[イタリア旅情]

5 海の都、ヴェネツィア

5-1 ヴェネツィア建設

 イタリアを旅行して現地を訪れてさえ、私には「ヴェネツィア」「フィレンツェ」という呼び方に対して違和感が抜けなかった。これまでの私には、ヴェネツィアはベニスであり、フィレンツェはフローレンスでなくてはならない。「ベニスの商人」であるし「ベニスに死す」でなければである。
 ところが、どの旅行案内書もイタリアへ行くからにはイタリア語でなければという配慮からか、ヴェネツィアでありフィレンツェである。少しばかり気分が違うもののこの場合ヴェネツィアとするのだが、そのヴェネツィアが全くの島であることは予想外であった。ラグーナといわれる潟に出来た街であること、街の中を縦横無尽に運河があって、交通手段が道路でなく運河であることは誰でも知っている。だが、日本の大都市も東京にしろ大阪にしろ、河口の湿地帯に発達したから程度はともかく似たようなものであろうと思っていたものだ。
 しかし、ヴェネツィアの位置するところがわかる大きな地図を見ると、明らかにヴェネツィアが潟の中ではあるがはるか海の中の島であることがわかる。一般的な市街図では、そこのところがわからなかったのである。
 はたして、バスは3kmほど海上に架かる長いリベルタ橋を渡る。平行して鉄道橋もある。鉄道は島にたどり着いた大運河に面したサンタ・ルチア駅まで、バスの走る道路もその対岸にあるローマ広場までである。振り返れば、ヴェネツィアが陸地から離れた島であることが明白となる。が単なる島でないことは、このあと運河を走る船に乗るか歩くほかないところであろう。
 このような街がどうして出来たのかは、塩野七生著「海の都の物語」の冒頭を読めば納得できる。
 それによると、ローマ帝国の末期、イタリアは北部からの蛮族の進出に大変であった。なかでもアッティラ率いるフン族は、その凶暴さで恐れられていたという。イタリア北東部に位置するヴェネト地方も、ことごとく侵略されたのだが、一部のものが当時アシの原でしかなかったヴェネタ潟へ逃げ込んだ。おそらくそれは島を形成していたリド島あたりであったろう。だが、ローマを目指す蛮族には、そんなところへ逃げてしまった彼等の存在はもはや眼中にない。452年の出来事である。その23年後、西ローマ帝国は滅んでいる。
 海の中に住む彼等は、塩田から塩を製作しこれを売って生計をたてていた。そしてやがては他の商品も売るようになり、通商を営む集団となった。その間にも他民族の侵略は続き、周辺の多くの住民がこの潟近くの島に移り住んでいる。ヴェネツィア人は、697年住民投票によって元首を選出する。この制度は1797年ヴェネツィア共和国がナポレオンに滅ぼされるまで続くのである。
 だが、そのヴェネツィアに、彼等にとって最も過酷な決断を迫る運命がやってきた。西暦800年、フランク族の王シャルルマーニュがローマ法王によって神聖ローマ帝国皇帝に任命される。神聖ローマ帝国は古代ローマ帝国の後継者と認ずるから、イタリア全土が彼の支配下となるのである。これまでヴェネツィアは曲がりなりにも、ラヴェンナにも拠点を置く東ローマ帝国いわゆるビザンチン帝国の属国として国を保持してきた。交易を行うには、その方がはるかに益があったからである。
 シャルルマーニュの息子ピピンは、ヴェネツィアにビザンチンの支配を脱して神聖ローマ帝国につくよう強要してきたのである。ヴェネツィアは、共和国の存在を賭けてこれを拒絶する。そしてこれと戦う準備を始めるのである。ビザンチンの本拠地ははるか東方のコンスタンティノーブル、ここからの応援は先ず不可能であることがわかってはいたが。
 ピピンの行動も早かった。大型船に大量の兵をのせて攻めてきた。これを迎え撃つには多大な犠牲を要するであろう。リド島のマラモッコに集結したものの、ピピンに抗すべき城さえない。
 逃げよう。これまでの彼等の常道である。だが、何処へ。誰の作戦であるかわからないが、海の民ヴェネツィア人達は船に分乗して潟の中へ戦うと見せて、逃げ込んだ。ピピンのフランク軍はこれを追う。そして間もなく、干潮の時間となってピピンの大型船がことごとく干潟に乗り上げ身動きできなくなってしまうのである。そこへ小型船に乗り換えたヴェネツィア軍が、火矢を放ち襲いかかる。こうしてフランク軍の大部分が壊滅し、ヴェネツィアが奇跡的に勝利する。
 この1年後、神聖ローマ帝国とビザンチン帝国の講和が成立する。そして、神聖ローマ帝国のシャルルマーニュはヴェネツィアがビザンチン帝国に帰属することを認めた上、神聖ローマ帝国内における通商行為をも認めたのである。ヴェネツィアの思わぬ勝利となった。
 だが、ヴェネツィアもこのままでは自分達を守れないことを悟る。リド島ではアドリア海に面して、大型船からの攻撃を受ける恐れがあったし、陸伝いの攻撃も考えられた。そこで、現在のヴェネツィアのリアルト辺りに露出するいくつかの小島を中心として街をつくることにした。ここなら陸地からは離れ、アドリア海からも直接来れない。自分達の交易には、それなりの水路さえ確保すればよい。事実、良港としての機能も保持できたのである。
 街づくりが始まった。当初、小さな民家はそのまま建てたことであろう。だが、建てる場所がなくなると、自然水際のぬかるみにも建てる必要が生じる。また、少し大きな公共の建築物では、柔らかい地盤の上に建てることができない。ラグーナの底は柔らかな泥土が堆積しているが、その下は比較的固い粘土と砂の混じったカラントと呼ばれる層である。建築物はこの層まで5〜10mの唐松杭を打ち込み、その上に水に強いユーゴスラビアから運んだイストリア石を基礎として使い、上部は煉瓦を積んでゆく手法であるという。この方法で12〜18世紀に建てられた建築物が、今も残っているというから海の中といえど何ら問題はない。
 こうして、現在のヴェネツィアが造られていった。
 ここで運河であるが、「海の都の物語」での記述は興味深い。これによると、運河は舟行のために造られたものでなく、潟の水流を滞らせないためであるというのである。潟の中も、いくつかの川が流れ込んでおり、この真水は腐りやすい。水が腐れば、伝染病の発生する恐れもある。常に海水の流れを妨げないように留意する必要があったため、必然的に今のような運河が出来たというのである。
 なるほど、自動車文明の現代になっても、運河を埋め立て道路に変えるなどということは不可能なわけである。ちなみに、現在でもヴェネツィアでの土木行政官は、水の行政官と呼び名が変わるそうである。それにもかかわらず、最近のヴェネツィアは高潮の頻度が高く、街中が水浸しという被害が頻発している。20世紀に入って地下水を汲み上げたために起きた地盤沈下はもう収まっているというが、複合的に他の要因がからんでと見られ、決め手となる対策がとられていない。
 ヴェネツィアにとって最も基本的な街の防衛問題が、科学が発達した現代の最大の問題であるのは皮肉なことである。

