●鈴木光司『らせん』(角川ホラー文庫)解説

     解 説


                              大森望

 同じ日、同じ時刻に、恐怖と驚愕の表情を残し、四人のティーンエージャーが不慮の死を遂げる。死因は心臓麻痺。四人のうちひとりの叔父にあたる浅川和行は、そこに事件のにおいを嗅ぎとり、新聞社系週刊誌の編集部勤務という立場を生かして独自の調査をはじめる。
 そして浅川がたどりついた一本のビデオテープが、すべてのはじまりだった……。

 この死を呼ぶビデオテープ≠めぐって幕を開ける『リング』は、九一年六月、角川書店から四六判ハードカバーでひっそりと刊行された。
 著者の鈴木光司は、第二回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞した『楽園』で九〇年暮れにデビューしたばかりの新人作家。
『リング』は、その『楽園』より早く書き上げられ、九〇年の横溝正史賞に応募された事実上の第一作だが(日本ホラー小説大賞は、この時点ではもちろんまだスタートしていない)、狭義のミステリの範疇におさまらないことが懸念されたのか、他社からのデビューを待って、ようやく出版の運びとなったわけである。じっさい、最初の四六判『リング』(その後、『らせん』に合わせた装幀の新装四六判が九五年に出ている)は、今から考えると冗談みたいに少ない部数しか刷られていない。
 作家・篠田節子は、角川ホラー文庫版『仄暗い水の底から』の解説で、『リング』を初めて手にしたときのことに触れ、
「ビデオテープの絵のついた目立たない表紙の本に、なぜ自分が手を伸ばしたのかはわからない。さほど話題になってはいなかったはずだし、『鈴木光司』という作家の名前も知らなかった」
 と書いている。はっきり言って、ほとんど売れそうに見えない本だったのである。にもかかわらず、独特の嗅覚を働かせてこの本を手にした数千人の読者は、ほぼ百パーセントが強烈なリング・ウィルスに感染してキャリアーとなり、『リング』の評判は口コミでじわじわと伝わっていく。とにかくものすごくこわい小説でさ。いやあ、小説読んでてあんなにこわい思いしたのは生まれてはじめてだよ。明け方までかかって読みきったら、こわくて寝られなくなっちゃって……。
 こうして『リング』をめぐる噂がひそやかに浸透し、二年後の文庫化を契機に、この小説は異例の売れ行きを見せはじめる。そして九五年七月、続編の『らせん』が刊行されたとたん、鈴木光司ブームが一気に爆発。『らせん』は『リング』の文庫版とともにベストセラー街道を突っ走り、瀬名秀明『パラサイト・イヴ』と並んで、その年の出版界を代表する出版物となる。

