●宮部みゆき『淋しい狩人』(新潮文庫)解説

   解 説

                                  大 森 望

 この解説の原稿を引き受けた翌日、50ccのスクーターにまたがり、南砂町のたなべ書店に古本を買いにいった――と書くと話が出来過ぎでまるきりリアリティがないけれど、これはほんとの話。わたしは解説の仕事を受注すると、まず最初にその作家の既刊文庫一式をそろえることを習慣にしている。
 もちろん解説を書くくらいだから、たいていの場合、初版の単行本はおおむね持っている。宮部みゆきの既刊単行本についても、デビュー作の『魔術はささやく』から最新刊の『堪忍箱』まで、ずらり二十六冊が仕事場の本棚に美しく並べられている(のは、つい最近、まとめて整理しなおしたおかげ)。当然、一冊残らず読んでるんだけど(いつも送っていただいてるからという理由もあるが、宮部みゆきは新刊が届いたその日のうちに読んでしまう数少ない作家のひとりなのである)、さすがに文庫版まではそろえていない。これまで出ている文庫にどんな解説がついているかをチェックするためと、再読する場合もハードカバーより文庫が持ち運びに便利という理由から、こういう機会にまとめて文庫を購入するわけですね。
 だったら紀伊国屋とか八重洲ブックセンターで買えばよさそうなもんだが、なにしろ根が貧乏性なので、おなじ本なら新刊書店より古本屋で買いたい。早稲田界隈や神保町の古書店だと文庫をさがすのはたいへんですが、ここ数年全国各地に増えている郊外型古本屋では、出版社に関係なく著者別あいうえお順でどどっと配置してある店が多いから、特定作家の本をまとめて購入したい場合はとても重宝する。
 その中でもわたしが愛用しているのが、南砂町のたなべ書店。我が家は西葛西だからスクーターで五分の距離だし、すぐそばには江東区南砂図書館もあるから、ついでに調べものもすんでしまう。
 ……と、くだくだ私事を書きつらねているのも、すでに本書をお読みになった方はご承知のとおり、この「たなべ書店」が、本書の主な舞台となる「田辺書店」のモデルだから。『淋しい狩人』は、小説新潮一九九一年六月号から一九九三年六月号まで断続的に掲載された短篇を一冊にまとめた連作集。東京の下町にある古本屋・田辺書店の店主、イワさんこと岩永幸吉と、その「たった一人の不出来な孫」の稔が主役をつとめる。
 もっとも、現実のたなべ書店は、ここ数年次々に支店をオープンさせているくらいで、本書の田辺書店よりはかなり規模が大きい。稔が書き初めで書いた「蔵書五万冊」の文字に、イワさんは「誇大宣伝だがなあ」と大笑するけれど、インターネット上にあるたなべ書店チェーンのホームページ(http://www.kosho.or.jp/TANABE/INDEX.HTM)を見ると、看板に「古本50万冊」と大書してあるくらいで、「東京の下町、荒川の土手下にある小さな共同ビルの一階で、六坪の店に、二坪の事務所兼倉庫」の田辺書店とはずいぶん差がある。とはいえ、「古書」より「古本」という呼び名が似つかわしい本ばかりを扱う「町の古本屋さん」という点は共通している。
 九六年の話題をさらった海外ミステリ、ジョン・ダニングの『死の蔵書』でもそうだけれど、古本関係のミステリと言えば、稀覯本や古書マニアをめぐる作品が大多数を占める。「特殊業界物」のひとつに「古書業界物」があるという感じで、「三冊しか現存が確認されていない幻の古書」とか、「デパートの古書市で熾烈な先陣争いをくりひろげる書痴」とかが登場し、幸福な一般人にはほとんど縁のない古書をめぐる蘊蓄がじっくりと傾けられたりするわけである(いや、もちろんそれが楽しみで読むんですけどね)。ところが本書には、古書のコレクターも珍しい本も登場しない。出てくるのは、『死の蔵書』の登場人物なら鼻で笑ってゴミに出しそうな雑本ばかり。

  ここでは、四角ばって「古書」と称するにふさわしいような本は置いていない。棚に並 べられている商品の大半は娯楽本だ。立派な娯楽本ばかりだ。小説もあればハウツー本も ある。「おえかきのてびき」なんていうのもあれば、童話もある。ここに古本を買いにく るお客さんたちは、楽しみと夢を求めているのだ。

