オンライン出版関連アーティクル抜粋(SF翻訳講座より



■SFマガジン1994年1月号《SF翻訳講座》

 金井美恵子の最新エッセイ集『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬPARTII』(日本文芸社)をぱらぱらめくっていたら、「電子小説の未来」という一章が目にとまった。

「いまだにワープロさえ使ったことがない身」である筆者が、(バブル崩壊時代を生きる小説家の自己防衛として)出版社を経由せずに小説を発表する手段たりうるデスクトップ・パブリッシングに興味を持ち、さらには電子メディア時代の小説の未来像に思いをはせるという趣旨のこのエッセイは、滅びゆくメディアの代表選手といえなくもない文芸雑誌のひとつ〈群像〉に発表され、それに対して断筆宣言前の筒井康隆がまたべつの文芸誌〈文藝〉の「文藝時評」で罵倒するという文壇的事件も起きていたらしいのだが、あいにく勤めを辞めてからとんと文芸方面のゴシップに疎くなっているぼくは、単行本になるまで寡聞にして知らずにいたというお粗末なのである。

 ここで興味深いのは筒井康隆の攻撃に対する金井美恵子のじつに金井美恵子らしい反撃の嫌味さではなく、電子メディアとはもっとも遠いところにいる小説家のひとりである金井美恵子が、パソコンという道具の、文字どおりパーソナルなメディアとしての側面に着目し、たとえばマッキントッシュのエキスパンデッド・ブックの設計思想とも通底する個人的な夢をそこに託している点だろう。

 486/33にODPのっけてメモリを16MB増設、いやーウィンドウズもさくさくよと胸を張るテッキーくんたちにいちばん不足しているのが、おそらくこの種の「パソコンになにを求めるか」という明確なビジョンなのである――というようなことがいいたいわけではもちろんなくて、シャープペンシルや全自動洗濯機を使うのに思想なんか必要ないもんね、便利で快適ならそれでいーじゃん、という感想は、パソコンを日常的な道具に使っている人間の大部分に共通するものだろうし、ぼくだってCD―ROMで『リーダーズ英和辞典』が引ければ便利だからやっぱりデスクトップの486マシンに乗り換えようかと悩んだあげく、やはり現在の移動翻訳環境(いやその、近所の喫茶店やファミレスを仕事場にしてるってだけなんすけど)を犠牲にするにしのびず、FDベースで販売されているテグレット技術開発の『光の辞典』(講談社パックス英和辞典の電子版)を買ってきてRAMカード上のカードディスクにインストール、VZエディタからマクロで引いて、これならレスポンスタイムが1秒未満で快適快適と喜んでいるわけだから、とりあえずは目先のことしか考えていないわけである。

 にもかかわらず、話が「電子メディアと小説」的方面におよぶと俄然身を乗り出してしまうのは、元文芸出版社編集者の業というべきか、たとえば『本の雑誌』10月号の〈真空とびひざ蹴り〉が「漠とした不安」なるタイトルを頭に掲げ、NECのデジタルブックに関連して、小説がFDで供給される現実に「やはり黙ってはいられない」と疑問を呈していたりするのを見ると、思わず反論を書いて読み返しもせずに編集部宛てにファックスモデムで送りつけてしまう程度にはいいたいことがたまっているようなのである。

 本誌今月号とほぼ同時に全国電器店の店頭に並ぶだろうデジタルブックは、2HDのFDで供給される電子書籍で、バンドルされている専用プログラムによってテキストを縦書きで画面に表示させ、ページ送りやタグジャンプを行なう。テキスト部分の容量はおよそ800キロバイトというから、文庫本二冊分程度。同時発売の専用ハードウェア(てのひらサイズの液晶ヴューアーで、本体に1メガ強のメモリを持ち、フロッピーディスクからソフトを読み込んで携帯する)のほか、NECのPC98シリーズのパソコンで読むことができる。さまざまな理由から過渡的な形態であるとしか思えない製品ではあるものの、NECが出版社に対して販売保証を行なうなどの方法により、すでに百を越えるタイトルを確保しているらしいことを勘案すると、日本においてはじめて本格的に導入された小説を画面で読むシステム≠ナあることはおそらくまちがいない。

