イアン・ワトスン『スロー・バード』(ハヤカワ文庫SF)解説(1996年10月)


解 説

大森 望  

 本書は、現代SF界切っての鬼才にして、イギリスにその人ありと知られる当代最高の奇想SF作家イアン・ワトスンの、本邦初の短篇集である。ニューウエーヴ以降のイギリスSFを代表する作家というにとどまらず、現代SFを語る上で欠くことのできない存在でありながら、これまでワトスンは、日本において、けっしてその地位と名声にふさわしい扱いを受けてこなかった。初期の代表的な二長篇『マーシャン・インカ』と『ヨナ・キット』が邦訳されているものの、サンリオSF文庫の撤退とともない、現在はどちらも入手不可能、彼の訳書としては、わずかに、マイクル・ビショップとの共著『デクストロU接触』を数えるのみ。海外SFファンを名乗りながらワトスンの名さえ知らぬ人間が大量に出現しているにしても、あながち読者の怠慢ばかりを責められない、この貧しい出版状況には、暗澹とした思いが沸き上がってくるのを禁じえない。
 しかしいま、そうした暗澹たる状況の中に、一条の光が射してきた。ワトスンの本を日本語で読みたいという心あるSFファンの声なき声が燎原の火のごとく広がり、ついには天に届いて、いまここに、希代のSF作家イアン・ワトスンの魅力をあますところなく伝える地上最強のSF短篇集『スロー・バード』の刊行を見たことを、読者とともに心から喜びたい。

 ……と思わず肩に力がはいって、柄にもなく大上段にふりかぶってしまうのも、相手がイアン・ワトスンとあってはいたしかたない。とにかく画期的な本であることはまちがいないから、ワトスンを知っている人も知らない人も、短篇が好きな人も嫌いな人も、SFマガジンで本書収録の短篇を半分以上読んている人も横山えいじ氏のキュートなカバーにつられてつい手にとってしまっただけで悪気はなかったんですという人も、一刻もはやくこの本を手にレジに直行し、すみやかに円を支払って、幸福な時代に生まれあわせた好運を噛みしめてほしい。どうしてもわたしが信じられないという疑り深い性格の人は、短い話をひとつふたつ立ち読みしてもらってもかまわない。といっても、ぜんぶ立ち読みですますのは書店にもお客さんにも迷惑だから慎むように。
 念のため、もう少しセールス・ポイントを並べる。短篇集とはいっても、本書は海の向こうで出版されたものをそのまま全訳するといった芸のない書物ではない。百篇を越えるワトスンの短篇の中から、日本の読者にとっておもしろい作品のみ十四篇を厳選した、いわば世界初のイアン・ワトスン短篇ベスト集成である(タイトルこそ、あちらで出ている短篇集 Slow Birdand Other Stories とおなじになってしまったけど、中身はぜんぜんちがうから注意してね)。おちゃらけた軽いバカ話、ファニッシュなパロディから、重厚なアイデアSF、ガチガチのハードコア、シュールなポップ・ストーリー、文学の香り高い名品と、傾向もさまざま。幅広い領域で活躍するイアン・ワトスンという希代のSF作家が、わずか一冊で一望できてしまううえに、日本の読者向け書き下ろしの著者まえがきまでついているという、いたれりつくせりの短篇集なのである。
 イアン・ワトスンには、洋の東西を問わず、「難解」「批評家受け」「マニア好み」といったレッテルがつきまとう。読みもしないで、「ワトスンって、発想はいいんだけ読みにくいんだよね」など吹きまくる半可通があなたのそばにもいるかもしれない。たしかに、初期の長篇については、そういわれてしかたのない面もある。アイデアの追求にのみ突っ走る彼の長篇は、強烈なインパクトを持つかわり、ややもすると人物描写やストーリーテリングがおろそかになり、読者に読みにくい印象を与えることがある。そこを我慢してじっくり読みこめば、豊饒な読書体験が約束されているのだが、しかし軽薄短小を好み、テンポの速い活劇ふうのSFに浸り切った読者には、いささか歯応えがありすぎるのかもしれない。
 しかし、これはあくまで長篇の話。短篇におけるワトスンは、がらっと変わって人好きのいい顔を見せてくれる。もしも魂が体から抜け出してしまったら。文明が崩壊した世界でSF大会が開かれたとしたら。絶対零度より寒くなったとしたら。地面が垂直に広がる世界があったとしたら。文字どおり量子論的な蓋然性世界に住むエイリアンが人類に接触したとしたら。つぎつぎにくりだされる途方もないアイデアの数々があなたの脳ミソを直撃し、かつてないめくるめく体験を約束してくれる。本書におさめられた十四篇には、SFのエッセンスがもっとも凝縮したかたちで詰め込まれている。本書『スローバード』こそが、SFの神髄の顕現なのである。

