オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』(ハヤカワ文庫SF)訳者あとがき(1995年4月)


   訳者あとがき


大森 望  



 のっけから私事で恐縮だが、オンライン・ハイパーテキスト化をはかるべく、こないだからハードディスクに埋没するむかしの原稿を整理していたら、『死者の代弁者』を思いきり罵倒した原稿がでてきて心底仰天した。核心部分をちょっと引用すると……

 しかし、これはぼくのもっとも嫌いな種類のSFでもある。(中略)他人の秘密を暴きたて"救済"するエンダーの傲慢さがいやだし、その傲慢さを自己批判してしまう優等生ぶりもいや、バガー全滅に対する"一億総ざんげ"的贖罪意識がいやだし、人類にとって潜在的脅威であるという一点をピギー文明化へのイクスキューズにする姿勢がいや。ブリンの場合にはあっけらかんとしている分だけかわいげがあり、その能天気さも正面から批判する気にならないのだが、カードは巧妙にいいわけをばらまいてエンダーの行為を正当化し、なおかつ宗教的救済で読者を感動させようとする。
 小説を読んで感動してしまうのは読者の勝手。感動させようとする手管の透けて見える小説というのは、どうしても好きになれない。あざとい小説のあざとさを批判してもしかたないんだけど、とにかく嫌いだ。

 とても『死者の代弁者』の続篇にあたる『ゼノサイド』を94年の翻訳SFベストワンに推した人の文章とは思えない(笑) まあぼくの場合そういうことはかならずしもめずらしくないのだが、問題は自分自身、『死者の代弁者』はけっこう気に入っている作品だと思いこんでいたことにある。
「伝統的なサイエンス・フィクションに堕してしまう後半はともかく、物語の枠組みを破壊してまで他人の家庭に土足で踏み込み分析するエンダーの過剰な代弁のすさまじさは、SF界広しといえどもカードにしか書けない」とまあ、そんな論理で最初から積極的に支持していたつもりだったんですね。つまり明らかに記憶の改変が行われていたわけで、最近めっきり記憶力が衰えたとはいっても、これには茫然とするほかない……のだけれど、あらためて5年前の原稿を目の前にしてみると、それはそれで納得できるというか、たぶん冒頭の拙文は、カード嫌いの人々の感想を最大公約数的にまとめたものといってもいいんじゃないだろうか。
 じっさい、オースン・スコット・カードほど、生理的嫌悪感を理由に嫌われる作家もめずらしい。日本のSF読者のあいだには、ただでさえ宗教的なものに対する拒否反応があるけれど(日本のSFアニメーション史上に残る傑作、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』が当時アニメファンから忌避された理由も、宗教に傾倒するヒロイン、リイクニの存在ゆえだった)、カードの場合、モルモン教信者であることを公言し、モルモン経を下敷きにしたシリーズさえ書いている。さらに、デビュー以来一貫して、身体損壊のモチーフを描きつづけている。それに加えて、感動≠読者に与えようとする仕掛けがあちこちに凝らされている。
 これだけそろえば、「だからカードは嫌われる」ってことになるのも無理はなくて、じっさい、SFマガジン94年9月号のカード/ヴァーリイ特集では、小川隆氏がそのへんのところを「検証カード論争/SFというコミュニティの中で」と題する文章にまとめている。ひとりの作家がよくもまあこれだけよってたかって口汚く罵倒されるものだと感心するくらいだが、著者自身がいちいちそれに反論し、著書は著書であいかわらず売れつづけているという状況ではあまり同情する気も起こらない。ただしカードの小説に対する批判の大部分が、おもしろい/おもしろくないではなく、好き/嫌い、(思想的に)正しい/まちがっているという尺度を基準にしていることは押さえておく必要があるだろう。
 かつて高橋源一郎氏がどこかで「小説志望者はカードを読め」と書いていたとおり、カードの話づくりの技術は天才的にすぐれている。『辺境の人々』のように、SF性の薄い作品ではとりわけそのうまさがきわだつ結果になり、たんなる「駄作」と切り捨てられる作品ではない分、また反発を食らうことになるわけである。