 これに対して〈真空とびひざ蹴り〉の筆者は、そのようにして読まれるものがはたして本と呼べるのか、利便性だけを求めて紙媒体を捨て去っていいものかという「漠とした不安」を抱く。

 ぼくが送った個人的反論の趣旨は、「ページをめくるという行為」は小説を読むことにとってあくまで副次的なものであり、液晶画面で読もうが21インチモニターで読もうが読書にかわりはあるまい、むしろ紙の媒体から電子メディアへ容れ物を変えても小説が生き延びることが重要なのではあるまいか、といったようなもので、だからこそ、金井美恵子が前述のエッセイの中で、「しかし小説家が怖れなければならないのは、永遠に不滅の「物語」が「小説」という器を完全に必要としなくなるかもしれないという、起こりえそうな事態なのではあるまいか」と書いているのを発見して、おおいに意を強くしたりもするのだが、改めて考えてみるまでもなく、紙に印刷された本がなくなってしまうことと小説がなくなってしまうこととどちらが悲しいかといえば、個人的にはもちろん後者のほうが悲しいわけで、たしかに液晶画面をスクロールさせていくのでは小説を読んだ気がしないというのは実感として理解できるにしても、要は慣れの問題であって、片手に万年筆握って原稿用紙のマス目を埋めることと両手でキーボードをたたくことのあいだの距離とくらべてさほど大きな差異があるとは思えない。

 もっとも、デジタルブックそのものの設計思想に関していえば、なにか重大な錯誤があるのではないかという気がしてならないのだが、すでにスペースもつきたことだし、「電子出版時代のSF翻訳」という本来のテーマまで視野に入れて、次回であらためて詳述することにしたい。


■SFマガジン94年2月号《SF翻訳講座》

 出版業界はいま、ほんの十年ちょっと前まではSFのエクストラポレーションでしかなかった問題に直面している。すなわち、「本とはなにか?」新しいテクノロジーの出現と、リーズナブルな価格でいつでもそれを使える利便性が、メディア状況を根本から再編しつつある。
 ローカス誌93年11月号の"Multimedia Update"を、筆者のスコット・ウィネットはこう書き出している。マルチメディア(またはハイパーメディアまたはインタラクティブメディア)の波は、パソコン業界のみならず、出版業界にも押し寄せつつある、というわけだ。

 アメリカSF界にとって、そうしたマルチメディア・ソフトのおそらく最初の例のひとつとなるのが、バイロン・プライス・マルチメディア社からリリースされたマッキントッシュ用CD―ROM、Isaac Asimov's Ultimate Robot。

 アジモフのロボットSF全作品のほか、ロボット関係のエッセイ、ロボティクスに関連した大学レベルの解説、アジモフ・インタビュー(画像・音声つき)、SF映画に登場する主要ロボットの映像の引用などなどがおさめられて、定価九九・九五ドル。一言でいえば、アジモフ著ロボットSF全集に補遺と資料集とビデオとオーディオ・カセットがついたようなもの。各種メディアのソフトをおなじフォーマットに統合し、安価に供給するという意味で、正しいマルチメディア・ソフトの一例かもしれない(フロッピー媒体では、ボイジャー社のエキスパンド・ブック版アジモフ全集があるが、こちらはほぼテキストのみの構成)。

 日本で出ているものでいえば、シド・ミードのCD―ROM画集「クロノログ2」(バンダイ・ビジュアル)が典型的な例。前作にあたる「クロノログ」は、画集、資料集、LDの三点セットからなる巨大パッケージだったんだけど、CD―ROM版の「2」は、ほぼ同様の内容を、使いやすいインターフェイスとともにCD一枚に格納している。