 つまり、『淋しい狩人』は、「世話物」の名手として知られる宮部みゆきの作品らしく、どこにでもあるふつうの古本屋を舞台に、どこにでもいるふつうの人間とどこにもであるふつうの本との関わりから事件が起きるミステリなのである。ここに描かれる古本はあくまでも読むための本であり、モノとしての価値はない。したがって物語に関係するのも本の外側ではなく中身のほう。「読んだりしたら本が傷むじゃないか」と思っている古本極道たちには古本ミステリと認めがたいかもしれないけれど、ここでは「本は読まれることに価値がある」という思想が貫かれている。
 収録作品六編は、いずれも本をめぐって事件が起き、その謎をイワさんと稔が解決するという素人探偵物的な趣向。読み返してみると、その小説づくりのうまさにあらためて舌を巻く。最初に置かれた「六月は名ばかりの月」の冒頭数ページのエピソードを読むだけで、だれでも物語にすんなり溶け込み、ちょっとかび臭い田辺書店の空気を呼吸することができる。
 とはいえ、宮部みゆきの小説のうまさについては、いまさらわたしがここで賞賛の言葉を並べるまでもない。これはもう出版界の常識というべきで、たまたまあなたにその常識がなかったとしても、本書を一読すればたちまち理解できる仕組みなのである。
 というわけで、そのかわりといってはなんですが、ここでは宮部みゆきの歌のうまさについて、残りのページを費やして解説することにしたい。いやほんと、宮部さんの歌はほんとに絶品なのである。カラオケボックスで何度かいっしょに朝を迎えたわたしが言うのだからまちがいない。松田聖子から大貫妙子、マドンナからドリカムまで、そのレパートリーの広さも特筆に値する。初めて歌う洋楽でも、まったく危なげなく歌いきれるのは驚きで、これはたぶん、耳がいいからだろう。
 ……などと書いていると脱線もいいかげんにしろと言われそうだが、この「耳のよさ」は、宮部みゆきの小説技術を支える重要な要素なのである(推測)。なんのへんてつもない日常会話が、彼女の筆にかかったとたん、たちまちくっきりと耳に届く鮮やかな声に変わるのも、その優秀な耳が現実生活で聞いてきた会話のストックから、場面に合わせて最適な声を再生し、手を加えているからにほかならない。
 と、無理やり話をつないだところでもうひとつ言えば、「暗い歌を歌っても場が暗くならない」という、カラオケボックスにおける宮部みゆきの第二法則は、小説作品にもきちんとあてはまる。
『淋しい狩人』もその典型のひとつ。本書について書かれた書評を読んでいると、「心あたたまる」とか「ほのぼのとした」とか「楽しい」とかの形容がやたら目につく。たしかに読後感はそのとおりなのだが、よく考えてみると、この連作短編集に収録された作品は、どれもけっして単純に「心あたたまる」物語ではない(以下、本書の内容に触れる場合があります。未読の方は先に本文をお読みください)。
「六月は名ばかりの月」の中心となる事件は卑劣としか言いようのない策略の産物だし、「うそつき喇叭」の陰惨な児童虐待はやりきれない重苦しさをはらんでいる。異常心理サスペンス風の犯人像を提出する「淋しい狩人」など、事件そのものは「ほのぼの」の対極にある。犯罪が関係しない、日常的な謎をめぐる短篇でも、事情は変わらない。
 たとえば「歪んだ鏡」を見てみよう。物語は、平凡なOLの由起子が満員電車の網棚から一冊の文庫本を拾うところからはじまる。その本、山本周五郎の『赤ひげ診療譚』には、なぜか一枚の名刺がはさまれていた……。
 この魅惑的な発端から、心温まる物語を紡ぎ出すのは簡単だろう。ジョナサン・キャロルの『死者の書』では、古本屋の棚の前で一冊のおなじ本をとりあったことから、ひと組の男女のラブロマンスがはじまる。それとおなじように、この一枚の名刺から恋が芽生えてもおかしくない。じっさい由起子は、『赤ひげ診療譚』を読み進めながら、名刺の持ち主についてさまざまな想像をふくらませる。しかし宮部みゆきは、由起子に(そして読者にも)夢を見させない。

  久永由起子は、自分と自分が歩いてきた人生に――まだたった二十五年の道のりだけれ ども――どんな種類の幻想も抱いてはいなかった。彼女は、自分が入れられている金魚鉢 のサイズを知っている金魚だった。誰に教えられたのでもない。知っているのだ。
  それは彼女がのぞきこむ鏡のなかに描かれている。無情なほどにくっきりと書き付けら れている。由起子は映画のヒロインではなく、小説のなかのシンデレラでもない。それを よく知っているから、彼女は行く手に対してなんの期待も抱いてはいなかった。

