【1994】


 おや、ディーン・R・クーンツなんぞの下賎な輩はお嫌いとばかり思っておりましたのに、と白石朗あたりがにやにやしながら言ってくるかもしれないなあと、頭の隅にちらちらさせつつ、でも気にいったんだからしゃあないわなと、『ウォッチャーズ』(文春)を去年のSFベスト3に選んだのだけど、今になって後悔している。
 あちらこちらでこの本を褒めてる連中の褒め方を見てげっそりして、こんな連中とおんなじ調子でこの本を選んだみたいにみられるのかと思うと、もうそれだけでいやになる。
 「表のテーマは、つまらない。しかし裏のテーマがいい。この作品の底流には、犬と人間の心の交流という夢が流れていて、心やさしい読者には、広く共感を呼ぶにちがいない」(『このミス』)
 おいおい、ちょっと待っとくれ。そんなもののどこが裏のテーマなの。モロバリバリの表テーマじゃないですか。そんだけの話だったら、ただのクズ。最初はぼくもこいつらは、読者のためにほんとうの読みどころを伏せて話しているんだな、と好意的に解釈してたのだが、あっちこっちの雑誌に載った褒め言葉がみんなこの調子なのをみて、やっとこいつらほんとうにそう思っているバカだとわかった。アインシュタインとアウトサイダー、どっちに作者の思いいれがこもっているか一読すれば誰の目にもあきらかと思っていたけど、なるほどクーンツはこういう読者を相手に勝負をしているわけか、と納得をした。たまんないわな。
 あとで、古沢先生から高橋源一郎の書評はちゃんと読めていたと聞かされて、そうかそうかと喜んだけど、よく考えると、そんな高いレベルの名前しか出てこないのがなさけない。こんなの読書レベル云々以前の問題である。
『天の筏』S・バクスター
 作ろうとしている話の方向性には好感が持てるけれども、作り方があまりに教科書的かつご都合主義でありすぎる。主人公のあらゆる経験は、すべて問題の解決に役だってしまうし、それぞれの部族の才能が、すべて協力しあわないと世界を救えないというのもちょっとね。最後に出てきた宇宙というのがいったいどういう宇宙なのかよくわからなかった。まだ小説がへた。過不足ない水準作というより、不満と長所が相殺しあった中の中。
 『浪漫疾風録』生島治郎
 著者の早川書房時代を描いた本。『夢の砦』ふうなもっとあくの強いものを期待していたが、遠慮のあとがずいぶん見られる、走り書きの域の作品。資料としての意義を認めたところで、下の上くらい。
 『イラハイ』佐藤哲也 ファンタジイノベル大賞受賞作。逆説を駆使した、ぼくの好みの小説である。ただ読み進めていくうち、逆説と哄笑の果てにあるのが、固有の幻想世界を構築しようとする意志よりも、現実へとむけた攻撃的な視線であると強く感じて、小説世界がだしに使われているという苛立ちがかすかに残った。理詰めの筋がわりと見えてくること、手練をこれみよがしに見せつける気配があって、やや、知に働いて角が立ったという印象。上の中。
 『酒仙』南条竹則 ファンタジイノベル優秀賞はちょうど逆。オリジナリティの面ではあまり評価できなくて、そこそこの発想からそのまま公式的な展開で仕あげた感じの作品。減点法で採点すればまず『イラハイ』の敵ではない。ただそれゆえのなめらかな、御都合主義の話の流れと贅を尽くした博識蘊蓄、世界にふくらみを持たしていこうとするスタンスは、読む側にとって心地よく、個人的にはこちらの方に軍配をあげたい。できることなら、この小説、2年か3年ごとに書き直し、書き足し、何度も何度も上塗りをしてもらえたらいいなと思う。そういうタイプの小説である。上の中。
 『心の鏡』ダニエル・キイス へたくそ。と言ってもいかにも五〇年代のアメリカSFという心地よさだし、読んでて腹立つタイプのへたくそ本ではない。だけど、どうせまたいっぱい売れて、ほめるやつが出てくるんだと思うとやっぱり腹が立ってくる。こんなレベルのこんなタイプの短篇集なんて山のように作れそうな気がするけれど、この本の十分の一も売れないんだろうなあ。
『世界のレンズ』R・A・マカヴォイ
 あいかわらず安定感のある安心できる筆さばき。本質的にSF作家寄りの世界構築をする作家。三部作というのはたいてい第一部がいちばんおもしろい。あとの話は定められた結末に向かって、比較的わかりきった道筋を歩いていくだけみたいな気がする。納得するためだけに書かれ、読まれるだけの本になる。




 旭屋でふと見ると、おウマさんの本のフェアをやっている。しばらくあっちこっちうろついてた目がひとつところに吸いついて、ちょっとためらい、えーいとまとめてレジに持ってった。
 高橋直子のエッセイ集『競馬の国のアリス』『芦毛のアン』『パドックのシンデレラ』の三冊。ちくまの本だし、もしかするともうすぐ文庫に落ちるかなと思ったけれども、まあいいや。
 高橋源一郎の嫁さんである。なんだこいつはと思ったのは、ちくま文庫の佐野洋子『私の猫たち許してほしい』の解説を書いているのを読んだとき。ちょっとただものではないと思った。高橋源一郎もただものではないと思ったけど、ただものではないといったところでしょせん男である。みえるものがある。ただものでない女には、どうただものでないかみえないところが常にある。中味も見ないで三冊まとめて買ったけど、大正解とはいわないまでも、まちがいでなかった。
 第一作『競馬の国のアリス』がずばぬけていい。新婚生活のゴタゴタのなか、鬱屈していく日常のなか、馬にのめりこみ、競馬を介して人生が立て直されていくさまが、どこまでほんとか信用できないところはあるけど、暗いものを底に流しながら書きだされ、読み捨てられないこわさがある。閉塞した状況のなか、部屋にこもって、ひとり孤独に競馬のヴィデオを何度も何度も見つづけた、なんてシーンはまこと鬼気迫るものがある。ひとつの決着として書かれたことに納得がいく本。
 ただ、大量に出てくる馬の名前がほとんどわからない。関東馬だし時代がちがう。固有名詞を通じることで、それらの馬に託した思いがそれらの馬をまたちがう思いを託した読者の共感を誘発していくタイプの本であるだけに、その一点で時代とともに古びざるを得ない。普遍性一般性の濃い内容だけにもったいないなと思う。
 高橋源一郎研究の資料としての価値もある本。
 あとの二冊もそれなりにおもしろい。『競馬の国のアリス』ほど、書かれなければならなかった重みというのがなくなって、高橋直子を読むというより、競馬について書かれたエッセイを読むという意味合いが強くなるぶんものたりないが、それでも文章表現は、魅力にみちたものがある。貧乏人風でこっちの方の人だったのが、だんだん金持ちになり、業界の人になっていくのがつまらない。『芦毛のアン』は応援した芦毛馬へのラブレターといったスタンス。チャラチャラしていていい。『パドックのシンデレラ』は海外競馬観戦記がメインとなる。だんだん見覚えのあるウマの名前が増えてくるのがたのしい。

 岩川隆『馬券学入門』中公文庫 ただの自慢話。つまらない。
 植島啓司『競馬の快楽』講談社現代新書
 さすがにいいものをいっぱい持っているけれど、もともとがコラム記事の寄せ集め。もっと練りこんできちんとした本にしてほしかった。
 『銀の海 金の大地 7』氷室冴子 
 いやあ、もう最近の必読書の筆頭本になってしまった。これまでの氷室冴子からは想像のつかないハイ・スピードで書き継がれている。もうほとんど、ジャパネスク全作と同じ長さになっている。中味のほうはぐつぐつ三原順なみに煮詰まっていて、書く速度がペースダウンしたら、一気に固まってしまいそう。一度ストップするとあとがきっとつらいと思う。第一部完の直後が危険である。今年中に第一部が完結したら、日本SFの年度ベスト1に持っていく。
 『死言状』 山田風太郎のエッセイ集。十一月末に出た本なのに二月になるまで出ていることに気がつかなかった。
 内容については、うーむ、である。
 風太郎ももうだめかもしれない。文体が時代についてこれなくなっている。戯文調に遊んでいるだけと思っていたけど、どうも庵に引きこもり、世俗の垢を掻き落としているうち、事大主義的物言いが感性レベルで定着してしまった感がある。どうしようもなくつまらない物言いのはしばしに、洞察卓見のたぐいは散見するが、なによりこの文体の浮世離れの気配には、この文体で語りかけてるつもりの読者に向いて書かれた小説である以上、『柳生十兵衛死す』になるのはしかたないと暗然と納得をした。新作が出れば読むけど、もう風太郎の小説に期待するのはやめにする。
 『百万年の船』ポール・アンダースン 
 解説で書けなかったことを書く。
 もっとできよく仕あげることが可能な中味の本だった。
 物語の流れからいくならば、短命人と共に生きつづけてきたことで、やっと作りあげた不老不死の社会からまで疎外された主人公たちが、その矛盾した文化的気質を有意義に活用できる場というものを、接触した宇宙文明の中に見いだし、ハッピーエンドを迎えるという感動的な人類賛歌となって終わるはずなのに、宇宙に飛びだしてからあとの話がじつになんともちゃかちゃかと、整理が悪く、読みづらい。その前段の未来の不老不死社会の描写の部分で、ものすごく勢いこんだがんばりを示したあとだけに、いかにもあれで疲れきり、ばたばたまとめにはいった感じになった。だいたい数千人の乗員がいた『タウ・ゼロ』の宇宙船とおんなじ乗組員間のトラブルを、たった八人の乗員の宇宙船でくりかえしたんじゃ、貧相なパロディにもならない。
 三冊目の半分までは、古いアンダースンのよさを残しつつ、新しい時代の息吹を盛りこもうとした大力作と評価できる。中味がスカというわけではなく、あくまで最後で仕あげが拙速に過ぎた。
 ふつうなら上下二分冊の厚みの本を内容を踏まえて三分冊に区分けした、編集部の判断は評価したい。
 『フリーゾーン大混戦』チャールズ・プラット
 イラストと解説が本文を食ってしまったとんでもない本。やったね!という拍手とやりすぎだよなという慨嘆が一緒に出てくる。やっぱり節度とマナーというものが必要なのではないんだろうか、と思うところがおじさんくさい。脇役が脇役に徹することで主役を食えりゃ最高だけど、主役を押しのけ前面にでてきたような印象には、なんかおちつかないものがある。純粋に商売レベルに関していえば、たぶんこの無軌道ぶりで売りあげが何割がたか伸びるとみてまちがいないと思うけど。
 小説のできはかなりいいほうだ。この種のドタバタ小説は、すぐお話が上滑りして散漫にしらけ鳥を飛びまわらせがちなのだけど、そうならないようよく抑制をきかしている。
 とはいうものの、作者の狙いはSFの陳腐な俗受けプロットをめったやたらとかき集め、SFなんて所詮こういうチープなクズの寄せ集めでしかないのだと、近親憎悪にシニカルに悪意をこめて主張するところにあるから、しかもそれなりに成功しているものだから、読んでるうちにだんだんと、たしかに作者が仄めかしているように、ここにSFの本質とSFのすべてが盛りこまれているような気がして、しかもそれはほんとうにくだらないものであるような気がして、けっこう気分がめいってくる。読者をそういう気分にするのがたぶんこの本の意図であると思うから、そんな気分にされたというのはこの本のできがいいということだろうし、そういう仕掛けをたくらんでくるチャールズ・プラットというSF作家の性格はどちらかといえば好きなのだけど、だからといってこんな本、評価はできても、好きにはなれない。うーむ、きらいというわけでもないな。人にはとにかく勧めない。表面上はよく似ているけど、マイケル・カンデルの本とはベクトルがまるっきり逆を向いてる。カンデルのやってることは、SFというジャンルへの愛着と気はずかしさの結果であり、プラットのは、もう、愛することとは憎むこと、という域に到達している。
 それにしても、古沢先生もおっしゃるとおり、プラットやらカンデルやら、こんな本ばっかり出ると、ただでさえ減少気味のSF読者をさらに減らすような気がする。そういう意味では大森先生言うとこのサイバーパンクの罪の部分と通底している。一般読者に対しての、功の部分が少ないぶんだけサイバーパンクよりもっとよくない本である。




