『絡新婦の理』書評(週刊現代)

『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』『狂骨の夢』『鉄鼠の檻』に続く妖怪シリーズ第五弾――と言えば簡単だが、この5冊、ただの5冊とはわけが違う。どのくらいわけが違うか定量的に分析してみると、総重量は2595グラム、積み上げた高さは19センチ、総計3343ページで、四百字換算ではおよそ6920枚。

 ま、分量だけなら年間5000枚書く作家もいるだろうが、京極夏彦の場合、そのすべてが年間ベスト級の傑作なのだからただごとではないそして、このとてつもないシリーズ中でも(現時点で)最長を誇るのが、この『絡新婦の理』。前作から10カ月の間隔があいたせいか、発売日前後には一刻も早く入手しようとする熱心なファンが書店を放浪、一部では往年のドラクエ行列騒ぎを彷彿とさせる京極狂騒曲も観察された模様。京極夏彦の新刊というだけで、すでに「事件」なのである。

 さて、あらためて本書を外見からチェックすると、ひときわ美しいその版面に驚かされる。『鉄鼠』のときから、段落がページをまたがない(見開き単位で文章が完結する)という異常な(笑)試みが実行されていたが、今回はなんと、すべての段(829ページ×2段組だから合計1658段)が段単位で完結している。そのために要求される手間を考えると気が遠くなるし、それになんの意味があるのかと思う読者もいるだろうが(泡坂妻夫の某作品のように、版面自体がトリックと関係するミステリでは、もっと凝った仕掛けの例もなくはない)、そういう問いにはおそらく意味がない。そもそも小説に意味などないのだから、プロットが重要だとかテーマが重要だとかキャラクターが重要だとかというのとおなじ意味で版面こそ重要なのであると言ってもいいわけだし、これまでの小説が比較的等閑視してきた版面に注意を喚起したというだけでも意味はある――とも言える。

 しかも今回は、タイトルが示すとおり蜘蛛の物語。蜘蛛の巣状の構造の美しさが作品の眼目をなす。とすれば、その構造を表現する印刷された文字の構造にまで配慮するのは当然だろう。造本や装幀に凝る余地の大きい四六判や菊判のハードカバーではなく、ノベルスという定型規格の容れ物だからこそ、印刷された文字配列のパターンが重要になる。『鉄鼠』の事件の直後から幕を開ける今回の物語は、一見それぞれ独立しているように見える三つの連続殺人事件がからみあいながら進展していく。東京警視庁の刑事・木場修太郎が捜査を担当する、「目潰し魔」による女性刺殺事件。榎木津礼次郎が探偵役として呼び出される、キリスト教系全寮制女学校が舞台のオカルティックな絞殺事件。そして、いさま屋と待古庵が遭遇する、房総半島の旧家・織作家を襲う家庭の悲劇。並みのミステリ三冊分のネタをちりばめつつ、八角形の精緻なタペストリーが織り上げられてゆく。

 ミステリ的に言えば、主題は「操り」(みずから手を下すことなく、他人を操って殺人を実行させる真犯人)だが、ここではむしろ、錯綜する人間関係の織りなすパターンこそが主役。登場人物の名前や性格、来歴、社会的歴史的文化的背景までがそれに奉仕して、完璧な美しさを持つ図形が浮かび上がってくる。

 京極堂が真犯人を指摘する場面が冒頭に置かれていることが示すとおり、本書は「驚天動地の大トリック」に向かって収斂するミステリではない。すべての構成要素がおさまるべき場所におさまったとき完成する「かたち」に読書の喜びがある。

 シリーズとしては、『魍魎』の続編的な位置にあり、構成にも共通する部分が少なくない。『魍魎』が箱のイメージで統一されていたように、本書では蜘蛛の巣のイメージが全篇をおおいつくす。蜘蛛の巣を小説とするなら、蜘蛛=真犯人は作者であり、真犯人が仕掛けた罠を読み解く探偵=京極堂は読者だろう(蜘蛛は「運命の織り手」であり、蜘蛛の巣は紡がれた織物=「世界」を象徴する)。そして、読者に物語の筋立てを変える力がない以上、探偵は蜘蛛の糸をたどってその中心に潜む作者の存在を指摘することしかできない。ある意味でこれは、本格ミステリすべてに共通する宿命的な構造だが、『絡新婦』は死体の山を築きながらその構造自体を顕在化させ、隠されていた美を発見する。巧緻を極めるメタミステリの企みがそこにある。

 なお、大量の登場人物で頭が混乱した人には、京極ファンが運営するインターネット上のウェブページ、「京極倶楽部」(http://www.jah.or.jp/~kohnoike/kg/)が最良のガイドを提供してくれる。