 

5-2 サン・マルコ広場

 一見建物に囲まれた単なる空間と見えるサン・マルコ広場は、ヴァチカンのサン・ピエトロ広場と同じように、サン・マルコ大聖堂と宗教的、政治的性格を持つといわれる。いわれればその通りであろう。海に面してドゥカーレ宮殿があり、それに接して聖堂がある。聖堂に入れない人たちは、この広場で祈りをすることであろうし、政治的な集会もここで行うこともあったであろう。
 だが、今の風景はそんなことより周囲を取り巻くレストランやカフェが、広場へテーブルを出して市民や観光客の憩いの場として広場を彩っている。楽隊が魅惑的なメロディを奏で、ヴェネツィアのムードを高め訪れる人々にサービスしてくれる。バイロンもゲーテも、この雰囲気を楽しんだという歴史的な風景なのである。
 その有名なカフェの前で、ゆっくりとヴェネツィアを楽しむことにした。だが、奏でられる音楽は、ベニスを舞台にした古い映画「旅情」にでてくる”サマータイム・イン・ベニス”でもと期待したが、最近の新しいポップスが多かった。
 サン・マルコ広場はイタリア語でPiazza San Marcoという。せまいヴェネツィアにも他に広場はあるが、Piazza(広場)を使うのはここだけで、他はCampo(原っぱ)を使う。一面石畳のうえに何を意味するのか、あるいは単なる模様であるのか白い模様が入っている。写真では、おびただしい数の鳩が群れているが、観光シーズンだけに広場は人の群れである。
 この広場に限らず、イタリアではその気で眺めると実にかっこうよい美女が多い。ヨーロッパ中の人が押し寄せるという季節だけにイタリア人とは限らないかも知れないが、その大部分はイタリアからとすればイタリアがファッションで伸びているのもうなずける。そんなことも含めて、サン・マルコ広場は、まさに憩いの広場である。
 航海を終えて広場の中央にある高い鐘楼が見え、サン・マルコ大聖堂の豪華なクーポラを見つめて先ず上陸した人々を迎えるのが、このサン・マルコ広場である。157m×82m の程よい広さの長方形は、ナポレオンをして「世界で最も美しい広間」と賞賛せしめたという。まさにヴェネツィアの表玄関である。