 かくして国産ホラーのトップランナー、鈴木光司が誕生した――わけだが、ぼく自身、鈴木光司をホラー作家と見なすことには、最初からどうも抵抗があった。
 ひとつには、あの頑強な肉体を、作家デビュー前から間近に見ていたせいかもしれない。当人も「ガテン系の職業と誤解される」と書いているが、冒険小説作家ならともかく、およそホラー作家の持つべき肉体ではない。ホラー作家はやっぱり色白で痩せてなきゃダメでしょ、ふつう。
 もっとも、鈴木光司=ホラー作家のイメージに違和感があるのは、そういう形而下的な(いや、鈴木作品における肉体の重要性に鑑みれば、必ずしも形而下的とは言えないのだが)理由だけではない。
 鈴木光司がデビューした九〇年、ぼくはまだ新潮社に勤めていて、日本ファンタジーノベル大賞事務を担当していた関係で、『楽園』は原稿段階で読んでいる。同賞受賞作の大半がそうであるように、『楽園』も、狭義の商業ファンタジーの範疇には属さない。あえて要約するなら、「一万年の時を越えたラブ・ストーリー」か。いまどき珍しい、愛≠ノ対する確信と、圧倒的に力強い文体が印象に残る作品だった。
 日本ファンタジーノベル大賞は、ミステリや時代小説の賞と違って、特定ジャンルの形式によりかかっていたり、先行作品の影響がうかがえたりするタイプの(要するに、独創性に乏しい)小説は、最終選考で確実に排除される宿命にある。その意味で、鈴木光司は最初からきわだったオリジナリティを備えていたと言えるだろう。
 もっとも、現在の出版界では、この種のオリジナリティは、必ずしもデビューに際してプラスにはならない。分類不能のノンジャンルな小説とは、つまり読者の数を計算できない小説ということになる。本格ミステリであれ、異世界ファンタジーであれ、ロマンス小説であれ、ジャンル小説の形式を忠実に守った小説には、一定数の読者があらかじめ保証されている。そこそこの筆力があり、そのジャンルのお約束をわきまえてさえいれば、作家として生きていくことは可能なのである。
 しかし、鈴木光司がそういうタイプの作家でないことは最初から明らかだったし、第三作にあたる『光射す海』を読んだときも、あいかわらず困難な道を歩いてるなあと、陰ながら心配になったくらいである。
『光射す海』は、その反時代的なタイトルが象徴するとおりの反時代的ラブストーリーであり、いまどきのへなちょこ恋愛小説の対極に位置している。鈴木光司は恋愛の甘い過程を描かない。『楽園』がそうであるように、登場人物はどうしようもなく運命的な恋に落ち、その恋に全存在を賭ける。鈴木光司における愛はあまりにも暴力的で、おたく系へなちょこ恋愛支持派のぼくとしては思想的反発を感じるのだが、それでも鈴木光司の揺るぎない確信と筆力にかかるとぐいぐい読まされてしまう。鈴木光司の小説を読むこと自体、ある種肉体的な経験なのである。

 こうして見てくると、エンターテインメントの形式を強く意識した『リング』が、この時点の鈴木光司にとって、むしろ例外的な作品だったことは明らかだろう。
 前述の解説で篠田節子も指摘するとおり、のっけから死体が転がる『リング』の冒頭は、B級ホラー映画を思わせる。恐怖の正体が見えないことをべつにすれば、「エルム街の悪夢」シリーズの一エピソードでもおかしくない。つまりここでは、意識的に、伝統的なお約束のパターン≠ェ踏襲されている。
 死を呼ぶビデオテープ。おそるべき運命を回避するためのオマジナイとはなにか? タイムリミットは一週間……。
「この映像を見た者は、一週間後のこの時間に死ぬ運命にある。死にたくなければ、今から言うことを実行せよ。すなわち……」
 ここから先のメッセージがいたずらによって消されているという趣向は、なるほどよく考えられているけれど、まあ気の利いたシナリオライターなら思いつくかもしれない程度のネタではある。
 しかし、『リング』の特質は、このお約束の設定からの逸脱方法にある。『リング』はホラーから出発して、明らかにべつの方向へと読者を導いていく。
 ふつうの知的レベルにある読者が凡百のジャンル・ホラー(小説、映画含めて)に抱く不満は、おそらく次の二点に集約されるだろう。登場人物たちはどうしてこうも愚かなのか。話の展開がどうしてこうもご都合主義なのか。
 クーンツに代表されるモダンホラーは、波瀾万丈のストーリー展開を導入することで、ローラーコースターノベルという形式を定着させた。しかし、物理法則に支配される現実のローラーコースターと違って、「なんでもあり」の物語的自由は、作者の恣意に流されるケースが少なくない。『リング』は、次々に意外な展開を用意しながらも、そこに論理的必然性を与えることに成功している。登場人物たちは、さまざまな情報を総合し、推論し、その時点で最善と思われる選択に基づいて行動する。考える登場人物と、論理的必然性。ありきたりのスーパーナチュラル・ホラーとの最大の違いがそこにある。
 そして、その特質をさらにきわだたせ、ホラーとはまったく無縁の地点にまでたどりついたのが、本書『らせん』である。

