●西澤保彦『人格転移の殺人』(講談社ノベルス)解説

     解説


        大森 望

「ねえねえ、最近なんか面白いミステリない?」
「いやー、西澤保彦の今度の長編、めちゃめちゃおもろいで。もう爆笑」
「『七回死んだ男』の系列?」
「うーん、構造的には似とるかな。▼SF的設定のミステリ▲やし。せやけど今回はいきなし、▼宇宙人が建造したとおぼしき秘密装置▲が出てくるねん」
「なにそれ? ふっるー」
「……と思うやろ。まあ、いまどきのSFやったら、ちょっとつらい設定かもしらんけど、西澤保彦の場合はこれでええねん。なんちゅうても▼新本格▲やしね。古くさいモチーフも使いようちゅうことやな」
「で、その装置はなにするわけ?」
「まあそう話を急いたらあかん。話は七〇年代のカリフォルニアからはじまるんや」
「カリフォルニア!? 大きく出たわね。高知在住作家のくせに」
「おお、そうかよ、悪かったにゃあ、高知で。高知の人間がアメリカ舞台の小説書いたらいかんがか」
「また急に土佐弁になっちゃって。そっか、あんたも育ちは関西だけど生まれは高知だっけ」
「いまさらなにいいよら、おまんやちよう知っちゅうくせに。ええかよ、ジョン万次郎の昔から土佐はメリケンとは縁が深いがぞ」
「わかったからその土佐弁やめてってば。気持ち悪い」
「『完全無欠の名探偵』読んだあとで、しばらく妙な土佐弁使いよったがはおんしゃあやろ」
「ごほん。あ、そうか、たしか西澤保彦ってアメリカの大学卒業してるんだっけ?」
「そや。フロリダにあるエカード大学で、クリエイティヴ・ライティングの学位とってんねんで。卒業作品で小説と詩を書いてるらしい。それも英語で」
「なるほど、とうとうネタが尽きて自伝物に逃げた、と」
「んなわけないやろ。▼宇宙人の秘密装置▲のどこが自伝やねん」
「はいはい。それで七〇年代のカリフォルニアがどうしたの?」
「つまりカリフォルニアの田舎の農場で、謎の装置が見つかるわけや。内部は五十畳ぐらいの広さの部屋になってて、この中に人間が入ると人格交換が起きる」
「ははー、今度は人格転移ですか。『ダレカガナカニイル…』って?」
「いや、井上夢人のアレは人格憑依やろ」
「ってことは『危険な関係』ですか」
「いまどきワイマン・グインなんか読んでるのおまえだけや。たいがい年がバレるで」
「SFマガジンで読んだんじゃないもん、ハヤカワ文庫のアンソロジーで読んだんだもん」
「いっしょやて。しかし『危険な関係』はええ線やな。自我交代{エゴ・シフト}はするわけやから」
「きゃ、パクり? どきどき」
「ちゃうて。ワイマン・グインのは自分の第一自我と第二自我が交代する話やろ。こっちは他人の体と完全に心が入れ替わるねん」
「グレッグ・イーガンの短編でそういうやつなかったっけ、最近?」
「ああもう、SFおたくはこれやからな。話が進まんやろ。イーガンの『貸し金庫』とかとは、だから全然ちごとるんやて。装置の中に入ったもん同士で人格が入れ替わるんやから」
「はいはい」
「でな、二人の場合は単純な交換やけど、三人以上で入ると、全員のあいだで転移が起きる。たとえばABCDEの五人で入ったとするやろ。そしたらBの体にAの心、Cの体にBの心、Dの体にCの心、Eの体にDの心、Aの体にEの心……と、玉突きみたいにズレてくわけや」
「なんかそれって、首と胴体スゲかえてズラしてくやつみたいね。なんだっけ、西澤保彦の最初のやつ、『解体諸因』にそういう話があったでしょ」
「『スライド殺人事件』か。あれもまた突拍子もない話やったな。動機が傑作で」
「あたしけっこう身につまされたけど」
「こわい女やなあ、おまえも。えーと。なんやったっけ。そうそうスライドはスライドやけど、今度の小説では、心が転移しても当然みんな生きてるわけやんか。しかも、一回この装置の中に入ったら、人格転移癖がついて、あるときとつぜんまた転移が起きるようになる。作中では仮面舞踏会{ルビ:マスカレード}とか呼ばれてるけど、これがキーポイントでな。二人の場合は簡単や、元にもどるだけやし。ところが、さっきの五人の場合でいうと、マスカレードが起きたとたん、Bの体に入ってたAの心は、今度はCの体に転移する。Bの心はDの体に、Cの心はEの体に……と順ぐりにずれてくことになる」