 さて、ハヤカワ文庫SF初登場ということでもあり、このあたりで著者の経歴を紹介しておこう(サンリオSF文庫版『マーシャン・インカ』巻末の拙文と一部重複することになるが、ご寛恕いただきたい)。イアン・ワトスン(本名おなじ)は、一九四三年四月二〇日、英国南東部ハートフォードシャー州セントオールバーンズに生まれた(カーティス・スミス編『二〇世紀SF作家辞典』その他では、ノーサンバーランド州ノースシールズ生まれ)。一九四八年から五九年にかけてタインマウス・スクールに学び、初めは化学者、ついでアリゾナ砂漠のサボテンを研究する植物学者を志すが、理系科目がふるわず文系に転向。十六歳で卒業すると、奨学金を得て、オックスフォード大学ベーリアル校に入学。専攻は英語英文学で、主として十九世紀のイギリス詩・小説を学び、六三年、優等の成績で卒業(この間、一九六一年九月には、まだ十八歳だというのに、郵便局でクリスマス・カード整理のアルバイト中に知り合った画家のジュディス・ジャクスンと結婚している)。以後もワトスンはそのまま同校の研究課程に残り、英文学・仏文学を研究、六五年に英文学修士号を取得する。この年から二年間、タンザニアの首都ダルエスサラームの東アフリカ大学に講師として赴任、ジョイスやオースチンを講じた。そして六七年、ブリティッシュ・カウンルの斡旋で、東京教育大講師の職を手に入れ、日本を訪れることになる(けっきょくワトスンの東京暮らしは三年におよび、慶応大学で非常勤講師をつとめたほか、最後の一年は日本女子大で教えている)。
 十歳のころからSFファンだったというワトスンも、当時はまだ、自分でSFを書いてみようという気はさらさらなく、オックスフォード時代は、もっぱら一九世紀末のロマン派耽美小説を意識した「もったいぶった散文小説」を書いていた。が、本書序文にもあるとおり、日本に来たことが彼の運命を変える。この話はべつに、日本人読者向けのリップ・サービスではない。とくに、「未来の衝撃」に打ちのめされ、「心理的サバイバル機構として」SFを書き出した、というのはよほどお気にいりのフレーズらしくて、これまでにもエッセイやインタビューで何度となくくりかえしている。それだけ六〇年代末の東京の印象が強かったのだろう。このあたりのことを、チャールズ・プラットのインタビュー集 The Dream Makers から補足しておくと、
「日本で暮らしてみて、SFを書くべきだとさとったんだ。まさに二一世紀的な環境だったからね。ありとあらゆる娯楽やからくりがそこらじゅうに氾濫し、得体の知れない未来的なものと伝統的な文化とが、おかしなくらいごちゃごちゃにまじりあっている。が、同時にそこはディザスター・エリアでもあった。高層ビルの林立する大地は地震に揺さぶられ、耐震構造でない新築ビルの壁にはひびわれが走っている。テクノロジーの爆弾が日常生活にくまなく浸透していた――コインを入れるとテレビの映るタクシーとかね。東京の街を走りながら、そのテレビでワッツ暴動のニュースを見たもんだよ。怪獣映画、種々さまざまな機械仕掛け、頭上に浮かぶアドバルーン――こういう百パーセントの娯楽が、大気汚染という遅効性の毒による百パーセントの死ととなりあわせで同居している。こんな状況のもとでは、気どったデカダン小説を書くなんてまるでばかげてると気がついたのさ」
 こうしてワトスンは、日本滞在中からSFを書きはじめる。処女作は、序文にあるとおり、"Roof Garden Under Saturn"。はじめて書いたこの作品を、ワトスンは当時定期講読しはじめていたイギリスの雑誌〈ニューワールズ〉に投稿する。これが同誌一九六九年十一月号(通巻一九五号)に掲載され、SF作家イアン・ワトスンが誕生する。当時のイギリスSF界といえば、おりしもニューウエーヴの嵐が吹き荒れ、サイバーパンクどころではない大騒ぎのまっただなか。そして、マイクル・ムアコック編集の〈ニュー・ワールズ〉は、運動の牙城として勇名を馳せていた。もっとも、それまでまったくSF界とのつながりがなかったワトスンとしては、たまたま定期講読していた雑誌宛てに書き上げた作品を送ったというのが真相で、ニューウエーヴそのものには懐疑的だったようだ。前述のインタビューからふたたび引用すれば、
