●グレッグ・ベア『ダーウィンの使者』解説(ソニー・マガジンズ2000年4月刊)/大森 望




 本書は、1999年に発表されたグレッグ・ベアの最新長編、Darwin's Radioの全訳である。

「人類進化に正面から挑む本格SF」というハードな骨格を、すぐれて現代的な遺伝子スリラーに仕立て上げ、娯楽小説としても間然するところがない。うるさがたのSFファンを納得させる理屈と、一般読者をひきつけるけれん味たっぷりのプロット、そして男女の恋愛を軸にした人間ドラマ。SF作家魂を保ちながらマイクル・クライトン流のローラーコースターノベルに仕上げるという難事にかなりの程度まで成功しているのではないかと思う。

「グレッグ・ベアは小松左京の後継者だ」と前々から勝手に主張していたのだが、本書を一読してますますその意を強くした。ベアの出世作『ブラッド・ミュージック』が『復活の日』なら、『永劫』は『果しなき流れの果に』、そして人類進化をテーマにした本書は、もちろん『継ぐのは誰か?』に対応する。

 小松左京の名作『継ぐのは誰か?』が不可能状況の連続殺人をフィーチャーした本格ミステリとして幕を開けるように、『ダーウィンの使者』でもミステリ的な方法論が採用されている。数万年前のネアンデルタール人殺害事件の謎と、現代のグルジア共和国で発覚した大量殺人の謎。蔓延する奇妙な流行病。人間の体内から出現するレトロウイルス……。

 主役をつとめるのは、考古学者のミッチ・レイフェルスン、分子生物学者のケイ・ラング、ウィルス・ハンターのクリストファー・ディケンの三人。それぞれまったく無関係だったはずの三人の奇跡が交わるとき、壮大な人類進化の物語が幕を開ける。


 時は西暦二〇〇〇年代の初め。考古学者のミッチ・レイフェルスンは、アルプスの山奥で、ネアンデルタール人のものと思われる男女のミイラ化した遺体を発見する。女性のネアンデルタール人は、どうやら何者かに殺害されたらしい。遺体のかたわらには、産み落とされたばかりの赤ん坊のミイラ。だがその赤ん坊は、ネアンデルタール人ではなく、われわれと同じ現生人類――ホモ・サピエンスの一員だと判明する。

 同じころ、仕事でグルジア共和国を訪れていた分子生物学者のケイ・ラングは、国連からの依頼で専門外の法医学調査に駆り出される。大量殺人を隠蔽したとおぼしき集団墓地が発見されたのだ。発掘された遺体の多くは、赤ん坊を身ごもった母親たちだった。だれが、なんのために大勢の妊婦たちを殺害したのか?

 流産を引き起こす伝染病の噂を追ってグルジアを訪れていたCDC(疾病対策予防センター)のウイルス・ハンター、クリストファー・ディケンは、急遽本国に呼びもどされる。アメリカ国内で、流産胎児から未知のウイルスが発見された。どうやらこのウイルスが流産を引き起こしているらしい。胎児を殺すこの奇病に、CDCはヘロデ流感という通称を与える。だがそれは、ほんの始まりでしかなかった……。


 著者あとがきにもあるとおり、ベアは本書のために五年がかりで綿密なリサーチと取材を行っている。CDCやNIHはもちろん、グルジアのエリアヴァ研究所にいたるまで、本書に登場する組織や研究機関、学術誌のほとんどは実在のものだし、設定こそ数年先の近未来だが、現在進行形のアクチュアルな小説だと考えてさしつかえない。もちろん医学や生物学に関しても、最新の知見がふんだんに盛り込まれている。

 見慣れない学術用語が最初は難解に見えるかもしれないが、じっくり読めば遺伝子と進化の最先端がもたらす知的興奮が味わえるし、面倒なら読み飛ばしてもかまわない。それでは心もとない、あるいは「いったいどこまでほんとなの?」と気になってしょうがない読者のために、一応、基本的なことだけおおざっぱにおさらいしておこう。


 現代の進化論の主流は、圧倒的かつ文句なくネオダーウィニズム(総合説)である。簡単に言うと、ダーウィンの進化論(ダーウィニズム)を遺伝学の知識で現代的に補強したのがこれ。進化は個体レベルの小さな遺伝的変化(突然変異)の積み重なりと自然淘汰によって起きる――という説で、じゅうぶん長い時間さえあれば、大進化(海の生き物が陸に上がったり、鳥が翼を生やしたりするようなやつ)や種分化(新しい種の誕生)もこの仕組みで説明できるとしている。進化はなめらかで連続的な現象だいうのが総合説の基本的な立場で、これは漸進説(gradualism)とも呼ばれる。キーワードは自然選択(自然淘汰)。

 これに対して、『ワンダフル・ライフ』(早川書房)でおなじみの古生物学者、スティーヴン・ジェイ・グールドなどが提唱する「断続平衡説」は、総合説では化石記録をうまく説明できないというのが出発点。進化はなめらかで連続的なものではなく、長期間にわたる「静止」(いったん出現した種は、解剖学的な変化を起こさない期間が長くつづく)のあと、比較的短期間の突発的な進化的変化が起きるのだと主張する。

 グールドと並ぶ断続平衡論者のナイルズ・エルドリッジは、著書『ウルトラ・ダーウィニストたちへ』(シュプリンガー・フェアラーク東京)の中で、総合説支持者を還元主義者、自分たちをナチュラリストと定義している。おおまかに言うと総合説はミクロの視点(個体の遺伝子レベルの変化がすべて)、断続平衡説はマクロの視点(生態系を実体的なものと考える)と分類できるかもしれない。