(この中のシド・ミードの解説ナレーションの翻訳という仕事がなぜかうちにまわってきて、けっこうたいへんな目にあったのだが、それはまた別の話。もっともテキスト主体の英語版CD―ROMやFDソフトの移植が増えてくれば、当然翻訳の需要は生じるわけだから、職業翻訳者にとってはビジネス・チャンスの拡大につながらないでもない。パイオニアLDCから出た原田大三郎のCGソフト、「A.L. Articicial Life」にグレッグ・ベアの短篇「ジャッジメント・エンジン」がバンドルされたりするのもその一例。ただしこの小説はCD―ROMにではなく、パッケージ同梱の活字本のほうにだけ収録されている)。

 とはいえ、この手のマルチメディア・ソフトっていうのは、ぼくみたいな活字おたくにとっては新しいおもちゃの域を出るもんじゃなくて、ながめて感心したりマウスでて遊んだりすることはあっても、いま現在の仕事と直接の関係はない。

 というか、登場人物がしゃべったりクリックすると絵が出たり作者のコメントが聞けたりなんてのは、「とびだす絵本」同様、小説にとっては邪道だときっぱり思っている。興味があるのは、小説が電子メディアにのっかることで生じる変化のほうだ(もちろん、映画化やマンガ化と同様、小説のマルチメディアソフト化も増えてくるだろうけれど、それはもう小説≠ニは別の尺度から評価すべきものだろう)。

 映像や音声を入れてしまうとCD―ROMの大容量もあっという間に食い潰されてしまうが、文字データだけに絞ると膨大な量が収納できる。OEDや平凡社世界百科辞典などの各種辞典類にかぎらず、当然小説の容れ物にもなる。ハヤカワ文庫SF千点を一枚のCDにおさめることだって量的には不可能じゃない。

 ジャンルSFの世界でこの大容量小説媒体&向をめざしたCD―ROMタイトルが、クラリネット社のHugo and Nebula Anthology 1993。今年のヒューゴー賞の小説部門/アート部門の全候補作と、ネビュラ賞短篇部門の全候補作が収録されている。その他、過去のSF各賞受賞作リストやSFテレビ番組エピソードガイドなどのおまけも盛りだくさん。マッキントッシュ/Windows3.1対応で、定価二九・九五ドルという爆発的な安さ。

 また、フロッピー媒体では、前述のアジモフ全集やウィリアム・ギブスンの新作Virtual Lightはじめ、米ヴォイジャー社のエキスパンドブックで相当数のタイトルが市販されている。

 これら電子媒体の小説を使えば、原文と訳文のウィンドウを画面に開き、ディスプレイだけを見ながら翻訳することが可能(ただし、ソフトによってはコピープロテクトがかかってる場合もある)。さらに電子辞書を併用することで、完全にペーパーレスの翻訳環境が実現する。

 となれば、現実にペーパーレス環境で製作されているものを紙に印刷しなくてもいいじゃないかという発想が出てくるのは当然。印刷・製本・流通のコストが事実上ゼロになれば、たとえばオンラインで小説を販売する場合、価格は極端に安く設定できる。文庫の翻訳小説なら、著者、訳者が受けとる印税は、一冊あたりせいぜい五十円くらい。六百円の文庫を書店で売るときと同数の正規ユーザー(笑)を確保できれば、理論的には百円プラスアルファでオンライン直販が可能になる。

 モノとしての書物にモノとしての価値があるのは当然だし、画面で読むより紙の上の活字で読むほうが読みやすいというのも現状ではまちがいないところだけど、いま書籍として流通している小説の何割かが電話回線を通じて売買されるようになるのは、そう遠い将来のことではないかもしれない(現実に、電子メール宅配システムを立ち上げた新聞社もある)。膨大な本の山に埋もれた生活におさらばできるという可能性だけでも、電子小説時代の到来が待ち遠しいんだけど。