「ニューウエーヴというのは、度しがたくもったいぶったしろものに思えたね。妻とふたりしてうんざりしながら〈ニュー・ワールズ〉を読み、腹を立てたもんさ。なんだ、この鼻持ちならんクズは! ぼくたちだったらもっとましなものが書けるのに! ようし、書いてやるぞ!ってね。そういう意味じゃ、ぼくは非ニューウエーヴ作家だ。ニューウエーヴの多くは自己満足でひとりよがりに思えた。もちろん、作品を売ってからは、けっきょくのところなにかあるのかもしれないと思うようになったけどね」
 いかにもワトスンらしい発言である。が、その〈ニューワールズ〉も、ワトスンがデビューしたころには、版元との関係悪化や多額の借金で経営が行き詰まっており、ムアコックは実質的な編集長をチャールズ・プラットにまかせ、変名でポルノ小説を書きなぐって発行資金をかせいでいた。翌七〇年になると、ついに二〇一号で休刊、ペーパーバック・スタイルでオリジナル・アンソロジー形式の季刊誌〈ニューワールズ・クォーターリイ〉に引き継がれる。この年、ワトスン夫妻はハンブルグ行きの貨物船に乗って日本をあとにし、オックスフォードの借家住まいをはじめる。バーミンガム・ポリテクニックの芸術史学部で講師として働くかたわら、ワトスンはSFを書きつづけるが、〈ニューワールズ・クォータリー〉に掲載を拒否され、次の号もいつ出るかわからないという状態で、唯一の発表舞台を失ってしまう。そんなとき、腹立ちにまかせて、「白熱した発作」にかられて、七一年暮れからのわずか二か月で一気呵成に書き上げたのが、記念すべき処女SF長篇 The Embdding だった。
 ワトスンは清書した原稿を、ディック、バラードなどSF出版の老舗としても知られるイギリスのハードカバー出版社、ヴィクター・ゴランツ書店に送りつける。このまま発表するには難解すぎると注文をつけられて、そっくり書きなおしたものが刊行されたのが翌一九七三年七月のこと(ついでにつけくわえると、これが縁でワトスンののちのSF作品のほとんどはゴランツから出版されていたが、八九年に同社が身売りして、SF部門編集長だったマルコム・エドワーズが退社、やはりイギリスの大手出版社グラフトンに移ったのにともない、ワトスンの新作の版元もそちらに移る模様)。
 タイトルの「埋め込み{エンベディング}」とは、すべての言語に共通する普遍性を持ち、現実を直接認識できる究極のメタ言語構造のこと。この埋め込み言語を言語障害の子どもたちに教えこむ実験をしていた言語学者クリス・ソウルは、エイリアンとの交渉役としてNASAから白羽の矢をたてられる。エイリアンは高度なテクノロジーの情報を引き替えに、生きた人間の脳を求めていた。異言語を話す人間の脳を研究することで、地球人の知的体系がすべて明らかになるというのだ。一方、アマゾンの奥地では、クリスの旧友ピエールが、自己埋め込み言語を持つ部族を発見していた……。
 言語構造の変革によって新しい認識に到達する可能性を描いたこの長篇は、新人離れした力強さと野心的なスタイルで、発表されるやイギリスSF界にセンセーションを巻き起こす。〈サンデー・タイムズ〉紙(評者エドマンド・クーパー)、スペクテイター紙(ピーター・ニコルズ)、タイムズ文芸付録などで絶賛され、翌年には早くも仏訳版が刊行される。さらに、この年のジョン・W・キャンベル記念賞にもノミネートされ、処女長篇にもかかわらず第二席となったほか、フランスでは七五年度の最優秀SF賞アポロ賞をみごと受賞している。七五年、スクリブナーズ社からハードカバーのアメリカ版が出ると、チャールズ・ブラウン、マイクル・ビショップが〈ローカス〉であいついで絶賛、イギリスのローカル作家だったワトスンは一躍、世界SF界の第一線に躍り出る。
 ここから先の活躍ぶりは著作リストを見てもらったほうがてっとりばやい。SF評論家の高橋良平氏に無理をいって貸してもらった、届いたばかりのビブリオグラフィ The Work of Ian Watson (ダグラス・A・マッキー編/ボルゴ・プレス八九年刊)を参考に、これまでに刊行されたワトスンの著書すべてを年代順に並べてみた。タイトル、発表年につづく()内は初版刊行の出版社(仏独日で刊行されたものについても、イギリスでオリジナル版が出ていないものについては独立した作品として掲載してある)。