 3月18日。職場の近くに、面積150坪、同じ敷地にゲーム屋、食いもの屋、喫茶店をはべらした、郊外型古本屋、もといリサイクル本ショップというのがオープンした。オープン記念ということで、たぶん拡張気味である百円お買い得コーナーを覗いて逆上した。翻訳本のおいしそうなのがゴロゴロしている。持ってる本まであまりの安さに買ってしまった。いわゆる古本屋感覚と異なるマーケティングによる品揃えで、たとえば『アルジャーノンに花束を』や『ジュラシック・パーク』、シドニイ・シェルダンなどは十冊あっても、すべて半額本の方に行き、百円コーナーには流れない。ある意味でとっても正しく、こちらにとってもとてもありがたい経営方針が貫かれている。なんでも半額本のコーナーで、何週間か棚ざらしになった本はやがて百円コーナーに移行してくるという。よしよし。
 おかげで、開店初日に五十冊近い本を買いこみ、自転車でひいひい言いながら持ち帰るはめになった。成果を公開する。買値はすべて百円である。

 アイザック・アシモフ『ファウンデーションへの序曲』二二〇〇円、マイケル・ビショップ『樹海伝説』一七〇〇円、フィリップ・K・ディック『戦争が終り、世界の終りがはじまった』一八〇〇円、リチャード・ブローティガン『芝生の復讐』一二〇〇円、ガルシア・マルケス『予告された殺人の記録』一二〇〇円、グレアム・グリーン『名誉領事』一三〇〇円、トニー・デュヴェール『幻想の風景』一六〇〇円、ニーヴン『パッチワーク・ガール』三六〇円、宮本陽吉編『アメリカ短篇24』九八〇円、ロラ・ラブリュス『罪深き村の犯罪』八五〇円、ロバート・ダンカン『チャイナ・ドーン 上中下』各五二〇円、ラッセル・ベイカー『マンハッタンでラクダを飼う方法』一六〇〇円、ル・ロワ・ラデュリ『新しい歴史ー歴史人類学への道』二二〇〇円、ジャック・デリダ『エリクチュールと差異(上)』二五七五円、D・ル・トゥルノー『オプス・デイ』八八〇円、ウェーバー『支配の社会学(入門)』七〇〇円、バシュラール『新しい科学的精神』?、阿部謹也『中世を旅する人びと』一九〇〇円、福永武彦『加田伶太郎全集』九八〇円、河合隼雄『ファンタジーを読む』一七〇〇円、別宮貞徳『翻訳の落とし穴』一四〇〇円、清水幾太郎『わが人生の断片 上下』各一二〇〇円、筒井康隆『夜のコント・冬のコント』一二〇〇円、高橋源一郎『優雅で感傷的な日本野球』一三四〇円、水木楊『ジルース国脱出記』一五〇〇円、菊地秀行『ブルー・マン』『妖伝!からくり師蘭剣』『淫界伝』『紅蓮児1』『凍らせ屋1』計三六八〇円、友成純一『恐怖の暗黒魔王』六九〇円、ちくま哲学の森『世界を見る』一七五〇円、種村季広『アナクロニズム』四五〇円、『漱石文明論集』六二〇円、花田清輝『新編映画的思考』九八〇円、中沢新一『イコノソフィア』五八〇円、浜島朗『ウェーバーと社会主義』一三〇〇円、樺山紘一『歴史のなかのからだ』一二三〇円、小倉千賀子『アイドル時代の神話』一一〇〇円、久野昭『鏡の研究』二六〇〇円、別冊宝島『女がわからない!』一〇一〇円、映画宝島『地獄のハリウッド』一一〇〇円、講談社現代新書『アメリカ情報コレクション』一〇三〇円、高田裕三『毎日が日曜日12』『トリツキくん』計一五六〇円、あろひろし『若奥様のアブナイ趣味』四九〇円、福山庸治『Bリのソナタ』四八〇円、坂田靖子『きのうとあしたと』『闇月王』計一四〇〇円、藤原カムイ『聖ミカエラ学園漂流記』八九六円、大野安之『精霊伝説ヒューディ 12』『LIP』計二四七〇円、樹なつみ『オズ 4』八八〇円、長谷川裕一『マップス 14』五二〇円

 いやー。このうち何冊読むんだろうか。とりあえず、漫画は全部読むはずだ。でも『オズ』やら『マップス』やら、こんな中途半端なものを買ってどうしよう。『マップス』なんか、むかしサ店で三巻目くらいまで読んで、これはけっこういけるでないの、と思ったきり。どんな話かきれいに忘れている。これから最低一三冊は買うことになるんだなあ。
 菊地秀行を買うのも読むのもやめてから、だいぶ経ってる。ひさびさに読もうとしたら、ぜんぜん気分が載っていかない。そのことを再確認できただけでも、ひさしぶりに買った値打ちはあるというもの。棚に並べていた菊地をダンボール箱に詰めこんで、本を置くスペースが二棚強増えた。よしよし。

 四、五日経ってもいちど行ったら、百円コーナーの品揃えがボロボロになっている。少しずつ補充はしているようで、見覚えのない本はあるけれども、冊数自体が激減している。
 キングの『呪われた町』のハードカバー百円なんてのにちょっと気持ちが動いたりした。
 まあ、しかたがないですね。たぶん、またしばらくしたら、今回みたいに新聞にチラシを入れて、またドカっとへんな本を並べてくれることでしょう。
 でも、そのほんとうにしょうもない本まで売れてしまっている百円コーナーで、矢作俊彦の『複雑な彼女と単純な場所』東京書籍がいつまでも売れ残っているのが悲しかった。

 中央競馬会が発行しているレーシング・プログラムには、その日の重賞レースに出走する馬の名前の由来一覧が載っている。ナリタブライアンの圧倒的人気で穴狙いに走った今年の皐月賞の一覧表を開いていて、みんなでげっと驚いたのは、フジミハミルトンという馬の由来を目にしたときである。
 こう書いてあった。「フジミは冠名。そしてハミルトンは英語圏の人名や地名に多い固有名詞だが、ここでは第二次大戦後のアメリカの人気SF作家に因み、主著は『時果てるところ』。夫人も同じSF作家だという」
 思いもよらない文脈でこういうものに出会うとけっこうジーンとくるものがある。内容の誤りなんてささいなもの。なんといっても、出てくる名前が『スターキング』でも〈キャプテン・フューチャー〉でもなく『時果つるところ』というところに、より強く共感を醸すものがある。それが証拠に、一緒に出走していたアイネスサウザーの名前には、むしろ苦笑に近い反応しか出てこなかった。こちらの方は『北斗の拳』が由来である。




 結局なんの遊びにはまっても、遊びの中心的性格は、情報追走ゲームになる。追走するのは、データの摂取とメンテナンス、ジャンルについての本質論議。二つの異なるベクトルが二重螺旋を構成しながら興味をひっぱっていく。
 たぶん、ぼくの場合に限らない。アイドルの追っかけだって、パソコンの環境おたくたちだって、やってることの根本は同じようなところにおちつくような気がする。
 だからファミコンだろうが競馬だろうが、気がつくと関係本がしっかりと本の棚の一角を占拠している事態となる。
 競馬新聞週に二部。週刊競馬ブック週一冊。これで毎週一二〇〇円。それに古本屋を主体に集まってきた本があって、レースの勝ち負けを別にして、毎月小一万がこのジャンルの活字メディアに投入されている。
 しかもこれらをちゃんとほとんど読んでいる。個人的にはむしろこのことの方が驚異だ。これではSFを読む時間なんかあるわけがない。
 困ったものだ。