■SFマガジン1994年9月号《SF翻訳講座》

 秋葉原のソフマップで売ってたよとのオンライン情報を頼りに買いにいったら売切れで(あとで聞いたら紀伊國屋新宿店や青山ブックセンターには在庫があったらしい)、プロデューサーの永井義人さんにとつぜん電話して送ってもらった。日本語版エキスパンド・ブックの『接続する社会』(プロスペロー・デザインズ1980円)である。

 先月号のブルース・スターリング「ディープ・エディ」の解説で小川隆氏がちらっと書いているけれど、これはコンピュータ・ネットワーク/エレクトロニック・フロンティアをテーマにした小説/エッセイ/コミックを集めた日本オリジナルの電子アンソロジー。

 小説は、前出「ディープ・エディ」とティプトリー「接続された女」(この二編は英文テキスト付き)のほか、ヴァーナー・ヴィンジ『マイクロチップの魔術師』(若島正訳でそのむかし新潮文庫から出ていたサイバースペース物の先駆的名作)と、柾悟郎の書き下ろし短篇「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」、東野司の「こんにちは赤ちゃん」(ハヤカワ文庫JA『赤い涙』所収)が収められている。このほか、ひろき真冬の「CALLING」をBGMつきでマルチメディア化したデジタルコミック(これがディスクスペースの半分を占有、再生にもかなりの空きメモリが必要だけど、デジタイズの出来がよくて楽しめる)、今岡清、中島梓、会津泉、ケヴィン・ケリー(WIREDの編集長)の書き下ろし/訳し下ろしエッセイをくわえ、2HDのフロッピー二枚組(ハードディスク上に展開すると4メガ程度の容量になる)。

 日本語版エキスパンド・ブックというのは、ヴォイジャー社が「パソコンで本を読む」ために開発したMacintosh用のフォーマット、Expanded Book(Macintoshシリーズに標準でバンドルされているHyperCard上で動作する)を日本向けにローカライズしたもの。『接続する社会』は、ユーザが好き勝手にこのエキスパンド・ブックを製作できるソフト、エキスパンドブック・ツールキットを使って製作されている(詳細は本誌1月号〈東野司の東京電脳マップ〉参照。ただし、「CALLING」だけは専用のビューア、CALLING PLAYERが付属している)。

 ユニークなのは、これがソフトハウスや出版社からリリースされたのではなく、あくまで個人の自費出版であること。すでに日本語エキスパンドブックでは多数の自費出版タイトルが出ていて、カラオケボックスを舞台にした怪しいポルノ(笑)から、アトピー皮膚炎の患者用に岡山の専門医がつくった医療用CD-ROMなんてものまであるんだけど、SFがらみでこれだけ野心的な自費出版企画ははじめてだろう。

 本家の米ヴォイジャー社は、ギブスンの電脳空間三部作とVirtual Light、ドゾアの年刊SF傑作選、マドレイン・ラングルの〈時間と空間の冒険〉三部作、アシモフのロボットSF全集など、SF系の作品を多数出しているから、日本オリジナルでこういう企画が立ち上がること自体ふしぎはない。とはいえカタギの会社員にこれだけのものを自費出版で出されたんじゃ、まったく出版社の立つ瀬がないよね。

 このアンソロジーの編者は本誌前編集長の今岡清氏で、今岡さんのオンライン/オフライン人脈あればこその企画ではあるんだけど、著作権の問題さえクリアすれば、原則的にはだれでも電子自費出版は可能。「エキスパンド・ブックは出版を個人の手にとりもどすための武器である」てなスローガンにはふうんと気のない相槌を打ってたわたしも、いざこうやって現物を目の前にすると、相当なインパクトがある。ま、「あ、こーゆーのやりたかったのになあ」という、先を越された悔しさもあるんですが。

 じっさい、FDベースの電子出版は、本の自費出版にくらべればはるかに低コストだし、インターネットを使えば海外作家との打ち合わせや業務連絡はすべて電子メールで可能。企画からフィニッシュまで、全工程が個人のデスクトップですんでしまう。たとえば絶版で出版権の切れた作品を自分でエキスパンドブックに落として直売するなんてことも可能なわけです。