1 Japan: A Cat's Eye View, 1969 (文研出版)高校・大学用英語副読本
2 The Embedding, 1973 (Gollancz) *アポロ賞、シクラス賞海外長篇部門(スペイン)受賞、ジョン・W・キャンベル記念賞第二席
3 The Jonah Kit, 1975 (Gollancz)『ヨナ・キット』飯田隆昭訳/サンリオSF文庫(絶版)*イギリスSF賞、イギリスSF協会賞受賞
4 Orgasmachine, 1976 (Editions Chanp Libre) フランス版のみ刊行
5 The Martian Inca, 1977 (Gollancz)『マーシャン・インカ』寺地五一訳/サンリオSF文庫(絶版)
6 Japan Tomorrow, 1977(文研出版)高校・大学用英語副読本
7 Alien Embassy, 1977 (Gollancz)
8 Miracle Visitors, 1978 (Gollancz)
9 The Very Slow Time Machine: Science Fiction Stories, 1979 (Gollancz) 第一短篇集
10 God's World, 1979 (Gollancz)
11 The Gardens of Delight, 1980 (Gollancz)
12 Under Heaven's bridge, 1981 (Gollancz)『デクストロU 接触』(創元推理文庫)マイクル・ビショップとの共著
13 Deathhunter, 1981 (Gollancz)
14 Sunstroke and Other Stories, 1982 (Gollancz) 第二短篇集
15 Chekhov's Journey, 1983 (Gollancz)
16 The Book of the River, 1984 (Gollancz)〈黒い流れ〉三部作
17 Converts, 1984 (Panther)
18 The Book of the Stars, 1984 (Gollancz)〈黒い流れ〉三部作
19 The Book of the Being, 1985 (Gollancz)〈黒い流れ〉三部作
20 The Book of Ian Watson, 1985 (Willimantic, CT) 書き下ろし六篇を含む単行本未収録のエッセイ・短篇二六篇を収録
21 Slow Birds and Other Stories, 1985 (Gollancz) 第三短篇集
22 Queenmagic, Kingmagic, 1986 (Gollancz)
23 The Books of the Black Current, 1986 (Doubleday)〈黒い流れ〉三部作の合本
24 Evil Water and Other Stories, 1987 (Gollancz) 第四短篇集
25 Kreuzflug: Politische Science-fiction Geschichten, 1987 (Luchterhand Verlag)ドイツ版オリジナル短篇集。21から5篇、24から3篇、単行本未収録の「バビロンの記憶」ほか1篇を収録。Rene Oth編
26 The Power, 1987 (Headline) ホラー長篇
27 The Fire Worm, 1988 (Gollancz) ホラー長篇
28 Whores of Babylon, 1988 (Gollancz) *アーサー・C・クラーク賞最終候補
29 Meat, 1988 (Headline) ホラー長篇
30 Salvage Rites and Other Stories, 1989 (Gollancz) 第五短篇集
31 『スロー・バード』本書 日本版オリジナル短篇集