 高橋源一郎『追憶の一九八九年』(角川文庫)○ 
 高橋源一郎がSFセミナーに出席した年の日記である。本の話と猫の話と馬の話とファミコンの話と服の話と知人の話がだらだらと書いてある。文章的にあまり工夫をこらした感じがなくて、データの羅列に終始している印象が強く、書かれているデータに興味があるかどうかで読める読めないが決まってきそう。ぼくはけっこう愉しんだ。挿入されてる高橋直子の文章と印税をめぐるJICCとのトラブル部分が読みどころ。
 佐藤洋一郎『大穴馬券はオレにまかせろ』(主婦と生活社)○
 サンケイ・スポーツの穴狙い名物記者による初心者向け本。貧乏人は穴を狙え、穴を狙っているかぎり生活が破綻し夜逃げをするような危険に陥ることはないと力説している。たしかにそのとおりだと納得する。
 梅澤保『大穴達人的中の極意』(メタモル出版)×
 前走順位奇数番の馬を狙えとか、人気馬同枠の馬に注意なんてとこまではまあまあ我慢して読んでいたけど、六曜・九星が重要とか言いだしたところで放り投げた。
 秋月薫他『競馬中毒読本』(東邦出版)×
 世にサイン読みという流派がある。根拠は、天の配材説からJRAによる八百長説まであるようだけど、馬の発走表のなかに、すでにどの馬が勝つかというシルシがつけてあるという説で、高本公夫というのが有名らしい。基本的には語呂合わせ、後知恵による遊び要素の強いものだが、どうも世の中には、これを本気で信じている人間がいっぱいいるようなのである。
 わたしゃ円盤やオカルトは信じない。
 菊池寛『わが馬券哲学』(風土社)△
 菊池寛の昔の本を一部復刻し、それをネタに、山口瞳、古山高麗雄、石川喬司、大川慶次郎が座談会をするといった趣向の本。二〇年くらい前の本で、まあ、コレクター・アイテムといった位置づけの本でしょう。
 山口瞳/赤木駿介『日本競馬論序説』(新潮社)○
 山口瞳の本をはじめて読んだ。
 競馬は、パドックで馬を見て決めるべし。
 決めた馬の単複の馬券のみを買い、その馬を応援しながらレースを見るべし。それこそが正しい競馬の参加の仕方である。
 そう主張する、名著の誉れ高い(らしい)本である。
 内容的には読みごたえのある、かなりすぐれた本であるが、構成が考えぬかれているわりには、重複したエピソードの開陳が多く、興を削がれる。そのへんを添削すれば、文句のつけようのない本になったはずである。
 安部譲二『極道の恩返し ワルの馬券学』(文芸春秋/NESCO)◎
 安部譲二の本を読むのもこれがはじめてである。
 元ヤクザ、大物ノミ屋、公営競馬の馬主といった経験を生かした、競馬八百長説、おとなしい言い方をすれば、儲けることを目的とした走らせる側の論理を展開している。
 これはおもしろい。テキ屋の口上風の文章がとにかく読ませる。テキ屋スタイルの反権力的スタンスがすこし粗っぽすぎるところがあるが、背骨はしっかりしている。
 オープンまでいく力のある馬は別にして、馬主にとって、自分の馬が人気になるのはうれしいことではない。なぜなら、人気になってしまったら、自分の馬で馬券を勝ってもすこしもおいしくないからだ。では、自分の馬で自分が得をしようとすれば、どういうテクニックをとればいいのか。
 中心となるのはこの種の論理である。
 なるほどなあと納得できるが、この論理を予測に導入しようとすると、切り捨ててきている馬をいっぱい生き返らせる必要が出てくる。困ったものだ。
 ここまで競馬がメジャーになると、衣食足って礼節を知るで、走らせる側にもかなりの自己規制が働き、へたをうたないよう気をつけると考えていいにしろ、ここに書かれた論理が存在しなくなるわけではない。
 競馬本の紹介をしている『競馬主義』という雑誌を三冊、古本で拾ってきたけど、これだけおもしろくてビッグ・ネームの著者の本でありながら、完璧に黙殺されている。
 新聞で予測をしたりしている現在はともかくとして、ある時期まで、競馬関係者からはかなりきらわれていたようである。
 『マジで競馬と戦う本』清水成駿
 その安部譲二が競馬評論家のなかで唯一評価しているのがこの著者である。
 安部譲二より数段理論的かつ肯定的に、競馬社会の資本主義的論理を展開する。
 馬を走らせる立場の人間たちにとって重要なのは、その馬がどれだけの〈生涯賃金〉を稼ぎだすことができるかであって、けっして一つのレースの勝ち負けではない。当然社会集団である以上、〈生涯賃金〉をなるべく多く稼がすことができるようさまざまな社会的合意が成立しているはずであり、そうした要素を考慮しない馬券戦略は無意味であると言いきる。
 原理論としてきわめて明晰、説得力にみちてるのだけど、なにせ刊行が八三年、関東にしぼった話であるから、関西競馬に応用しようと思ったら、基礎教養を高めなければどうにもならない。

 百円本漁りもあいかわらず続いている。買って帰る本の質はずいぶん落ちてて、森山塔だの矢野健太郎だの、ひと読み即ダンボールというものが増えてきた。
 この前手塚治虫全集が百冊くらいずらっと並んでいた。さすがに一冊三百円とちょっと値が張ってたので、無視して帰ったのだけど、アトムやブラックジャックといった有名どころがほとんどなかったことに気がついて、何冊か拾ってみてもいいかもしれないなんて思って、次の日行ったら、一冊残らず消え失せてたのに驚いた。
 使用済みビデオ三百円というコーナーも出来てて、つまらなそうなSFやホラーがぞろぞろ並んでいる。これをまた買ってしまうから情けない。
 そういうわけで、前回の続き。戦利品リストの公開である。今回はくだらないものが多いので、ましなものだけを抜きだして書く。
(一冊百円本コーナー)
 アーサー・C・クラーク『グランド・バンクスの幻影』、ジョン・アーヴィング『ウォーターメソッド・マン TU』、ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』、フレッド・セイバーヘーゲン『ドラキュラ』、トム・レオポルド『君がそこにいるように』、ケネディ『マサカド・レッスン』、ポール・セロー他『男について』、ヤッフェ『アメリカのユダヤ人』、藤枝静男『悲しいだけ』、沢村凛『リフレイン』、岸田秀『幻想の未来』、上野友夫『推理SFドラマの六〇年』、茨木のり子『言の葉さやげ』など。
 三百円ビデオのなかでは、『火星人ゴーホーム』(一九八九年)が拾い物。シナリオは主人公を作家から作曲家に代えて、原作のよさを尊重しつつ現代的にアレンジしているすぐれもの。ガンも剣も血も脳漿も出てこない、最近のSFものにはめずらしく、上品な映画にしあがっている。子供たちがモンスター軍団に立ち向かっていく『ドラキュリアン』(一九八七年)もオマージュ色が強い、まあ、悪くない出来だった。
 とはいうものの、ビデオは本に比べて駄作の比率が圧倒的に高い。基礎教養に欠けるうえ、さらに聞いたこともないタイトルを選んで買っているのだから、当然という気がするけれど、クズはまとめて京フェスあたりに引き取ってもらう必要がありそうだ。こんなものをいっぱい抱えこんでると、犯罪を起こしたときに何を書かれるかしれたものではない。
 それともひとつ。本というのは、買ったきり棚に放りこむことができるけど、なぜかビデオはさすがにそういうわけにいかなくて、ちゃんとみるかどうかはともかく、とりあえず流してみる。これにかかる時間というのがけっこうむなしい。あんまり買わないようにしよう。

 最後にSF関係本
 ピアズ・アンソニイ『ゴーレムの冒険』
 翻訳小説とは思えないほど気持ちよくすらすら読める。裏を返せばピアズ・アンソニイが、かなり気楽に六分程度の力で書いているということでもある。読者サービスの精神は立派なもので、けっして手を抜いている本ではないが、少なくとも志の類いについては針の先ほどもない。それでも次のザンスをお待ちしてます、順子さん。
 野田昌弘『愛しのワンダーランド』
 当然、傑作『スペース・オペラの書き方』の続篇として読むわけで、まるっきりそんな本ではないわけで、失望することになる。
 知っている本のあらすじ紹介と、奇想天外その他で読んだ記憶のある文章がかなりの量を占めていて、新しい刺激に欠けるといった面もあるけれど、それより、構成その他で野田昌弘の本としてこれまででいちばん散漫でお気楽な印象を残す本になっている。このあたりの内容なら、もっと濃い本が作れる人だと思うだけにね。
 クラークの『楽園の日々』を読んだときに似た失望があった。




 年をとった。みんな年をとった。
 と、岡本俊弥は書き綴る。横で聞いてた会話の中味をやたらとまちがえ、まちがえた中味を聞いた話のつもりで書き綴るところなど、ああ、なるほど、これが老いというものか、老残は無残なりとしばし感慨にふけるものの、困ったことに岡本俊弥の老醜を実感もって味わえるのはまちがいだらけの言及譚を語られた当事者たちのみであり、衰えた記憶の綻びをくだくだしく指摘をつづけていくというのも詮なくむなしく、ああかようにしてしこうして老爺の妄言が事実のごとく巷間に流布していくのであるのだなとくたびれてただ眺める以外の策もなく。
 でもまあ年をとったのかもしれないなと思うのは、たとえば自分の家の電話番号をちゃんと言えなかったりするときで、ここからがここまでの話の本論である。
 前号添付、94年度ザッタ友の会会員名簿の私の調査票に書きこんだ、私が書いた、私の電話番号は、まるっきりのデタラメであります。52−2580でなく、正しくは、**−****である。PATの募集申しこみをしたときも24−5820と登録してしまうし、われながら情けない。うちに電話するときは今年の名簿をつかわないようにね。

◇春のGT収支報告
      投資額      回収額
桜花賞  七六〇〇円      〇円
皐月賞  八三〇〇    五七〇〇
天皇賞   九〇〇       〇
安田記念 四〇〇〇    九六〇〇
オークス 九六〇〇    七三四〇
ダービー 五〇〇〇    五一〇〇
宝塚記念 二〇〇〇    六〇〇〇
 計  三七四〇〇円  三三七四〇円
        差引三六六〇円の負け
        ささやかな遊びだ。

 こんなことばかり書いていてもいけないなあと思うので、少し昔の雑文をうしろにつづる。一部内容に『乱れ殺法SF控』とダブる部分がありるが、これはこの原稿の方が先に書かれていたため。
 未発表の理由については、単に原稿を渡したファンジンがまだ出ていない、いまだに出ていない、全然出る気配もない、というよくある話である。
 と書いたとたんに、出るかもしれないという話が聞こえてきたけど、まあいいや、いっちゃえ。
【現在からの注 まだ出ていない】



