[旅のスケッチ] Room2-10 華麗なる中欧
第5章 ブダペスト
1 ドナウ・ベント
ウィーンからハンガリーのブダペストへ向かう。生憎の雨模様の天気で、朝も暗い。
国境を越えるところでパスポートの検閲。そして両替。ハンガリー通貨はフォリントである。ハンガリーも、現在EU 加盟を目指している。やがてユーロが通貨として通用することだろう。
我々は、国境からドナウ川に沿って東に向かっている。このあたりの感覚が、地図を見ないとどうにもわからない。ドナウ川が、南へ流れていると思い込んでいるからである。ドナウ川は、ハンガリーに入りスロバキアとの国境に沿って東へと流れ、首都ブタベストの北側で南へと方向を変える。
この変曲点の付近は、美しい自然と古い街が点在するところから、ドナウベントと称して知られている。
その古い街の一つにエステルゴムがある。ちょうど西暦1000年、東方からのマジャル民族がここに城を築き、ハンガリー王国をつくった。初代国王がイシュトバーンである。
バスは、広いハイウェイからドナウ川に沿う街道に入りしばらく走ったが、それといった街に思えない丘の上に、突如として巨大な教会が出現した。ハンガリーのカトリック総本山エステルゴムの大聖堂である。ブダペスト市内にあるイシュトバーン大聖堂より、こちらの方が大きいのだそうである。
高い丘の上にあってドナウ川を見下ろしている偉容は、必要以上の大きさを感じる。内部も見物し特に印象に残るものはなかったが、重厚でシックな感じは好感が持てた。
ここで、ハンガリー国内を案内してくれる、ガイドのヤマグチ・ミチコさんが待っていてくれた。もはや若くはなさそうであるが、ハンガリーのきれいな刺繍に憧れこちらにやってきたという。ご主人はブルガリアの人で、東京に居たこともあって、日本の寿司を習いブタペストで寿司屋さんをやっているそうだ。
どこの国へ行っても、年配の方の話は単なるガイドで終わらない。ミチコさんも、共産党時代の話から、自由主義社会になって若い人たちの行動に不満を隠さない。物価の変動も、EU 加盟でさらに激しくなるであろうと、苦難の道を話してくれる。
ただ、日本人が観光に多く来るようになって、とても嬉しいですと心底喜んでおられた。そのうち辟易するのでないですかというと、「そうでしょうかね」と柔らかく応じてくれたものだ。
大聖堂の前の広場から、ドナウ川を望む。川の向こうはスロバキアのプラスチラバというが、小雨に煙ってはっきりとは見えない。ちょっと橋を渡り立ち寄ってみたい気持ちだが、残念。
エステルゴムからさらに東へ行ったところに、ウ゛ィシェグラードがある。中世の城塞で小高い山の上にそれがあるが、14〜15世紀にはイタリアから来た王をブダペスト市民が嫌ったため、ここを王宮としてウ゛ィシェグラードが王都となったという。
折悪しく雨脚が激しくなって、バスの窓からそれを望む事も出来ない。写真を撮れというが、外に出ることもままならぬ土砂降りである。出てカメラを向けたとて何も写らないであろうから、惜しげもなくここは素通りを決める。
ドナウ川がエステルゴムからこのあたりまで、滔々と山間を流れる様は実に美しく、「美しく青きドナウ」はこの辺の光景だそうだが、バスの道路からは望めなかった。
そして、センテンドレへ。
ブダペストも近く、観光客でごった返した街という先入観であったが、冬という季節と雨という天候が、この街をひっそりと落ち着いた街にしていた。
15世紀のころ、オスマントルコの成長によりバルカン半島からセルビア人がこの街に逃れ住み着いて発展したというが、現在はハンガリー人がほとんどで明るい色彩の街になっている。狭い路地のような通りを通って、クリスマスの飾りがある広場らしきところに出たが、人の気配がまったくない。
さらに路地を進んで、コバーチ・マルギット美術館へと案内される。ひっそりとした、質素な美術館である。
