R・A・マカヴォイ『黒竜とお茶を』(ハヤカワ文庫FT)解説


   解 説

大森 望  

 本書は、一九八三年のジョン・W・キャンベル新人賞とローカス賞を受賞した、R・A・マカヴォイの処女長編、 Tea with the Black Dragon の全訳です。なんともすてきなこの物語を、どうか心ゆくまで楽しんでください。
 ……と、これだけ書けば解説の役目ははたし終えたも同じ。ほかにまだなにかつけくわえることがあるとすれば、そう、どこか表通りに面した喫茶店の窓側の席に座って、晴れた日曜日の昼下がり、お茶でも飲みながら読むのが理想的な本、ということくらいでしょうか。あなたがよほどひねくれた人でないかぎり、一度読みはじめたらやめられなくなることは確実ですから、なるべくほかに予定のない日を選んで、のんびり席に腰をおちつけましょう。そして、読書のお伴は、やっぱり熱い烏竜茶がベスト。

 というわけで、以下はなくもがなの蛇足、せめてお茶受けにでもなればいいのですが……。本書タイトルの由来でもある烏竜茶の起源については、おもしろい話があります。

 唐代のはじめごろ、福健省の南に鳥三という強力で知られる男がいた。ある日この男が山を歩いていると、漆を流したように黒い一頭の竜が、底なし沼で溺れかけていた。竜は何度も翼をはばたいて抜け出そうとするのだが、飛び立つことができない。不憫に思った鳥三は、竜の尾をつかみ、持ち前の怪力でえいとばかりに引き上げた。黒い竜は助けられた礼をいい、
「この爪をおまえにやろう。土に埋めて三十日のあいだ待つがいい」
 と、前足の爪を差し出した。鳥三はいわれるままにその爪を引き抜き、村にもどると、裏庭に穴を掘ってその爪を埋めた。ひと月ほどして、爪は芽を出し、やがて大きな茶の木になった。試みにその葉を摘み、煎じて飲んでみると、病が癒え、足なえだった者は歩けるようになった。以後、その村の人々はみな長生きし、天寿をまっとうした。

 ……とはいえ、もちろんみなさんご存じのとおり、「烏竜茶の木」などというものはこの世に存在しません。茶の葉をそのまま熱して乾燥させたものが緑茶、発酵させたものが紅茶、そしてその中間の、半発酵させたものが烏竜茶。それはわかっていても、「烏竜茶」という名前には、ついこんな空想をしたくなってしまうような奇妙な魅力があります。作者のマカヴォイ自身、きっとそんなふうにして、この不思議な物語を思いついたのにちがいありません。
 じっさいの烏竜茶の起源については諸説あるようです。半発酵させた茶の葉の色が黒く、ねじれたかっこうが竜に似ているのでそう名づけられたという説、あるいは、中国のウーロンという地方ではじめられた製法だから、という説。
 いずれにしても、残念ながら「烏竜」というドラゴンは存在しないようで、中国語で「烏竜」というと、黒犬を意味するのだとか。ルイス・キャロルが「まがい海亀のスープ」から「まがい海亀」という架空の動物をつくりだしたように、マカヴォイは「烏竜茶」から「烏竜」、すなわちブラック・ドラゴンをつくりだしたのでしょう。しかも、その竜は精巧なティー・カップを手に、いつもお茶を飲んでいるというのですから、これはまさしく、あの破天荒なファンタジー〈魔法の歌〉三部作の作者らしい茶目っけですね。
 ビジネス・スーツをりゅうと着こなす言語のエキスパートで、教養あふれるダンディな初老の紳士。しかしてその実体は、〈真実〉を探し求めて人間に化身した、齢千歳以上を数える中国生まれのドラゴン。そのメイランド氏が、旅先のホテルで出会った中年のフィドル奏者マーサとともに、彼女の失踪した娘を探すうち、いつしか大きなコンピュータ犯罪に巻き込まれてゆく……。
 この魅惑的な設定(と、おしゃれなタイトル)で、『黒竜とお茶を』の成功はあらかじめ約束されていたといっていいでしょう。じっさい、メイランド氏ほど魅力的な人物には、本の中でもそうそうお目にかかれるものではありません。彼の魅力に心酔してしまったマーサやエリザベス、フレッドならずとも、彼の飄々とした、それでいてどこか子供っぽいところのあるキャラクターは、だれだって好きにならずにいられないでしょう。
 ドラゴンの出身だといっても、いまのメイランド氏はあくまでふつうの人間で、悩みもすれば恋もするし、不安や恐れ、けがや病気とも無縁ではありません。まさかのときには竜に変身して火を吹く、というのなら便利なのですが、〈真実〉の探求とひきかえに、彼は竜としての能力すべてを失ってしまうのです。〈魔法の歌〉三部作をすでにお読みになった方なら、人間界に干渉したことによる大天使ラファエルの堕落の物語に、人間となることで超越的な力を失ったメイランド氏のイメージが重なるかもしれません。あるいは、人間に恋して人間になってしまった、アンデルセンの「人魚姫」の人魚や、ヴィム・ヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」の天使の物語を思い出すこともできます。
 偉大な存在だったものが、その力と引き替えに人間になってしまう物語は、いつでもわたしたちに一種の切なさを感じさせます。けれど、この物語のメイランド氏は、その愛すべきキャラクターで、失ったものの大きさを包み隠し、人間であることの喜びを語ってくれます。一種の貴種流離譚でありながら、本書があくまで明るいトーンを失わないのは、彼の性格描写と、しゃれた会話のセンスによるところが大きいといっていいでしょう。たとえば、本書のはじめのほうで、コンピュータにうといマーサを手を貸して、エリザベス探しを申し出るシーン。

