バリントン・J・ベイリー『スター・ウィルス』(創元SF文庫)訳者あとがき


   訳者あとがき


大森 望  



 創元推理文庫三冊めのバリントン・J・ベイリーをお届けする。原題は、The Star Virus。一九七〇年に、かのエース・ダブルの一冊(の半分)として刊行された、ベイリーの記念すべき処女長編である。ひょっとしてごぞんじないかたのためにご説明しておくと、エース・ダブルというのは、ディックの初期長編の発表媒体としておなじみ、長編二本を上下逆さまにくっつけて、表にも裏にもカバーがついているという、ひと粒で二度おいしいエース社のSF叢書。もっとも、分量をあわせるために作者に無断でぶった切ったり、タイトルを変更したりしたため、悪名も高かった。とはいえ、一定の制約さえ守れば無名の新人の作品でも出版してくれるわけで、とにかく書きたいという若手作家には、かっこうの舞台を提供した。日本映画でいえば、ひところのにっかつロマンポルノみたいな役割をはたしていたわけですね。(なおエース・ダブルについての詳細は、創元SF文庫のフィリップ・K・ディック『虚空の眼』の大瀧啓裕氏の解説を参照されたい)
 エース・ダブル版『スター・ウィルス』の相方(?)は、〈戦士ブラク〉シリーズで有名なジョン・ジェイクスの Mask of Chaos。こっちのカバーはジャック・ゴーハン、『スター・ウィルス』のほうのカバーは、宇宙を背景に帆船ふうのスペースシップと巨大なレンズが浮かぶ、フランク・ケリー・フリースの美しいイラストで飾られている。定価は、二長編あわせて七十五セント。はやい話、どこから見てもB級スペースオペラという体裁である。しかし、ベイリーがまともなスペオペ読者の支持を得らるはずもなく、ぼくの知るかぎり、この長編は以来一度も再刊されていない。ベイリーの地元イギリスの読者でも、読んだことのある人はとってもすくないんじゃなかろうか。ヨーロッパで翻訳されたって話も聞かないし、単独で出版されるのは、おそらくこの創元SF文庫版がはじめて。本書を手にされた読者は、日本人に生まれたしあわせをそっと噛みしめるべきだろう。

 さて。「処女作には、その作家のすべてがある」というカビの生えた説がある。だったら、旧作の版権すべてを買いもどして人目に触れることを一切禁じているディーン・R・クーンツの立場はどうなる。そんな説は、「女ははじめてベッドをともにした男のことを一生忘れない」というのと同程度の迷信にすぎない――と、まあこれが訳者の基本的な考えなんだけど、いまから二十年以上前に発表されたこの処女長編を前にしてみると、ついこういってしまいたい誘惑にかられる。すなわち――
「『スター・ウィルス』には、バリントン・J・ベイリーのすべてがある」
 もちろん、『カエアンの聖衣』や『禅〈ゼン・ガン〉銃』など、のちの長編にくらべると、小説づくりのテクニックはまだまだヘタクソもいいところ。プロットの進行は一直線だし、お世辞にもキャラクターが書けているとはいえない。しかし、そうした欠点まで含めて、本書がいかにもベイリーらしい剛直なサイエンス・フィクションであることはまちがいない。

 時ははるかな未来。地球に誕生した人類は、恒星間航行技術を獲得するや、生まれ故郷の銀河辺境をあとにして、無数の星々が集まる銀河中心、〈ハブ〉星域へと進出、わが世の春を謳歌している。その人類の前に立ちふさがるのが、もうひとつの恒星間航行種族ストリール。人類よりはるかに古い歴史を有するストリールは、新参者の人類がわがもの顔で〈ハブ〉にのさばることを快く思っていない。二種族間の武力衝突の時代は去ったものの、米ソの冷戦時代を思わせるような、冷ややかな敵対関係がいまもつづいている。
 そんな時代、銀河を股にかける一匹狼の海賊、ロドロン・チャンは、ひょんないきさつからストリールの所有物を横取りする。無数の映像を際限なく映しだす巨大なレンズ。それはどうやら、ストリールにとってはかりしれない価値を持つものらしい。
 というわけで、物語は、レンズの秘密を解き明かそうとするロドロンと、レンズをとり返そうとするストリールの、追いつ追われつのスペースチェイスを軸に展開していくことになる……。

 黄金のハンドガン一挺を頼りに銀河を渡り歩き、法や道徳など歯牙にもかけないロドロンの人生哲学には、ベイリーの世界観がダイレクトに反映されている。
「(ベイリーには)この宇宙のありようにがまんがならないというところがあるように見える」「(ベイリーのアイデアの起爆剤になっているのは)この宇宙でさまざまの物理定数が定まっていて、いっこうに変わる気配がないのは、がまんがならない、という気持ちなのではないか」と、『永劫回帰』の解説で中井紀夫氏が喝破しているけれど、ロドロンもまた、あらゆる種類の固定した秩序や束縛にがまんのならない性格である。

 至高の神、宇宙的運命論、あるいは不変の物理法則さえ、ロドロンは信奉していない。多少なりとも宗教的感覚に近いものを彼の中であえてさがすとすれば、それは、無制限の行動の自由と自発的な計画を教義とする宗教であり、世俗のものであれ神のものであれ、いかんる権威も認めない態度だった。ロドロンは一口にいって、安全弁がはずれた宇宙を信じていたのである」(本書五四ページ)