コバーチ・マルギット。ハンガリーの著名な女流陶芸家であるが、私はこの旅行に来て初めて知った。この美術館は、彼女の自宅であったというから、質素な印象は当たり前である。作品は、これも素朴というか派手さはないが、女性らしい何とも言えない柔らかな、そして人物像に関していえば、何かを訴えている表情が印象的である。
惜しむらくは、彼女とこの美術館に関する本もパンフレットの類いも、何も手に入れて来なかったことである。帰れば何とかなるかと考えもしたが、果たして彼女に関しての知識は得難かった。インターネットでも、この地方の旅行記の記述くらいしかない。また行けばいいか、と負け惜しみじみた後悔をする。
2 ハンガリー苦悩の歴史
ハンガリーの歴史は、王国成立後も実にめまぐるしく他国の支配下に置かれ、自国を維持するに汲々としてきた。
もともとウラル山脈山麓に住んでいたマジャール民族が、西へ移動を始めたのが5世紀頃という。そして、10世紀初頭には現在のハンガリーに到達し、フランスやイタリアにまで遠征するという活動振りであったが、神聖ローマ帝国が成立しその勢力に押されるや、イシュトバーンが西暦1000年この地に王国を建国した。
だが、ヨーロッパの東端という地理的要因は、この地が交通の要所であるとともに、この土地そのものが魅力でもある。
まず、1241年モンゴルの襲来で全土が占領される。これは、オゴタイ・ハーンの死による、モンゴル軍の引き上げで終わった。
次に進攻してきたのが、オスマン・トルコ帝国である。15世紀頃に何度か攻め込まれたが、マーチャーシュ国王の父であるヤーノシュ司令官の活躍で難を逃れる。その後、マーチャーシュが国王となってウィーンまでも国土を拡大し、ルネサンス文化の花開かせる黄金時代を迎えたが、彼の死によって瞬く間に衰退の道をたどる。
そこへ、オスマン・トルコの雄スレイマン1世が襲いかかり、1526年トルコ領となり1441年にはブダも占領されてしまった。この勢いはウィーンをも陥さんとするものであったがこれは失敗に終わり、結局ハンガリーの西部と北部をハプスブルグが、中央部と南部をオスマン・トルコが、東部のみをマジャール人が統治する形をなった。
そして2世紀が経過、トルコ軍のウィーン攻略が失敗に終わってより、ハプスブルグのオイゲン公の追撃により、世紀末にはトルコ軍はハンガリー領より撤退した。
だが、ハンガリーに独立はない。ハプスブルグへの抵抗はみられたが成功に至らず、以後2世紀以上完全にオーストリア・ハプスブルグの支配下に置かれた。
そこへ、やっと日の目を見る形が整えられたのが、1867年のハンガリー・オーストリア二重帝国としての妥協である。一説によれば、ブダベストをこよなく愛し、そこに居ることを楽しんだというエリザベートが、国王フランツ・ヨーゼフ1世にハンガリーの独立を認めるよう勧めた結果という。それゆえにか、ハンガリーでのエリザベート、すなわちシシィの評判は国民にすこぶるよく、愛されたという。
二重帝国、それはオーストリアと軍事、外交、財政を共有するものの、他は独立を認めるものである。これではオーストリアの一地方に過ぎないように思われるが、それでもこれまでオーストリアの抑圧に耐えてきたハンガリー国民には、ようやくにして自由な自治権が与えられ民族の誇りを回復したものと沸き立ったという。その後、1873年にブダとペストが北方のオーブダを含めブダペストとし、新首都が誕生した。
だが、この体制も長続きしなかった。第一次世界大戦に敗れ国土の大半を失ってしまう。その後、激しいナショナリズムの台頭は、ドイツのヒトラーに傾斜して第二次大戦に敗戦、ハンガリー全土がソ連の共産主義体制に置かれてしまった。
1956年のハンガリー動乱をはじめ、ソ連に対する抵抗はことごとくソ連軍の戦車に踏みにじまれ、徹底した弾圧を招いた。