 ただし、断続平衡説も自然選択を否定しているわけではなく、反ダーウィニズムとは一線を画している。跳躍的な進化は肯定しても、定向進化や目的論はもちろん否定する。じっさい、「進化に方向性がある」という考えかたをもっとも激しく攻撃しているのはグールド自身だろう。進化によって単純な生物から複雑な生物へと(下等な生物から高等な生物へと)変化してきたというのは、進化論にまつわる最大の誤解。人間みたいに複雑な生き物が生まれたのは、進化が複雑さを増すという方向性を持ってるからじゃなくて、多様性の幅が広がった結果に過ぎないとグールドはくりかえし力説している。

 創造説(神様もしくはそれに準ずるものが生物をつくった)とか、ラマルキズム(獲得形質は遺伝する)とか、テイヤール・ド・シャルダンやルドルフ・シュタイナーなんかの神秘主義的トンデモ進化論は、現在ではふつう、科学の範疇には属さないと考えられる。


 にもかかわらず、進化を扱ったSFは、反ダーウィニズム的な立場に立つものが多い。考えてみればあたりまえの話で、ダーウィニズムに従うかぎり、ドラマチックな進化を描くには数万年単位の時間が必要だから、小説のテーマになりにくいのである(逆に、小説だからこそ、珍説奇説を遠慮なく披露できるという面もある)。

 そこでベアは、「生物学的にプログラムされた進化」という考えかたを導入する。社会的なストレスをきっかけにこのプログラムが起動すると、ヒトゲノムの中に眠っているHERVが活性化し、ヒトという種のバージョンアップにとりかかるというわけだ。

 HERV、ヒト内在性レトロウイルス(human endogenous retroviruses)とは、作中でも説明されているとおり、ヒトゲノムの中に散らばる古代のレトロウイルスの名残り。むかしむかし人類に感染したレトロウイルスがDNAの中に入り込み、親から子へと伝えられてきたものらしい。要するに、人間(というか脊椎動物すべて)の遺伝子には、レトロウイルスみたいな構造の遺伝子が最初から組み込まれているわけである。もちろん、あなたのDNAにもわたしのDNAにもHERVはたしかに存在する。

 HIV(AIDSウイルス)のようなふつうの(?)外来性レトロウイルスは、人間同士の間で感染(水平移動)するのに対し、内在性レトロウイルスは、遺伝子の中に眠ったまま、親から子へと垂直移動するだけ。なんの害も及ぼさないかわり、なんの役にも立っていないように見える。

 ただし、ヒト以外の動物では、内在性レトロウイルスが感染力を持つウイルス粒子を形成する例もある。ブタ内在性レトロウイルスがヒト細胞に感染する例はすでに報告されていて、動物の臓器を移植する場合に問題が生じる可能性があるという。

 だったらヒト内在性レトロウイルスが活性化して、ウイルス粒子をつくり、水平感染するようになる可能性もあるだろう――というのが本書の仮説。そこから先はまったくのフィクションだが、素人目にはじゅうぶんリアリティを感じさせる。

 SHEVAと名づけられるこの新型レトロウイルスは、もともとヒトゲノムの中に眠っていたものだから、人間の体が発生源。男性の体内にあるかぎり無害無益だが、性交渉を通じてパートナーの女性に感染すると、その女性に流産を引き起こす。ヘロデ流感と名づけられたこの病気が全世界に広がっていく過程には、ウイルスパニック小説さながらのスリルとサスペンスがある。

 ただし、本書がウイルスパニック物と決定的に違うのは、それがたんなる伝染病ではないという点。ヒトの進化(亜種分化)を促すもの――すなわち「ダーウィンの使者」だという仮説をめぐる丁々発止の議論は、すぐれたSFならではの興奮を与えてくれる。
 ダーウィニズムの観点からは受け入れがたい仮説かもしれないが、そこに目くじらをたてるのは本末転倒だろう。「もし一世代でヒトに亜種分化が生じるとしたら」という(現代の進化論から見るとありえない)前提が先にあり、この思考実験を可能なかぎりリアルに科学的にシミュレートしたのが本書なのである。それにもちろん、いくら主流だといってもネオダーウィニズムが(あるいは断続平衡説が)ぜったいに正しいという保証はない。本書に書かれているようなことが起きないとは限らないのだ。

 ちなみに、日本人の目から見ると、本書で展開される仮説はけっこう今西進化論に近いんじゃないかという気もする。「変わるべきときに変わるんや」というやつで、直感的には納得しやすく、いまもファンが多いようだ。


 お読みになった方はおわかりのとおり、本書の結末は一種のオープン・エンドになっている。SF情報誌《ローカス》の二〇〇〇年二月号に掲載された著者インタビューによれば、続編の構想もあるらしい。タイトルは、そのものずばり、Darwin's Children。書かれるとしてもまだかなり先のことになりそうだが、楽しみに待ちたい。


 さて、本書の翻訳にあたっては、著者と同様、専門家の方々のお世話になった。国立遺伝学研究所の野田令子博士には門外漢の訳者が手探りでつくった訳稿を綿密にチェックしていただいた。また、多忙な中、推薦文をお寄せいただいた瀬名秀明氏にも、訳語について貴重なご指摘を受けた。記して感謝する。もちろん、誤りはすべて訳者の責任である。本書翻訳の機会を与えていただいたソニー・マガジンズ編集部の鈴木優氏にも感謝する。
 最後に私事を書かせていただく。訳者の年来の友人であり、社外校正者として本書を担当してくれた岩井博子さんが、この本の初校ゲラのチェックを終えた昨年十月、思いがけず急逝された。謹んで冥福を祈るとともに、せめてもの感謝のしるしとして霊前に本書を捧げたい。ありがとう、そして安らかに。






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