくつかめていない。とりあえずは宿を探そう。ショッピングセンターで買った水を飲みながら地球の歩き方を開いた。コラートの街はタオ・スラナリ像のある南北に走るRatchadamnoen通りの東側が旧市街、西側が新市街となっている。宿はゲストハウスは避け、かといって高級なホテルも避け、町の中心部のアクセスしやすいホテルを探した。とりあえず何軒かホテルを廻って見るのもいいだろう。トゥクトゥクに「Mahattai通りのChomsurangホテルへ」といって乗り込んだ。40バーツだという。ホテルは日本でいうところの地方の古いビジネスホテルという様相だった。レセプションで部屋の有無、値段を確認。600バーツ。とりあえず部屋を見せてもらって、エアコンの利きとお湯の具合をチェックした。とりあえずここでいいだろう。一軒目のホテルで決めた。ホテルの質よりもホテルの斜め前が夜はナイトバザールになる通りであることが、一番の魅力だった。荷を減らして町へ出た。コラートには国鉄の駅が二つある。新市街にナコーン・ラーチャシーマー駅、旧市街にチュンターン・タノンチラ駅。ホテルから10分くらいにあるチュンターン・タノンチラ駅へ行ってみることに。この駅は、国鉄の分岐点にもなっている。一つがノーンカーイ方面へ、もう一つがウボンラチャタニー方面。駅前には屋台が数件とバイタクがあるだけでほかに何もない。駅は白いコンクリートで比較的新しい駅であった。 コラートの街を移動中のトゥクトゥクから
チュンターン・タノンチラ駅
駅前からバイタクに乗り、タオ・スラナリ像へ移動。バイタク料金30B。タオ・スラナリとはヤー・モーと呼ばれタイのジャンヌ・ダルクとも言われ、今なおタイ人から熱い信仰を集めている。1826年にこの町に侵入してきたラオス軍に襲撃された。そのときにこのタオ・スラナリは当時のこの街の副領主の妻であった。彼女は機転を利かせてラオス軍に侵入し、ラオス軍兵士たちに酒を飲ませて撃退したという。像の周りには参拝用の花を売る店が並び、この日も数多くの人たちが参拝をしていた。 花で飾られたタオ・スラナリ像
コラートの街には自転車サムローが数多く走っている。サムローは東南アジアの代名詞のような乗り物だが、バンコクの街からはすでに姿を消した。どのサムローも漕ぎ手はかなりの年配の老人たちである。老人たちが漕ぐサムローに、彼らから見れば若造の僕が乗るのが躊躇われる。しかし、彼らはこれで生活を営んでいるわけだから、乗ってあげないことが一番の不親切なのかもしれない。しかし今回はついに乗ることは無かった。
街をうろついていると第一バスターミナルというところへ出た。バンコクへなど長距離バスの発着ターミナルは第二ターミナルで、この第一ターミナルはコラート近郊へのバスの発着所のようだ。チケット発売窓口でどのあたりまで行くことができるのか聞いたが、今ひとつよくわからない。すると片言英語が話せる別の係員がやってきて、タイ語と英語のミックスでどうにかコミュニケーションが図れた。相手は「目的地が決まっていないが、とりあえずコラートから1時間くらいのところへ行ってみたい」という僕の行動がなかなか理解できないようであった。「目的地の無い旅」というのはやはり理解しがたいのだろうか。それでもコラートの東側へ行くバスを教えてもらった。料金はバスの中の車掌に払えばいいという。もう間もなく出発するとのこと。係員がそのバスまで案内してくれた。そして何やら車掌と運転手に話をしている。コラートから一時間くらいのところで適当に降りるということを説明しているようだった。また帰りのバスの時間も聞いてくれた。さて、これから乗り込むバスであるが、外観からして押して知るべし、というバスである。もちろんエアコンも無いおんぼろバスだ。中へ乗り込むと、ビニール製の椅子の半分はビニールが破けていたりガタついていたりした。発射時刻が近づいてくると、人が続々と集まってくる。手に大きな荷物を抱えた人や、食料品を抱えたおばちゃん、家族連れ、また大学生も数人いた。