 こう説明される由起子は、自分の容姿にコンプレックスを持っている。少女マンガなら(ほのぼのラブストーリーなら)、ヒロインの前にあらわれた王子様が、「いまのままのきみが好きなんだ」と宣言して、めでたく劣等感が解消される。しかしこの小説には、そういうもてなしのいいハッピーエンドは用意されていない。
 意を決して名刺の主に会いにいった由起子が知らされる真相(『赤ひげ診療譚』に名刺がはさんであった理由)は、どうしようもなく現実的≠セ。打算と偶然の結果でしかなく、そこにはどんな夢も入る隙間がない(死んだ父のアパートで遺品を整理した息子が、本棚ひとつを埋めつくす三百二冊のおなじ本を発見する「黙って逝った」の解決にも、それと同様の構造を見ることができる)。この作品での宮部みゆきは、徹底したリアリストであると言ってもいい。
 しかし、「歪んだ鏡」がきびしい現実を登場人物と読者に押しつける小説かと言えば、もちろんそうではない。今の男性社会で、由起子の容姿がハンディキャップとなることは冷徹な現実≠ナあり、だからこそ聡明な彼女は「行く手に対してなんの期待も抱いてはいな」い。しかし、偶然手にとった『赤ひげ診療譚』の中の一節、「男なんてものは、いつか毀れちまう車のようなもんです」という台詞から、由起子はべつの価値観が存在しうることを実感する。
 これを、「男性社会が押しつける価値観の呪縛から解放された女性の自立」と解釈すれば、あるいはフェミニズム小説に分類できるかもしれない。しかし、主義主張によって幸福になれるわけではないことを知りつくした女性が、一編の小説との出会いによってたどりつく理解には、凡百のフェミニズム小説には太刀打ちできない深さとリアリティがある。
 そして、「王子様は如才ないだけのつまらない男だった」という現実によって夢を壊されているからこそ、最後に由起子が到達するささやかな自己肯定はいっそう輝きを増す。読者は、そのささやかな幸福感を増幅して受け止めることで、プロットが提示する以上に「心温まる」気持ちを抱いて読み終えることになる。そこにほのぼの≠フ秘密がある。
 この連作短編集全体の縦軸をなす、イワさんと稔の関係についても、おなじことが言えるだろう。本書の前半で、ありえないほど幸福な関係として提示される二人の交流には、稔がクラブに勤める年上の女性と恋愛関係に陥ることで亀裂が生じる。もっとも、いまどきの高校生とは思えないほど利発で品行方正な稔が惚れるのだから、その相手も、一昔前のドラマに出てくるような、年下の男をたぶらかす玄人女性ではない。
 イワさんがものわかりのよさを発揮して、たとえば「稔が高校を卒業するまでデートは週末だけい」とかなんとか条件をつけて交際を認めたとしても、さほど違和感はないだろう。しかし宮部みゆきは、現実≠ェ恋愛の障害となることを否定しない。高校生が水商売の女(たとえ昼間は劇団の研究生で、クラブ勤めは生活費を稼ぐためのアルバイトだとしても)とつきあうことは、稔の両親や祖父にとって、やはり悪なのである。したがってイワさんは、小説的な「ものわかりのいいおじいちゃん」を演じようとはない。いたって現実的に対策を練り、現実的な処理を実行する。そして当然、孫との仲はいったん決定的にこじれてしまうのだが、だからこそ結末の和解(というほどドラマチックな場面として描かれるわけではない)によって、読者はほっと息をついて本を置くことができる。
 こういう語りの技術は、けっして天性のものでも、作者の人柄に期すべきものでもないだろう。海千山千の活字中毒者たちをほろりとさせてしまう「心温まる宮部ワールド」は、計算しつくされた構成と、磨き抜かれた表現力によって支えられている。甘いだけの夢では生きられない。厳しいだけの現実では生きていく価値がない。宮部みゆきは、その微妙な境界線をみごとな語りの技術で綱渡りしながら読者に感動を与えるのである。

                           (一九九六年十二月、翻訳家)

【宮部みゆき 既刊単行本リスト】
89年2月『パーフェクト・ブルー』(東京創元社)→創元推理文庫
89年12月『魔術はささやく』(新潮社)→新潮文庫
90年1月『我らが隣人の犯罪』(文藝春秋)→文春文庫
90年4月『東京殺人暮色』(光文社)→光文社文庫(『東京下町殺人暮色』と改題)
90年9月『レベル7』(新潮社)→新潮文庫
91年4月『本所深川ふしぎ草紙』(新人物往来社)→新潮文庫
91年2月『竜は眠る』(出版芸術社)→新潮文庫
91年10月『返事はいらない』(実業之日本社)→新潮文庫
92年1月『かまいたち』(新人物往来社)
92年2月『今夜は眠れない』(中央公論社)
92年6月『スナーク狩り』(光文社)
92年7月『火車』(双葉社)
92年9月『とり残されて』(文藝春秋)
92年9月『長い長い殺人』(光文社)
93年3月『ステップファザー・ステップ』(講談社)
93年9月『震える岩 霊験お初捕物控』新人物往来社)
93年10月『淋しい狩人』(新潮社)→新潮文庫(本書)
94年4月『地下街の雨』(集英社)
94年8月『幻色江戸ごよみ』(新人物往来社)
95年5月『夢にも思わない』(中央公論社)
95年7月『初ものがたり』(PHP研究所)
95年9月『本所深川ふしぎ草紙』(新潮社)
95年9月『鳩笛草』(光文社)
96年1月『人質カノン』(文藝春秋)
96年10月『蒲生邸事件』(毎日新聞社)
96年11月『堪忍箱』()