渡辺浩弐『アンドロメディア』(幻冬舎文庫)解説(1998年5月)


   バーチャルアイドルの神話、または220万光年の孤独

大森 望  



 バーチャルアイドルとはなにか――という問題に明解に定義することは、じつはけっこうむずかしい。
 コンピュータ用語のバーチャルリアリティ(以下VR)は単純にインターフェイスの問題だが(データグローブにヘッドマウントディスプレイの3D世界)、新聞やTVでは2Dのアニメやゲームまで、なんでもVRで説明されてしまう。ポケモンにハマるのが「仮想現実への没入」なら、『源氏物語』だって一種のVR環境だろう――と思うのだが、ここまでべんりに拡大解釈されてしまうとしかたがない。
 それと同様、バーチャルアイドル≠ニいう言葉も本来の意味から拡張されて、藤崎詩織やイリス・シャトーブリアン、星野ルリや姫宮アンシーなど、セル画のゲームキャラ/アニメキャラを指して呼ぶケースが少なくない。雑誌の《バーチャルアイドル》はこうした二次元美少女キャラ専門誌だったし、海外ウェブサイトの《VIRTUAL IDOLS》は、「japanese artists and personalities whose works are involved within the popular music themes behind the anime, game, and radio drama programs」の専門ページという具合。
 一方、実物が存在しない(文字通り仮想的な)アイドル≠ニいう意味で、「伊集院光のオールナイトニッポン」から90年にデビューした架空のアイドル、芳賀ゆい≠指して元祖バーチャルアイドルと呼ぶこともある(関係ないけどデビュー曲の作詞は奥田民生、アレンジは小西康陽でした)。最近では、バーチャルアイドル声優≠名乗る麻績村まゆ子(81プロデュース所属)のように、仮想的な存在であることをウリにする声優まで出現しているけれど、芳賀ゆいにしろおみまゆにしろ、生身の人間が架空の設定のアイドルを演じている(二重の虚構化)に過ぎない。
 VR本来の意味から考えれば、正しいバーチャルアイドルとは、三次元のCGIキャラクターでなければならないはず。そこで登場するのがホリプロの伊達杏子……と話を進めるのがお約束だが、じつはDK-96よりはやく(あるいは『マクロス・プラス』や『KEY』よりはやく)、日本初の三次元(疑似)CGIバーチャルアイドルがひっそりと誕生している。
 彼女の名はソフィー。88年2月に発売された『GTV』創刊号からレギュラー・パーソナリティをつとめた女性キャラクターである。「マックス・ヘッドルーム」にインスパイアされて登場したソフィーは、残念ながらフルCGIではなくCGふう≠フダミーだったが、これは当時の技術的・予算的事情が許さなかっただけの話で、明らかにバーチャルパーソナリティを志向している。この初代『GTV』(ゲームテック・ビデオ)は、コンシューマ用TVゲームソフト紹介のビデオマガジンで、その編集長は、当時まだ学生だった渡辺浩弐。
 つまり渡辺浩弐は、コンピュータゲーム業界に関わった最初から、バーチャルアイドルとともに歩んできたわけだ。はじめての長編小説『アンドロメディア』の題材としてバーチャルアイドルを選んだのも当然だろう。おなじAIドル¥ャ説でも、ウィリアム・ギブスンの『あいどる』(浅倉久志訳/角川書店)とは年期が違うのである。