 重複をのぞき、海外出版をべつにすると、著書の数はぜんぶで二五・五冊。キャリアの長さからすると多作とはいえない。ワトスンは、フランスを筆頭にヨーロッパ各国では非常に人気があり、すべてのSF作品がフランスで出版されているほか、ドイツ、スペイン、イタリア、ポルトガルなどでも翻訳されている。このほか、編著として、
1 Pictures at an Exhibition, 1981 (Greystoke Mobray)
2 Changes: Stories of Metamorphosis, 1982 (Ace) マイクル・ビショップと共編
3 Afterlives: An Anthology of Stories About Life After Death, 1986 (Vintage Books)パメラ・サージェントと共編
 の三冊がある。

 未訳のSF長篇について簡単にコメントしておく。1と6は、大阪の教科書出版社の求めに応じて、英語のテキスト用に書き下ろされたもの。1は猫の視点から現代日本の日常生活を、6は未来の東京に住む一家をそれぞれ描いたオムニバス短篇集。4は、オリジナル・タイトルを The Woman Factory といい、生態系の崩壊したシュールな未来社会を舞台に、顧客の注文どおりの女を洗脳でつくりだし販売する〈オーダーメイド・ガール社〉を描いた社会風刺ポルノの払訳版。原稿執筆は一九七〇年だが、マーガレット・アトウッド『侍女の物語』も裸足で逃げだす超過激な内容が災いして英米ではいまだに買い手がついていない。最初プレイボーイ・ペイパーバックスが買ったが、権利を引き継いだバークレーは出版を拒否(ある編集者は、こんなものを出したらフェミニストたちに袋叩きにされるといったとか)。以後オクラ入りしていたこの作品を、ワトスンは八二年にWoman Plant のタイトルでそっくり書き直し、グラフトン社から出版の申し出を受けたが、こんどは著者のほうがやっぱりヤバすぎると判断し、自主的にボツにしたという。
 7は、ヨガの訓練でサイキック移動能力を身につけた主人公がエイリアンと出会い、宇宙規模のいんぼうに直面する。8は、UFO現象を研究している心理学者を主人公に、現実と夢意識の対立を扱ったもの(ワトスンはUFO問題についても造詣が深く、カティ・サーク主催のUFO懸賞論文に応募して、みごと賞金をせしめた実績がある)。8は、「神」からの呼びかけにこたえ、〈ハイ・スペース〉経由で彼方の星におもむく選ばれたクルーたちが遭遇する奇怪な事件を描いた、スーパーハードな哲学的宇宙小説。11は、消息をたった宇宙船捜索のため六人のクルーがとある惑星を訪れるが、なんとそこは、ヒエロニムス・ボッスの祭壇画「快楽の園」そのままの世界だった、という一種異様なシュール・ファンタジイ。13は、「死」そのものを罠にかける装置を発明した男が、「死」を追いかけてあっちの世界に行ってしまうというサスペンスフルなストーリー(?)で、〈オムニ〉に載った短篇"A Cage for Death"の長篇化。15は、アントン・チェホフを主人公に一九〇八年のツングースカ隕石の映画を撮っていてる途中、催眠暗示によるタイム・トラベルで本物のチェホフに会ってしまい、これに、故障で時をさかのぼった宇宙船がからむ。16、18、19は、少女ヤリーンを主人公にした異世界ファンタジーふうの三部作。17は、超人願望にとりつかれた大富豪が遺伝子操作でほんとうに超人になってしまうという(ワトスンとしては)異色作。テリー・カーのオリジナル・アンソロジー Universe12 に収録された"Jean Sandwich, the Sponsor, and I"が原型。22は白の国と黒の国の戦争にロミオとジュリエット的なエピソードをからめたチェス・ファンタジー。F&SF誌に発表した"Queenmagic, Pawnmagic"の長篇化。28は、やはり、本書収録「バビロンの記憶」を長篇化したもの。
 ざっと見ただけでも、最近のワトスンがファンタジー/ホラーに傾斜しているのがわかる。ここ五年ばかりでは、純粋にSF長篇といえるのは、28くらいしかない。ワールコンでご本人に会ったおり、「むかしはSFしか書かないといっていたのに、どうしたんですか」と聞いてみたところ、形式はちがってもハートはおなじだ、と答えていたが、これはいいわけだろう。悲しいことに、ワトスンの本格SFはあまり売れない。アメリカではやっているタイプの軟弱SFとはおよそ対極にある作風からして、ベストセラーが期待できないのは無理もないけれど、作者としては生活のためにほかのジャンルにも手を広げざると得ないのだろう。ワトスンのSFが好きな人間としてはじつに残念な話である。しかし、こういう悲しい状態を救うすべがないではない。本書が心あるSFファンたちによってバカスカ売れ、残る未訳作品もつぎつぎに邦訳されてベストセラーとなれば、きっとワトスンも気合いを入れてまたガンガンSFを書きはじめるにちがいない。SF作家ワトスンを生かすも殺すも、あなたの双肩にかかっている。もしこの本を読んでおもしろいと思ったら、親兄弟親戚友人先輩後輩上司同僚部下その他知り合いみんなにすすめてまわり、早川書房にワトスン作品続刊希望のお便りを書こう。



