『嗤う伊右衛門』書評(週刊現代)

 京極夏彦の六作目にあたる書き下ろし長編『嗤う伊右衛門』は、著者はじめてのハードカバー作品。講談社ノベルスの妖怪シリーズから離れた初の単発作品でもある本書は、タイトルが示すとおり、四谷怪談でおなじみの伊右衛門とお岩の物語だ。

 もっとも、厳密に言うとこれは四谷怪談ではない。圧倒的に有名な四世鶴屋南北の歌舞伎脚本「東海道四谷怪談」(一八二五年初演)は五幕七場の大作で、四谷左門町に伝わる田宮家の因縁話はあくまでも素材のひとつでしかない。南北版「四谷怪談」は、当時七十一歳の天才的ストーリーテラーが各種の実話・伝承に取材して、持てる技巧のありったけを駆使し、文字通りけれん味たっぷりに書き上げた波瀾万丈のモダンホラー≠セが、『嗤う伊右衛門』はむしろその対極にある。

 本書の原型は、「東海道四谷怪談」の百年前、一七二七年に成立した、作者不詳の「四谷雑談集{ぞうだんしゅう}」にまで遡る(この「雑談集」を直接の下敷きにして書かれた短編としては、田中貢太郎の「四谷怪談」がある)。

 怪談≠ナはなく雑談≠ェ原典だから――というわけでもないだろうが、本書『嗤う伊右衛門』では、怪談につきもののスーパーナチュラルな要素が一切排除され、あらゆる怪異が合理的に説明されることで、「世の中に不思議なことなど何もない」小説となっている。妖怪シリーズ的に言うなら、京極堂のフィルターを通過したあとの四谷怪談というところか。

 怨霊も祟りも消え失せたあとに残るのは、伊右衛門と岩のあまりにも不器用で切ない愛の物語。その意味では、一種のシェイクスピア的な悲劇として読むこともできるだろう。

 主人公は摂州浪人・境野伊右衛門。旧知の仲だった御行の又市の周旋で、伊右衛門は四谷左門町に住む御先手組同心・民谷又左衛門の娘、お岩のもとに婿養子に入る。民谷岩は前々年に病を患い、その後遺症で生来の美貌が醜く崩れているが、それを恥じることのない合理的な性格の持ち主(そこには現代的なフェミニストの影も垣間見える)。伊右衛門自身、その容姿にはこだわらず、結婚するまで会ったことさえなかった妻を愛おしく思いはじめる。岩もまた、しだいに伊右衛門に惹かれていく。だが、ふたりの意地の張り合いと感情のすれ違いから夫婦仲はこじれ、そこを御先手組与力の伊藤喜兵衛につけこまれることになる。

 喜兵衛の奸計にまんまとひっかかった岩は、夫のためによかれと思って家を出る。伊右衛門は喜兵衛の子を孕んだ町娘・お梅を嫁に押しつけられ、やがてそのことを知らされた岩は狂乱する……。

 おおまかな筋立ては、ほぼ「四谷雑談集」(あるいは唐来山人{からさんじん}の「模文画今怪談{ももんがこんかいだん}」)に従っているが、伊右衛門を悪役としてではなく、運命に翻弄される理知的な善意の人としてを描くことで、京極夏彦は事件を愛の悲劇へと昇華させる。

 印象的な冒頭をはじめとして、作中の各所で象徴的に使われる蚊帳は、伊右衛門と外界との距離感を体現するものだろう。「蚊帳越しに臨む景色は大嫌いだが、闇が侵入{ルビ

 はい}って来るのはもっと厭な気がした」という伊右衛門は、過去のいきさつから、いまは現実と直面することを避けつづけている。いわば彼はデタッチメントの男であり、岩との出会いを契機にその殻が破れた瞬間、アタッチメントの悲劇が生まれる。

 とはいえ、それまで唯々諾々と上役である喜兵衛の無理難題に従いつづけていた伊右衛門がついに鯉口を切り、それまで現実を隔てていた蚊帳もろともに喜兵衛を切って捨てるクライマックスには、TV時代劇の必殺シリーズもかくやの胸のすく爽快感があり、たんなる悲恋物の枠には収まらない。

 すべてを理解しながら運命に流されていく伊右衛門は、ある意味でもうひとりの(寡黙な)中禅寺秋彦であり、これは京極堂自身の事件≠描いた小説だと言うこともできる。

 贅肉をぎりぎりまでそぎ落とし、計算しつくされた文章で古い物語を語る『嗤う伊右衛門』は、妖怪シリーズの饒舌さと奇矯な登場人物群になじめなかった読者層からも、おそらく拍手をもって迎えられるだろう。しかし、京極堂の蘊蓄や抜群のキャラクター描写、卓抜なギャグが封印されたおかげで、逆に京極ミステリの骨格が明確になった観もある。

 本格ミステリ的なトリックが(一種の読者サービス的に)使われてはいるとはいえ、本書は明らかに推理小説の範疇には属さないが、これまで怪力乱神として語られてきた事件を人間心理のダイナミズムの中に解きほぐしていく手つきは、最良の心理ミステリを思わせる。

 屋敷内の樹木をすべて切り倒してしまうという異様な後日談や、鼠にかじられて長持の中で息絶える伊右衛門の凄絶な最期(原典では、前者の事件は祟りによる発狂を示すエピソードとして、後者の鼠はお岩の怨念が凝りかたまったものとして語られる)さえ、ここでは明快な論理的必然性が与えられ、かぎりなく美しいラストシーンへと磨き上げられる。

 アレンジと楽器こそ違うものの、『嗤う伊右衛門』がもたらす感動は、『魍魎の匣』や『絡新婦の理』のそれと同質のものだ。京極夏彦の作家性と実力をあらためて実感させる静かな傑作である。