●海外SF問題相談室2(小説奇想天外2号/大陸書房)88年3月12日作成

 池袋ビックカメラ短期バーゲン七八〇〇円の任天堂サイバースペース・デッキに、苦労してやっと手に入れたエニックス社2メガROM構造物を挿入し、コントローラ片手に 没入{ジャックイン}。魔王バラモスはとにかく強い。光の玉、ギガデイン、フバーハ、スクルト。マヒャド、吹雪。げげ。ベホマ、ギガデイン、攻撃、バイキルト。凍てつく波動。そ、そんな。吹雪。げげげ。マヒャド。あ。
 おうおうおう、ここまで来るのに三十分かかるのに、なけなしの祈りの指輪でMP全快したのに、神様、これでもまだ修業が足りぬとおっしゃるのですか。六十時間だ六十時間。あちゃらかSFなら三十冊は読めた。ペーパーバックなら六、七冊。グイン・サーガ全巻読破も不可能ではなかった。〈新しい太陽の書〉とゴーメンガストを足してお釣りがきた。わかっているのだ。だからどうした。だいたいドラクエもやらずにサイバーパンクがどうのとごたくを並べる奴は信用できない。ぜったいなにかがまちがっていると思う。
 そういえば、ドラクエIIは去年の日本SF大賞候補作だ。授賞パーティの審査員代表スピーチで、石川喬司は、
「ドラゴン・クエストIIを審査するということになりますと、これはもう数十時間かかってしまうわけでして、たいへん頭を痛めたのですが、さいわい来年にはドラクエVが出るそうで、SF大賞というのは、シリーズ物は完結してから評価するという趣旨でございますので、今回は見送ることにした、というわけであります」
 と述べた。つまり、ドラクエIIIが今年のSF大賞候補になれば、三作合わせてちゃんと審査されるのだ。なんだかわからんが楽しみだなあ。川又さん山田さん火浦さん伊藤さんみんなドラクエIIIに投票してね。

 論理的必然でこのところ本はあまり読めなかったが、前号でのCPに関する予言は着々と現実のものになりつつある。二月にはご本尊のウィリアム・ギブスンが講談社・ペントハウスの招きで来日、フライデイをはじめとする各紙誌にギブスンならびにサイバーパンクの文字が踊った。わたしは見ていないのだが、彼はTBSの Catch Up にも出演したらしい。来日前には、
「ギブスンならアトランタとブライトンとでもう二回も見てるから、いまさら日本で公開されたって見る気しないよ。ま、おれの見たときは字幕ついてなかったけど」
 などとほざいていたわたしではあるが、費用講談社持ちの歓迎パーティがあると聞いたとたんころっと態度を変え(変わり身が早くなくてはこの業界では生きていけない)のこのこ出かけていきました、はい。ペントハウスの編集長氏は「ウィリアムソン・ギブソン氏をお迎えできたことは……」とかいっちゃうし、会場はいかにもいまっぽい無国籍料理屋だし、ギブスンは髪を伸ばしてるし、ファッション関係だとか映像関係のなんだかよくわかんない人たちがうじゃうじゃいるし、ああ、やっぱり「SFは行ってしまった」(浅倉久志)んだなあ、と感慨にふけっていた折しも、翌々週くらいに出た週刊読書人を見て驚いた。一面が写真入りでギブスン・巽孝之対談。ページをめくると新戸雅章のCP論、山田和子のダルコ・スーヴィン・インタビュウ、おまけで志賀隆生の亀和田武『時間街への招待状』書評までついて、さながらSF特集の趣き。
