『航路』日本版に寄せられた、著者からのメッセージ



   日本語版に寄せて



「子供が暗闇を恐れるように、人は死を恐れる。子供が闇に対して本能的に抱く恐怖は種々様々な物語によって増幅されるが、死についても同様のことが言える」
――サー・フランシス・ベーコン


 臨死体験というテーマに興味を抱いたきっかけは、友人が貸してくれた一冊の臨死体験本でした。もう題名も忘れてしまいましたが、光≠ニいう言葉が入っていたのは覚えています。アメリカでは、一九八〇年代から九〇年代にかけて、それに類した本が山のように出版されました。臨死体験≠フ実例を詳細に記した本ですが、内容はどれも似たようなもの。ふと気がつくと自分の肉体の上に浮かんでいて、それから暗いトンネルを抜けて光の世界に赴く。光の中にだれれかが――亡くなった親族・友人とか、キリストやクリシュナやモーゼのような宗教的な人物とか――立っているのを見たり、音楽や声を聞いたり、平和でおだやかな感覚を抱いたり。そして、こうしたビジョンは幻覚でも死に付随する現象でもなく、あの世の実在を証明するものだと主張していました。

 そういう本を読んで、わたしは激怒しました。科学的なノンフィクションの体裁をとっていますが、これは最悪の種類のニセ科学だし、人間の弱さや恐怖心につけこんで、読者が聞きたいと思っていることを――死んだ人間はただ存在をやめてしまうのではなく、別世界へと赴き、愛する人々と再会できるのだと――語っているだけなのです。最悪なのは、これらの本がじつに卑しい動機で――つまり、金儲けのために――書かれているということです(こうした臨死体験本はどれもこれもベストセラーになり、著者は講演やTV出演で何百万ドルも稼いでいます)。

 しかし同時に、臨死体験という現象を調べるにつれて、わたしはしだいにこう考えるようになりました。臨死体験はたんに想像上のものではない、彼らはたしかになにかを経験している。しかし、彼ら自身が臨死体験本の内容に影響されてしまうため、それが実際にどのようなものであるかを判断することはむずかしい。とはいえ、臨死体験本に書いてあるのとはちがう経験を語る人もいるし――たとえば、ヒンデンブルク飛行船の爆発事故で死にかけたクルーは、かごの中の鳥やりんごの花畑を見ています――そうした本がブームになるはるか以前から、人間は臨死体験をしてきたのです。
 彼らはいったいどんなことを経験してるんだろう。いったいなにが原因なんだろう。臨死体験は、死にゆく脳の中で起きる生化学的な現象なのか、それともなにかべつのものなのか? 科学者は臨死体験を研究し、その原因についてさまざまな仮説を立てています。無酸素状態、長期記憶を司る(あるいは側頭葉の)脳細胞のランダムなシナプス発火、視神経の機能停止、エンドルフィンの分泌……。

 でも、もし肉体的な現象だとしたら、その目的はなんなのか。なぜトンネルや光を見るのか。光の中に立つ人々はだれなのか。臨死体験者は、それがイエス様だったとか死んだお祖母さんだったとかいうけれど、もしほんとうはまったくべつのだれか、まったくべつのなにかだったとしたら?

 わたしはそういう可能性について考えはじめ、そして『航路』が誕生しました。作中に出てくるふたりの科学者、ジョアンナとリチャードは、わたしがそうしていたように、臨死体験の原因と働きを解明し、死そのものの謎を解こうとしています。
 なぜなら、あらゆるものの中でそれがもっとも大きな謎だからです。死んだときになにが起きるのか、だれにもたしかなことはわかりません(多数の人間や宗教が、自分にはわかっていると主張していますが)。ヒッチコックがいみじくもいったとおり、
「結末はだれにもわからない。死んだあとじっさいにになにが起きるのかを知るためには死んでみるしかない。カトリック教徒は自分なりの希望を持っているようだがね」
 死後、わたしたちは存在をやめてしまうのでしょうか? 脳死に関する医学的知見は、肉体の死の先に待ち受けるのは無だけだと示唆しているようです。しかしそれでも、人間が死後も存在をつづけるのだという思いは、何世紀にもわたって、多くの文化圏の中で、しぶとく生き延びています。

 だからわたしたちは手がかりを探して、死にかけた人々の語る体験談や、死の直前に人々が発した最期の言葉に耳を傾けます。しかしそうした言葉は明確ではありません。「明かりを消せ」とシオドア・ローズヴェルトはいい、エリザベス・バレット・ブラウニングは「美しい!」と叫び、それらの言葉は臨死体験のビジョンを裏付けているようにも見えます。

 しかし作家のO・ヘンリーは、「明かりをつけてくれ。暗い中を帰りたくない」といいました。死の床にあったコメディアンのバート・ラーは、助けを求めているのだと思ってベッドにかがみ込んだ看護婦の前で、ヴォードヴィルの持ちネタのしぐさを披露しました。拳銃使いのドク・ホリデイは、コロラド州の病院で死ぬ間際、「妙だな」といいました。いったいなにが妙だったんでしょう。その三十年後、ドク・ホリデイの友人でもあったワイアット・アープが臨終の床で「たとえばもし、たとえばもし……」とつぶやいたとき、彼はなにをいおうとしていたのでしょう。死の直前、ジョン・ウェインが閃光を見たと語ったのは、いったいどんな意味だったんでしょう。
 臨終の言葉は判じ物めいたパズルの断片で、正しく翻訳することは容易ではありません。


 『航路』のアイデアは臨死体験本から思いついたと書きましたが、それだけではありません。十五歳のとき、ウォルター・リードの名著『タイタニック号の最期』を読み、わたしはそれをきっかけに、災害と、死に直面した人たちの物語にとり憑かれることになりました。

 なぜなら、死の謎は生の謎と表裏一体の関係にあるからです。タイタニック号の機関士たちは最後の瞬間まで船の明かりを灯しつづけようと働きつづけ、世界貿易センタービルから脱出する最後のエレベーターの場所を若者に譲った老人は「わたしはもうじゅうぶん人生を生きたから」といい、ハートフォードのサーカス火事に居合わせた道化師たちは自分の命を危険にさらして子供たちを救い、ポンペイの灰の下から発掘された女性は、死から自分の子供を守ろうとするようにその体におおいかぶさっていました。
 死に直面した人々の勇気、自分の命が助からないとわかっているときでさえ、なにかを、だれかを救おうとする決意は、人間のもっともすばらしい特質であり、たぶんあらゆるものの中でもっとも大きな謎でしょう。

 読者のみなさんが『航路』を楽しみ、死の謎の――そして生の謎の――探求を楽しんでいただければ、作者としてこれにまさる喜びはありません。

二〇〇二年八月、コニー・ウィリス




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