「CHAINSHOT」誕生まで

− 偶然でも必然でもなく誕生したゲーム −
2003-11-22

 


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コンピュータ無縁の学生時代
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甘かったりすっぱかったり、またある意味で苦痛も多かった高校までの生活を終わり、私は理科系の大学に進学した。
しかしその生活といえば音楽(バンド)と中国文化(マージャン)と居酒屋でのバイトがほとんどの時間を占めているような按配だった。
自分のミュージシャンとしての評価は「気の利いたフレーズを器用にこなす時はあるが、テンションを制御できていないアマチュア」と定義しており、プロになることを考えることはなかった。
きっといい判断だったのだろう。
漫画が好きで一時漫画家を目指して何本かを投稿したこともあったが、佳作にすら名前を載せてもらえることがなかった。

そして私はコンピュータのプログラムを一本も作らないまま大学生活を終える。
その当時プログラムを書くといっても、まずコーディングシートと呼ばれる専用のプログラム記入用紙にこつこつと書き込むというのが手順であった。
記入内容を机上で点検(これを机上デバッグと言った)し、電算機がおごそかに鎮座する電算センターのタイプライターで紙テープにする。
それを読み取らせてプログラムの動作結果を確認するというのが「プログラムを学習する」というカリキュラムだった。
行列に並ぶのが大嫌いな私に、こんなもたもたした芸当が出来るわけが無い。 ということで私はプログラムを一本も組んだことの無い(まぁ当時はそんなに珍しくもなかった)理科系大学卒業者に成り果てた。

「後から思い出してもきっと今が一番楽しかったと思うはずだ」と好き勝手に謳歌した大学生活も終焉が近づいていることを感じ始め、さて何をしたものかと周りの連中に聞くと「就職相談室」で企業の募集要項をチェックして就職先を探せという。
そうか学生の次は社会人なんだと「就職相談室」に行く。眼があった事務のおばさんが私を知っているような様子で語りかける。
「インドみたいなところを放浪するのかと思ってましたわ」
さぁ就職だと気持ちを切り替えた若者にとってはなんとも無残な感想だ。
でも彼女を責めるわけには行かない。一部茶色に染めた長髪、どこでも寝転べるようなスーパーラフな服装、おまけにいかにも単位だけ揃えておきましたという成績。
正直で言葉をそれほど吟味しない彼女に中途半端な笑顔を送って「就職相談室」を後にした私は二度とその扉を開けることはなかった。

就職活動といえる記憶は、競争率100倍以上の某新聞社の科学担当記者の試験を受けたことだけである。当たり前だが合格しなかった。
そんな時にバイト先で「私の会社で設計者が足りないのだけど」という声がかかった。
試験みたいな面倒無しに就職先を目の前にぶら下げられホイホイと誘いにのる。
需要と供給の見事な一致の結果だ。

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コンピュータに出会う
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まず現場を知らなくてはいけないという方針のもと、工場でベテラン工員に工具や機械の使い方を教えられながら油と汗にまみれて働いたのである。
仕事について半年くらい経ってから頭に浮かんだ言葉を口にしたのはさらにその半年後だった。
「そろそろ設計の仕事をさせてもらえないでしょうか」

配置転換は即日だった。
私は安全靴をはいて轟音と油煙の空間ですごす生活からスリッパを履いてコンピュータの前に座る生活に換わった。
タバコを喫うのに、いちいち油落とし洗剤で手を洗わなくとも大丈夫になった。
インスタントコーヒーではあるが、飲みたいときに自分で淹れることもできた。
そんな現実的な環境の変化の中でいよいよ学生時代に経験しなかったコンピュータに指示を与えるという仕事に取り組むのである。
先輩はディスプレイでダイナミックに編集できる最新のマシンを使っていたが、私はその先輩が最新マシンを導入するまで使っていた紙テープを編集してロードする旧マシンが与えられた。