 ●フレドリック・ブラウンの世界    
 とくにこの作家に限ったことではないにしろ、とりわけこの人、フレドリック・ブラウンの評価には、よくもわるくも日本的事情というのがついてまわる。
 日本的事情とは、すなわち日本における出版事情ということである。
 ぼくらの時代以前の話をまずしよう。
 56年(昭和31年)に刊行された元々社の最新科学小説全集には、レイ・ブラッドベリの『火星人記録』やロバート・ハインラインの『人形つかい』と一緒に『発狂した宇宙』がはいっている。58年(昭和33年)の講談社SFシリーズで、アルフレッド・ベスター『わが赴くは星の群(虎よ、虎よ!)』やロバート・ハインライン『夏への扉』とともに『星に憑かれた男(天の光はすべて星)』が収録されている。もちろん早川SFシリーズでも、刊行第三冊目で『火星人ゴーホーム』が登場する(58年)。創元からも61年(昭和36年)に『スポンサーから一言』が文庫本より一回り大きいサイズで刊行されている。60年(昭和35年)に創刊されたSFマガジンの場合でも、その創刊第2号に「ノック」が、第3号に「狂った星座」が掲載され、17号で早々とフレドリック・ブラウン特集が行なわれる。SFマガジンの作家特集というのは、ロバート・A・ハインライン、レイ・ブラッドベリについで三人目という快挙である。
 このように、草創期の日本のSF出版関係者のあいだでフレドリック・ブラウンはとんでもなく人気があったのである。
 こうした人気の背景には一九四七年に発表された処女長篇『シカゴ・ブルース』がミステリのMWA賞受賞の栄冠に輝き、さらに次の「三人のこびと」で一九四八年度の注目すべき新人と目されるなど、日本のミステリ関係者の注目を浴びてきていたという事情がある。(植草甚一『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』所収「クライム・クラブ ブラウン篇解説」参照)
 当時の翻訳関係者にとって、フレドリック・ブラウンは現在売り出し中のもっとも生きのいい作家であり、アシモフ、ハインライン以上に知名度の高い確実に計算できる作家だったということだろう。いわば、あの時代におけるウィリアム・ギブスンのごとき存在であり、さらに彼の背後には、リチャード・マシスン、チャールズ・ボーモント、ロバート・シェクリイ、ジャック・フィニイ、ヘンリー・スレッサー、ロアルド・ダールといった〈スリップ・ストリーム〉の巨大な潮流がひかえていたのである。日本においても星新一が華々しく登場した。
 そして紹介された作品は、ミステリ作家の余技として予想されるような、舞台を未来に移したり、宇宙人を出してきたりするだけの飛躍に乏しい小説と、まさに正反対のものであり、それでいて、なお、そうした飛躍に不慣れであった読者を話に巻きこんでいくストーリーテリングの持ち主だった。フレドリック・ブラウン人気はいやおうもなく高まったのである。
 と、思ったのだけど、書誌を調べていくと、ちょっと自信がなくなってきた。
 ミステリ関係も含めていつごろからこの作家の名前が定着してきたかについて、ぼくの乏しい資料を漁ってみると、わかったなかでのいちばん古い翻訳は、EQMMの57年(昭和32年)5月号に載った都築道夫訳の「一九九九年」である。そのあとは58年12月号に「タイムマシン第1号」が載っている。
 ごらんのようにどっちもSFなのである。
 ブラウンのミステリ長篇は59年(昭和34年)に創元のクライム・クラブに収録された「彼の名は死」(54年)が最初の翻訳である。もっとも、このあと一、二年、つまりSFマガジンの創刊と相前後した時期に、別冊宝石やらマンハントといった雑誌に彼のミステリ長篇が立てつづけにでている。
 つまり日本においてはフレドリック・ブラウンはミステリ作家である前に、SF作家として受けいれられていたことになる。関係者の知識というのは今いったような経緯をへたものと思ってまちがいないと思うのだけど、読者に関していえば、ブラウンは、まずハインラインやクラークに匹敵する当代を代表するSF作家ということだった。それも逆説を駆使し、常識を小気味よくひっくり返してみせる才人として。解説を書く人がミステリの事情にくわしい人ばかりだったことが、紹介のトーンをミステリの世界になじんだ読者をSFの世界へと橋渡しする役割を過度にフレドリック・ブラウンのカラーとしてイメージづけることになった、ともいえる。短篇の代表作のひとつである「闘技場」など、本格SFの粋といってもいい物語であり、ミステリ兼業作家の片鱗すら見受けられないものであるにもかかわらず。(そのことが、後述する他の要素と結びつき、長いスパンで見たときに結果的にブラウンをSFの流れのなかで脇役的位置に押しこめることになったように思える。それは、たとえばシェクリイの評価の残り方などと比較してみればわかるかと思う)
 こうした初期の作品紹介のなかで、とくに評判になったのが『発狂した宇宙』と『火星人ゴーホーム』の二長篇だった。
 小松左京、筒井康隆、星新一といった大家がフレドリック・ブラウンの傑作としてこの二長篇をとりあげた文章を読んだ記憶が複数回ある。
 ところが。
 三〇代から四〇代にかけてのSFファンにフレドリック・ブラウンを語らせると、自称ブラウン大好き人間たちは、このブラウンの二大長篇について、意外に冷淡な反応をする。かれらがしゃべりたがるのは、『天使と宇宙船』や『未来世界からきた男』、『スポンサーから一言』などの短篇集であり、アンソロジー『SFカーニヴァル』であり、長篇となるとむしろ凡作といっていい『73光年の妖怪』や『宇宙の一匹狼』だったりする。
 共通点は明らかである。
  三〇代のSFファンにとって、愛しのフレドリック・ブラウンとは、とりもなおさず創元推理文庫で出たフレドリック・ブラウンなのである。

 この前でた『SFハンドブック』が〈早川文庫SF創刊二〇周年記念〉と銘打たれていて、二〇年なんてあっという間なんだなあとショックをうけたりしたのだけれど、逆にいうと二〇年前までは、文庫本でSFを読もうとしたら、創元推理文庫しか頼れるものはなかったということでもある。
 いや、それどころか、早川文庫SFにしても、発刊当初は早川SFシリーズとの併用であり、スペース・オペラやヒロイック・ファンタジイなど、早川SFシリーズという本格指向の叢書には似つかわしくない冒険アクションに比重のかかった〈低俗〉作品の受け皿として企画された一面があり、ちゃんとしたSFを文庫本でたしなむには、創元推理文庫しかないという状況はまだしばらく続いたのである。
 ぼくの買い集めていたころの創元推理文庫と早川SFシリーズがどれくらいの金額だったかというと、創元が平均一七〇円、SFシリーズが三三〇円だった。今の価格にスライドさせると、五〇〇円と九五〇円くらいになる。
(ただしこれはあくまで本の定価だけをみたときの話。サラリーマンの平均給与の上昇とそれに伴う子供の小遣いの上昇率から見た場合、当時の小中学生にとって二〇〇円という金額は千円くらいの意味があったのではないか。少年マガジンやサンデーが四十円だった時代である。少年キングの創刊特別価格が三十円で本屋に行列が出来たことなんかも記憶にある。もっともこのへんの金銭感覚は、高度成長期、紙不足混乱期をはさんだ三十代の前半と後半でかなりちがっている。
 紙不足の時期というのはぼくらがちょうど大学のころで、ファンジン用に藁半紙を買い溜めたこととか、当時刊行がはじまったばかりの山田風太郎の角川文庫版の値段が講談社の新書シリーズ、ロマンブブックスより高くなりだしてあわててロマンブックス集めに走りまわったりしたものだった)
 だからこのころSFに目覚めた小中学生にとって、自分のSFの蔵書を揃えるというのはとりもなおさず創元推理文庫を揃えることにほかならなかった。
 そしてぼくらが、創元推理文庫に目を向けたとき、分量的にひときわ目だつ存在だったのが、スペース・オペラというラベルの貼られたE・E・スミスとE・R・バロウズ、そしてヴァン・ヴォークトとフレドリック・ブラウンだった。ぼくらの下の世代には、これにアイザック・アシモフ(『銀河帝国の興亡』)とJ・G・バラード、ジュディス・メリルが加わる。
 だから、若い人間はこのへんの世代の連中がこの四人の作家に関してする発言を、まともに信じない方がいい。こんなすてきな作家はいないといわれて信じて手を出して、失望するという人が絶対出てくる。
 この世代の連中には、これらの作家を冷静にまともに評価するだけの距離というのがほとんど存在していない。しかも本の数が限られていて読書体験が共通しているものだから、みんなほとんど口を揃えて同じように褒めあげる。はじめてSFという存在を手にした当初の感動に、すべてがノスタルジイの黄金の霧のかなたにとろけている。せいぜい、E・R・バロウズ、E・E・スミスをめぐってのスペース・オペラ支持派とアンチ派くらいしか党派的分裂がない。
 ところがこのことが、フレドリック・ブラウンの至芸のごときもてなしのよさとあいまって、皮肉なことに彼に対する強い愛着とほとんど裏腹の関係で、ブラウン軽視の風潮を生んでしまうことになる。

 SFについて右も左もわからない、経験と経済力にともに乏しい年小のSFファンにとって、早川SFシリーズは文字どおり高値の華だった。しかも古典的名作、巨匠と呼ばれる作家たちの作品の大半が早川SFシリーズでしか読むことができない。そういう状況におかれた子供の意識のなかで、経済的な格づけが叢書そのものの文学的格づけにすりかわるのは、ある意味でやむをえないことだった。
 SFを読みはじめた人間の手にとる初心者向けの叢書が創元推理文庫、創元推理文庫であきたらなくなった人間が読むべき一ランク上のSF叢書が早川SFシリーズである、という理屈である。
 しかも、そうしたなかで、その創元推理文庫のなかにおいてさえ、フレドリック・ブラウンは、ミステリからの橋渡し的作家として、SFの初心者に適任の作家としてウリをかけられていたのである。
 初心者のための叢書のなかで、ずぶの初心者用の作家として。
 そうでなくても、難解さにかける作家である。読むと素直に楽しめる話が大半という作家である。笑ってすまし、親しみをもつ気分の背後で、作品を軽視し、作品のすごみを見落とす結果に陥った人間の数はけっしてすくなくなかったはずである。作品の内容よりもそうした受容のされ方で、星新一と共通する部分は大きい。
 いまだにぼくの気分としては、フレドリック・ブラウンを〈凄い作家〉と畏敬するより、〈好きな作家〉でかたづけて、すりよっときたいきもちが強い。
 だが。
 実際にはどうなのか?
 フレドリック・ブラウンは凄い作家であるのかないのか?
 正直、よくわからないのである。
 いくつか読み返してみたのだけれど、やっぱり進行のテクニックやなんかで古びてしまっている部分が歴然とあり、そのことが余計に評価を難しくしている。
 人生や男女の機微に老成した目を向ける一方で、未来や宇宙に向ける視線にはうぶな少年のような初々しさがある。
 そして最近の作家の短篇集では絶対にありえないように思えるのは、同じひとりの作家の作品集でありながら、その作品がじつに様々なタイプにわたっていることだ。
 たとえば『スポンサーから一言』の場合、ショートショートがヴァラエティにとぶのはまあ当然として、中短篇が典型的なユーモア小説(「選ばれた男」)典型的な人類代表小説?(「闘技場」「鏡の間」)、典型的なホラー(「かくて神々は笑いき」)、PF(「スポンサーから一言」「地獄の密月旅行」)、シリアス・ドラマ(「ドーム」)、人生ドラマ(「翼のざわめき」)とこんなにバラバラで、それでいてまとまりのいい作品集というのはちょっとない。(昔の本ではいっぱいある)
 さらにここにはないけれど、クラインの壷みたいな構成の「すべてよきベム」や「ユーディの原理」、傑作「みみず天使」や『火星人ゴーホーム』などに顕著な、言葉遊びから存在論にいたる領域を自在に走りまわる作品群がある。このメタフィクションにも通じる作品群こそが、小説の仕掛けについて自覚的であったエンターテナー、フレドリック・ブラウンのたぶんいちばん立派な群れだと思う。
 大量のSF出版物が提供される時代において、タマが放出されきった優秀な作家たちがどんどん読者層のデータバンクから抜け落ちていく。
 そうしたなかでは、フレドリック・ブラウンは、すくなくとも日本におけるある年代の共通体験の対象として、他の優秀な中堅作家よりは、語り継がれる有利さをまだ持っている作家である。
 けれどもそれも、それらの世代を中心に、語り継いでいく意志と語り継ぐ場が存在しつづけていくことで、やっとなんとか生き延びることができるかもしれないのだと思っておくのが正解だろう。基本的には在庫目録をこまめにひろっていかねばならない作家なのだから。
 フレドリック・ブラウンをまだ読んだことのないという人は、あまりいないと思うけど、もしこれから読むなら『スポンサーから一言』と『天使と宇宙船』をお勧めする。