 正直言って、ぼくは『リング』にさほど仰天しなかった。たしかに細部まで計算されたみごとな小説ではあるけれど、夜寝られなくなるほどこわい思いをした記憶はない。たぶん、フィクションから身体的恐怖を感じる能力が欠如しているせいだろう。だから、『らせん』を手にしたときも、「ホラー作家と思われたくないなら続編なんか書かなきゃいいのに」とぼんやり思っていたくらいである。
 しかし、にもかかわらず、というか、だからこそというか、『らせん』には心底驚いた。SFもホラーもミステリも腐るほど読んできて、たいがいのことには驚かない自信があったのだが、その自信はもろくも崩れ去った。こんな小説は読んだことがない。SFでもホラーでもミステリでもなく、同時にそのすべてであるような小説。本書『らせん』こそ、鈴木光司がそのオリジナリティを全面的に開花させた、空前絶後の傑作なのである。

 そもそも、『らせん』は、『リング』の続編としては徹底的に型破りな構成を持つ。曲がりなりにもスーパーナチュラル・ホラーの枠組みにおさまっていた前作の物語に対して、『らせん』は冒頭から科学的な検証をほどこしてゆく。
 物語の主人公は監察医の安藤満夫。安藤が、学生時代の友人である高山隆司の死体を解剖する場面から、『らせん』は幕を開ける。前作の読者なら記憶しているとおり、高山隆司は『リング』の主要登場人物のひとり。おそらく『リング』に出てくる中で、もっとも印象的なキャラクターだろう。前作の主役級の人物の解剖からはじまる続編……。
 しかも、ページが進むと、前作の主人公であり、オマジナイの謎を解いたはずの浅川の妻子が死亡している事実が明らかになる。『リング』のあの結末はいったいなんだったのか。思わず茫然としたのはぼくひとりではないだろう。
 こうして、『らせん』の新しい登場人物の手で、『リング』は新たな角度から文字通り読み直されてゆく。多少なりともこれに近い続編の例と言えば、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に対する「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」ぐらいだろうか。
 しかし、「BTTF」シリーズと違って、『らせん』は、前作の事件をべつの角度から語り直すだけではなく、強引とも見える手つきでジャンルそのものをずらしてしまう。解剖の結果、ビデオテープを見たあと謎の死を遂げた人間たちには、そろって冠動脈肉腫があることが判明する。前作でホラーとして語られたエピソードに科学の光が照射され、小説は新たな形態へと突然変異してゆく。
 ホラーのコンテクストでは、呪いのビデオを見た人間が一週間後に死んだとして、その死因が問題になることはない。呪いというのは理屈がないから呪いなのである。呪いに対抗する手段は、理屈がないからオマジナイと呼ばれる。だがしかし、それはホラーという世界の約束事でしかない。現実に人間が死ねば、その死因が問題になるのは常識だろう。
 グレゴリー・ワイデンの「ゴッド・アーミー 悪の天使」(95)というB級映画に、地上に降り立った天使が殺害され、その死体が解剖されて、骨格異常と性器異常が明らかになるエピソードがあって、そこだけ妙に感心したものだが、こういうのは例外中の例外。一般に、呪いと科学は両立しないのである。
 ふつう、ぼくらがホラーを読むとき、「こいつはなぜ死んだのか」「この怪物の遺伝子はどうなっているのか」という常識的な疑問は括弧に入れてしまう。本格ミステリを読んで、「いまどきなぜ名探偵が職業になるのか」「密室をつくるよりこっそり死体を山に埋めたほうが簡単じゃないか」という健全な常識を留保するのとおなじこと。そこをつっこまないのが、ジャンル小説における、作者と読者の暗黙の了解事項なのである。
 しかし『らせん』は、その種のお約束に一顧だに与えない。安藤はあくまで科学者の方法論にしたがって、『リング』が残した謎を解明しようとする。
 このような小説は、ふつうサイエンス・フィクションと呼ばれる。小松左京の『復活の日』や、グレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』など、生物学的テーマを扱ったSFは珍しくないし、じっさい『らせん』の前半は、明らかにそうしたバイオSF群に共通するテイストを持っている。
 唯一の違いは、読者がすでに『リング』を読んでいることだ。『リング』で起きたことは、明らかに超自然現象だった。死んだ超能力者が井戸の底から怨念を飛ばして、ビデオテープに呪いの映像を念写した。ジャンル小説の常識では、そこに科学が介在する余地はない。どう考えても、これはSFの出発点ではありえない。
 瀬名秀明の『パラサイト・イヴ』がSF的な手続きで綿密に舞台を準備しながら、モダンホラーの方法論をそこに適用してノンジャンル・エンターテインメントに変貌させたのと反対に、『らせん』は、ホラーでしかありえない素材にSFの方法論を適用する。リアルなディテールへのこだわり(リング・ウィルスの顕微鏡写真まで挿入される)は、ほとんどハードSF的でさえある。そしてまた、手がかりをもとに論理的思考を積み重ねてゆく過程には、本格ミステリの知的興奮と同質のスリルがある。しかも、そうした科学と論理の構築物の中に、「死体の腹から飛び出してくる暗号」をはじめ、ホラー的/超自然的な記号が平然と投げ込まれる。その結果、読者はどういうコードにしたがって『らせん』を読むべきなのかわからなくなる。読者と作者の暗黙の了解、読書に安心感を与える馴れ合いを徹底的に排除すること。読者に、ホラーでもSFでもミステリでもなく、小説≠読ませること。

