コニー・ウィリス『ドゥームズデイ・ブック』文庫版訳者あとがき(2003年2月)



 お待たせしました。文庫版『ドゥームズデイ・ブック』をお届けする。

 昨年邦訳された著者の最新長篇『航路』(ソニー・マガジンズ)は、さいわい日本でも好評をもって迎えられ、『SFが読みたい! 2003年版』(早川書房)の「ベストSF2002」で堂々の第一位に輝いたばかりだが、本書はその『航路』と並び称せられる(『航路』より上だと評する人も多い)、コニー・ウィリスの代表作である。

 とはいえ、単行本版(早川書房《夢の文学館4》'95)が出たのはもうずいぶん前だから、この文庫ではじめて『ドゥームズデイ・ブック』を手にした読者も少なくないだろう。

 原書のDoomsday Bookは、一九九二年にバンタム社から出版されたコニー・ウィリスの第二長編。二一世紀から一四世紀へのタイムトラベルをテーマに、ふたつの時代を襲う疫病の息詰まるサスペンスと鮮やかな人物描写で絶賛を浴びた感動作で、英語圏SFの三大タイトルと言われるネビュラ賞、ヒューゴー賞、ローカス賞の三冠を独占し、さらにドイツ、スペイン、イタリアのSF賞にも輝いている。アメリカSFの女王≠フ座をウィリスにもたらした代表作というだけでなく、現代タイムトラベルSFを代表する傑作でもある。

 もっとも、ウィリスの長篇の例に洩れず、本書はあっと驚くアイデアや最新科学の知見をフィーチャーするハードな本格SFではまったくない。邦訳で千七百枚の大作ながら、『ドゥームズデイ・ブック』の筋立てはいたってシンプルだ。


 物語は二〇五四年のオックスフォードから幕を開ける。この時代、過去へ向かうタイムトラベル技術が確立され、歴史研究のために利用されている。史学部の女子学生キヴリンは実習の一環として、前人未踏の一四世紀に送り出される。しかし、彼女が無事目的地に着いたかどうかを判定するデータが出る前に、時間遡行の実務面を担当した技術者が突如倒れ、意識不明の重体に陥る。どうやら正体不明のウィルスに感染したらしい。おりしも町はクリスマス・シーズンで、かわりの技術者は見つからない……。隔離が宣言された未来のオックスフォードで、なんとか教え子の安否をたしかめようと孤軍奮闘するキヴリンの非公式の指導教授、ジェイムズ・ダンワージーが、二一世紀パートの主人公になる。

 一方、一四世紀にやってきたキヴリンも、到着と同時に病に倒れ、やはり意識不明に陥る。たまたま通りかかった現地の人間に助けられ、かろうじて一命はとりとめたものの、未来世界に帰還するためのゲートとなる出現地点の場所がわからない。はたしてキヴリンは元の世界に帰り着けるのか。追い打ちをかけるように、思っても見なかった危難が……。


 二一世紀パートがシチュエーション・コメディ風なら、一四世紀パートは歴史小説風。ウィリスの筆は、その時代に生きる人々の息遣いや生活の匂いまで含めて、中世イングランドの日常を鮮やかに描き出す。かくして物語は、七百年の時を隔てたふたつの時代を交互に描きながら、じょじょにスピードを上げて怒濤のクライマックスへと突き進んでゆく(ちなみに、タイトルのドゥームズデイ・ブック≠ニは、征服王ウィリアム一世が一〇八六年頃につくらせた土地調査台帳のことだが、ここではdoomsday本来の「最後の審判の日」「運命の日」という意味もかけてある)。

 歴史の改変は不可能というのが本書に出てくるタイムトラベル理論の大前提だから、時間SFにつきもののタイムパラドックスとも縁がない。したがって、危険な辺境の地へと旅立った若い教え子の運命と、その安否を気遣って奔走する老教授の苦闘とを描く冒険小説として読むこともできる(そう考えると、プロット構造は映画の『スパイ・ゲーム』に重なるかも。ただし、ウィリスは熱狂的ハリソン・フォードおたくなので、「映画化するならダンワージー先生はハリソン・フォードで決まり」だそうですが)。あるいは、現代女性が過去へタイムスリップして現地の男性と恋に落ちる、最近アメリカで大流行のヒストリカル・ロマンスの枠組みで読むことも不可能ではない(絵に描いたような色恋沙汰は出てきませんが)。
 逆に言うと、タイムトラベルものとしての独自性や、SF的な意味での新しさには乏しい。そんな大作が、どうしてSF界のあらゆる賞に輝き、名作中の名作として読み継がれているのか。その秘密は、圧倒的なストーリーテリングと抜群のキャラクター描写がもたらす文学的な感動にある。いくつか書評を引用しよう。