    序  章

 おもしろくてためになる、ということばがきらいだ。
 おもしろいということに、栄養剤にまぶした糖衣くらいの意味しか認めず、ためになる実が別にあるのが大事であると信じこんでる、そんな頭の貧しさを、無自覚厚顔無知につきつけられるのがたまらない。
 おもしろければためになる、おもしろいからためになるのであって、つまらないものが自分にとってためになんかなるはずがない。つまらないはずだったものがためになったりしたりするのは、そいつがじつはほんとうはおもしろいのだとやがて気づいたりするからであり、そんな時間差がままあるから、勘ちがいする人間が増殖する。学生のころ、教養やら勉強などと下卑た姿勢で読んでたときは苦痛でしかなかった本が、寝ころがっての娯楽がてらに手にすると、けっこうわくわくどきどきものであったりする。世の中たいていどんなものでもなにかどっかおもしろい。人間意外とどんなものでもけっこうおもしろがれるしぶとさがある。それを向上心とか自己啓発とかもったいぶり、他人の視線を意識したうそ臭さからやろうとするから馬鹿になる。おもしろいことをおもしろがっていりこんでこそためにもなる。本人の興味につながることのない死んだ知識をいっぱい身につけたって、他人のことばにもたれきり、紋切型をくりかえし、考えることを放棄する馬鹿に育っていくだけである。知らない人もいるようだけど、日々の努力と研鑽を積み重ねないと、人間、賢くなることだけでなく、馬鹿にだってなれないのだ。ほめ言葉としての馬鹿、けなし言葉としての馬鹿、ここの馬鹿には両用のケースが含まれるからややこしい。
 おもしろくてためになる、なんてことばで紹介されるものを覗くと、ほんとうに、みごとなくらい、つまらない。発言者のおもしろがるレベルの低さ、馬鹿さかげんをさらけだすのが通例である。ためになるけどおもしろくないというものはこの世にほとんどないときめつけていい。ためになるはずなのにおもしろくないのは、自分におもしろがるだけの力が欠けているからか、自分の興味の方向と話がずれているかのどっちかにすぎない。そうでなければためになるといわれているだけで、ほんとうはためにもなんにもならないものであったりする。おもしろくてためになるなんて言葉を平然と口にできる人間は、いかにふだん本人が、ためになるといっているものに対しておもしろがる能力がないか、ほんとのところ興味などもってないかということを露呈しているようなもの。そういう基準でものごとに強弱をつけていくうちに、人間どんどんやたら権威にしがみつく薄っぺらい品性になる。(ためになるものがすべておもしろいと言ったって、もちろん、おもしろいものがすべてためになるわけではないので念のため。この世の中には、おもしろいだけでためにならないものもいっぱいある。TVゲームなど、その最たるものといっていい。あれはためにならない。時間は食うわ、金は食う。目にはわるいし、姿勢は歪む。外出ができない、本も読まない、テレビもビデオも見なくなる。それだけの犠牲を強いて、けっきょくなにが身につくかといえば、なにも身につかない。まるっきりつかない。反論のあるひとはかかってきなさい。わたしはこの真理をくりかえし確認するためだけに、数年来、毎年一千時間以上を費やしつづけているのだ。ばかである。)

 読むというのはそういうものだし、書くというのもそういうものだ。ためになるものを書こうとすれば、なにかのかたちでおもしろがらないといけない。だれにとってためになるか、だれにとっておもしろいかといったなら、もちろん書いてる本人にとってである。他人にとってためになるかならないか、最終的には他人がきめることであり、わからないことだけど、自分にとってもためにならないものが他人にとってためになると考えるのは、たぶんひとつの傲慢である。自分がおもしろがれないものを他人におもしろがってもらえると考えるのは、やはりひとつの不遜だろう。要は自分がどうおもしろがることが、自分を含めたとりあえず何千人かの人間におもしろがってもらえそうか、商業ベースの文章を書くというのは要するにそういうことであるはずだ。自分以外の他人の数を一人、十人、百人、千人、場合によっては百万人、目算をどのへんにおいていくかというだけで、同じことを書こうとしても、たぶん書く文章は、天と地くらい変わってくる。
 うーむ。文章がどんどん曲がっていく。そもそもためになるからなんて理由で、本を読むことも、書くことも、自分の書いたものが読まれることも、みんないやであるということを言いたくて、始めた文章なのである。それなのに、なんか、ためになるものを書かねばならぬと言っている。ためになるということばは忘れよう。読んでおもしろがることができるかどうか、それが本の唯一の値うちである。
 なぜ、こういうことをくだくだしく言っているかといいいますと、いわゆる、ためになる本の一種と世間的には目される「ブック・ガイド」という形式に挑戦してみるつもりだからだ。
 つきつめるなら本についての文章は、書き手にとって、読んだ本の記録の整理と感想文、このふたつところを人前にさらしたものであるにすぎない。
 むろんそこには、自分の知識や知能のほどをひけらかしたい、えらそぶりたい、かっこづけたいなんてとこから、ウケたい、媚びたい、たしかめたい、といったものまで、〈自分〉を前面に押し出し、一方的に押しつけながら、他人つまりは読み手と触れあい、評価され、受けいれられたい、もしくは自分の意見に従わせたいといった部分が当然ある。けれども、それは本について書くことにかぎらず、あらゆる文章、書くという行為に内在する本質的な暴力性である。文章の作法や美学の原理とされるなかには、こうした暴力性を前提に、それに乗っかったり、隠そうとしたりするところに成立している部分というのが少なくない。著者というのは本質的に、性格さえもわからない見ず知らずの人間に、ひとことのあいさつもなく自分の意見を押しつけて、金(本代)を強奪していく道ばたの露出狂である。読者というのは、書き手のそういう暴力を、わざわざ金をはらって引き受ける被虐趣味の権化である。読者でもあり著者でもある、本にからんだ文章を書く人間は、こんなふたつの変態趣味をあわせもつ、アンドロギュノスにほかならない。
 記録の整理と感想文。ふたつの極と書いたけど、おたがい切って離せるものではない。とくにそうした感想をことばや文字に置きかえる作業をくりかえしてきた人間には、ひとつひとつの感想が、これまで読んできたものの、作家やテーマやジャンルについての整理のうえにしか広げられない。あるいは逆に、記録の整理といったって、そこの序列やとりまとめに読み集めてきた感想が影を落とさなかったら嘘である。だいたいそんな書き手個人の興味が反映されない無味乾燥な記録簿みたいなものなんていったいだれが読みたがる?(うーむ、困ったことに、じつはそのてのものも意外とおもしろかったりするのである。そういうものにはそういうもので、時代であるとか歴史といった集合的な精神を読みとりたくなる魅力がある)
 とはいうものの、このふたつ、どちらを中心にするかで本の性格はずいぶんちがったものになる。
 感想文に体裁をつくろっていくと、評論になる。
 整理した記録を並べていくと、読書案内とかブック・ガイドと呼ばれるものになる。ベスト10遊びなんか、その典型といっていい。
 書き出す前の意識の面では、そうちがった内容ではないはずだけど、出来あがったものは、かなり性格のちがう、読者にちがうおもしろがりかたを求める本になる。
 そういう意味でブック・ガイドの要素の強い本を書いてみたかった。
 じつは前の本『乱れ殺法SF控』も、編集者とのあいだでの最初の話は〈すこし毛色の変わった中高校生向きのSFブック・ガイド〉だった。それがあんなものに化けるのだから、ぼくの不器用さにも困ったものであるのだけれど、それだけに、リターン・マッチがやりたかった。
 記録の整理であるわけだから、本を集めて、並べるだけのこと。だから簡単であるはずなのに、かかってみると、どうもうまく気がのらない。やってる途中でだれてくる。いくつか企画をとっかえひっかえしてみたけれど、完成図に公式的なめりはりがみえたとたんに萎えてくる。読者がこれからSFを読んでく指針になる本づくり、そんなにおいがぷんぷんしてきて、自分で自分のやってることがいやになってくる。ためになるのを目的に書かれたようにみえるもの、読まれるようなしろものを書くことに心情的に反発するところがあるらしい。そんなものにたよりながらSF読んだりするなよな、なんてことを思ったりして。
 だから自分が書いてておもしろくない。そのくせ、ブック・ガイド的記録整理そのものにはじつはあこがれてたりする。ただひたすらに本の名前が羅列され、羅列された作品のひとつひとつに刻まれた読書の記憶を思い起こしているうちに、ふっとゲシュタルトが生じ、個々の作品とは別の、ジャンルや文化といった巨大なものの輪郭や全体的なイメージが浮かびあがってくるように思えるところ、ぶちぶちと理屈をこねて、決めつけていく評論書の類いより、ずっとゆたかな読後感を与えてもらえるような気がする。中学生や高校生のころ、いろんな出版社の解説目録を手に入れては、三行四行の内容紹介をくりかえしくりかえし読み、読んだ本の記憶を咀嚼し、読みたい本の内容に思いを馳せるといった作業にふけっていたのが、嗜好の発端かもしれない。いまでもリスト大好き、ベスト10大好き人間なのである。どうも行動原理に矛盾がある。
 そんなこんなで出てきた結果がこれである。
 集めて、並べた本だけど、集めて、並べた結果をみせることより、SFというフィールドで、いろんな本を集めること、並べることや遊ぶことのおもしろさ、あるいはおもしろがった気分を伝える、そっちのほうに比重を置いた。山のように本の名前をあげながら、その本が、どういう中味の本なのか、あまり触れない、ブック・ガイドの風上におけない本をめざしてみた。
 うまく伝わりましたら、ご喝采。