しかしながら、1980年代に入り徐々にではあるが、経済改革が保守的体制を突き崩し、ついに1989年10月23日ハンガリー共和国が誕生、ベルリンの壁崩壊に続く共産圏各国の共産主義離脱の先鞭となって、ついには1991年にソ連崩壊を招くに至った。
この共産主義からの解放より10年余、ハンガリーはEU への加盟を決定した。いま、その準備に余念がないが、経済発展の遅れはこれからのハンガリーをどう位置付けるのであろうか。
3 ドナウのほとり
ブダペストは、ドナウ川を挟んでブダとペストに分かれる。
古くは、古代ローマ帝国の支配するところは、ドナウ川を境としてその西側であった。すなわち王宮のあるブダはローマ帝国圏内であり、対岸にあたるペストは蛮人の住む国であったことになる。このあたりは、ローマ帝国としては決して辺境の地とはいえない、重要な守りの拠点であった。
ブダペスト市内に入る手前で、ローマ時代の要塞跡と水道橋ですと案内されるが、ミゾレの降る夕闇迫る窓外には、レンガ造りのそれらしき築造物を辛うじてみとめるのみであった。それでも、ここでシーザーが、アウグストゥスが、そして歴代のローマ皇帝たちが、必死で戦い帝国をほぼ5世紀の間守ってきたのだと、何か感動迫るものがあった。
いまのハンガリー人の先祖であるマジャール民族がこの地にやってきたのは、ローマ帝国が滅びてよりはるか後の時代である。
ローマ人は、ドナウからライン川を最低限の境界を定め、常にこれを守ってきた。時にはこれらの川を超えて領土を拡大することはあったが、やがてはこのラインに収まっている。従ってブダペストは、少なくともブダは、古代よりローマ文化に浴していた地域なのである。
その夜、我々はドナウ川のナイトクルーズへを繰り出す。生憎の雨模様が雪に変わっている。窓越しに、ライトアップされた国会議事堂やくさり橋、丘の上の王宮を見る。
翌朝、朝の冷え込みが融けぬ頃、英雄広場からイシュトヴァーン聖堂へと行く。英雄広場は建国1000年を記念して20世紀当初に建設されたもので、ハンガリーの歴史に関わってきたイシュトバーン初代国王やマーチャーシュ王の像が、凛々しく立ち並んでいる。
英雄広場からドナウ川に向かって、見事な並木を携えた広いアンドラーシ大通りが2.5km続く。この広場と大通りが、世界遺産に登録されていることをあとで知った。
アンドラーシ通りが終わったところに、立派なドームを持つセント・イシュトバーン大聖堂がある。これも建国1000年を記念して、50年の歳月をかけて建てられたものである。規模もさることながら、当時のハンガリー芸術家を動員した重厚な内装は素晴らしく、市民の大きな誇りの一つである。
だが、ブダでもっとも見応えのある建物といえば国会議事堂であろう。ドナウ川に面して、ネオゴシック様式の華麗な姿は、オーストリア・ハンガリー二重帝国が誕生し、ハンガリーの自治権が認められた喜びを象徴するものである。ウィーンよりも立派なものをつくろうと時の宰相も、金に糸目をつけなかったと言われる。
4 王宮の丘、ブダ
13世紀、モンゴルの襲来によって破壊され尽くしたことを教訓に、ベーラ4世は、ブダの地に堅固な城塞の築造を計画した。エステルゴムからの移設である。14世紀には砦から王宮が建てられ、15世紀の末にマーチャーシュー1世によりルネッサンス様式の王宮として生まれ変わったという。
しかしながら、ドナウ川を見下ろす丘の上の王宮は、オスマントルコの侵入によって、無惨にも火薬庫として使用され16世紀末に爆発炎上してしまう。これを再建したのは、ハプスブルグ家のマリア・テレジアであった。
男系が絶えたハプスブルグ家をマリア・テレジアが継いだとき、これに異を唱えたドイツ諸候国と戦争に至ったのだが、このときマリア・テレジアがハンガリーの貴族たちに救いを求めて事なきを得た。このことは、ウィーンの項で述べた。それに応えた形で1770年、バロック様式でブダの王宮が再建された。