 冒頭対談は、巽孝之のインタビュウ・構成。いつもは冷静なレポーターに撤している巽孝之が、めずらしくもはしゃいで足をすべらせているのがほほえましい。よせばいいのに「若い者にウケようと思っ」た(本人談)らしくて、ギブスンが「ボクの考えている未来像とはちがった。何というか、あまりにキレイでスッキリまとまった感じでさ」てな調子でしゃべり、スゴイ、ピッタリ、ヒト、ワクワク、そのセンで、ショゲて、なんてカタカナを連発する。でもね、ナウなヤングはだれもこんなコトバでダベっちゃいないんですよ、タツミ先生。あと、あげ足とりの名人巽孝之とも思われないケアレス・ミス(「エイリアン」を「エーリアン1」にしているのはご愛敬だが、「ニア・ダーク」を「ニュー・ダーク」なんて書いてるとヒアリング能力を疑われますぜ)もあり、うーん業界先端人に囲まれてギブスンと「やあやあビル元気かい」なんて話をしちゃうと、あの沈着なる批評機械にもバグが生じるのか、巽孝之も人の子だったのだなあ。
 ところで、時代と寝ようとするこの果敢な決意とみごとな対照的を見せているのが、ニューウェーヴとフェミニズムSFの元闘士・山田和子。
「ただ、二十年前と現在では世界は大きく変わっています。今の若いSF作家たち、いわゆるサイバーパンクの作家たちと言ってしまっていいのですが、彼らの作品は果たしてどの程度のパワーを持ちえるのか。例えばラスやル・グィンがフェミニズムSFを明確に意識化できたのは、当時の時代・世界の全体がグローバルなスケールで動いていたからだと思うんですね。しかし、以後、世界は沈滞に向かう一方です。快適な、テクノロジカルな意味でのダイナミズムはあるにしても、本来的に小説にかかわってくる、時代の、世界のダイナミズムはほとんど失われてしまっている……」
 インタビュアーの枠をおおきく踏みこえる過激な発言で、頑固一徹もここまでくるといっそいさぎよい。でも、ぼくにとってはおニャン子クラブとドラクエVが時代のダイナミズム。科学と技術を切り離して技術のほうを批判するのは山野浩一以来NW派の伝統みたいだけど、テクロノジーの進歩は本来的に小説とは無関係とまでいいきる自信は、ハードSF嫌いを自認するこのわたしにもちょっとない。ま、たしかに冷蔵庫のしくみを知らなくても小説は書けるし、ニューウェーヴとフェミニズムだけがSFなら問題はないんだけどさ。海千山千のダルコ・スーヴィンはさすがに老獪で、山田和子の挑発には乗らず、CPが「SFに新しいヴォキャブラリイをもたらした」点を積極的に評価する。もちろん、ギブスンの世界に対する態度は敗北主義的ではないかと批判も忘れないのだが、敗北主義こそぼくたちの時代のパラダイムだとすればそれもいたしかたあるまい。「何か別の可能性」なんてありはしないのだ。

 話は変わるが、隠喩【メタファー】というやつはどうもうさんくさくて好きになれない。「SFは、ファンタジイも含めて、隠喩ではありえない」(中島梓)という意見があるかと思えば、サイエンス・フィクションは隠喩【メタファー】以外のなにものでもない(ただし寓喩【アレゴリイ】ではない)」(中村融)という人もいる。SFにとって隠喩とはなにか、は、どうやら大問題らしい。だいたい、隠喩というからには、表に出ないで隠れているわけで、それを無理やりひっぱりだしてくるんだからやっかいだ。これがまた、無意識の隠喩、なんていいだすともっとわけがわからなくなるのだが、いったいなんの話かというと、ご想像のとおり、現代SF不滅の金字塔、元祖CP、ついに出ました待ってました伊藤さん、のサミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』。本書の場合にはきわめて意識的な隠喩が伝統的スペースオペラのパターンの裏に隠されているわけだが、隠れたままでだれも発見できないとつまんない、と、当時まだ若かった(二十五歳、ばかやろう、おれより若いじゃねえか)ディレイニーは考えたのか、最後の最後にここ掘れわんわんマークがついている(解説参照)。掘ってみるといいことがありますよ、というわけで、あわてたSFファンが「しらべる」のコマンドを入れてみると、あるわあるわ、大判小判がざっくざく。そうして見つけた宝のありかを懇切丁寧に書いてくれているのが伊藤典夫の訳者解説。うーむ、最近の(でもないな)SFは必勝本がないと読めないのか。しかし、ここまで書いてしまっては実も蓋もないんじゃないかしら。そりゃま、「心強いコムパニオン」(高橋良平)かもしれませんが。