 えー、未発表原稿その2です。『あれ・2』です。これを跳躍台に次の段階に進むはずだったんですが、ぜんぜん跳べません。
 さらに、そのまましばらく寝かしているうち、だんだんこの文章を書いた前提みたいなところに、疑問が出てきてしまったりして、ますます動かなくなった。
 早い話が、ぼくのやっていることって、SFジャンルが培ってきた基本知識の再確認と微修整作業なのである。『みだれ殺法SF控』を取りあげて、根拠のない自信に満ちあふれているとパソ通のどっかで誰かに指摘されてたと古沢先生に教えていただいたことがあるけれど、根拠のない自信の根拠というのは、じつのところ自分のしている発言が、SFジャンルの内部において、昔からくりかえされてるあたりまえの意見であって、自分のオリジナルなものでない(それにオリジナルな迷彩を与える作業というのが自分の本というものを作っていく基本である)という自信に基づいているからである。ヒューゴー・ガーンズバックから、ジョン・キャンベル、五〇年代を経て、ニューウェーヴをきっかけに七〇年前後の黄金時代にたどりつき、マーケットとして安定し、あとはLDGやサイバーパンクと新趣向をこらしつつ、栄光を維持する努力をくりかえすアメリカSFをめぐる〈公式的見解〉(まあうしろの方はあんまり公式的ではないけれど)を踏まえつつ、それを自分の読書体験を溶かしこんで、極力公式的見解からはずしていこうと努力だけは試みる、ということだった。
 〈背骨〉としての公式的見解は、是認していくべきものであると同時に、一貫して仮想敵とすべきものだった。公式的見解から一歩でも二歩でもずらすところに、文章を書いてく醍醐味があった。
 で、問題は、この〈公式的見解〉というものが、今の中心的読者層の世代に対して、きちんと伝えられていない、ということである。
 ある種の知識をあるジャンルの基礎教養として定着させる唯一の必要作業はワン・パターンの絶賛の反復教授だけである。
 その作品がどんなに重要であるかといった意味づけなんか、極論すれば必要ない。
 この作品は必読作である。これを知らずに、SFファンであるなど自慢すると笑われるよ、と要はそういう発言がくりかえし読者の目にふれつづけること。それだけである。
 自分たちより前からその業界にはいりこんでる連中が、知っているのが当然である、読んでいるのがあたりまえだという振りをどれだけ露骨に示しつづけてきているか、こういうことは基礎教養であるのだと、単数あるいは複数の人間が人目に触れるいろんなところでくりかえすことで、遅れて参入してきた人は、こういうものが基礎教養であるのだと、価値判断もへったくれもなしに暗記していくのである。
 たとえばSFマガジンでその種の公式的発言を見た記憶がありますか。解説その他でそういう基礎教養を伝えることに腐心している人間がどれだけいますか?良平先生ぐらいかもしれない。
 こうした、型どおりの、権威主義的な意見を十年一日くりかえすバカというのは、正直困ったやつだと思うけど、型どおりのことしかしゃべらないバカがいないと、なにが権威でなにが盲目的常識とされてることかが読者一般に伝わらない。そのぶん、どっしりしたジャンル・イメージが醸成されなくなっていく。
 ぼくらの世代にしたところで、そういう公式的見解を批判的スタンスからしか紹介していないわけで、責任の一端がないわけではない。
 SF入門書的な本が出ないということも、大きい。ここ数年で出た唯一の本というのが、『SFハンドブック』(ハヤカワ文庫)なのである。そこで、ガーンズバックから五〇年代までの公式見解を書いているのが、どうやって公式の退屈さをずらそうかなんて考えているぼくだったりするのだから困ったものだ。
 もっともあれを書いてる時なんか、まだこのような、基礎教養が受け継がれていないのではないかといった危機意識なんか、これっぽっちもなかった。自覚が遅いというよりも、状況がさらに悪化していると考えるべきなのだろう。
 とにかくほんとに困ったことに、どうだちょっとひねってみせたぞ、と言いたくても、ひねる前のイメージが読み手の側にないとなると、自分のやってることはなんなんだろうと、書いてる基盤が突き崩されるみたいでほんとに弱ってしまう。
 読者にそういう公式イメージをまず伝えることから始める必要があるのでないか。そもそもそういう公式イメージが存在しているはずであるという、まずそのことから説明していかなければ、いけない時代になってきているのではないか。
 で、さて、そういう作業って、はっきり言ってわたしゃ相当きらいなわけである。
 そういうものの存在を是認したうえで、否定する。自民党を政権政党と認めたうえで、社会党を応援する。
 まあ、そういう時代じゃなくなっちゃたわけである。

 とりあえず、この序章はばっさりチャラである。
 だから『あれ・2』は現在分量0である。構想はだいたいここに書いたものから展開していくはずのものだったけど、書くスタンスや折り合いみたいなところについて、おとしどころに迷いがある。本当は書いてくなかで、折り合っていくべきものだし見えてくるはずのものであるということもじつは知らないわけではないけれど、そういう理屈をこねくって、走りだすのをさぼっている。
 ただ、ぼくの性格のなかに、じつは序章が書けないと、なかなか次に進めないというところがある。前の本でも序章の次にできあがったのは、終章だったりするのである。そのあと〈あとがき〉なんかをあげたりしてから第一章にかかったりしている。外枠を固めておいて、本文を填めこむというやり方がどうもぼくの趣味らしい。目次と序章と終章、あとがき、全部あわせて三〇枚くらいの量だけど、それがなんとかしあがれば、かなり本腰がはいりそうな気がしている。
 おウマさんに餌をせっせと運ぶのに、いいかげんくたびれてもきたし、社会復帰を目指してそろそろリハビリを開始しようかとは思っているのですけどね。




 ディスクドライヴが突然壊れた。フロッピーを吐きだして、いくら押しこもうとしても受けつけない。とりあえずは、ハードディスクとドライヴ2とでまかなえるけど、ディスプレイは変光星になってるし、プリンターのインクリボンは型変更で手にはいらないし、一六ビットだし、五インチディスクだし、よく我慢しているもんだと自分ながらに感心する。さすが今年の猛暑をクーラーなしで乗りきった貧乏性だけのことはある。でもまあさすがに終末は遠くないだろう。