 つねに読者の予想を裏切りながら進んできた『らせん』の物語は、そのクライマックスで、ついに人類進化のビジョンを提出する。死のビデオテープ≠ゥら出発した『リング』が、人類進化という大きな物語≠ノ到達するなどと、いったいだれが予想しただろう?
 オカルト的要素を大胆にとりいれながら進化のビジョンを語る物語としては、(TV版『リング』の脚本家でもある)飯田譲治の「NIGHT HEAD」シリーズや、庵野秀明の「新世紀エヴァンゲリオン」が思い出されるところだが、『リング』から『らせん』への展開の驚くべき意外性は他に類例がない。さらに重要なのは、この変貌が作者の恣意ではなく、明快な論理に裏付けられている点にある。
 吉本隆明との対談(『野性時代』九六年四月号)で、鈴木光司はこう語っている。
「(前略)エンターテインメントであろうと強く意識した『リング』に比べれば、『らせん』は論理的に物語を構築しようとした作品だと思っていますし、論理性によって、父性的、男性的な物語ができるかなと考えたところもあります。論理性でいくかぎり、ストーリーテリングというか、物語はクリアーなかたちで出てくると思いましたから」
 この「論理による物語構築」が、『らせん』の最大の魅力をかたちづくっていることはまちがいない。鈴木光司はジャンルに安住することを拒否し、論理性だけを武器にこの驚くべき物語を紡ぐ。
「生命とはいったい何だろうかとか、人間を含めて世界がどうなっているのか知りたかった。科学の知識を盛り込んだのも、その答えを探るためでしたし、あらゆる角度から世界を理解してみたいという願望の表れなんです」(同)と語る鈴木光司は、独力でサイエンス・フィクションを再発見したのかもしれない。
「ホラー作家と呼ばれるのは心外だ」という意味の発言を何度もくりかえしているが、鈴木光司はおそらく、ジャンルSFにもジャンル・ミステリにもほとんど興味がない。
 たとえば、「文体を手に入れるために」と題されたエッセイ(『新しい歌を歌え』所収)の中に、
「私小説とは、共同体に頼らなければ、存在しえない文学である。作者と読者の間に、ある共通の約束ごとがなければ、成り立たない。『こんな気分わかるだろ?』『うんわかるわかる』といった馴れ合い、共同体への甘えを前提として、初めて成立する」
 という一節がある。SF、ホラー、ミステリなど、あらゆるジャンル小説に対しても、おそらくおなじ論理が適用される。その種の共通了解をぶちこわして、どんな場所でも通用する小説を書くこと。そこに鈴木光司の目指すゴールがある。
 ぼく個人はジャンルの有効性を信じているし、ジャンル小説の歴史がなければ、おそらく『らせん』は誕生し得なかっただろう。しかし、『らせん』があらゆるジャンルの垣根を越えて屹立する傑作であることは認めざるをえない。ジャンルが細分化された現代にあって、『らせん』は、小説≠ニして屹立する。

