バリントン・J・ベイリー『時間衝突』(創元SF文庫)訳者あとがき


   訳者あとがき


大森 望  



 バリントン・ベイリーはアイデアの人である。
 彼の独創性は現代SFの中では並ぶものがない。われわれは、アイデアと無限の可能性を持つ文学と関わり合いをを持つことに誇りを感じる。だが、この誇りが想像力を失わせてしまう。SFが自ら課したクリシェ、ステロタイプが、本当はいかに奥の深いものであるかを、そして、分水嶺を越えて処女地をのぞきみようとする試み自体、いかにまれなものであるかを、しばしば失念してしまう。このステロタイプを、簡単に、しかもさりげなく越えられるような作家――つまり堅実な、想像力豊かな、発明の才のある作家はほんのひと握りなのだ。
 ベイリーのアイデアの扱い方は騎士道的である。メロドラマチックでさえある。「永遠なる謎」に心をとらわれ考えこむことはまずない――ベイリーには活力がある。勢いに乗って書く。あなたはけっして退屈することがない。
  ――ブライアン・ステーブルフォード「バリントン・ベイリーを語る」VECTOR 83号
    (鈴木博也訳・京都大学SF研究会〈中間子〉3号より)

 「校正のためにゲラを読み返したときでさえ、傑作だという確信は揺らがなかった」というのは、浅倉久志氏がディックの最高傑作のひとつに数えられる『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきにある一節なのだけれど、いまぼくは、そのおなじ言葉をここでくりかえしたい誘惑にかられている。いや、もちろん、本書は『電気羊』のような、一点非の打ちどころのないバランスのとれた名作ではない。香り高き文学性や陰影のあるキャラクターとはまったく無縁。時間と時間の正面衝突を真正面から描き上げた、SF以外の何物でもありえない、武骨そのものの長編である。バカなアイデアを思いついたんだけどさあ、と酒を飲みながらSF仲間に滔々とまくしたて、翌日にはきれいさっぱり忘れてしまっているような、途方もなくはちゃめちゃな時間理論に真っ向から挑みかかる、ほとんどドン・キホーテ的な蛮勇の産物。現代文学にも現代科学にも、本書がつけくわえるものはまったくないだろう。だがしかし、いやそれだからこそ、SFファンと生まれて二十有余年の訳者は、手前みそのそしりも恐れずこう断言したい。ゲラを読み返したときでさえ傑作だという確信は揺らがなかった、と。
 なによりも、この、わずか三百ページちょっとの長編には、SFのエッセンスが、驚くほどの密度で凝縮されている。余計なものはまったくない。七〇年代初頭の「ミシシッピー・バーニング」に描かれていたようなアメリカの人種差別の現実に対する風刺と思われる、コーカソイドによる有色人種支配という基本設定さえもが、本書の中では百パーセントSF的なアイデアに昇華されている。SFであることが最重要課題であって、現実の問題さえもが、ここではSFに奉仕しているのである。
 SFマガジン一九八九年七月号で〈奇想SF特集〉を組み、解説を書いたとき、ひそかに念頭にあったのが本書だった。
「(前略)病膏盲状態におちいったすれっからしSFマニアにとって、驚けるSFというは、それだけでダイヤモンドのように貴重な存在である。なんと、まだこんな話があったのか! という喜びで、またSFを読みつづける気力が猛然と沸いてくる――そいう傑作のことを、われわれはバカSFと呼ぶ。たしかにお利口なSFも悪くはない。りっぱな文章、気のきいたストーリー・テリング、スマートなアイデア処理、魅力的なキャラクター……だがしかし、それがぜんぶ合わさって、お手本のようなSFができたとしても、八〇点しかあげられない。
 あっと驚く衝撃。頭をがつんと殴られるようなショック。これなくしてなんのSFであろうか。(中略)
 SFの神髄は、とほうもない奇想、究極の馬鹿アイデアにこそある。」
 そして、このアジテーションに完璧にあてはまる。古今東西最高の馬鹿SF、奇想SFこそ、本書『時間衝突』であると、ぼくは信じている。『カエアン』や『禅銃』でさえ、本書の前では、よくまとまった、スマートでこじんまりした、完成度の高いお上品な長編になってしまう。この破天荒さかげんに匹敵するのは、おそらく、ワイドスクリーン・バロック史上に燦然と輝くクリス・ボイスの『キャッチ・ワールド』くらいのものだろう。読みすすみにつれてどんどん頭がウニになってゆくような奇想の数々を、存分に楽しんでいただきたい。

 さて、私事にわたって恐縮だが、ぼくがこの小説とはじめて出会ってから、早いものでもう十年を越えた。安田均氏が、ベイリーはすごい、『カエアンの聖衣』はすごいと叫んでいたのに触発されて本書を手にとり、とにかくぶったまげた。若気のいたりというやつで、SFを読んで驚くことなんてもうあるまい、センス・オブ・ワンダーなど過去の遺物だと信じこみ、LDGなんぞと呼ばれるソフィスティケートされたライフスタイルSFにうつつを抜かしていたぼくにとって、本書はまさに、目からウロコを落とさせてくれた作品だった。まだまだSFは使い尽くされたわけではない、めちゃめちゃなスケールの破天荒な傑作が不可能になってしまったわけではないということを教えてくれたのが『時間衝突』である。一部で評判になった久保書店の『時間帝国の崩壊』につづいて、『カエアンの聖衣』が、『禅〈ゼン・ガン〉銃』が、短編集『シティ5からの脱出』が、ハヤカワ文庫SFからつぎつぎに出版され、予想どおりの絶賛を博したあとも、まだベイリーのほんとうのすごさは知られていないと信じつづけ、SF大会や地方コンベンションで、SF仲間とベイリーの話になるたびに、この本の粗筋を無理やり話してきかせていた。ぼくにとって、『時間衝突』は、そのくらい愛着のある作品だったのである。
 本書を訳したいばかりに翻訳者になった、というのはいささかかっこよすぎるにしても、いつかは自分の手で訳してみたいと心中ひそかに決意をかためていた作品であることはまちがいない。その『時間衝突』がとうとうこうして出版されることになって、正直、いったいどんなふうに受け止められるのだろうかとどきどきしているのだけれど、あとは読んでくださったみなさんの審判を待つほかない。まだまだ非力な翻訳ではあるけれど、願わくは、ぼくがはじめてこの本を読んだときとおなじ興奮と驚きを、みなさんが感じてくれますように。

 さて最後に、お世話になったかたがたの名を記して、感謝の言葉としたい。英語の疑問点についてはカナダ生まれのアメリカ人、トーレン・スミス氏に、中国系の人名の漢字表記については関東海外SF研究会の笹川桂一氏に、それぞれご教示いただいた。また、文科系の頭では理解に苦労した時間理論解釈については、東大SF研OBの曲守彦氏に相談に乗っていただいた。もちろん、勘違いによる過ちがあった場合には、すべて訳者の責任である。
 また、ベイリーを師とあおぐブルース・スターリング氏には、海の向こうからすてきな序文を、大野万紀氏には箱根の関所の向こうから懇切丁寧な解説を、それぞれ書いていただいた。また、スターリング氏との交渉に当たっては、氏の古い友人であり翻訳者である小川隆氏に仲介の労をとっていただいた。
 そして、本書の翻訳の機会を与えてくれた創元推理文庫編集部の小浜徹也氏には、最大級の感謝を捧げたいと思う。本文庫からは、このあともベイリーの作品がつぎつぎに刊行される予定なので、ご期待されたい。


1989年11月16日 大森 望   




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