 本書も含めて、カードSFの大半は本質的にスーパーヒーロー物である。超人的な力を持つ主人公が活躍する、その意味ではきわめて古典的なスペオペだといってもいいのだが、カード作品に置いて、彼らスーパーヒーローはきわめて現世的な問題を解決することを迫られる。「わたしの人生なんだったのかしら」と悩む糟糠の妻に対してスーパーマンになにができるか。空を飛んで悪い宇宙人と戦うかわりに、この種のプラクティカルな問題に直面しなければならない。Worthing Chronicleには、文字どおりのダブルバインド状況に陥った男の物語がおさめられているが、カード作品の主人公は多かれ少なかれダブルバインドな状況に置かれて、そこから脱出する道を模索することになる。そしてその解決方法がきわめて現実的である点がカード作品の特徴かもしれない。
 本書においても、リンカリーとハックスの対立をはじめ、解決困難なダブルバインド状況はあらゆる局面に登場し、カードはそれにプラクティカルな解決を与える。大多数のSFは人生をいかに生きるかの指針にはなりえないが、カード作品にかぎっては、会社の人間関係や家庭の問題、校内暴力の問題に応用可能な普遍性を持っている。その意味では、「とうに解決済みの問題として抽出しの奥にしまいこんであったものをあらためてひっぱりだす」といわれるカート・ヴォネガットに近い資質の持ち主かもしれない。「愛は破れても親切は勝つ」的な人生の指針は、カード作品のいたるところに見出すことができる。
 こうした姿勢をSFの矮小化であると非難する立場はもちろんありうるし、じじつそうやって非難されてきたわけだけれど、どんな大きな物語を語ろうともドメスティックな視点を忘れないところにカードの特徴があるわけで、そのユニークさはむしろ積極的に評価されてしかるべきだと思う。カード作品はしばしば宗教的だといわれるが、この作品を訳しながらつくづく思ったのは、その宗教性というのが、キリスト教や仏教のような大きな宗教としてあるのではなく、もっと現世的なもの、「生き方の知恵」に近いのではないかということ。「インディアンの教え」とか「自己啓発セミナー」とか「お婆さんの知恵袋」的なもの。それがSFと無理なく同居しているところにカードという作家の不思議さがあるような気がする。

 さて、あらためて紹介すると、本書は一九九〇十二月にTorブックスから刊行されたWorthing Sagaの前半分、The Worhing Chronicleを訳出したものである。本書の成立事情については著者の序文に詳述されているから、あらためて説明するまでもないだろう。
 もともとカードは旧作をリライトするのが好きな人だが、ワーシング・シリーズに関してはよほど愛着があるらしく、何度となく改訂されている。なにしろワーシング物語の最初の一篇、「鋳かけ屋」の原型を書いたのは著者十九歳のときだというのだから、ほとんど二十年がかりで一巻に(邦訳では二巻に)まとめられた物語ということになる。それだけに、本書は後年の巨匠、オースン・スコット・カードの特徴すべてが凝縮されている。
 前出のSFマガジンで、工藤龍大氏が書いている文章を引用すれば、
「この作品には、その後のカードの萌芽というべきものが随所にちらばっている。例えば、人工冬眠システムを破壊する政治家アブナー・ドゥーンは後の『ソング・マスター』の恐怖皇帝ミカルや《アルヴィン・メイカー》シリーズのアンメイカーのプロトタイプといえるし、ジェイスンの子孫の治療師、鋳かけ屋ジョンは後のカード作品の主人公たちの原型といえる。おそらくカードの愛読者たちなら、これ以外にもこの作品のなかにカードの多作品の登場人物やエピソードの原型を数多く発見することだろう。The Worthing Sagaは作家としてのカードのルーツといっても過言ではない」(「受難する癒し手」より。固有名詞表記は本書に合わせました)
 つけくわえれば、最近のカード作品にくらべると宗教色が薄く、作家性と物語性のバランスがうまく保たれている点が特徴だといえるかもしれない。サイエンス・フィクションである以前に人間の物語であるという性格は否めないにしても、ジェイスンがゼロから出発して植民惑星を築き上げるエピソードや、一種の神話としか見えないレアドの惑星の奇怪なありようが科学的合理的に再解釈されていく構成など、サイエンス・フィクションならではの醍醐味も味わうことができる。
 SF作家カードに対してはあいかわらずアンビヴァレンツな感情を持っていることを告白しなければならないが、翻訳者として一冊まるごとつきあったいま、「どうもカードって肌に合わないんだよね」で読まずにパスしてしまうにはもったいない才能の持ち主であることは実感している。カードの原点ともいうべき本書によって、よくも悪くも現代アメリカSFを代表するこの作家の魅力に接していただければ、訳者としても望外の喜びである。
 なお、末筆ながら、翻訳の機会を与えてくれた上池利文氏と、入念に訳稿をチェックし、そそっかしい訳者のまちがいを指摘してくれた河野佐知氏にこの場を借りて感謝を捧げる。The Worthing Sagaの後半にあたる『ワーシング年代記/キャピトル』は本文庫より 月刊行予定。あわせてお楽しみください。

1995年4月 ohmori@st.rim.or.jp(http://www.ltokyo.com/ohmori/)   



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