「ってことは、五回に一回は自分の体にもどれるのね」
「お、さすがにSF者はわかりがはやいな。まあルールはだいたいそういうこと。マスカレードはランダムでさっぱり予測でけへんし、何万キロ離れてようが関係なく同時に起きる、と。そこまでが七〇年代の研究で解明されてるわけやな」
「で、殺人事件は?」
「せっかちなやつやなあ。とにかくこの技術が軍事目的に応用でけたら最高や、ちゅうことで最高級の国家機密として極秘裏に研究しとったんやけど、なんぼ調べても装置の作動原理がようわからん」
「中身はけっきょくブラックボックスなのね」
「まあそのへんがSFと、▼SF的設定のミステリ▲の最大の違いやな。今回は社会心理学者とか出てくるから、つっこんだ議論も多少はあっておもろいけど。まあとにかくそこから話はぽーんと九〇年代に飛ぶわけや。秘密研究施設はとりこわされ、開発の波が押し寄せた結果、跡地はショッピングモールになっとる」
「ショッピングモール!? 宇宙人の装置は?」
「それからどうしたかというと、いまもそこにあるのです」
「李さん一家じゃないってば。そこにって、どこによ?」
「せやからショッピングモールの中に」
「なにそれ? 国家機密の人格転移装置が、船橋ララポートみたいなビルの中にあるわけ?」
「そや。正確にいうとハンバーガーショップの中に。つまり人間がつくった研究施設のほうは壊したんやけど、さすがに宇宙人のつくったもんまでは動かされへんかった、と」
「で、それをそのままにしてハンバーガー屋つくったって? そんなむちゃな」
「もちろんそんな邪魔なもんがあったら商売上がったりやから、テナントが入れへん。そやけど一カ所だけテナント入ってないと目立ってしゃあないやろ。そやからテナント料をタダにした上に助成費まで出してハンバーガー屋を誘致した、と」
「で、ハンバーガーの盗み食いをたくらんだ子どもがその中に忍び込む?」
「ちゃいま。恋人を追いかけてカリフォルニアくんだりまで来たのにスゲなく門前払いを食わされた主人公が、ふらふらとハンバーガー屋に立ち寄るんですな」
「失恋してハンバーガー食べるわけ?」
「恋に破れると腹が減るもんなんや」
「妙に実感こもってるじゃない。さてはまた……」
「ごほん。まあとにかくやな、傷心の語り手、『僕』をはじめとして、店員の兄ちゃんを含めてぜんぶで七人の客がハンバーガーショップにいると思いねえ。ところがそこに突如襲いくる、数十年に一度の直下型大地震。ぐらぐらっ、キャーッっ。モールの天井は崩れ落ち、脱出の道は閉ざされ、周囲は真の闇。彼らの命はいまや風前のともしび。パンパパン」
「急に講談はじめるなよって」
「(無視して)と、そのとき脳裡に閃く一筋の希望の光。この店にはシェルターらしき施設があったではないかっ。扉の南京錠をこじあけ、ほうほうのていで中に飛び込む七人の生存者たち……」
「だから殺人事件は?」
「このつづきは木戸銭払うてもらわんとな。ほなさいなら」
「あ、ちょ、ちょっと待ちなさいよ、待てってばこらっ」

 というわけで――もクソもないのだが、
「スチャラカ新本格」((C)西上心太)作家、西澤保彦の第五長編、『人格転移の殺人』は、例によって読者の度肝を抜く突拍子もない設定で幕を開ける。九六年の日本推理作家協会賞候補となり、一部で絶賛を博した『七回死んだ男』にしびれた人なら、もうこれ以上の説明は必要ないだろう。ただちに購入して、この驚くべきアイデアと、そこから導かれるさらに驚くべき前代未聞の▼本格ミステリ▲を心ゆくまで楽しんでいただきたい。

 ……とはいえ、西澤保彦の名前がまだミステリファンのあいだにじゅうぶんに浸透しているわけではない不幸な現状を考えると、西澤作品未体験読者のために、若干の解説が必要かもしれない。北上次郎をはじめとするうるさがたの評論家たち、膨大な読書量を誇るミステリ研上がりの新本格作家たちが、なぜ彼の作品にかくも熱狂し、深夜の電話や酒飲み話でそのアイデアについて熱く語り合うのか?