 あいかわらず古本集めが止まらない。仕事帰りに二日に一度は拾いにいくのが日課になっている。マーガレット・マーヒー、ピーター・ディッキンスンなどの児童書、キングズレー・エイミス、アンソニー・バージェス、ミシェル・トゥルニエ、ミュリエル・スパーク、隆慶一郎、なんて本を買っている。キャサリン・ネヴィルの『8(上下)』なんか、ついふらふらと2部も買った。
 あいかわらず百円の本しか買わない。
 定価のいちばん高かったのはL・ゴルディング『数学との出会い』(岩波書店)という読んだ気配がかけらもない美麗箱入本。五三〇〇円という定価に読まないだろうなと思いつつ買ってしまった。志村先生、いい本でしょうか?
 ほかにも『実践地平の法理論』『制度と情報の経済学』『マクロ経済学の構図』『日常世界の構成』『西洋倫理思想の形成T』なんて出自大学教科書気配の学術本やら『ケンペルのみたトクガワジャパン』『ヤクザ(翻訳もの)』『アメリカのユダヤ人』といった得体のしれない本も増えてきている。
 みんなハードカバーのおっきい本というところに問題がある。
 うちの本棚は基本的に文庫と新書、それも小説関係を念頭に構成されているわけで、この種のものが増殖するのに対応するよう出来てない。そうでなくても昨年来、読めもしない洋書の類いが急増している事情もある。読めない本というものは、ダンボールにしまいこんだり、本棚の奥に詰めこんだりすると、完全に「タダのレンガ」になってしまう。こういうものはできるだけ本棚の前面に並べて、じわーっと自分にプレッシャーをかけつづけるよう配置しないとわざわざ買った意味がない。そんなことでうちまかされるほど軟弱ななまけぐせでもないけどさ。努力を放棄したらますます筋金がはいっていく。
 今年にはいってもう二百冊以上買いこんでいる。全部合わせて二万円ちょいにしかならないというのもけっこうすごいところがあるな。本棚の中味をあっちこち、移し変えて遊んでる今日このごろであるのだけれど、さすがに本棚の絶対的なキャパシティが限界に達しつつある。困ったことだ。
 さっき挙げた本というのは、いってみれば玉石混淆のなかの玉である。くだらない本も行ったついで、レジにいくついででいろいろ買っている。三百冊の半分以上は文庫本とコミックである。
 そんでもって、活字本はほとんどが本棚直行するわけだけど、コミックは買った本全部読んでいる。うーむ。
 そういうわけで、ここんところ読んでいるのはコミックばかりということになる。
 最近読んだ(読み返した)主なコミック。
 藤田和子23冊。
 氷室冴子原作本の『ライジング』 評価A 勢いで『真ゴール』というバレーボールものを読んだ。あはは、D。
 樹なつみ37冊。
 『オズ』が去年の星雲賞の候補にあがっているのをみてちょっと驚いた。樹なつみってたしかファッションモデルを主人公にしたコミックをやってた人じゃなかったっけという程度の記憶しかなかったのだ。アニメが出たりけっこう評判になっていたのを全然知らなかった。
 読んで、驚いた。昔読んでたSFのフレーバーみたいなものを純粋培養したかたちで出している。すごくしあわせな気分になって、あわてて、かたっぱしからかき集めた。
 とりあえず『オズ』と、大財閥を巻きこんだ小さい国のお家騒動『花咲ける青少年』がA。記憶にあったファッション界コミック『マルチェロ物語』、話の方向がどっちいくかけっこう千鳥足だった『朱鷺色三角』『パッショパレード』、私立探偵もの『エキセントリック・シティ』がC。『八雲立つ』は単発だけど長篇の発端部気配があってこれだけではD。『獣王星』は第1巻が出たばかりで評価保留。すごく自然にSFしていた『オズ』にくらべて、設定のSF味に対する意気ごみが前面にですぎているのが若干不安。SFであることがちょっとうっとおしい。『男と女に捧げるコメディ』は初期作品で評価E。
 若干きつめの評価点。Dがいわゆる並くらいで見当つけてください。
 竹宮恵子17冊。
 『風と樹の詩』の連載の途中あたりから読まなくなっているので、ずいぶん久しぶり。
 ファンタジイ大作『イズアローン伝説』評価Bになると思う。まだ三冊抜けている巻がある。SFオマージュ本『わたしを月までつれてって』は、はしゃぎすぎでバランスをくずしている。評価D。久しぶりに読み返した『ジルベスターの星から』は、ストーリイは充分に感動的だけど、絵がもう耐えられない。全面的に書き直してくれないものか。
 弓月光8冊。
 この人にもオマージュ本がある。パペッティア人や有機宇宙船が走りまわる『トラブル急行』は連載当時ぼくらの間で話題になった。せっかく張った伏線を使う前に連載打ち切りになったかわいそうな本だけど、SFファン相手と条件つけて評価C。
 坂田靖子20冊弱。
 前に買ってた本と新しく買いこんだ本とがごっちゃになった。『バジル氏の優雅な生活』が半分くらい。世界の民話風のものに秀作が多い。トータルで評価B。
 石川賢6冊。
 あいかわらず途中で話がぶち切れるマンボウみたいな体形の作品が多いひとだが、むかしからのファンである。まだ連載継続中の『幕末伝』にけっこう期待。評価(まだ)C。
 細野不二彦8冊。
 作品量と質の安定性を両立させているところはやっぱり相当すごい作家だと思う。1冊から2冊くらいで終わっている本にいいのが多い。評価C。
 柴田昌弘8冊
 〈紅い牙〉以外の花夢系中短篇集をまとめ買い。こんなにつまんなかったっけ。そこそこの水準はこなしているので、評価D。
 それにしても、前から持ってる三原順、佐々木倫子、和田慎二、山内直美、清水玲子などなど加えてみると、花夢系の比重がちょっと高すぎる。五百冊くらいしか(意外と少ないでしょう)持ってないのに、花夢本だけで百冊以上ある。もう少しまんべんなく読まなきゃ。
 そのほかの読んだ本。
 新刊で買った中で一番値段が高いのが山田風太郎『戦中派虫けら日記』三〇九〇円。
 『戦中派不戦日記』の前、風太郎が上京して浪人生活を送っていた時期の日記である。スローガンに酔い痴れる若者特有の感傷癖が意外なくらい幼くて、この時点の風太郎なら今のぼくで勝てそうな気がする。『不戦日記』のあたりになるともう負けるけど。
 高橋直子四冊めのエッセイ集は、ウマもなければ、源一郎さんもほとんど出ないファッション関係一本勝負『お洋服がうれしい』
 ピンクハウスだとか、ミルクとか、コムデギャルソン、ストリートオルガン、なんやらかんやらについてふかーく蘊蓄を傾けていく。 いつもの本よりきゃぴきゃぴしてなく、ずっと学究的である。そのぶん文体玩味の面では不満。それにしても、マニアに貴賎なし、である。なんにもわからない世界だけれど、とりあえずここにも理屈というものが深く存在するのだと納得する。おもしろかった。
 大橋巨泉『競馬解体新書』
 競馬を繁栄させるには、レース登録料を大幅に引きあげる必要がある、とずーっと言いつづけて、最後に日本競馬会に愛想づかしをするまでの6年くらいの新聞コラムを集めた本。もっと副業的なちゃらちゃらした内容だと思っていたら、文章は意外なくらいへたっぴいだけど、中味は濃い。競馬だけやってる人でないだけに、巨泉をかなり見直した。
 ジョン・ヴァーリイ『スチール・ビーチ』C 同じく『ブルー・シャンペン』A 
 「タンゴ・チャーリーとフォックストロット・ロミオ」を恥ずかしながら今回はじめて読みまして、長篇一冊読み終えたくらいの充実と思い感動をいただきまして、ああ、ジョン・ヴァーリイにこれ以上の長さの小説を期待するのは酷なんだなあとつくづく感じいりました。ジョン・ヴァーリイを読む楽しみには、つねにある種の生々しさとあぶなさみたいな感触が張りついてたのに、『スティール・ビーチ』の感触はまるでラリイ・ニーヴンで、これがヴァーリイの作品であるというだけに失望のほうが先に立った。
 オースン・スコット・カード『ゼノサイド』D とにかくメイン・アイデアがなんでもありのデウス・エクス・マキナで、山のような難題をこのアイデアで安易安直にまとめてひっくくってしまうから前二作にあった切迫感が生まれてこない。オースン・スコット・カードのピークは過ぎ去りつつあると感じた。腰を抜かす展開があるにはあって、大森望はいたく気にいっているようだ。まあ、読んでみることはお勧めしたい。
 イアン・ワトスン『星の書』
 ワームもゴッドマインドも存在の格のレベルでヤリーンとどっこいどっこい。そのへんが話の奥行きをいまひとつせばめている気がする。一応好みの物語なんだけどね。とりあえず、3作目が出るまで評価は保留しておこう。
 テリー・プラチェット『ゴースト・パラダイス』D トマス・バーネット・スワン『幻獣の森』C アラン・ディーン・フォスター『頭の痛い魔法使い』C
 中島らも『今夜すべてのバーで』B
 SFマガジン11月号 テリイ・ビッスン特集中村融百頁独り全訳原稿料換算***円の熱意と内容に拍手。
 テリイ・ビッスンというのはもっと若いやつだと思っていた。ここまでモロ、ガチガチのジュディス・メリリストとは思わなかった。SFと距離を置く経過までメリルをなぞっている。作品の読後感もひとりの作家の作品集というよりも、メリルの傑作選を読んでいくような感触に近い。素人相手の講演で、「バウチャーやメリルのアンソロジー」と、アンソニーやジュディスという冠をつい言い抜かしてしまう(95頁)ところがいかにも〈らしくて〉好きだ。この講演録でビッスンへの好感度はトップ・ランクに上昇した。「カールの園芸と造園」がいちばん好き。ぼくの好みの作家としては、新しめの作家の中で、ローレンス・ワット=エヴァンズと並んだ位置を占めそうだ。
 うーむ。
 ワット=エヴァンズが四〇代で、ビッスンが五〇代。新しい作家といえないか。
 スタートレックの特集も資料を大量に整理して、見やすくまとめて、意外に好感。1ページの情報コラムは短すぎて味がない。とくに三村美衣はつまらない。




 未発表原稿第3弾。今回のは、単純に、最後まで書ききれなかった原稿である。かなり長いものから、数行のものまで、かき集めてみた。


●翻訳SFの視景
 早川書房と東京創元社。
 広大無辺な境界領域、隣接平野をとりあえずはずしたうえの話になるが、翻訳SF作品の主なところはこの二社の出版物で占められている。七割がたから八割がたになるかもしれない。現在入手が可能な本に限ってみても、これまで出版されたすべてのものをひっくるめても。
 二社から出ているSF関連翻訳出版、合計だいたい二千冊。これを〇・七で割り戻すと二八五七。およそ三千冊といったところが、日本で翻訳刊行されたSFの全冊数というわけである。
 その大部分が文庫本である。
 三千冊の平均単価を千円とすると高すぎるかもしれない。
 それでも全冊合わせて三百万円にしかならない。その中には〈ペリー・ローダン〉や〈スター・トレック〉、エドガー・ライス・バロウズなどの外道であるとか、ノヴェライゼーション、ジュヴナイル、あるいは箸にも棒にもかからないカスがいっぱいまじってくる。そういうものを切り捨てて、さらに古本市場を有効に活用すれば、へたをしたなら百万足らずの金額で、どこに出しても恥ずかしくない日本国でも有数の、立派な書棚が完成する。
 その程度のマーケットである。
 その程度でしかないマーケットである。
 正直、ちょっとさびしい数字だ。
 もちろん、それで買う本すべてというわけではない。気がついたら、切り捨てたはずの本までがいつのまにやら棚にいっぱい並んでいる。日本作家のSFも何百冊の数になる。高価にして晦渋で、格調高い幻想小説、不条理と超現実を売りにした海外文学、あるいは児童文学のジャンルにも必携本がごろごろしている。岩波文庫の赤帯だけでも百冊以上の境界作品群が集まってくる。純文学やミステリとラベルがついてて内容的にはSFそのものという作品が、あっちこっちにいくつもある。高くて薄くて場所をとる画集なんかも集めだしたらきりがない。さらにはヤング・アダルト、新書ノヴェルズ、ゲーム小説もろもろの、瓦礫の荒野に玉を求めてさまよったり、自然科学、社会科学、哲学などのたぐいにまで道が伸びていったりするから、果てや境界などあってないようなもの。コミックという存在が無視できないのももちろんだ。じっさいSFを起点としての読書というのは興趣の共通性から、じつにいろんなジャンルへと読み手を連れこむことになりやすい。そんな開放性をSFは生来的に持っている。もしくは持っていたはずだ。じつのところ、SFしか読んでいないSFファンなど、ぼくのまわりにほとんどいない。
 けれどもそういうこととは別に、たかだか百万円やそこらで、自分のこだわってきたジャンルの中心部を、ほぼ極めつくせる気がするところがさびしい。買っても買ってもきりがない、読んでいない傑作がまだ無尽蔵に埋っている、そんな期待をやっぱりもちたい。
 せめて最低で三百万円くらいかかってほしいね。ミステリならそれくらいの規模になるんじゃないか。

 日本において出版された英米SF翻訳本のおおまかな全体像を書きとめる。どこからどれだけどういう本が出ているか。今でも入手が可能かどうか。そういうところを叢書と出版社とを中心にまとめてみる。全部をきちんと拾いあげるつもりはない。そんなことをやろうとしたら、それだけで本を一冊書かなきゃいけない。そこまでやるほどそのことに熱を持ってるわけでもない。ただ、SFに限らず、ある一定のジャンルの本を集めようとするときに、中心部分がどの程度、物理的なふくらみとひろがりをもっているのか、そんな目安になるものが、意外とブック・ガイドといわれる類の本に欠けてる気がし、枕がわりに軽く流しておくことにした。

 アメリカSFの黄金時代と言われているのは一九四〇年代の前半である。ジョン・キャンベルを編集長とするSF雑誌アスタウンディングのもとに、ロバート・A・ハインライン、アイザック・アシモフ、ヴァン・ヴォークト、シオドア・スタージョンといった、のちにSFの巨匠と呼ばれることになる若手作家が次々と集結し、それまでのジャンル読者たちが予想もしていなかった質の高い作品が、毎号のように誌面を飾ることになったのである。
 それがどれほどすごいものだったかというと、ハインラインの〈未来史〉、アシモフの〈ロボット三原則〉と〈ファウンデーション〉、シマックの〈都市〉、ヴァン・ヴォークトの〈宇宙船ビーグル号〉、など当時誌面を飾った中短篇をもとにした作品群が、発表後半世紀を過ぎた時代にあって、いまだにSFのオールタイム・ベストにいくつも名を連ねていることからもおわかりかと思う。
 考えてもみていただきたい。この科学技術の日進月歩の時代にあって、半世紀前の、それも二十歳やそこらの新人作家がものにした、宇宙や未来のイメージが、いまだに以後の作家や作品に押しのけられずに今の世でも通用する名作として地位を保ちつづけているのである。ちょっとたいへんなことではないだろうか。
 ただ、この、黄金時代というのは、SF雑誌を購読している数万人規模の読者の間の話でしかなかった。これらの名作も雑誌に掲載されたまま、次号が発売されると埋もれていく定めのものでしかなかったのである。
 こうした状態に義憤を感じた(はたまた商魂を刺激された)一部マニアが、作品集をファン出版したり、出版界に働きかけたりといった時期を経て、大手出版社が四〇年代末あたりからSFの単行本出版に興味を持ちだしたおりもおり、ソ連が世界初の人工衛星スプートニクを打ちあげた一九五〇年からSFは出版新市場として大きな注目を集めるようになり、アメリカで大きなブームを巻き起こす。(このブームは五四年の後半には収束し、以後アメリカSF界は幻滅と傷心の時期を迎えることになる)