 すでに与えられた紙数は大幅に超過しているが、もうひとつ、鈴木光司の小説を貫く特徴に、「あくまでも個人的な動機から出発する」という点が挙げられる。『らせん』の主人公は、人類の未来と個人の幸福を計りにかけて、後者を選択する。人類が生き残るかどうかという問題より、息子の命をとること。『リング』の主人公、浅川和行の選択もまた、きわめて利己的だ。妻と子どもを守るために、妻の両親を犠牲にすることも厭わない主人公……。
 自分にとって大切なものしか眼中にないという性質は、鈴木光司作品の登場人物たちに多かれ少なかれ共通している。彼らにとっては、「愛するものを守ること」がすべてに優先する。しかし、このきわめて個人的な場所から出発するだけに、鈴木光司の小説はどんな局面にあっても強靱さを失わない。
 従来の男性的な小説の文脈では、「愛するものを守る」思想は、容易に「国を守る」「正義を貫く」ことへと堕落してきた。だが、鈴木光司の掲げる父性は、妻と子どもを守るためなら国も正義も、いや人類さえも平気で裏切ってしまう。単純なマッチョ思想に回収できない独自性がそこにある。
 このような特徴は、短編ではよりはっきりしたかたちで見ることができる。『生と死の幻想』におさめられた「紙おむつとレーサー・レプリカ」はひとつの典型だろう。やわらかいものとかたいもの。育児と闘争。おむつを替えることと、体を鍛えること。相反するふたつのものを作中に抱え込むことで強固なリアリティが築かれ、ぼくのような軟派で懐疑的な読者さえもねじふせてしまう。
 この膂力をもって、鈴木光司がどんな世界を切り拓いていくのか。ウイルスに感染した読者としては、息をつめてそのうしろ姿を見守るしかない。

     *

 さて、最後に著者の近況と情報をいくつか。
 いまもっとも待たれている小説――『リング』『らせん』につづく三部作完結編、『ループ』は、当初の予定から大幅に遅れつつも、いよいよ物語が動きはじめているという。九八年春にはふたたびリング・ウィルスが日本を席巻するのか。刮目して待ちたい。
『小説現代メフィスト』(年三回刊)に九五年から連載中の『神々のプロムナード』は、妻子を残してとつぜん失踪した男の行方を、親友だった男と残された妻とが追うところからはじまる。『リング』に名前だけちらっと登場する新興宗教の教祖・影山照高が物語の焦点となっているようで、これも完結が楽しみだ。
 映像方面では、『リング』『らせん』は、九八年二月に劇場映画版が公開予定。『リング』の監督は、現代ゴーストストーリーの傑作『女優霊』でデビューした新鋭・中田秀夫。『らせん』は、おなじみの飯田譲治(TV版「リング」では脚本を担当した)がメガホンをとり、どちらも九七年十月現在、撮影中。
 なお、九七年十月にスタートした深夜TVシリーズ「幻想ミッドナイト」の第一話では、その飯田譲治監督で、鈴木光司原作の短編「夢の島クルーズ」(『仄暗い水の底から』所収)が映像化されている。


【鈴木光司既刊単行本リスト】

1 楽園       90年12月 新潮社→96年1月 新潮文庫
2 リング      91年6月 角川書店→93年4月 角川ホラー文庫
3 光射す海     93年1月 新潮社→96年6月 新潮文庫
4 生と死の幻想   95年11月 幻冬舎
5 らせん      95年7月 角川書店→97年11月 角川ホラー文庫(本書)
6 仄暗い水の底から 96年 月 角川書店→97年9月 角川ホラー文庫
7 新しい歌を歌え  97年9月 新潮社