 私見によれば(といってもいま思いついたことなので本気にしないでね)、西澤保彦はミステリ界の岩鬼正美である。知らない人はいないでしょうが、水島新司の『ドカベン』シリーズで、主役のドカベンこと山田太郎を食う活躍を見せるあのハッパ野郎ですね。といっても、べつに西澤保彦がじつは大財閥の御曹司であるとか、むやみに口が悪いとか、折れた肋骨をセメダイン飲んで治したことがあるとか、そういうことを主張したいわけではない。
 男・岩鬼が愛される最大の特徴は、その豪快なスイングと、とんでもない悪球打ちにある。ふつうの打者ならバットを出す気にもならないクソボールを軽々とホームランしてしまうバカ力と異常な選球眼。バッターボックスに立ったらなにが起きるかわからないスリルとサスペンス。
 ただし、岩鬼には、どまんなかのストレートをフルスイングしてもカスリもしない――つまりストライクゾーンにさえ投げていれば必ず討ちとれる――という致命的欠点がある(『プロ野球編』で、王監督に見込まれ福岡ダイエーホークス入りしてからは、ストライクをファウルでカットすることを覚えて周囲を仰天させてるみたいだけど)。しかし、岩鬼はそれでメゲる男ではない。天才・岩鬼は、ストライクを悪球に変えるため、さまざまな奇策を考案する。乱視のメガネをかけたり、まっ黒なゴーグルをしたり、股のあいだからピッチャーをのぞく体勢でバットを構えたり。
 西澤保彦の場合、突拍子もない異常な設定が、岩鬼にとっての「悪球」に相当する。そして設定が比較的ストレートな場合には、それを無理やり「悪球」に変えるために、数々の策を弄するわけですね。
 後者の典型的な例が、九五年一月に刊行された記念すべきデビュー長篇『解体諸因』。テーマはバラバラ殺人だから、新本格打者にとって、コースはど真ん中に近い。
「ちょっとしたトリックほ放り込んで仕上げに首無し死体を転がしておけばそれでミステリは簡単に書ける」という新本格否定派の批判的言辞を逆手にとり、「首無し死体が無闇やたらにゴロゴロ出てくる話ならどうだろうか」(「あとがき」より)という発想で書かれた『解体諸因』は、架空の街を舞台に八つのバラバラ殺人事件を連作短編風に描き、最後にそのバラバラな事件群をひとつにまとめたうえでひっくり返すというアクロバティックなミステリである(ちなみに、この▼首無し死体嘲笑派▲の話を披露して、結果的に作家・西澤保彦誕生に手を貸したのは綾辻行人だったらしい)。
 とはいえ、若竹七海『ぼくのミステリな日常』、倉知淳『日曜の夜は出たくない』、加納朋子『ななつのこ』などなど、このスタイル(連作短篇集の結末に大きな仕掛けを用意して全体を長篇としてまとめあげる)自体は創元系新本格の一種の定番になっている感が強く、事件の猟奇的異常性をべつにすれば(創元系では、派手な殺人事件より日常的な謎をモチーフにしたものが多かった)、さほどの驚きをもって受けとめられたわけではない。またへんなこと考える新人が出てきたなあ、てなとこですか。『解体諸因』の場合、各編の末尾で披露される探偵役の推理が検証されない(つまり、読者にひとつの真相として提示されるものの、その推理が正しいという確証は与えられない)という顕著な特徴があるものの――じっさい、その特徴が最後のどんでん返しに生かされるかたちにもなっている――外見上はあくまでも「古典的探偵小説のコードを使用したパズラー連作」であるため、推理過程の瑕疵(名推理を導き出す論理的根拠がやや薄弱――というか、結論が唐突に見える場合があること)が疑問を残し、バットは思いきりふりまわしたものの、気がついてみるとボールはキャッチャーミットの中、という印象が強かった。
 つまり、(あくまでこれはぼくの個人的印象だけど)策を弄しすぎてボールの行方を見失ったというか、豪快な空振りに終わったわけですね。ただし、その豪快なスイングの残像を読者の脳裡に焼きつけるところが、西澤保彦の岩鬼たるゆえん。空振りでもいいからもう一度あのスイングを見たい――そんな気にさせる作家はめったにいない。(ちなみにこの作品で探偵をつとめた匠千暁の学生時代を描く長篇が来月にもカドカワノベルズから刊行予定とか)