 ただし、一月号のこの欄でも書いたとおり、パッケージ商品として流通する電子書籍は、やっぱり過渡的な形態でしかないと思う。流通コストが出ないために本として書店に並べることが不可能な作品や、絶版・品切れ本のフォローとしては、やはりフリーウェア/シェアウェアと同様のかたちでネット上で配付/販売するのが最終的なゴールだろう。モノではなく情報として流通させられる点に電子テキストの最大のメリットがあるとすれば、必然的な帰結なのである。

 もっとも出版社側ではコピー問題などもあって腰が重いため、いまのところ電子テキストのオンライン販売に積極的なのは大手BBSのほう(ダウンロードのためのアクセスが増えるわけだから、商売としては当然だろうけど)。PC―VANはIDを持つ作家たちに声をかけて絶版本のシェアウェア化を進めているようだし、NIFTY-Serveでは、古瀬幸広氏が主宰するシェアテキスト・フォーラムを中心に、シェアウェアとしてオンライン販売する文字データを「シェアテキスト」と位置付け、販売システムやフォーマットの統一をはかろうとしている。絶版本の活性化ばかりではなく、たとえば雑誌に掲載されたまま本にならない原稿をフリーウェア/シェアウェアとしてネットに流すこともじゅうぶん考えられる。

 しかしパソコンで小説を読むという行為に対する抵抗感は意外と根強いようだ。

けっきょく「慣れ」の問題じゃないかと思うんだけど、SFアイ最新号を見てたら、ブルース・スターリングまで「電子テキストで小説を読む行為には本質的ななにかが欠落している」とか書いてて、うーむとうなってしまったのだけれど、くわしくは次号で。


■SFマガジン1994年10月号《SF翻訳講座》

 読書という行為の本質とはなにか。あるいは「本」を「本」たらしめる条件とはなにか。いわゆる電子本の問題を突き詰めると、最終的にはそこに到着する。

 とりあえず小説を読むことにかぎって考えると、ぼくの場合、字が書いてあれば手書きの生原稿だろうが横書きのワープロ原稿だろうが液晶画面だろうがなんでもよくて、じっさい書評用に著者から電子メールで送ってもらった長編を98ノートの画面で読んだり(部屋を真っ暗にしてバックライトの明かりだけを頼りに恐怖小説の電子テキストを読むという行為はじつに趣きがある)、チャールズ・プラットからインターネット経由で届いた未発表原稿をエディタに開き電子ブック版リーダーズ英和辞典引きながら#眺め#たりしてるんだけど、小説は本じゃなきゃね、という人もたしかに存在する。

「……ぼく自身についていえば、たとえ無料でもオンラインのSF書籍についてはほとんどなんの関心もないし、そんなものに金を払うという発想はばかげている。ギブスンの小説のヴォイジャー社版電子本のサンプルをもらってディスクで持っているが(電子出版のエレガントな一例だとか)、マッキントッシュのハードディスクにロードする手間さえかけていない。作家仲間からオンラインで新作長編が送られてきたとしても、まずまちがいなく活字版が出るまで待つだろう。自分でも、どうしてこんなに反発を感じるのかよくわからない。ひょっとしたら、まったく時代遅れで不合理な反感かもしれない。しかし、すくなくとも"先入観"でないことだけはたしかだ。これは長年の実体験に基づく結論なのである。電子テキスト化された小説が機能するとは思わない――この点については強い確信があるし、しごく一般的な見解だと思う。これには読書環境が関係している――電子テキストを消化する行為には、ある種の決定的なビタミンが不足しているという独特の感覚がつきまとうのだ。
 ……と、これはSCIENCE FICTION EYE連載中のブルース・スターリングの人気コラム、CATSCANの「電子テキスト」と題された回の一節。べつの箇所では、