専用の図形定義スクリプトを記述して数値制御されている工作機械に指示を与えるデータを生成するのが仕事であるが、これは非常に面白かった。
データテープを実際に工作機械に渡す前に、プロッターでその動きを確認するのであるが、私はそこに幾何学図形を重ね合わせながら図形を織り上げていくという「遊び」が面白くて仕事に直接関係しない作業に夢中だった。
しかしサボっていたわけではなく、結構早く仕事をこなせた私は依頼された加工テープを後は出力するだけというところまで用意しておいてから、思いつきで好き勝手な図形をプロッターに描かせまくり現場から「そろそろ出来たか」と催促にきて「ちょうど上がるところです」なんてやっていたようである。
前の工場内作業に比べて申し訳ないほど時間的余裕があった。

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パソコンそしてベーシック
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その頃話題になり始めたパソコンを導入しようという話が持ち上がる。
いろいろカタログが取り寄せられたが、自分の中には何ら機種選択のための知識もあるわけではない。
まぁでも検討しろと言われていることもあって、先輩と今思えば結構適当な議論の末に導入されたのが富士通社のFM8であった。
パソコンといえばベーシックであった。
もちろん私もベーシックに取り組むことになるのであるが、添付されているマニュアルのせいにはしたくないが、何をすればいいのかさっぱりわからなかった。
最初に手がけたのは、プログラムを一時一句間違わずキーボードから入力することだった。
そのうち自分の入力した内容に対してパソコンがどう反応したかがわかり始める。
またコマンドのスペルミスが減少してくるとソースリストを入力することの苦痛が和らいできて、当時自分で購入した厚さ2センチもあるプログラミング解説書(なぜかN88BASIC本:アスキー出版だった)のすべてのソースを入力した記憶がある。
ゲームセンターと寸分変わらないインベーダーゲームが16進の機械語でリストが掲載されており、それを入力するためのプログラムを作ったりもした。
そのうち少しは自分でコマンドを組み合わせられるようにスキルがあがって、なかなか勝負強いマスターマインド(4桁の数字を当てあうゲーム)や弱いオセロなど短いオリジナル処理も作れるようになっていた。

そしてこのパソコンは日本橋のパーツ屋さんと協力して私が本来の仕事で使っていたタイプライター型の紙テープ編集機とシリアルケーブルで接続され、私はディスプレイ上で編集できるエディターの作成を開始した。
出来上がったものはドキュメント整備がされておらず私にしか使い方がわからない代物であったが、画面上での編集結果をタイプライターと通信してテープを出力させるだけでなく、図形定義スクリプトソースをフロッピーディスクにセーブ・ロードできるようにし、複数ソースをマルチウィンドウで編集できるエディターに仕立てた。
さらに起動時に紙テープから基本システムを読み込ませる必要があったのをフロッピーディスクから流し込めるように拡張した時点で、私の旧マシンは入出力媒体が紙テープしか無い最新マシンを機能的に(性能的ではなく)上回るマシンに変貌した。
なんとこのシステムを納入している商社の人間が見学に来たこともあった。

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ゲームを作る
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楽しくも手ごたえがある時期が区切りを迎えても私のパソコンに対する興味は衰えず逆に増していた私は、自分でゲームを生み出せないかと思い始める。
ちょうどその頃にFM7がタモリをキャラクターとした宣伝を打って当時おどろくべき低価格で登場する。
一般のサラリーマンより少し多い給料だった私は(すぐに大手の連中に逆転される運命だが)、低価格といえどまだまだ高値の花であったマイパソコンを手にすることになる。
それからは土曜の夜は眠さも感じず、当時から好きだった酒にも惑わされず、がんがん作って捨ててというハイテンションなゲーム作成夢中野郎の時期を迎える。

最初に自作オリジナルゲームを投稿したのはマイコンベーシックマガジンという雑誌であった。
いくつかのPC関連の雑誌があったが、もっとも掲載される可能性が高そうに感じたからだ。 そして掲載された。
おまけにその時期に半年間の投稿プログラムの中から選ばれたものにメーカーから賞をもらえるというコンテストがあり、私はFM7/8部門で選ばれて富士通の社名が書かれた表彰状を手にすることになる。