 

5-3 サン・マルコ大聖堂

 サン・マルコ広場が、サン・マルコ大聖堂へのアプローチであることは先に述べた。そしてサン・マルコ大聖堂こそ、ヴェネツィアのシンボルであり、精神的な支柱ともいわれる。当時のヨーロッパでは、キリスト教への強い憧れから聖人の遺骸を祀り国の格を挙げたいとする風潮があった。
 9世紀、あるベニスの商人が、イスラム教徒の支配するエジプトにおいて、サン・マルコの遺体が襲われているという噂でこれを密かに買い取り、ヴェネツィアへ運んだのである。サン・マルコは、こうしてヴェネツィアで熱狂的に迎えられたという。早速そのための聖堂を建設するが、今の聖堂の基本が出来上がるのは12世紀で、その後ヴェネツィアの巨万の富みを注ぎ込んで、今の姿に完成するのは18世紀という。ヴェネツィアが滅びなければ、まだ姿を変えていたのかも知れない。
 話がそれる。ヴェネツィアがサン・マルコ大聖堂のような、光り輝く豪華絢爛たる大聖堂をどうして造れたかということである。サン・マルコ大聖堂だけでなく、ドゥカーレ宮殿を始め豪華な建物、贅を尽くした装飾物が多く見られる。
 ヴェネツィアが「海の都」といわれるのは、海の中に出来た街を意味するのでなく、地中海を我が海として東洋の物品をヨーロッパに売り捌いていた時代が長く続いていたからである。彼等は海軍を組織して海の安全を確保し、そのための植民地を地中海の要所にもっていた。
 異民族の進出から逃れて、海の中とも言える潟の中に築いたヴェネツィアであったが、土地のないところでの生活は船による交易以外生きる道はない。細々と魚を取って生きるには人口も多すぎた。中にはこれまでもそのようにして遠い地と交易をして稼いでいたものも居たに違いなく、その道に頼るものが増加していったことであろうか。
 それにヴェネツィアが共和制をとったことである。そこでは合議制ながら有能な総督を中心に、極めて巧妙に富を得ることを政策として実行していった。第4回の十字軍(1204年)などがその典型といわれる。商船を援護する海軍も充実し、商船は最強の軍艦に守られて交易が出来た。
 ヴェネツィアの全盛は、12世紀から16世紀と実に長くその間幾多の困難があるが、16世紀にはいってスペイン、ポルトガルの台頭によって、都市国家という弱点は衰退を見せ始める。だが、それまで蓄積した遺産はなお文化的に絢爛期を迎え、ティツィアーノ、ティントレットなどヴェネツィア派とといわれる画家の隆盛を見るのである。サン・マルコ大聖堂に見るごとく、この大聖堂もヴェネツィア国家が滅亡するまで、完成がないかのように巨万の富が注がれていた。
 大聖堂正面は5つのアーチからなっており、全体が華やかな極彩色にみえる。というのもそのアーチにキリストの一生を描いたモザイク画が施されているからである。これらは第4回の十字軍によってコンスタンチノーブルが征服され、ビザンチンの芸術家が多く携わって出来たものである。中央のやや大きなアーチ上に4頭の馬像がある。 これもコンスタンチノーブルから運ばれたものだが、いつ、どのようにして製作されたかわかっていない。この実物は現在聖堂内の博物館に保存されているが、ナポレオンがヴェネツィアを落とした時一度パリに持っていったものである。
 聖堂内部は床、柱、天井と大理石のモザイクである。金色に輝くバックに宗教画が描かれ、床はじゅうたんを思わせる図形である。この装飾は15、16世紀に出来たといわれ、以前はフレスコ画であったとされる。このモザイク画ができた当時は、まばゆいばかりの輝きであったことだろう。

 