出発時刻には8割がたの座席が埋まっていた。それにしてもバスの中は暑いの一言。出発直前になってエンジンを始動したら社内の扇風機が廻りだした。僕はなるべくがたついていない席と扇風機の下という条件で席を探したが、それが功を奏した。扇風機が廻りだしてもぬる暖かい風が流れるだけなのだが、それでも少しはましである。バスはターミナルを出発すると、コラートの街中で乗客を集めながら走っていく。そして途中から物売り(主に食べ物)もバスの乗り込んでくる。そしてバスはいつしか満員となった。コラートの街を出ると、あたりは田園風景と原野の景色に変わる。30分も走ると水牛が現れる。そしてバスは少しづつ乗客を降ろしていく。1時間ちょっとたったころ、先ほどの車掌がこのあたりで降りろ、と行ってきた。バスが止まった。そして帰りのバスは1時間30分後にここを通るからと茅葺風のバス停を指差してくれた。僕はお礼を言ってバスを降りた。 さて、どうするかな。 バス停の周りは原野と民家である。犬はもちろんのこと、水牛や鶏が放し飼いになっている。もうまったくバンコクとは違う異国の地へきてしまった気がする。バス停の周りにはバイタクが10台近く止まっている。日本人など珍しいのだろう。運ちゃんや歩いている人たちは僕をじろじろと見ていく。こういう視線はバンコクでは感じられない。「外国へ来た」という意識が俄然強くなった。日々、タイという外国に住んでいながら、僕たちが住んでいるバンコクはそれをあまり意識させない。言葉や物理的なものは外国であることには変わりないのだが、意識の中ではあまり外国というのを意識しないで生活を送ることが可能になっている。バイタクの運ちゃんに話しかけてみた。「このあたりにお寺か市場(タラート)はないか?」と。彼は「10分くらいのところにある」という。値段は30B。多少吹っかけられているのかもしれないが、見ず知らずの土地で値切ったあとに身包み剥がされるのはごめんだ。ここは言うとおりにしておいたほうが無難である。バイクはバスが走っていた道と直交する道(SOI)へ走っていった。風景は原野と森と水牛と民家。バスの通りから離れるに比例して、民家がみすぼらしくなっていく。原野や森が増えてくる。原野で水牛が寝ている。バイクの心地よい風と目に入ってくる風景が、まるで現実ではなくなにか夢の中の出来事のように感じられた。バンコクでは見ることができない日常がそこに広がっていた。僕にとっては「非日常的」なのであるが、ここに住む人たちにとっては「日常」なのである。しかし、僕の右手は無意識のうちにポケットに入っている護身用ナイフに触っていた。万が一のことが起きてもいいように。そして道は、未舗装になった。砂利と土の道を進むと、また舗装の道になった。そこは小学校のようであった。小学校の先を右へ曲がると、なにやらにぎやかな音楽が聞こえてきた。人や車やバイクが集まっているお寺であった。そしてお寺の境内がタラート(市場)になっていた。バイタクの運ちゃんが「ここでいいか」と聞くので僕はうなずいた。帰りはどうすればいいか、と聞くと、お寺の周りに止まっているバイクを指差した。僕は彼に30バーツプラス10バーツを渡して、たむろっているバイタクのうんちゃんたちに帰る場所(つまりバスが来るところ)の説明をするように求めたら、快く引き受けてくれた。彼がそこにいた運ちゃんに説明してくれた。ただ、彼らも客が来れば乗せてしまうので、「日本人がきたら、バス乗り場まで連れて行くように」ということを伝言してもらうこともお願いした。
民家の前に放し飼いにされている水牛
道は砂利道となってまわりは原野と森が広がる
お寺の境内のタラート
お寺の境内のタラートはいろいろな屋台が集まっていた。食事の材料からガイヤーン、辛そうなスープ、また衣料品、アクセサリーなども売っている。この集落の人たちが集まっていてとてもにぎわっていた。子供たちはアクセサリの屋台へ集まり、大人たちは料理の屋台で買い物をしている。ガイヤーンやコームーヤーン、そして香辛料のにおいを嗅いで、僕はバンコクを出てから何も食べていないことに気がついた。ガイヤーンの売っている屋台へ行って、小さいやつを一つたのんだ。箸もつけてもらった。焼きあがったばかりのガイヤーンと水を持って、日陰になる境内にある東屋へ向かった。そこはすでに集落の人たちがゴザを引いて、屋台で買ったものを広げて食べていた。すると地元の人たちは一緒に座れ、という。 「どこから来たのか?」 「クルンテープ(バンコクから)」 別の人が「ほら、コレ食べなさい」 「いや、どこの国から来たのか?」 