「電子テキストは印刷媒体の儀礼的官能的要素を欠いている。表裏のカバー、字面、イタリック、ちょうどいい中断箇所、はやく読み終えなければという衝動……つまり、印刷された本のボディ・ランゲージとでも呼ぶべきものだ。こういう感覚的手がかりの欠如が、テキストに対する接しかたに微妙な、しかし本質的な影響を与えている」

 とも書いている。長いネット歴を誇り、オンライン・マガジンのない生活は考えられないと語り、ネットが生活の重要な一部を占めるスターリングにしてこの発言である。彼の『ハッカーを追え!』(今岡清訳/アスキー)の英語版テキストはフリーウェアとしてインターネットのあちこちに流れ(国内ではNIFTY-Serveの未来フォーラムなどで入手可能)、雑誌発表のエッセイも大部分がコピーフリーでネットを回遊している。にもかかわらずスターリングは自分の小説をネットに流すつもりはないと断言する。

 いかにも『本の雑誌』の真空とびひざ蹴り氏がわが意を得たりと膝を打ちそうな意見ではないか(本誌1月号当欄参照)。しかし、近々くだんの目黒考二氏と同誌誌上で「電子本是か非か対決」をぶちかます予定なので、いくら相手がスターリングでもはいそうですかと聞いているわけにはいかないのである。そこで今回は予行演習としてまずスターリングを粉砕する(って順番が逆か>おれ)。

 いやたしかに両方ある場合は本のほうがいいに決まってるんですけどね。ベッドに仰向けに寝ころがって読んだり(うつぶせならノートパソコンでも可能)、風呂の中やサウナの中、スキー場のリフトの上で読めるのは現時点では活字の本だけに許された特権である。例外的に夜中のタクシーの中ではバックライトつき液晶のほうがはるかに読みやすいが(後続車のライトに照らして文庫本を読むのは技術を要する。あ、東京の場合、提灯とかたつむりの個人タクシーはおおむね後部座席窓側にルームライトがついてるから便利だぞ←蛇足)、電車の中だととなりのおっさんにのぞきこまれ、「うちの息子もこういうのやってんだけどさ、おもしろい?」と話しかけられたりして(←実話)けっこう気を遣うのである。NECのデジタルブック・プレーヤーで読んでる人は見たことないし、HP100LXみたいなポケコンマだったらほんとに文庫本より軽いしのぞかれる心配もないけど、可読性ではとても本に勝てない。

 活字の本は、読むための機械も電力も必要ないし、携帯性も抜群。いってみればソフト/ハード一体型の読書専用機で、しかもその形態は数世紀にわたって磨き上げられ、極限までユーザー・フレンドリーなインターフェイスを実現しているわけだから、ソフト的にもハード的にも、とてもいまの電子本じゃ相手にならない。

 にもかかわらず電子本をしつこく支援しつづけるのは、物理的な大きさを持つ「本」が量的にすでにパンク状態に達しているからにほかならない。流通がどうの、絶版がどうのといわなくたって、16本あるうちの本棚に入りきらずにあふれだし、廊下や畳に山積みになる本の量を見れば一目瞭然。空間の量は有限なのに本は無限に増殖する。要らないと思って古本屋にたたき売ったり段ボール単位でだれかにあげたり実家に送りつけたりした本があとで必要になって買い直すなんてのは日常茶飯事、さらには混沌の中からさがす努力を考えると買ったほうがはやいなんて状況もしばしば生じるわけで、こうなるともう開いたページからたちのぼるほのかな香りが……とか悠長なことをいってる場合ではないのである。

 といっても、すべての本が電子テキストになればいいと思ってるわけではもちろんないし、そうなるわけもない。『スチール・ビーチ』のルナでさえ図書館が存在し、大量の古本に囲まれることで精神の安寧を獲得する人々がいるんだから、紙媒体の絶滅を心配するのは百年はやい。本来、紙媒体と電子媒体は相補的であってしかるべきなのである……と以下次号。


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