 つづく第二作『完全無欠の名探偵』は、開き直って――というか、自己の作風を自覚して――正面から(?)悪球打ちに挑んだ長編。なにしろ探偵役の山吹みはるは、自分ではなにひとつ推理しない。彼と同席した相手は勝手にべらべら心の奥底に秘めていたことをしゃべってしまい、抑圧されていた記憶の断片からささいな謎を再発見して、自分でその真相を推理する――というのが、山吹みはるの特殊能力(?)。天真爛漫な性格の大男である探偵自身は、相手の独白にすなおに相槌を打つだけ。事件関係者が自分の記憶から真相を推理して事件を解決する、その触媒としてのみ機能するわけです。
 余談ながら、先だって京都で開かれた関西ミステリ連合主催の講演会で著者自身が明かしたところによると、この設定は、探偵・法月綸太郎のジレンマ――「客観的に他人の真実を探り出せる立場など存在しない。綸太郎はそのことを、骨の髄まで思い知らされたのである」(法月綸太郎『ふたたび赤い悪夢』講談社文庫より)――を回避する手段として導き出されたものだとか。現代の探偵小説には必然的に、「事件に影響を与えない探偵の特権的な立場などありえない」という後期クイーン的問題(不確定性原理の探偵小説版というか、探偵=観察者の捜査=観察によって事象そのものが変化してしまう)が内在する。通常の探偵は、いかにして「外部」にとどまるかに腐心するものなんだけど、なんと西澤保彦は、探偵=観察者という大前提そのものをあっさり放棄してしまったのである。捜査も推理も観察もしない探偵がはたして探偵なのか、という疑問はあるにしても、とりあえず事件はそれを抜きにして勝手に解決してしまう。霊媒探偵ならぬ触媒探偵。これなら他人のプライバシーに土足で踏み込む悩みもない。
 それだけでも、まさに悪球打ちの真骨頂というべき作品だが、さらに驚くべきことに、西澤保彦は、この「完全無欠の名探偵」の特殊能力に必然性を与えるべく、クラスとメンバーを混淆するメタレベルの登場人物を用意する。つまり、他の登場人物はおろか、小説内現実のあらゆる側面をコントロールすることのできる「神」の能力を登場人物のひとりに付与し、作者に等しい特権的地位を与えることで、文字どおりのデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)を作中に実体化させ、現代の本格ミステリにつきまとうすべてのご都合主義や不自然さを小説内で無矛盾に正当化してしまったんですね(その意味では、麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』の小説構造とも響きあう――が、これについては議論が分かれるところかもしれない)。
 惜しむらくは、『完全無欠の名探偵』の場合、題材となる事件そのものが西澤作品に珍しく陰惨で生臭いこと。どちらかといえば社会派ミステリに似合いそうな素材なのである。設定があまりにも凄すぎたせいか、ボールが当たったのはバットの先端、怪力スイングのおかげで一瞬にして場外へと消えたものの、はたして首尾よくポールを巻いたかどうかはレフト線審の判断を仰ぐしかないというか。いやまあ、純朴でコミカルな「探偵」と、どろどろした生臭い「事件」とを対照させることが狙いだったとすれば、ここはもうボールの行方など知ったことかと盛大にぐるぐる手を回すべきところだろうが、どちらにしても相手チームの監督がダッグアウトから飛び出してきて猛烈に抗議、連盟提訴かひょっとしたら没収試合も辞さずという事態になりかねない問題作である。

 まあしかし、バットの先っぽに当たっただけでこれだけ飛ぶんだから、真芯でとらえたらどうなるか見てみたいと思うのは人情。それに答えて第三打席でぶちかましたバックスクリーン直撃の満塁ホームランが、出世作『七回死んだ男』。
 大レストランチェーンを一代で築き上げた八十二歳のオーナー渕上零治郎が、三人の娘と孫たちの集まる正月に、会社の後継者を指名すると宣言する。候補者は五人の孫と二人の社員。骨肉相食む後継者争いの夜、まだ指名がすまないうちに、渕上老の変死体が発見される。はたして犯人はだれか?