 若いころのディレイニーというのはとにかく頭がよくって、びしばしに才気走ってて、どうだ、おれはこんなに頭がいいんだぜ、ばかなSFファンにゃわかんないだろうけどよ、といって書いたのが『ノヴァ』なんだ(たぶん)。スペオペ書いたって超一流だけど、ただのスペオペじゃないんだぜ、と、それまでの知識の蓄積のありったけをほうりこむ。ごていねいに、ここ掘れわんわんマークつきで。考えてみるとつくづくいやな奴だが、向こうは神童こっちは凡人だから勝負にならない。ただ、それを承知で凡人なりの文句をいえば、後半スペオペのプロットにななんの関係もないタローの話なんかがどさどさ出てきて、明らかにメタファー小説っぽくなってくると、ストーリイはSFの、ではなく、メタファーの必然性で進み始める。いいかえれば、メタファーの侵食によってスペオペ世界が破壊されいるわけで、こいつはあんまりおしゃれじゃない。ひそかな楽しみというのはめったな人間にはわかんないようにやるのが粋なんで、こう露骨では嫌味というもの。メタ・スペオペ作品としては、ジャック・ヴァンスの〈魔王子〉シリーズがあるけれど、あっちのほうが大人の余裕があって、あたしゃすきですね。同じディレイニーなら『エンパイア・スター』のかわいさをとりたい。癪にさわる傑作、●90点。(ところで伊藤訳のプレアデス方言は大ウケで、仲間うちではしばらくプレアデス人ごっこがはやりました。「いなおれ食べる大根」とか、「かな章子怒るといな帰る家いますぐ?」とかね)

 またも話が変わる。オースン・スコット・カードが出してるファンジンの最新号をぱらぱらめくっていたら、「サイエンス・フィクションと十代の自殺」と題されたスー・デニムの遺作が載っていた。『SFの本』で小川隆が何度か紹介しているのでご存じの人もいるかもしれないが、スーちゃんは芳紀まさに十八歳のトンガリ女子高生SFキッズ。なぜこれが遺作となったかについては、プラット、スターリング、ケッセル、シャイナー、巽孝之、スティーヴ・ブラウン、ギブスンなどなどを巻き込んで、昨年の日米SF界を震撼させたとある事件の話をしないといけないんだけど、長くなるのでパスして、まずその生の声をお伝えしよう。
「ねえママ、あたしいま大喜びしてなきゃなんないの。だってベイン・ブックスがあたしのファンタジイ三部作を買ってくれたばっかだし、それにアメリカSF作家協会に入れることになってほんとうれしかった。だって、高校生でSFWAにはいってる人が何人いるっていうの? 亀の甲より歳の甲って世界だし。だからあたし、りっぱなSFWA会員になんなきゃと思って、今年のネビュラ賞候補作を全部そろえてじっくり読みだしたわけ。ところがどうしたと思う? すっかり読みおわってから、あたしは下に降りてって、パパがクロゼットの奥に隠してあった四五口径のオートマティックをさがしだし、部屋にもどってこの遺書を書きはじめたの。
 みーんな落ちこむ話ばっか。たとえばリー・ケネディの……」
 ……以下、スーちゃんはえんえんとネビュラ賞候補作をけなしはじめる。これまたなかなかの名調子なんだけど、残念ながらカットして、