「登場人物のだれかが死ぬと、読者はそれを感じ、悲嘆に襲われる。『ドゥームズデイ・ブック』は、およそ小説に可能な限り、逃避からもっとも遠いところにある。タイムトラベルというSF的アイデアを、ふつうなら軽い読み物にふさわしいお手軽なやりかたで(つまり、登場人物を過去に送る装置として)使っているにもかかわらず、キヴリンが苦悩と美と悲哀と恐怖に直面する中世の世界は、隅々まで完璧に想像されている」(ファレン・ミラー)

「結末にいたって本書は、驚きと才気と技巧を越えて純然たる悲劇へと昇華され、ジャンルの枠を超えて、より普遍的な物語へと成長する。(中略)そのプロットよりもはるかにシンプルで、そのページ数よりもはるかに大きな物語である『ドゥームズデイ・ブック』は、心に深く訴えかけてくる真実の力によって読者に感動を与える」(ジョン・ケッセル)

「中世へのタイムトラベルという単純な話だし、ストーリーそのものも、けして波瀾万丈というわけでもなく、とても狭い範囲で淡々と語られる、ごくストレートな物語だ。結末に向けての、悲劇を受けとめて力強くなったヒロインのけなげさは心を打つが、とりわけ強烈な人間ドラマがあるというわけでもない。でも良い話を読んだという感動が残る。結末は、まさにロバーツの『信号手』を思わせる。非情で、冷たく、美しい冬の情景。一方、未来編では、元気な脇役たちが光っている。(中略)タイムトラベルという単純な装置の導入によって、そういう現代とリアルな中世とが同じ物語で描けるという、ファンタジーでも歴史小説でもない、SFの特質を考えさせられる小説だった」(大野万紀)

 その他、無数の書評の中では「迫真のリアリティ」「魅力的な登場人物」「感動の結末」「涙が止まらない」などの賛辞が目につく。

 そう言えば、本書の邦訳が出た直後、泣く子も黙るミステリ評論家のシンポ教授こと新保博久氏に某所でいきなり声をかけられ、
「オーモリさん、ボクは泣きましたよ。いやホントに」
「は? どうしたんですか?」
「『ドゥームズデイ・ブック』ですよ。ボクが本を読んで泣いたのは(J・フィニィの)『ふりだしにもどる』以来ですネ。いや、まさかこの本で泣くとは思いませんでしたネ」
 と、感極まった口調で訴えられたことを思い出す(というか、大森の日記にそう書いてあった)。

 訳者自身はどうも涙腺のツボが特殊らしく、『航路』のほうが泣けるんじゃないのと思っていたのだが、ネット上の感想などを総合すると、世間的にはこの『ドゥームズデイ・ブック』こそ泣けるSF′定版らしい。翻訳していたときは切羽詰まった状況だったんでそれどころじゃなかったけど、今回ひさしぶりにゲラで読み返していたら、後半の展開には(わかっていても)ぐっときたもんなあ。


 古手SF読者にとってのウィリスは、テーマの衝撃性で賛否両論の嵐を巻き起こした短篇、「わが愛しき娘たちよ」のイメージが強いかもしれないが、彼女は作品を通じてなにかを訴えようとするタイプではない。逆に、社会問題だろうがフェミニズムだろうが、小説のために利用できるものはすべて利用するという、見上げた作家根性の持ち主なのである。
「コニー・ウィリスは、フェミニズムを含めて、いかなるイズム≠フ作家でもない。(中略)ウィリスの基盤にあるものは、先にも述べたとおり(主義、イデオロギーといったものとは程遠い)人間の生き方としてのモラリティと言うべきものである。そして、そのモラリティは、かけねなしにウィリス自身の自己に発しており、同時に、それを周到な検討を介して多面的にとらえていくことによって、実体のある作品世界を構築することに成功している」(『わが愛しき娘たちよ』巻末の解説、山田和子「モラリスティックな物語をめぐる一、二の考察」より引用)

 この言葉は本書にもそのままあてはまる。モラリスティックといえばあまりにモラリスティックな物語。とはいえ、モラルやヒューマニズムを押しつけがましく高らかに謳い上げるわけではない。自作の短篇に寄せたコメントの中で、ウィリスはこう書いている。