 って、プロットだけとりだせばうんざりするほど当たり前。ただしこの小説の場合、五人の孫のひとり、主人公で語り手の久太郎が特異体質の持ち主。本人の意思とは無関係に、あるときとつぜん時間の▼反復落とし穴▲にハマりこむと、おなじ一日が九回くりかえされるんですね。作者あとがきの言葉を借りれば、
「同じ日が何度も何度も繰り返されているのに周囲の者たちは誰ひとりその状況を認識しておらず主人公だけがその反復現象に翻弄されてしまう」という設定。久太郎自身は自由意思で行動できるため、この時間ループ中にいるあいだは(たった一日の単位でだけど)歴史を変えることが可能。最終的に歴史として定着するのは九巡めに起きたことだけなので、それまでは久太郎がなにをやっても将来に影響を与えることはない。つまり、時間ループ中の久太郎は、おなじ一日を八回練習して、その日を自分にとって▼理想の一日▲に変えられるわけです。
 で、ご想像のとおり、祖父が死んだその日、たまたま反復落とし穴にハマってしまった久太郎くん、この特異体質を利用して、祖父が死なずにすむように必死に駆けずりまわる。ところがタイトルが明示するとおり、彼がどんなにがんばって容疑者を祖父から遠ざけてもまた新しい犯人が登場、祖父は死んで警察がやってきて事情聴取で一日が終わる……。
 歴史を変えようと必死に努力するのにうまくいかないってアイデア自体は、SFの世界じゃ「時空連続体は変化を嫌う」(つまり変化を最小限に食い止める方向に動く)とか説明されるパターンで、必ずしも新鮮味があるわけじゃない。しかしこのアイデアを謎解きミステリの舞台に接ぎ木したとたん、空前絶後の爆笑ドタバタ殺人狂騒曲が誕生。「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」のドタバタを思いきり短いサイクルでくりかえしてるようなもんで、過去に類例のない異様なミステリ感覚が体験できる。
 新宿の陶玄房で開かれたとある宴会の席で、熱心な西澤保彦ウォッチャーである北上次郎氏に、「おお、大森。西澤保彦の新作読んだか? このへんの連中まだだれも読んでねえんだよ、まったく。おまえは読んだだろ、当然」といきなり声をかけられ、「いやあ、最高ですね」と盛り上がったりしたのもいまとなっては遠い思い出だけれど、この一作で西澤保彦はがぜん評論家筋の注目を集め、「期待の新鋭」の地位を不動のものにしたわけである。
 この小説の面白さを伝えるには圧倒的に大森の表現力が不足しているので、とにかく読んでみてくださいというしかないのだが、疑り深い読者のために、件の北上次郎氏の書評を引用しておこう。『本の雑誌』の見開きの新刊時評でまるまる一ページ使って『七回死んだ男』を絶賛たあげく、北上氏はその最後を、
「それにしても、SF的アイデアを導入しなければ成立しない物語であり、さらにその設定を徹底的にひねくりまわすのがミソ。最後の最後に気になる箇所はあるものの、この群を抜く面白さに拍手したい。西澤保彦は、『解体諸因』『完全無欠の名探偵』と、これまでの作品も相当にヘンだったが、これがヘンの極致。今後もこの路線でヘンな作品を書き続けていただきたい」
 と結んでいる(なお、引用文中の「気になる箇所」については北上氏と陶玄房で議論しましたが、きちんと伏線を張り、読者にデータを提示してある以上、アンフェアにはあたらないというのが大森の見解です)。

 観客席のこの期待にきっちりこたえて、つづく第四打席の『殺意の集う夜』も圧倒的にヘンな設定。なにしろ、嵐の山荘に死体の山が築かれた直後から、物語が幕を開けるのである。山荘に転がる七つの死体のうち、六つまでの死に責任があるのは語り手の「あたし」こと六戸部万里。行きがかり上というかなんというか、つい勢いでドミノ倒し式に大量殺人をやらかしてしまい途方に暮れる万里。このままではあたしの一生はおしまいじゃないの。ひ、ひど過ぎる……。