そして自分には敷居が高いと思っていた月刊アスキーへの投稿に挑戦する。
オリジナルの作品で無ければクリエータを名乗る価値は無くただの「再生」でしかないという信念で、頭の中にアイデアを探しキーボードで伝えディスプレイ上で動作確認を続けた。
月刊アスキーに時期を空けて投稿した3本のプログラムはすべて掲載していただける光栄に預ることになる。
アスキー編集部から専用の原稿用紙が送られ、ゲームの説明を記述するように依頼があり、縁が無いと思っていた「原稿料」という種類の収入を得る。
またテープアスキーという媒体つきの書籍にゲームが掲載収録され、これは「印税」というこれまたうれしい種類の収入を得ることになる。
収入は多くはなかったが、その喜びは誰もが味わえるものではないと思うと嬉しさがつのった。

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CHAINSHOT 投稿、そして拡大
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アスキーに投稿した3本のうちのひとつがCHAINSHOTだった。
覚えているが最初に私の前のディスプレイで動いたバージョンは、おそろしくルールが複雑でわかりにくいゲームであった。
ルールを詰め込むのがサービスだと思っていたかのごとく叩き込んだ結果は、爽快感が無く展開がわかりにくいため遊ぶのに苦痛がともない、まったく自己満足の退屈な代物であった。
それから捨てるアイデアや追加するアイデアを反映させて10種類以上のルールや得点計算の異なるバリエーションが作ったと思う。
それらに対して今度は作り手ではなく、自分がモニターとなって楽しめるかどうかを追いかけて、これで投稿しようと落ち着けたのがあのルールだった。

アスキー掲載からちょうど10年後の1995年にセガサターンのゲームとして発売された「ブレイクスルー」という商品がある。 ゲームの基本ルールはCHAINSHOTのルールであったが、そこに落ちブロックとかタイム制限など妙な演出を加えたことでパズルの純度が下がり、マーケットから冷遇されてしまった作品である。
これがまた、なんとアレクセイパジトノフ(テトリスの考案者)監修と銘打たれて発売されたという困った作品だった。
制作会社は作者不詳のゲームと思っていたのか私に連絡があったわけではなく発売後しばらくこのゲームの存在を知らなかったのであるが、テトリスというすばらしくシンプルで洗練されたシステムを考案された人によるなんと悲しい仕事だったことだろう。

それ以外にも全数の把握は困難だがCHAINSHOTは複数のプラットホームに移植されていた。
某ハイテク大企業から準商業的利用で使いたいというアプローチがあり、知的所有権の侵害による信用への影響を防ぐために私との間で原案保証契約を交わすこともあった。
1個人と大企業の間での契約にかなり興奮したのを覚えている。
そんな状況の中で当時パソコンといえばPC9800と言われた時代にPC9800向けのプログラムがフリーソフトとしてパソコン通信であるNiftyServeで公開される。

たちまちブレークを迎えることになるそのプログラムのタイトルは「SAME GAME」と名づけられた。

「さめがめ」の登場であった。


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ひとまず「あとがき」のごとき文章
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上の文章の続きを書くか書かないか特に考えていませんが、ひとまず「あとがき」っぽい文章を最後に書きます。

私は人付き合いが下手と思ってはいませんが、本来の自分は内向的な資質の人間です。
小学校の頃、複数の人間が参加して遊ぶボードゲームを一人で4人分の役割を演じて時間の経つのを忘れて延々と遊んでいたことがあります。
またトランプの一人占いも好きで、いくつものトランプセットがぼろぼろになっても飽きることなく遊んでいました。
頭の中で驚きや緊張による刺激が発生するのが好きなのです。
私が最も長い時間遊んだゲームは「フリーセル」でしょう。
しかし最も楽しんだ「遊び」はパソコンを道具に使って、頭の中にあるゲームを掘り出すこと自体だったように思います。

世に出てからもう少しで20年が経とうとしているCHAINSHOTが、さまざまな人によって伝播していただき今も支持されている事を感じます。
そして多くの努力がなされている中で何人かが運良く手にすることができる「努力が報われた幸運」を感じています。

私はパソコンに出会ったあの職場も離れてシステム構築を取り扱う職場に転職して、その後もパソコンと長く付き合いをしています。
そんな時間の流れの中で、あの時に私が発表することが出来たCHAINSHOTを通じてもたらされた多くの出会いに感謝をしているのです。

 

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