 さて、日本におけるSFの翻訳及び紹介も、この五三年をピークとしたアメリカでのSFブームを受けてのものと考えられそうである。
 この時期の著名なSF出版物は四つある。
1 アメージング・ストーリーズ  七冊    一九五〇・五一年
 むこうのSF雑誌の掲載作品をアンソロジー形式の単行本で出していったもの。アメリカでもっとも由緒ある歴史を誇る雑誌の最新作品を紹介するという意欲にみちた企画だったが、悲しいことにこの時期のこの雑誌というのがオカルトまがいの売りで評判を落としていたころで本国版の雑誌自体に名の通った作家が皆無といった状態だった。
2 星雲          一九五四年
 日本最初のSF雑誌。ハインライン「地球の緑の丘」、クリス・ネヴィル「ヘンダースン 老人」などを載せたが、創刊号のみでつぶれる。
3 世界空想科学小説全集  二冊      室町書房 一九五五年
  アシモフ『遊星フロリナの悲劇(宇宙気流)』、クラーク『火星の砂』の二冊が出ただけ。
 どちらも早川SFシリーズを経てハヤカワ文庫にはいっている。
4 最新科学小説全集     二一冊    元々社・東京ライフ社 一九五六年・五七年
  非常に優れた体系的視野に立った選択の
              (以下なし)


●それはさておき。
 今でも入手可能かどうかと書いたけど、個々の話にはいる前に、絶版あるいは品切れ本について書いておく。
 ひとむかし(うーむ、ふたむかしかもしれない)前には、絶版本というものは、絶版であるというだけで、目の色変えて古本屋を探しまわる貴重な収集アイテムだった。
 レックス・ゴードン『宇宙人フライデイ』、C・M・コーンブルース『クリスマス・イヴ』、ジェームズ・E・ガン『不老不死の血』といった作品が、内容ではなく、絶版になってしまっているというだけで、SFファンの間で高値を呼んでいた。その背景には、SFに限らず出版物というものは、品切れになると必ず増刷されるものだという信頼に近いものがあった。
 で、ハヤカワ文庫の最新版の解説目録を覗いてみる。総点数一千点を越えるハヤカワ文庫SF。その中で、解説目録に載っているのは五二八点。約半分にすぎない。現在手にはいる作品にどんなものがあるかを表にしてみた。上下巻本、三分冊などはそれぞれ一点として数えた。(ただし、原書では一冊で出ている本を二冊に分け、それぞれに別タイトルをつけている本の場合、二冊として数えている。)

1 〈ペリー・ローダン〉 一九一冊   
2 〈スター・トレック〉  四〇冊 
3 ハインライン      二三冊 
4 ムアコック       一九冊 
5 アシモフ        一九冊 
6 クラーク        一八冊 
7 ディック        一二冊               (解説目録93.7)

 一千冊のうちの半分は品切れ。残っている本のさらに半分近くが〈ペリー・ローダン〉と〈スター・トレック〉というわけである。それ以外のSFは三百冊にもならない。
 これでは羊頭狗肉の類いでないか。文化を担う出版社としての責務についてどう考えているのか、と声をあらげるのは簡単だけど、

     出版市場の性格の変化
     在庫点数、消費税等について
              (以下なし)


●×〇年代って要するに、たった十年のことではないか。へたをするとそのうちの、数年間を指してるだけであったりする。文字に晒すと間の抜けてることおびただしいし、はっきり言ってあらためていうまでもないあたりまえのことなのだけど、とにかくあるとき突然に、そういう事実に気がついて、わたしゃ心底愕然とした。
 ×〇年代といった言い方のなかには、現在と時間によって切り離されてはいるものの、あるいは切り取られたことにより、経時的なふくらみを無くした無時間空間のイメージがある。しかもその空間からは、まるで奇術師の帽子みたいに時代の色で染まった品物が、たぐってもたぐってもきりなく飛び出してくるような、そんな印象がまとわりついていた。
 だけど、実質たかだか数年間なのである。どれだけすぐれた作品が目白押しに発表されてもたかが知れてる。そのうえ御存知の通り、優れた作品ばかりがでていたわけではないのである。(以下なし)

●ひとの数だけ理屈があり、理屈の数だけ真理がある。真理の数だけ正義があり、正義の数だけ暴力がある。ひとの社会行為はそこに理がある限りにおいて、本質的には暴力である。(以下なし)




 ひさしぶりに強行軍をこなしてきた。
 11月12日(土曜)朝八時出発。JRを経て、初めて京阪電車に乗り、京都に向かう。淀駅下車。京都競馬場にいく。これで阪神・京都・中京・中山・府中、JRAの中心競馬場をすべて制覇したことになる。明日のエリザベス女王杯当日はOPDのステージがあるから、小笠原先生の姿があられるにちがいない。5、6レースと当ててなかなか調子がいい。7レースが軸馬三着復勝拾いの元がえし、8レースはまたコウベッコというはずかしい名前の馬がやってきて、ペケ。障害の9レースがおわったところで、残りレースは馬券だけ買って、京フェスに向かう。少し勝った。いい出足である。
 京阪電車は丸太町まで直行である。合宿会場のすぐ近く。なかなか便利だ。これから毎年このパターンになるのだろうか。
 受付で登録を済ますと明日のおうまさんの検討のため、新聞をもってからふね屋に向かう。カレーを食う。なかに大森望と斎藤芳子が新本格の三人(綾辻行人、法月倫太郎、我孫子武丸)といた。斎藤が日本で一五〇人しかはいれないSAT、コンビニ馬券購入システムの会員証を見せびらかす。口座に千円しか入金していないというのが許しがたい。
 結局でれでれ(ツ白石朗)としゃべっていて、検討出来なかったので、みんなが河岸を替えてカラオケ屋に向かったのを期に別れ、大広間の机をひとつぶんどり、検討にはいる。ちょこちょこと着た人間としゃべりながら三時間くらいかかってしあげたところに佐脇洋平師匠がくる。明日は買いにいかないという。絶句する。まあいいや、買うことではなく検討することに意義があるのだ。異議もあるかな。
 新本格と若島正がしゃべっているところに寄っていく。でれでれとしゃべる。
 筆記試験を受ける。登場人物名から作品名を当てるクイズ。中高校時に読んだ本しかわからない。
 二百問中、まちがいを含めて三十問しか答えられない。それでもなんとか十一位。
 綾辻、我孫子、大森というメンバーで麻雀。四千円負ける。半荘三回で腰が弱ってリタイヤ。
 踊り場にたむろしている、京フェススタッフや小浜夫婦、山岸真らとでれでれしゃべる。古沢嘉通や白石朗が、ひと眠りしては元気になって起きだしてくるので結局徹夜する。
 からふね屋でカレーを食って、京フェス本会場にいく。
 おうまさんは朝からけっこう荒れ模様。メイン・レースを本線ガチガチでやってる身として、けっこう不安。会場最前列に陣どって、寝ながらずっとラジオを聞いていたから、対談内容はまるっきり記憶にない。
 明日は東京だ。大森望も小浜徹也も白石朗もみんな今夜は関西泊まり。えっと一応驚いたものの可能性は織りこみ済。ひとりで大森邸に泊まればいいと一応計算していた。そしたら、大森邸はトーレン・スミスがひとりで留守番しているという。えっと今度はほんとうに驚く。わたしゃけっこう人見知りが激しいのだ。しかたがないから、神戸に引っ返して佐脇・細美邸に泊まろうと思ったら、友達に会うから帰るねって、朝からさっさといなくなる。おろおろしてたらまきしんじが引き取ってくれることになって、やっとほっとする。
 ヒシアマゾンとチョウカイキャロル。GI三戦目でやっと白星。二次会で若い連中と話をしたあと、京都駅で宮前、まき夫婦とでれでれし、新幹線に乗る。
 夜、まき家でしゃべる。東京で狭い家に大量の本を抱えこむことがどんなに大変かを目のあたりにみる。ふたりともそろって整理整頓ができる人間だから、かろうじて生活空間が確保されているのがよくわかる。小浜家を一度見にいかなければ。
 11月14日月曜日。昼ごろ起きだし、でれでれしゃべって、夕方に退出する。JR豊田駅に向かったのに、たどりついたのは京王線南平駅だった。うーむ。周遊券が役に立たない。
 西葛西につき、とりあえず堺三保に電話する。留守だ。大森邸に電話するのは、外人が出たらどうしたらいいかわからなくてこわいのでためらう。夕方ころには帰るとは聞いてたのだが。しかたがないから、本屋で立ち読みをし、古本屋を覗いて、三〇分ほど時間をつぶす。堺に電話する。留守だ。しかたないから大森邸方面に向かいつつ、晩飯を食うところを物色する。饂飩屋にいる大森・斎藤を発見する。安堵する。一緒に帰る。トーレン・スミスはもういなかった。
 発売前の「かまいたちの夜」がある。謎が解けない。前に進めない。こんなものもわからないと馬鹿にされる。つまらない。三時くらいで寝る。
 11月15日火曜日。大森も斎藤も用事があるといっていなくなる。早川書房に行く。また道に迷う。神田駅から三〇分かかる。三人娘にでれでれと遊んでもらう。小浜徹也に電話して翻訳勉強会に連れていってもらう。
 勉強会ででれでれとしゃべる。ひとりひとりと寝てしまうか酔っ払って寝てしまって、結局伊藤典夫、高橋良平、小浜徹也、ひと眠りして元気になって起きだしてきた白石朗と毎度の顔ぶれになる。大森・斎藤はカラオケに行って、そのまま音信不通になる。でれでれしゃべる。勉強会にきている人間についてしゃべる。勉強会にきていない人間についてしゃべる。結局徹夜する。
 11月16日水曜日。チェックアウトして、小浜徹也の家を見にいくか、東京創元社を見にいくか、論議の末、創元にいく。会議室で昼過ぎまででれでれしたあと、茶店ででれでれする。伊藤、高橋、白石、小浜。きまりきった顔ぶれである。
 三時すぎ帰途につく。今回は五日間異様にいっぱいでれでれした。なんとなく元気が出てきて、あんまりおうまに精根こめず、SF向いてがんばろう。そんな気持ちを呼び起こす、充実のある五日間だった。きっと金曜夕方までの短い決意に終わるだろうけど。