 と、そのとき、万里の脳裡に天啓がひらめく。たしかに七人のうち六人まではあたしが殺したかもしれない。でも最後のひとりを殺したのはぜったいにあたしじゃない。ということは、そのひとりを殺した犯人がいるはず。そいつが全員を殺し、この大量殺人犯に殺されそうになったあたしが正当防衛で相手を返り討ちにしたってことにすれば、悲劇のヒロインになれる! でもそのためには、警察の捜査結果と矛盾が生じないように、だれがその犯人かをつきとめなければ。
 というわけで、万里は死屍累々の山荘で必死の推理をはじめる。いやはやなんとも、とんでもない導入があったもの。「著者のことば」には東野圭吾の『鳥人計画』にインスパイアされたと書いてあるけれど、あの『鳥人計画』のどこをどう処理すればこういう結果が出てくるのか、著者の頭の中を覗いてみたいものである。
 しかし、ふつうの作家にとってはじゅうぶんすぎるほどの「悪球」であるこの設定さえ、西澤保彦にはまだストライクゾーンに近すぎたらしく、物語はストレートな展開を敢然と拒否する。これでもかこれでもかと手練手管がくりだされ、二重三重のどんでん返しを仕掛けたあげく、『殺意の集う夜』は読者が予想もしなかった方向に収束してゆく。
 結論としては、うーん、今回はスイングアウトの三振かな、っていう印象なんだけど、しかし前にも述べたとおり、たとえ三振しても腹が立たない。カネ返せって気分にならないのが西澤保彦の特徴なのである。

 さて、ようやくたどりついた第五長篇、本書『人格転移の殺人』の打球が空に描く惚れ惚れするようなアーチについては、詳述するまでもないだろう。『七回死んだ男』で見せたアクロバティックな技の切れ味にさらに磨きがかかり、ミステリ史上初の秘打が連発される(ってそれじゃ殿馬だってば)。しかも、じつはホワイダニット物だったりミッシングリンク探しだったり、本格ミステリではおなじみの例の手が使われてたり、ジャンル探偵小説の歴史にきっちり敬意を払ってたりするあたりが心憎い。一回読んだだけじゃぽかんとする読者もいるかもしれませんが、再読してみれば、張り巡らされた伏線の用意周到さにあらためて脱帽するはず。現代本格ミステリのひとつの極をなす(どういう極なのかはよくわからないが)、西澤保彦の現在までの最高傑作といっていい。

 ……と、すでにして長すぎるこの駄文にいいかげんこのあたりで幕を引くべきだろうが、いつも習慣で解説から読みはじめた人もとっくにうんざりして本文を読み終えていることだろうし、蛇足ついでにもう一言。
 新本格作家・西澤保彦の特徴は、「謎解きミステリ」の論理ゲームに、予想外の「ゲームの規則」を持ち込む点にある。つまりですね、狭義の本格ミステリには、当然の前提として、読者と作者のあいだに、暗黙の共通了解となる無数のルールが存在する。「ノックスの十戒」とか「ヴァン・ダインの二十則」とかのいくつかの項目ほど教条主義的なものじゃなくても、手がかりとなるデータは読者にきちんと提示されなければならないとか、地の文でウソをついてはならないとか(たとえば登場人物が女装した男性である場合、地の文で「彼女」と書くのは反則)、まあそういう基本的な約束がある。
「あれはフェアじゃない」とか「ぎりぎりのところでアンフェアにはなってない」とか、本格ミステリが独自の基準で評価されるのも、こうした暗黙のルールがあればこそ。この種の「ゲームの規則」は本格ミステリの長い歴史によって培われてきたものなんだけど、そのおなじ土俵に立ちながらも、西澤保彦は、一作ごとに、その作品内だけに適用されるハウスルールを提示し、より複雑なゲームを展開してみせる。