 だからロドロンは、「どんな異常な考えにも、どんなに奇矯な行動にも、まったく恥ずかしさを感じることのない世界」(七ページ)を無数に擁する〈ハブ〉を愛する。いやむしろ、あらゆる固定したシステムを憎むベイリーが、無制限の自由を可能にする夢の舞台として選んだのが〈ハブ〉だったというべきか。そこには国家も法律もなく、すべての可能性が花開いている。ルーディ・ラッカーやチャールズ・プラットなどとも共通するベイリーのアナーキズム指向にとって、〈ハブ〉はまさしく、一種のパラダイスなのである。
 したがって、この星域に一定の秩序をもたらし、一種の国家的な役割をはたそうとする巨大商業ギルドは、ロドロンにとって唾棄すべき対象でしかない。個人の自由に制限をくわえようとするシステムはすべて彼の敵となる。そして、商業ギルド以上に大きなスケールで、個の自由を圧殺しようとするのが、冷徹な哲学を有するストリール。偶然を信じず、すべては銀河の大計によりあらかじめて決定されているのだと信じるストリールの世界に、自由意志のはいりこむ余地はない。ロドロンはたったひとり、この巨大な敵に戦いを挑む……。
 ロドロンのこうした強い意志には、たとえば、宇宙の成り立ちそのものに挑戦する『永劫回帰』のヨアヒム・ボアズや、レトルト・シティの社会体制の破壊を企てる『時間衝突』の甫蘇夢の原型を、容易に見いだすことができる。いってみれば彼らは、六〇年代カウンター・カルチャーの、直系の子孫なのだ。
 
 バリントン・ジョン・ベイリーは、伝統的スペース・オペラの支持者と、それ以上のものを要求する現代の編集者・読者の文学嗜好とのあいだをへだてる哲学的な溝に橋をかけた、きわめて数少ない作家のひとりである。ベイリーはスペース・オペラの古典的装置を利用しながら、それをもっと洗練されたライティング・スタイルや、即物的である以上に知的なスペキュレーションと結婚させることで、その橋渡しに成功した。彼の作品の大部分に共通する皮肉なユーモアは、読者の感情を逆撫ですることが多いのと同時に、エンターテイニングであることも多い。

 これは、SF作家辞典 Twentieth-Century Science Fiction Writersでベイリーの項目を担当したドン・ダマッサの文章の冒頭だが、このベイリー評は("洗練されたライティング・スタイル"はともかくとして)、ほとんどそのまま、この処女長編にもあてはまる。
 異星人の宝物を奪って逃走する宇宙海賊――どう考えてもB級スペオペにしかなりようのない話が、壮大なスケールの奇怪な本格サイエンス・フィクションへとどんどん変貌していく過程は、まるで手品を見ているよう。レンズの正体が明かされ、パースペクティブが一気に拡大する結末の感動は、ベイリーならではのものだろう。
 "読者の感情を逆撫でする"皮肉なユーモア感覚も、この小説にはふんだんに発見することができる。人間社会との絆を断ち切り、宇宙を住みかとして暮らすデッドライナーたちが、船内の原子炉を使って暇つぶしにおこなう死のゲーム。異星の酒場でオルガンを弾く肥満した女の歪んだ自己満足。ストレートな笑いではないが、ひねくれている分だけ、あとから効いてくるユーモアだといえるかもしれない。
 皮肉といえば、スペオペの体裁をとっているくせに、主人公が敗走につぐ敗走をくりかえすという展開も皮肉なことこのうえない。マイクル・ムアコックの〈エルリック〉シリーズがアンチ・ヒロイック・ファンタジーだというのとおなじ意味で、これは、アンチ・スペース・オペラと呼ぶべきかもしれないが、まわりの人間がバタバタ死んでいってもちっとも悲壮感が漂わないあたりもベイリーらしい。

 ストロングスタイルの大ワザ作家のイメージが強いベイリーだが、『カエアンの聖衣』の、音で敵を殺すラッパつきブロントザウルス似の可聴下音怪獣とか、『時間衝突』のタイムトラベル・ピンポンとか、『永劫回帰』の珪素骨とか、無数にちりばめられるサブアイデアの魅力も見逃せない。本書でびっくりしたのは、(いまでこそべつに驚くべきアイデアでもなんでもないけど)ラップトップ・コンピュータを使って大型コンピュータにハッキングするシーンが出てくること。さすがに、携帯できる記憶装置の概念はまだなくて、プリントアウト指令を出してデータのハードコピーをとるあたりはご愛敬だけど、四半世紀近くむかしの小説だということを考えると、堂に入った未来予測ぶりといえるのではないか。マッド・サイエンティスト、マルド・シントが肩に装着しているカメラ・アイもすごい。あらゆる波長の電磁波はもちろん、さらに微弱な放射まで見ることができ、インプットしたデータは、頭蓋のソケットからコンピュータにハードワイアードして解析するというんだから、ほとんどサイバーパンクである。
 レンズの正体は最後まで明かされず、ミステリー的な興味もじゅうぶん。まさかあんな意外な結末が……おっと、あんまりディテールに立ち入って、未読のかたの興をそいではもうしわけない。大盤振舞いの奇想を楽しみながら、ベイリーの魅力が凝縮されたこの処女長編を、じっくりお楽しみいただければ、訳者としてこれにまさる喜びはない。

1993年10月 大森 望   




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