「日本から来ました」 別のおばちゃんが「これもおいしいよ」 「どれくらいタイにいるのか?」 「もう2年います」 別の人が「ご飯も食べてね」 「タイで働いているのか?」 「そうです」 別の人が「これは辛いよ」 僕は貧弱なガイヤーンをみんなの前に出して、どうぞ食べてください、といった。その横には大きなガイヤーンがあったのだが。 僕の周りを小さな子供たちがものめずらしそうに取り巻いたり、恐る恐る触ろうとしたりしている。「どこへ帰るの?」と聞かれたから「今日はコラートだよ」といったら子供たちは「わーー、コラート!」と喜びと驚きの声を上げていた。コラートまでバスで1時間ちょっとだが、彼らにしてみれば憧れの場所のようだ。それを証明するようにおばちゃんの一人が「子供たちがコラートに行くのは1年に一回くらいだから」と行っていた。
僕はすっかりご馳走になってしまった。時計を見るとすでにココへ来て1時間近くが経とうとしていた。僕は帰りのバスのことを伝え、お礼を言ってゴザから立ち上がった。おばちゃんの一人がソムオー(ざぼん)を何かけらかビニールに入れて渡してくれた。見ず知らずの人たちにこういう歓待をしてもらったのは実に久しぶりだ。僕は胸が熱くなった。もう二度とくる事が無い土地、いや、もしまたココへ来ようとしても、二度とたどり着けないかもしれない。この集落は見るからに貧しかった。家はタイ古来の高床式の家。それも半分は壊れているようなものだった。経済的には決して豊かではない。しかし、一人の見たこともない日本人にここまでの親切をしてくれるのだ。僕の目には「貧しい」と映っても、彼らは精神的に豊かな生活をしているのかもしれない。また、バンコクなどの豊かな経済事情を知らないのかもしれない。知っていても体験したことがないのかもしれない。暖かい気持ちとタイの貧富の格差とが入り混じってとても複雑な思いだった。しかし、この人たちには十分にお世話になった。僕ができるのはお金を払うことでもない。ワイをして最大限の御礼の言葉を伝えることである。 お寺の境内を出ると、バイタクの運ちゃんが声を掛けてきた。ちゃんと覚えていてくれたのだ。僕はバイタクに乗りながら、遠ざかる景色をずっと見ていた。さっきの子供たちがずっと手を振っていてくれたのである。僕も手を振り続けた。 日がどっぷりくれたころ、コラートに戻ってきた。たった数時間の出来事だったが、すでに夢のような気がしてならない。たぶん、二度と、訪れることができない場所。そこでの幻のような体験は、たぶん、僕の心の中に残り続けるだろう。 コラートの夜は傘も役に立たないほどの大雨と大風だった。雨足が弱まったころ、すぐ近くのナイトバザールへ向かった。しかし雨のためで人通りは少ない。すでに3割がたの店が店じまいを始めていた。昼間は道路だったところが500mくらいバザールになっている。やはり若者向けの衣料品の店が多い。僕はゆっくりと往復してホテルへ戻った。
翌日、僕はコラートから東へ約60kmのところにあるピマーイへ向かった。ホテルのレセプションで確認すると第二ターミナルからバスが出ているという。僕はチェックアウトの手続きを済ませホテルを出た。ホテルを出たところに、ガイヤーンとカオマンガイの店があったので、そこで朝食をとった。トゥクトゥクをつかまえ第二ターミナルへ移動。ターミナルに到着するや否や、いろんな兄ちゃんたちが近寄ってくる。「どこへ行くんだ」「クルンテープか?」「日本人か?」「安くするぞ」などなど。こういう客引きを無視して、ピマーイ行きの窓口を探した。しかしこれがなかなか見つからない。しょうがなくバンコク行きの窓口で聞くと、窓口の外にいた係員がピマーイ行きのバスが止まっているところへ連れて行ってくれた。お金はバスの中で車掌に払うようだ。ピマーイ行きのバスはこれまた昨日のバス同様、エアコンなしのオンボロローカルバスだった。バスは昨日同様にコラートの街で人を集めながら進んでいく。途中で物売りがやってくるのも同様だ。社内は乗車率150%というほど混んでいた。女性の車掌がその間を縫うようにして料金を集めて歩く。僕の二つ前の席で突然、車掌と客の女性との喧嘩が始まった。どうやら子供の料金を巡っての喧嘩のようである。車掌は子供が席を占有するのであればちゃんと料金を払えといっている。しかし乗客の女性はこれに応じない。車掌は、だったら子供はひざの上に乗せろ、これだけの乗客が立っているのだから、というようなことを言い返す。混んでいるバスの中で延々と10分近く言い争っているのである。車掌が「お金がないのか?」みたいなことを言ったとたん、女性の客が逆切れした。タイ人の逆切れは見ているだけで怖い。もう興奮状態で何をいっているのかわからない。まわりの客たちが逆切れした客をなだめるが、もう止まらない。彼女は大声で10分以上も一人で怒鳴り続けていた。車掌はあきれて、ほかの客の集金に動き出した。 第二バスターミナルの長距離バス