だが、この王宮も19世紀の革命時に消失、その後再建改築が繰り返されるが、第二次大戦時に破壊され、その修復後にも1956年のハンガリー動乱時に大破し、現在のものは1980年代に入り復旧したものだという。
まさに、ハンガリー王国そのもののようなブダ城の消長であるが、王制さえすでになき時代に再三再建修復を繰り返してきたハンガリー国民の、ブダ城への思い入れが伺えるではないか。
城壁にいまも残るおびただしい銃弾の痕跡を示すガイドのミチコさんに、戦争の遺産として置いてあるのですかと問うと、「いいえ、お金がないのよ」と吐き捨てるように現実的な答えが返ってきた。
こうして苦労して再建された王宮は、現在博物館や美術館として利用されていると聞かされると、内部までは復旧できなかったと思わざるを得ない。
この王宮の隣に、マーチャーシュ聖堂がある。ベーラ4世が、王宮をここへ建てた13世紀に着工されたのだが、マーチャーシュ1世が大改築をしたため、この名がついている。
ここでは歴代の王家の戴冠式や結婚式が執り行われており、ハプスブルグのエリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世もハンガリー王妃・国王として、ここで盛大な式を挙げた。このときのために、リストが「戴冠ミサ曲」を作曲し指揮を執ったのだが、エリザベートの美しさに感動を惜しまなかったという。
この教会も、オスマン・トルコ時代にはモスクに改造されたり、世界大戦の被害を受けているが、ほぼ元通りに修復されているといわれる。だた、ステンドグラスだけは、どうしても新しさが目につくというが。
教会の裏に、漁夫の砦という7個の三角の尖塔がある見晴し台がある。別に砦として造られたものでなく、1900年頃見晴し台として造られたもので、むかし漁業組合があって、敵が来た時は王宮を守るためここに団結してやってきた言い伝えから漁夫の砦と名付けた。
ここからドナウ川を隔てた、むかしのペスト市内が一望できる。ブダとペストを結ぶ最古の橋、くさり橋がひときわ目立つ。
くさり橋は、もともと浮き橋であったのだが、1879年に現在のような堅牢な吊り橋として架け替えられた。夜間の電飾が鎖状に見えるため、この名で呼ばれている。第二次世界大戦の末期、ソ連軍に包囲されたドイツ軍が、この橋を爆破してブダ側に退却したため、戦後1948年にいまの橋が再建されたという。
ハンガリー人は、明るい色を好むという。ハンガリーの民族衣装を見ると、確かに明るいものが多い。
センテンドレの町が、過去にオスマン・トルコの難を逃れて来たセルビア人の町となったことがあったという。その時の街並は白と黒に彩られ、いまのように明るくはなかったという。
名産であるハンガリー刺繍の模様も、明るい色とりどりの模様が多い。この刺繍のとりことなって、ミチコさんははるばる日本からブダペストにやって来て、ついにそこに永住することになってしまった。もちろん、こちらで結婚したからでもある。18年前のことだ。
ハンガリーは、まだ共産主義の国であった。当時、ミチコさんはさほど不自由には思わなかったそうだが、ご主人さんは常に見張られていたような気分だったという。いまは、もちろん自由である。そして、どんどん変化しているという。かつての、ハンガリーの素朴な気風が、それもどんどんなくなっていくような気がしますと淋しそうに語る。
こんな憂愁の弁は、年配の人と接すればどこの国でも聞くことである。ロシアでもそうであった。日本でだって、大いに論じられている。グローバル化なることで日本本来のものが見失われていると。ハンガリーの悩みは、日本の悩みでもある。
ただ、釣り銭がないからと、どうしても切符を売ってくれなかった地下鉄の切符売り場の女性をみると、洗練された資本主義にはまだ遠いようである。
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