「とおっしゃると、つまり、コンピュータのこともご存知ですの……。アイルランドや中国と同じように……」
 メイランド・ロングは肩をすくめる。素晴らしい仕立てのスーツ・ジャケットの下の肩も薄く、
「言語は言語ですから」

 ところで、いったいこの愛らしい物語は、なんと呼べばいいのでしょうか。受賞したふたつの賞はどちらもSF畑の賞ですから、SFなのでしょうか。いえ、物語の構造からすれば、ミステリイ、あるいはサスペンスという言葉が似つかわしいようです。モダンな都会小説? なるほど、アメリカ現代文学の収穫として、マキナニーやエリスの小説のとなりに並んでいたとしても、そんなに違和感はないかもしれません。それとも、シリコン・ヴァレーを舞台に繰り広げられるコンピュータ犯罪小説? たしかにそのとおり。そのどれでもあるような、どれでもないような……。
 でもやっぱり、この物語には、ファンタジーという呼び名がいちばんふさわしいような気がします。〈魔法の歌〉三部作やFT文庫の異世界ファンタジーのファンのかたには、「ええっ、こういうのもファンタジーなの!」と思ってしまう人がいるかもしれませんが、コマーシャル・ファンタジーの中には、異世界ファンタジーと並んで、現実密着型、あるいは侵入型ファンタジーと呼ばれるタイプの作品があります。現実の世界を舞台にしながら、なにか非日常的な存在がはいりこんでくる(ブラッドベリの『なにかが道をやってくる』など)。あるいは、主人公がなんらかの呼びかけに応えて非日常的な世界にはいこんでしまう(ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』など)。また、このほかにも、ジャック・フィニーのゲイルズバーグや『ウィンターズ・テイル』のニューヨークのように、現実と幻想のはざまの不思議な空間を舞台にしたファンタジーもあります。
 もっとも、そうした現実密着型ファンタジイの中でも、本書がとりわけユニークな存在であることはまちがいないでしょう。舞台は現代のアメリカ。どこか不思議な雰囲気を漂わせているとはいえ、メイランド氏は(少なくとも外見上は)ふつうの人間ですし、物語の中で、現実では起こりえないようなできごとが起こるわけでもありません。意地悪く読めば、むかし竜だったというのはまったくのほら話で、メイランド氏は希代の詐欺師だったり、誇大妄想狂だったりと考えることもできます。
 それにもうひとつ、本書を一風かわったファンタジーにしているものに、コンピュータがあります。コンピュータと竜のとりあわせ自体は、いまやべつだん珍しいものではなくなりました。ドラゴン・クエストVのやまたのおろちを思い出すまでもなく、コンピュータ・ロールプレイング・ゲームの世界では、ドラゴンはなくてはならないキャラクターのひとつ。
 とはいうものの、その反対に、ファンタジーの中にコンピュータが登場する、となると、すぐには思い出せません。なかんずく、中国の竜の化身が、現実にあるパソコンを自在に操ってしまうような小説は、本書がはじめてでしょう。
 自身、本書発表当時はコンピュータ・プログラマとして生計をたてていたマカヴォイのこと、ファンタジー的な設定が人気を誇るコンピュータRPGを念頭において、それならばその逆をと、コンピュータ・フリークの竜(?)を小説に登場させたのではないでしょうか。(念のためにいっておきますと、コンピュータの知識には関係なくしっかり楽しめる小説ですから、コンピュータ恐怖症のかたもご心配なく。)
 こんなぐあいに、『黒竜とお茶を』は、(〈魔法の歌〉三部作がそうだったのとはまた別の意味で)ファンタジーとしてはきわめて型破りな小説ですが、それにもかかわらず、ファンタジー以外のなにものでもない香気を放っているのは、作者のマカヴォイが(のちの作品で証明したように)ファンタジーを歌う声をもっているからではないでしょうか。「上質の、そしてまったくユニークなファンタジーに出会うときの驚きは、じつに楽しいものだ」と、井辻朱美さんが『ダミアーノ』の訳者あとがきでお書きになっていますが、その言葉はこの処女作についてもそっくりそのままあてはまります。きっと楽しい驚きが味わえることでしょう。
 単純な真実によって救済がもたらされるというビジョンや、本書の背景をなす禅のことなど、まだまだ書いておきたいことはありますが、紙数もつきたことですし、野暮に野暮を重ねるのはそろそろおしまいにしましょう。せっかくの熱い烏竜茶が冷めてしまいますから。

 おっと、最後にひとつだけ。マカヴォイは昨年、本書の続編にあたる長編「ロープをひねって」Twisting the Rope を発表しています。メイランド氏はマーサの率いるバンドのマネージャーにおさまり、一行はエリザベスの三歳になる娘マーティを連れて、アメリカ各地をを巡業中。そこに事件が……というわけで、本書ですっかりメイランド氏やマーサの魅力のとりこになってしまった人は、ハヤカワ文庫FTの編集部に続刊希望のお便りをどうぞ。




top | link | board | other days | books