「トリック、ミス・ディレクション、情報の出し惜しみ。あるものをべつのものに見せかけて手がかりを隠し、{目くらまし{レッド・ヘリング}を目につきやすい場所に投げ出しておいてから、ちょっとずつ糸をくりだして読者を食いつかせ、それからえいやっと釣り上げる……。わたしはそういう手管のすべてを身につけ、その結果(読者としては)二度とびっくりすることのできない体になってしまったのだけれど、それでも他人をびっくりさせることはできる」

 もちろん、小説として最大の効果をあげようとするのは作家なら当然の話だが、ウィリスの高度な小説技術は他の追随を許さない。独創的なアイデアを次々にくりだすタイプじゃないのにSFの世界で天下をとっただけのことはあると言うべきか。


 そして、この『ドゥームズデイ・ブック』は、ウィリスが無慮一七〇〇枚の枚数に持てる小説技巧をすべてを注ぎ込んだ技のデパート=Bじっさい、並みのSF作家が本書のプロットだけを与えられたら、五百枚の長編を書くのも青息吐息だろう。五百枚で書けるものをくどくどと千七百枚もかけて書いたとなると、ふつうは非難の対象だが、この千七百枚がまったく水増しに見えないところにウィリスの凄さがある。卓抜なストーリーテリング≠ニ言うと、一般的には波瀾万丈のプロットを自在に語る力≠イメージするだろうが、本書や『航路』の場合、著者のストーリーテリングは、単純な筋立てに豊饒な奥行きを与える{ミダス王の指{マイダス・タッチ}}として機能している(その意味では、スティーヴン・キングに近いかもしれない)。しかも、(本文庫の解説で恩田陸氏も指摘するとおり)そうした技巧を技巧と感じさせず、さらっと読ませてしまうのだからおそろしい。

 本書と同じ年に発表した爆笑の小品「女王様でも」がやはり三大SF賞を独占したことでもわかるとおり、ウィリスはコメディ作家としても抜群の伎倆の持ち主だが(悲劇より喜劇の脚本のほうがより緻密な計算を必要とすることを考えればそれも当然か)、そのコメディエンヌぶりは本書にも遺憾なく発揮されている。正体不明のウィルス性伝染病が蔓延する中でひたすらトイレットペーパーの残量を心配する秘書のフィンチ、どんな女性もたちどころに篭絡するおそるべき女性キラーの学生ウィリアム(ただし母親には頭が上がらない)、無鉄砲で向こう見ずだが悪知恵も回るいまどきのこども<Rリンなど、この手の脇役を描かせたらウィリスの右に出るものはいない。おなじ台詞(「ほうぼうさがしまわったんですよ」)、おなじシチュエーション(かならず曇るダンワージーの眼鏡、通じない電話、行方知れずの学部長)のくりかえしギャグも効果的に用いられている。

 その一方、ウィリスは数々のイメジャリーを駆使して、二一世紀のオックスフォードと一四世紀の領主館をオーバーラップさせる。もっとも顕著なのは鐘のイメージだろう。コミックリリーフとして登場したかに見えたアメリカ人鳴鐘者たちの一団が物語の深いレベルでしだいに大きな役割をはたしはじめる展開など、まったく舌を巻くほかない。

 言葉にすると陳腐だが、社会的にも文化的にもまったく異なるふたつの世界を重ね合わせることで、ウィリスは時代を超えた普遍的な人間性を鋭く描き出す。そのために動員される文学的技巧の数々は、おそらくサイエンス・フィクションのそれとは異質なものだろうが、こういうかたちでふたつの時代を並置させること自体、SFの特権的な手法であるとすれば、『ドゥームズデイ・ブック』こそ、SFと文学のもっとも幸福な結婚かもしれない。