ピマーイ行きのオンボロローカルバス
のどかな田園風景と原野を1時間強走ってピマーイに到着した。 ピマーイはタイのアンコールワットとも言われる代表的なクメール遺跡がある。ピマーイの街はその昔は四方を石の城壁で囲われていたそうだ。寺院が形成された12世紀ごろにはこの町全体が聖域であったという。今はその大半が壊されているが、町の中心部にピマーイ遺跡公園として当時をしのばせている。天気はあいにくの雨模様。時折日が射すものの、驟雨が続いている。湿度はかなり高い。ピマーイ遺跡公園には人もまばらであった。タイ人らしい6人くらいの集団と、西洋人2人組み、そして日本人観光客6人がガイドの説明を受けていた。この遺跡公園はスケールはそれほど大きくないが、たしかにクメール様式の遺跡がまだ残されている。アユタヤ遺跡もそうだが、このような滅ぼされた遺跡を見るたびに、何かむなしいものを感じる。かといって、キンキンギラギラのワットプラケーオよりは全然ましではある。こういう遺跡に来るのであれば、各年代ごとの建築様式などを事前に勉強しておいたほうがいいだろう。
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遺跡をのんびりと時間を掛けて見てまわっていると雨が強くなってきた。時間は昼を回っている遺跡公園を後にした。どこかで昼飯をと考えていると雨足が強烈に強くなってきた。遺跡公園の道路の反対側のちょっと奥まったところにタイレストランがあったのでそこへ駆け込むようにして入った。冷たいビール飲みながら、ぼんやりと外の雨がやむのを待っていた。おなかも十分に満たされたのが、外の雨は一向にやまない。すこし雨足が弱くなってきたので、思い切って外へ出た。しかし外へ出るとまた雨足が強まった。これでは遺跡公園を歩くこともできない。そのときに目の前をバスがゆっくり走っていった。僕はとっさにバスを追いかけ車掌に「コラートへ行くか」と聞くと「そうだ」という。バスは速度を落とし、僕はバスに飛び乗った。コラートに着くと雨は上がっていた。チュンポン門周辺を歩いたり、何を買うわけでもなく屋台やおみやげ物屋をみてあるいた。シルク産地とだけあってシルクが多い。しかしピマーイに比べると値段は3倍以上だった。ピマーイで買ってくればよかったな、とちょっと悔やまれた。すべてはあの雨のせいだ。街を歩いていると大きなショッピングセンターに出た。地下のクーポン食堂でコーラを飲みながら休憩。このショッピングセンターには「黒田」が入っていた。コラートの街では「黒田」を何回か見かけた。「黒田」とはsukhumvit soi33/1にある「黒田」である。コラートは日系企業も多く進出していて日本人も多いようだ。 一休みして外へでたら、夕暮れ時が近づいていた。僕はトゥクトゥクを止めて、第二ターミナルへ向かった。バンコクへの帰りは新しいバスで快適であったが、行きよりも小一時間時間余計にかかり4時間かけてバンコクへ到着した。バンコクは言うまでもなくコンクリートジャングル。ついに昨日見た、あのコラート郊外の田舎の風景を頭に浮かべた。同じタイでありながら、まるで別の国のようである。もちろん東京と北海道の原野を比べても同じことなのだろうが・・・。バンコクとコラートの田舎には、何か目に見えない壁があるような気がしてならない。それは「経済」とか「貧富」という壁なのかもしれない。バンコクは成長しすぎたのか。もう少し、バランス、というものがあってもいいと思う。誰かが「バンコクは張りぼての都市」と言っていたが、それがわかった気がした。一泊二日の短い一人旅は、バンコクの夜景に吸い込まれるようにして終わりをとげた。 |