 アイザック・アジモフのSFミステリやランドール・ギャレットの『魔術師が多すぎる』、山口雅也の『生ける屍の死』など、いちいち例を挙げるまでもなく、この種の独自ルール採用路線にはすぐれた先例がいくつもあるわけだが、西澤保彦の場合、この独自ルールの部分が、かつてないほど徹底的に突きつめられている。結果的にルール説明が長くなり、『完全無欠の名探偵』や『七回死んだ男』でもけっこう紙数が割かれてるけど、本書『人格転移の殺人』など、ルール説明用のパートだけで四十ページを費やしているくらいである。
 たとえばトランプのカードを使ってタネも仕掛けもあるいろんな手品をやってみせるのがふつうのパズラーだとしたら、西澤保彦はいきなり読者がまだ見たことのない「マジック・ザ・ギャザリング」のデッキをとりだし、おもむろルールの説明をはじめるようなもの(あ、いやMTGは、たまたま大森が現在ハマってるトレーディング・カードゲームってだけのことで、べつにUNOでも花札でも
「スーパーヒーロー対悪の帝国」でもいいんですけど)。
 まったくプレイしたことのないゲームを、とりたてて興味のない人間に遊ばせて面白いと思わせるには、そのゲーム自体によほどの魅力がなければならない。つまり設定説明の段階で、「なにそれ、めんどくさい。ふつうの密室殺人が読みたいんだよ、おれは」と思われちゃったら負け。さらに、そのゲームで遊んでよかったと思わせるためには、「そのゲームでなければできないこと」をやってのけ、なおかつ読者を感心させる必要がある。ほとんどヘラクレス的な難事業といっていい。しかも、西澤保彦の作風では、その新開発ルールは一回こっきりしか使えないのだから、はっきりいって割が合わない。
 にもかかわらずこの壁をあっさり乗り越え、特殊ルールでしか実現できない本格ミステリを鮮やかに決めてしまうのだから、西澤保彦の天才には脱帽するほかない。いまのところ、この分野は著者の独壇場で、追随する作家さえいないのだが、それも当然。▼SF的シチュエーションを借りた現代エンターテンメント▲と分類される作品自体は、たしかにこのところ大流行している。しかし、北村薫『スキップ』、宮部みゆき『龍は眠る』『鳩笛草』、大沢在昌『天使の牙』、我孫子武丸『腐蝕の街』、若竹七海『製造迷夢』など、ミステリ系の作家たちが書いたSF仕立ての小説と比較してみれば、西澤保彦の独自性は明らかだろう。西澤ミステリでは、SF的シチュエーションはひたすらトリックを成立させるためにある。つまり、SFが本格ミステリの道具として完璧に使いこなされているのである。わずかなりともこれに近いことをやってのけた例として思いつくのは、(SFを使っているわけではないが)小森健太朗『ローウェル城の密室』、奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』くらいだろうか。
 もちろん、この壮大なもくろみのために、西澤保彦が犠牲にしているものも少なくない(小説的リアリティとか、深い人間描写とか、頭を使わずに読めるリーダビリティとか、ベストセラー作家としての印税とか)。しかし、そんなものが読みたければ、近所の書店に行けば平台の上からいくらでも発見できる。西澤保彦は西澤保彦にしか書けないものを書くだろうし、よそでは発見できない快楽を求めてぼくは西澤ミステリを読みつづけるだろう。
 本格ミステリが本来的に持つ遊戯性を極限まで追求し、「芸」の域にまで高めた西澤保彦の前人未到の実験は、まだまだはじまったばかり。無敵の長打率を誇る新本格驚異の一番バッターとして、西澤保彦が(京極夏彦、麻耶雄嵩、森博嗣らとともに)新しい本格ミステリの潮流をつくっていくことはまちがいない。