 さて、今さらながら、ハヤカワ文庫SFにコニー・ウィリス作品が収録されるのはひさしぶりなので、このへんであらためて著者のプロフィールをくわしく紹介しておこう。

 コニー・ウィリス(コンスタンス・エレイン・トリマー・ウィリス)は、一九四五年十二月三十一日、コロラド州デンヴァー生まれ。一九六七年に北コロラド大学を卒業したのち、同州の公立小中学校で教壇に立つかたわら小説を書きはじめる。知性を持つインカ蛙を描く短篇、"The Secret Of Santa Titicaca" ('71)で商業誌デビューを飾り、七九年発表の「デイジー、日だまりの中で」ではじめてヒューゴー賞候補となる。八二年、国の文化芸術助成金を得て教職を離れ、フルタイムライターとして本格的な作家活動を開始。この年、「見張り」がヒューゴー賞・ネビュラ賞・ローカス賞、「クリアリー家からの手紙」がヒューゴー賞を受賞し、作家的地位を確立(以上三篇は短篇集『わが愛しき娘たちよ』所収)。
 それをきっかけに現代アメリカSF界を代表する女性作家と認められ、初の単独長篇『リンカーンの夢』ではジョン・W・キャンベル記念賞を受賞。二〇〇二年までに、ヒューゴー賞八回、ネビュラ賞六回、ローカス賞九回など、世界各国の主要なSF賞だけ数えても四十を超えるトロフィーを獲得している。受賞歴を基準に考えるなら、現役のSF作家ではまちがいなく世界ナンバーワンだろう。実生活でも気さくな人柄と巧みな話術で知られ、各地のSFコンベンションや雑誌のインタビューにひっぱりだこの人気者。コロラド州のグリーリーに、物理学者の夫コートニー・ウィリス、娘のコーディーリアと暮らしている。

 現在までに出版されているウィリスの著書は以下の通り。

1 Water Witch ('82) *シンシア・フェリスと合作
2 Fire Watch ('84)『わが愛しき娘たちよ』大森望ほか訳/ハヤカワ文庫SF('92) *第一短篇集
3 Lincoln's Dreams ('87)→『リンカーンの夢』友枝康子訳/ハヤカワ文庫SF('92) *ジョン・W・キャンベル記念賞受賞
4 Light Raid ('89) 『アリアドネの遁走曲』古沢嘉通訳/ハヤカワ文庫SF('93) *シンシア・フェリスと合作
5 Doomsday Book ('92)『ドゥームズデイ・ブック』大森望訳/早川書房('95)→本書 *ヒューゴー賞・ネビュラ賞・ローカス賞受賞
6 Impossible Things ('93) *第二短篇集
7 Remake ('94)→『リメイク』大森望訳/ハヤカワ文庫SF('99) *ローカス賞受賞
8 Uncharted Territory ('94) *英国版は「見張り」「女王様でも」を併録。
9 Bellwether ('96) *ローカス賞受賞
10 Futures Imperfect ('96) *7、8、9の合本
11 Promised Land ('97) *シンシア・フェリスと合作
12 To Say Nothing of the Dog ('97) 早川書房近刊予定
13 Miracle and Other Christmas Stories ('99) *クリスマス小説集
14 Passage ('01)『航路』大森望訳/ソニー・マガジンズ ('02) *ローカス賞受賞

 専業になってから数えても作家歴は二十年を超えるのに、合作を除く単独の長篇が七冊(中篇並みの長さしかない7、8、9を除けばわずかに四作)、短篇集が三冊(単行本未収録の作品まで含めても五十数篇))だから、意外と寡作だと言ってもいい。それでもそう見えないのは、新作を発表するたびに話題を集め、さまざまなアンソロジーに再録され、各賞の候補となるせいか(じっさい、主要SF賞の候補になった回数は全作品数を上回る)。

 全作品について詳述する紙幅はないが、単独長篇についてだけ簡単に。

 第一長篇の2は、夜ごと夢に見る南北戦争の光景をモチーフにした風変わりな歴史SF。伝わらないメッセージ≠ニいうモチーフは、本書や『航路』にも共通している。7は、生身の役者が存在しなくなった近未来ハリウッドを背景に、映画への情熱を失った主人公と、ミュージカル映画に出たいという時代遅れの夢を持つ女性との出逢いを描くSFロマンス。8は、異星で暮らす男女が訪れた客とともに未踏の地へと探検に赴く珍道中を(ポレティカリル・コレクトネスに対する皮肉をまじえて)スケッチ風に綴る小品。9は、民間のシンクタンクを舞台に、流行を研究する女性社会学者とカオス理論が専門の男性物理学者が恋に落ちる(SFでもファンタジーでもない)科学者ラブコメディ。最新長篇の14『航路』は、現代の総合病院で臨死体験を科学的に解明しようと研究をつづける男女を主人公にしたSFサスペンス大作で、恩田陸氏も指摘するように、本書とはモチーフや構成上の共通点が多い。
 まもなく邦訳が刊行される予定の12は、本書の続篇(もしくは姉妹篇)にあたるタイムトラベルSFなので、予告篇がわりにちょっとくわしく紹介しよう。

 主人公は二二世紀オックスフォード大学史学部の学生、ネッド・ヘンリー。ロンドン大空襲で焼失したコヴェントリー大聖堂の再建計画に駆り出されたネッドくんは、計画責任者の猛女、レイディ・シュラプネルにさんざんこき使われてあえなくダウン。看護婦から二週間の絶対安静を言い渡されたものの、現代にいたのではおちおち休んでいられない。同情したダンワージー先生の発案で、ヴィクトリア朝へと脱出することに。のんびりした休暇旅行を楽しむはずが、時空連続体の存亡を賭けた使命がゆだねられていようとは……。