 本書収録の各作品については、序文で著者みずから語っていることでもあり、つけくわえることはあまりない。政治風刺小説としての側面は、これまで日本ではあまり注目されていなかったが、ワトスンの言によれば、「絶壁に暮らす人々」なども、「ある国の政治体制を皮肉ったもの」だそうである。書き忘れていたけれど、ワトスンはダルエスサラーム時代に第三世界の貧困を目のあたりにして社会主義に傾斜し、八〇年以降は政治運動にも参加している。これまで三度にわたって、地元の郡議会議員選挙に労働党から立候補したが、いずれも敗退。ちなみに八九年の選挙では八八〇票対二〇五〇票で落選。保守層の強い地盤としては健闘の部類にはいるようだが、このようすでは政治家ワトスンの誕生はまだしばらく先のようである。いずれにしても、こうした政治への関心が、作品にも(かなり異常なかたちで)反映しているらしい。
 あと、訳注めいたことをつけくわえさせていただくと、巻頭の「銀座の恋の物語」に出てくるクラブ〈女王蜂〉は、実在する由緒正しいキャバレー・クインビーのこと。東京時代に足を運んだワトスンがカルチャー・ショックを受けたのかもしれない。
 最後に、収録作の初出および収録短編集、アンソロジーの発表年代順リストを付しておく。タイトル末尾の丸数字は収録短篇集を示す(@The Very Slow Time Machine/ASunstroke and Other Stories/BSlow Birds and Other Stories/CEvil Water and Other StoriesDSalvage Rites and Other Stories)

「銀座の恋の物語」Programmed Love Story @ 初出 Transatlantic Review,no.48 (Winter 1973-74) ハリー・ハリスン&ブライアン・オールディス編『ベストSF8』に再録
「我が魂は金魚鉢を泳ぎ」My Soul Swims in a Goldfish Bowl @ F&SF七八年五月号
「超低速時間移行機」The Very Slow Time Machine @ 初出クリストファー・プリースト編
 『アンティシペイション』(七八年五月刊/邦訳サンリオSF文庫)テリー・カー編『年間SF傑作選8』に再録
「二〇八〇年ワールドコン・レポート」The World Science Fiction Convention of 2080 A 初出F&SF八〇年一〇月号 J・E・ガン編 The Road to Science Fiction#4 に再録
「知識のミルク」 The Milk of Knowledge Aに初出
「世界の広さ」The Width of the World B 初出テリー・カー編 Universe13
「スロー・バード」Slow Birds B 初出F&SF八三年六月号 ガードナー・ドゾア編『年刊SF傑作選1』に収録
「寒冷の女王」 The Mistress of Cold C 初出 Ambit no.96(一九八四年三月ごろ刊行)
「バビロンの記憶」We Remember Babylon (長篇化のため短篇集未収録)初出スーザン・シュウォーツ編 Habitats (一九八四年八月刊行) D・A・ウォルハイム編『一九八五年版年刊SF傑作選』/伊藤典夫・浅倉久志編『タイム・トラベラー』(新潮文庫)に再録
「ポンと開けよう、カロピー」On the Dream Channel PanelC 初出アメージング・ストーリーズ一九八五年三月号
「アイダホがダイヴしたとき」When Idaho Dived C 初出ジャネット・モリス編 Afterwar  (一九八五年六月刊行)
「絶壁に暮らす人々」The People on the Precipice C 初出インターゾーン誌八五年八月号テリー・カー編『年刊SF傑作選15』に再録
「大西洋横断大遠泳」The Great Atlantic Swimming Race C アイザック・アシモフズSF八六年三月号
「ジョーンの世界」Joan's World C アイザック・アシモフズSF誌八八年一二月中旬号





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