5-4 ドゥカーレ宮殿

 サン・マルコの大広場からは、サン・マルコの大聖堂が正面にあってドゥカーレ宮殿は目立たないが、広場の入り口は船着き場が正式な入り口であるから、このドゥカーレ宮殿が船でヴェネツィアを訪れる人々を歓迎することになる。この上品にして華麗なる外観は、地中海を航海して我が国ヴェネツィアへ帰りついた人々に安堵の念を与えたことであろう。
 ドゥカーレ宮殿は、ヴェネツィア共和国の最高権力者である総督の住居であるから、行政府の場であり司法府の場でもあった。この建物も起原は800年代に建築されたが、その時は海に面した城塞の役割を果たしていたという。その後火災等によって改築がなされ、現在のものは14世紀からのものでヴェネツィア・ゴシックの最高傑作とされる。
 これだけの宮殿であるから、ヴェネツィアの総督は大変な権力者であろうと考えられるが、確かにその一面はあるものの共和制を敷く政治体制は総督をコントロールする形のものがあった。13世紀に第4回十字軍を企て大成功をおさめたエンリコ・ダンドロの死後、彼の息子を総督にするという意見もあったのだがそれではまずいと、息子であるラニエリ・ダンドロは自ら他を総督に推して君主制を阻止している。
 14世紀には、共和制を守るための組織として十人委員会が発足し、機密を帯びた諜報力により際立った存在となった。その事件のひとつが、1355年の総督マリーノ・ファリエルの陰謀摘発である。総督が君主となって絶対権力を得ようと企てたことが露呈し、斬首刑に処せられた。塩野七生「海の都の物語」によれば、彼ほどヴェネツィアの君主として適当な人物はいなかったという。
 だが、ヴェネツィアでは、ローマのように独裁者は必要でなかった。時として緊急を要する難題はあったが、それをカバーする組織もあった。それまでの大国では、時として無能な権力者がいたとしても、豊かな資源で支えることも出来たが、何の資源もないヴェネツィアでは常に政治的に緊張感が必要であった。そのために遠国の情況、敵の内状を知り、それに対処する必要があった。ヴェネツィアの長い歴史で、飢餓が一度もなかったという。
 人の良識を信ずることを前提としたフィレンツェが滅びた後も、人の良識を信じないことを基盤としたヴェネツィアは、その後300年も共和制国体を保ったと先の「海の都の物語」で塩野七生はいう。
 こうした一人の皇帝も住んだわけでもない宮殿であるが、内部は地中海を制覇したヴェネツィアの力と富を余すところなく見せつけるものである。「大評議会の間」「元老院の間」が特に有名であるが、当時ヴェネツィア派とよばれるティントレット、ヴェロネーゼなどの自由奔放ともいえる大作で飾られている。
 この豪華絢爛といえる宮殿の一角で、罪人を審問する拷問室とも呼ばれる部屋がある。そして狭い運河を隔てて牢獄があるのだが、そこへ行く橋を「ため息の橋」という。ただ歩いていれば橋の上だと気付かないのだが、小さな小窓から運河を望むことができる。そして、囚人にとって、その風景がこの世の最後のものだったことからそう呼ばれている。

 

5-5 運河

 ヴェネツィアの観光は、ゴンドラに乗ってゆったりと街の中を巡ることである、と考えていた。
 確かに乗ることは乗った。写真でお馴染みの、黒い船体で舳先が上につんと伸びたあれである。座席は二人掛けの豪華な椅子が前を向いており、これだけが基本なのであろうが、観光用であるからその前に数人が座る横向きのベンチが置かれている。船頭は一人。
 だが、この手の船はもはや観光用とのことだ。交通の手段としての船は、ごく普通のかたちのもので、もちろんエンジン付きのものもある。
 夕闇が海の都を覆った頃、私達もヴェネツィアの風景をなすロマンチックな船上のひとときを味わった。何処をどのように廻ったかはわからなかったが、比較的広い運河から路地に相当する狭い運河をゆっくりとすすむ。同じように舟が行き交うのであるが、どうも風景そのものがロマンチックでもない。
 隅田川でもどこかの川ででも遊覧船に乗ったことがあればわかるだろうが、小さな舟からの目線は水面近いから、どうしても水際近くを眺めることになる。概してヴェネツィアの建物は古く、暗い路地裏で明かりの漏れる窓辺でなく、手入れの行き届かない建物の基礎部を眺めるということになる。きれいなところが見えないように、汚い部分も見えないから同じであろうが、舟の上から観光するというものではないようである。いうなれば、どこの街でも散策に耐えれるほどの路地裏は少ないということかもしれないが。
 これらの運河が、舟運のための運河でなく、ラグーンと称する洲の上に基礎を固め家を建てたもので、本来の海を極力残して潮の流れを確保しているところを運河として舟運に利用していると分かれば、このベネツィアという街がよくわかる。118もの小島からなる街という表現もできる。
 電車でヴェネツィアへくると長いリベルタ橋を渡りサンタルチア駅に着くが、ここから大運河が逆S字におおきくうねってサンマルコ広場のところまで約4kmある。幅は100mあまり。大小の船が行き交うヴェネツィアの大動脈である。この大運河をゆっくりと楽しむ法もある。思わぬところにきれいな建物があったり、立派な教会の屋根がその間から見え隠れする様など、つい降りてみたくなる。
 リアルト橋は、この中間ほどにある石造りの名橋だ。16世紀末に木橋を架け替えた。



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