 タイトルのTo Say Nothing of the Dogは、ジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』の副題から(丸谷才一訳によれば「犬は勘定に入れません」)。『ボートの三人男』は三人のヴィクトリア朝紳士がテムズ川の川下りに出かけた顛末を描く抱腹絶倒の傑作ユーモア小説だが、ウィリスはそのヴィクトリア朝小説の枠組みにSFや本格ミステリのネタを大量投入、(『ドゥームズデイ・ブック』とはほとんど正反対の)ハイスピードでめまぐるしいタイムトラベル・ラブコメディに仕立て上げている。

 たとえば、ネッドの相棒となる史学生のキンドルは、ドロシー・セイヤーズをしょっちゅう引用する大の本格ミステリおたく。自分たちをハリエットとウィムジィ卿になぞらえつつ、不可能状況下での花瓶消失事件≠ノ挑む。このパズラー要素に加えて、絵に描いたようなロマンス≠竅A頭が痛くなるほど複雑怪奇なタイムパラドックス要素もてんこ盛り。「でもこのシリーズの設定じゃ、パラドックスは起きないはずでしょ」と思った人は慧眼だが、起きないはずのことが起きてしまった、いったいなにがどうなっているのか――というのがSF的な核となり、シェイクスピア喜劇さながらの展開と本格ミステリの謎解きに加えて、ラストは怒濤のSFオチに雪崩れ込む。ウィリスの長篇はどうもプロットが単純すぎると思う人は、To Say Nothing of the Dogに乞うご期待。さすがにキヴリンは登場しませんが、後半、フィンチの大活躍が見られるので、フィンチ萌えの女性読者も必読。

 また、《ローカス》二〇〇三年二月号や《zone-sf.com》の最新インタビューによれば、ウィリスは現在、このシリーズの最新長篇となるAll-Clear(仮題)を執筆中。「見張り」やTo Say Nothing of the Dogでも部分的に描かれてきたロンドン大空襲に正面から挑む長篇となるらしい(仮題は空襲警報解除のサイレンから)。もう一本、UFOアブダクションとロズウェルを扱ったコメディも準備中だったが、9・11の衝撃からそれを白紙にもどして、テロ事件の悲劇とも背景が共通するAll-Clearを書くことにしたのだという。ある意味では、これがウィリスなりの、9・11に対する回答となるかもしれない(詳細は、www.locusmag.com/2003/Issue01/Willis.htmlwww.zone-sf.com/conniewillis.htmlを参照)。

 最後に翻訳について。単行本版では、ドロシー・セイヤーズ『ナイン・テイラーズ』(東京創元社)における平井呈一氏の訳業を参照しつつ鳴鐘法関連の訳語を決めたが、文庫版では集英社文庫版『ナイン・テイラーズ』の門野集氏の翻訳及び解説を参考にさせていただいた。また、創元推理文庫版『ナイン・テイラーズ』の巻末にも訳者の浅羽莢子氏による詳しい解説があるので、転座鳴鐘について興味のある方はそちらをごらんいただきたい。To Say Nothing of the Dog の予習にもなるので一石二鳥。

 単行本版でひとかたならぬお世話になった早川書房編集二課の嘉藤景子さんに続き、この文庫版では同編集部の上池利文氏にたいへんお世話になった。また、ご自身、『ライオンハート』『ねじの回転 FEBRUARY MOMENT』など優れた時間SFの書き手でもある恩田陸さんには、お忙しいなか、作家ならではの鋭い解説を寄せていただいた。記して感謝する。
 考えてみれば、本書の単行本版を突貫工事で翻訳したのはもう八年近く前のこと。校正作業の最中、バードリやキヴリンさながら病気でぶっ倒れて訳者が入院するアクシデントもあり、あらためて読み返すと赤面もののミスや訳語の不統一が目についたため、この機会に訳文は全面的にバージョンアップした。固有名詞の表記なども見直したので、単行本版との相違点は相当量に上るが、性能はいくらか向上しているはずなのでご寛恕いただきたい。
 また、著者の短篇リストや書評リンクなど、さらに詳しい情報は、訳者のサイトに併設したコニー・ウィリス日本語サイト(http://www.ltokyo.com/ohmori/willis/)をごらんいただきたい。

 では、近いうちに、『犬は勘定に入れません』(仮)をお届けできることを祈りつつ……。


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