 ……と、すっかり前置きが長くなってしまったけれど、本書『アンドロメディア』は、97年5月、幻冬舎から刊行された著者初の書き下ろし長編である。
 書籍版の出版に先立ち、NIFTY-Serveの公開PatioとインターネットのWWWサイト(http://www.gtvnet.co.jp/andro/andromain.html)では第2章までがプレビュー公開され、WWW掲示板の「アンドロメディアBBS」では、著者を交えて作品に関する活発な意見交換が行われていた(当時のログは前記のサイトで今も読むことができる)。ひとりでに成長していく人工生命≠ニいうイメージが、インターネットそのもののメタファーでもあることを考えれば、これ以上ないほどうってつけの舞台が用意されたわけだ。
 本書の内容について、著者は、
「バーチャルアイドルをテーマにした冒険小説というか恋愛小説というか官能小説というか。現実の人気アイドルのクローンとして制作されたAIの美少女が、やがて電脳空間の中で自意識を持ち、覚醒し、暴走していく……そんな話です」
 と説明している(《週刊SPA!》連載「渡辺浩弐のバーチァリアン日記」より)。
 この言葉からもわかるとおり、『アンドロメディア』の最大の特徴は、そのジャンル横断的な構造にある。恋愛にも冒険にも、SFにもホラーにもミステリにも特権的な中心を持たない、物語の分散型ネットワーク。インターネットさながら、『アンドロメディア』はさまざまな小説ジャンルを相互接続してゆく。
 自我を持つ人工生命というモチーフは、従来ならまちがいなくSF小説の領分だった。しかし、バーチャルアイドルをSF的な文脈で使う場合には、いくつか大きな障害がある。たとえば、AIを人間とは別種の機械知性と考えた場合、アイドル的な外見はAI自身にとってなんの意味も持たない。グラフィックは人間とのインターフェイスのためだけに存在するわけで、SF的にリアルな人工知性は、ジョーゼフ・ディレイニー&マーク・スティーグラーの『ヴァレンティーナ』(新潮文庫)、アストロ・テラーの『エドガー@サイプラス』(文藝春秋)、オースン・スコット・カードの《エンダー》シリーズ(ハヤカワ文庫SF)などに描かれるとおり、一定の姿かたちを持たない。
 それではかわいくないというので、美少女型の専用匡体を用意したのがエイミー・トムスンの『ヴァーチャル・ガール』(ハヤカワ文庫SF)だが、ボディを持った瞬間、もはやバーチャルな存在ではなくなってしまう(ちなみに、TVアニメ『アンドロイド・アナ MAICO2010』も同様のパターン。しかしAI搭載の美少女アンドロイドによりによってなぜラジオのパーソナリティやらせるのかは謎ですね)。
「自意識をもって思考するプログラム」がいったいなにを考えるのか――というのも、考えれば考えるほど頭が痛くなる問題だ。時間感覚も身体感覚も人間とまったく違うわけだから、人間とおなじように考えるのは明らかにおかしい。しかし、そのあたりのリアリティを追求した井上夢人の『パワー・オフ』(集英社)や、ルーディ・ラッカーの『ハッカーと蟻』(ハヤカワ文庫SF)でも、AIの思考過程そのものに立ち入ることは周到に回避されている。
「機械知性がなにを考えるか」について、わずかなりとも説得力のある回答を導き出した例としては、かろうじて、東欧の巨人スタニスワフ・レムの先駆的名作「GOLEM XIV」(国書刊行会『虚数』収録)があるが、そこまでこの問題をつきつめると、エンターテインメントどころか小説でさえなくなってしまう。
 バーチャルアイドルにつきまとうこうした問題点を、『アンドロメディア』はコロンブスの卵的な発想で巧妙に切り抜ける。
 タカナカヒトシが開発する人工知能AIは、生身のアイドル、人見舞のダミーとして出発する。人間のスタンバイ要員である以上、本人そっくりの外見を持つことは不可欠だし、人間の頭の中身をコピーした以上、AIの思考過程が人間的≠ノなるのも当然というわけだ。
 コンピュータ・テクノロジーの発達とくらべて、人間の脳に対する研究はまだ端緒についたばかりだから、「頭の中身をコピーする」という発想そのものが、小説のリアリティを損なうおそれはある。しかしここでも、「ある特定の個人の脳の状態を、そのあらましだけでも、複雑で不条理なまますっぽりと電脳空間に移植してしまうことは可能なんじゃないか」という発想(ブラックボックスをブラックボックスのままコピーすること)が、設定に説得力を持たせている。
 チャールズ・プラットの『ヴァーチャライズド・マン』(ハヤカワ文庫)がこれと同様のアイデアに基づく本格SFだが、『アンドロメディア』はSFの枠組みを軽々と越えて、テクノロジーのフロンティアや、ゲーム、アニメ、映画、小説などのアイデア、イメージを貪欲に吸収しつつ、大胆にリミックスしてゆく。
 天才プログラマ、タカナカヒトシの視点からAIの誕生を物語る本書第1章は伝統的なサイエンス・フィクション(マッド・サイエンティスト物)の手法。生身のアイドル、人見舞の視点から奇怪な体験をニューロティックに描く第2章はサイコサスペンス的な手法。そして第三部では、明らかにサイバーパンクを(あるいはウィリアム・ギブスンの短編「記憶屋ジョニイ」を原作とする映画「JM」を)意識した叙述スタイルが採用されている。第2章で提出された「幻想的な謎」に意外な解決を与える本格ミステリ的な趣向(『人見舞削除計画』)も見逃せないし、AIの記憶の欠落をめぐるエピソードは、映画「ロボコップ」を思い出させる。
 そしてクライマックスの第5章では、それまでのSF的合理性をかなぐり捨て、瀬名秀明『パラサイト・イヴ』(角川ホラー文庫)さながらの派手なスペクタクルに向かって、モダンホラー方向に暴走しはじめる。人間に襲いかかるコンピュータのグロテスクなイメージには、電脳ホラー映画草創期の傑作「デモン・シード」のエコーが聞きとれる。。
 しかし、章ごとに視点を移し、現代エンターテインメントのさまざまな要素をジャンル横断的にリミックスしながらも、『アンドロメディア』はリーダビリティの高さを失わない。スピーディな文体の力ももちろんあるが、近未来テクノロジーと風俗のきらびやかな衣裳の下に、古典的な物語の堅牢な骨格を隠しているらでもある
 AIの誕生と暴走という物語構造は、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』以来の系譜に連なる。ヴィクター・フランケンシュタイン=タカナカヒトシは物語の途中で退場するが、コバヤシユウとAIの関係は、『アラジンと魔法のランプ』や『パンドラの匣』を思わせる。原型的な物語を下敷きに選ぶことで、SFやホラーになじみのない読者にもすんなり入っていける小説世界が構築されているわけだ。
『フランケンシュタイン』の物語が現代のプロメテウス神話なら、英雄ペルセウスに救われたエチオピアの美姫の名をタイトルに織り込んだ『アンドロメディア』は、近未来のアンドロメダ神話にほかならない。
 アイドルという存在自体、一種のオリジナルのないコピー≠セとすれば、アイドルのコピーをめぐる『アンドロメディア』こそ、このVRの時代にふさわしいエンターテインメントだろう。



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