「あたしずっとジェイスンとジェニファーのこと考えてたんだけど、ママ、覚えてるでしょ? 去年の冬だっけ、オジー・オズボーン聴きながらガレージん中で自殺しちゃった子よ。ヘビメタの詞のせいで自殺したんだって大騒ぎになったけどさ、あの子たちが詞なんか聴いてたわけないって。ヘビメタ聴いてて自殺したくなるとしたら、そりゃ詞じゃなくて曲のせいよ。ずぇったい退屈なんだもん。おんなしスリー・コード、おんなしかったるいリズム、おんなしハーモニー。これって六〇年代の終わりからなーんも変わってないんじゃない?」(オジー・オズボーン・ファンクラブ元会長の美鈴ちゃん、ぼくがいってんじゃないから怒んないでね)
「あたしがいいたいのは、マーガレット・アトウッドとモトリー・クルーのどこが違うのかってこと。お決まりのうざったいスリーコード、派手な衣装に派手なメイク、メロディーだって似たようなのばっかで、お客さんは大満足。こいつはヘビメタだぜ、だからコードはこうでスタイルはこうなんでい――これってさ、純文学は現在形、一人称、苦悩に満ちた語り口で、っつうのに似てると思わない? オースン・スコット・カードのおんなしふっるいスリーコードSF「死者の代弁者」だってそう。銀河帝国、おりこうな人類、見かけは醜いけど頭ん中はそのへんのおじさんと変わんない異星人。で、この手のお約束を完璧にまとめた究極のスリーコード・ノベルが、デイヴィッド・ブリンの『スタータイド・ライジング』ね」(くどいようだがこのエッセイはカードのファンジンに載った)
「ねえママ、あたしこれを書きはじめたときは、このピストルで頭をふっとばすつもりだったけど、よおく考えてみて、気が変わったわ。それじゃあたしの大っきらいなこういうくらあい小説とおんなし自己憐憫だもんね。かわりにあたし、デイヴィッド・ブリンを殺しにいく。んじゃね。」

 さすがにトンガってますね、ガラスの十代は。ま、ぼくだって、昔は殺してやりたいSF作家の二、三人はいたけどさ。そんなわけで、つぎにとりあげるのは、問題のデイヴィッド・ブリンの本一・五冊。いっとくけど、ぼくはスリーコード・ノベルが嫌いじゃない。SFの九〇パーセントを否定して革新もなにもないもんだと思っている。最近のSFマガジンの、中村融や高橋良平によるCP史観に立つSF史の歪曲に対しては断固戦うつもりでいる。スリーコードは基本的に正しい。継続は力なり。贅沢は敵だ。
 しかしもちろん、世の中にはいいスリーコードもあれば悪いスリーコードもある。
 ベンフォードとブリンの合作『彗星の核へ』はどちらかというと退屈な、そしてかなり究極っぽいスリーコード・ノベルだ。とはいえ、八六年のハレー彗星接近によるブームをあてこんだブロックバスター狙いのSFとしては、意外とまとも。ちょろい金儲けSFかと思ったら、どうしてなかなかがんばっちゃってて、読むのがしんどかったこと。ハードSF的お経がほとんと右から左に通過するだけって個人的事情もあるけど(信者にはありがたいお経も、ぼくような不信心者には退屈なだけだ)、とにかく長い。登場人物が多すぎる。描写がくどい。アイデアは結構詰まってるし、CPに色気を見せたりするとこはかわいいんだけどね。ただし決定的にCPと違うのは、主人公たちがきわめて前向きな点。そういや、京都の某ファンジンに載ってたCPの定義ってのが、(1)主人公が人間のクズ、(2)話がつまらない、(3)訳が悪い。ま、 2と3はともかく、この1があるかぎり、ブリンやベンフォードはぜったいCPは書けないわけだ。(それともそういうのをポジティヴ・サイバーパンクっていうんだろうか?)○50点。
 続いてブリン単独の『ポストマン』。核戦争十六年後のアメリカ。荒廃した大地をさすらう主人公は偶然、郵便配達夫の制服を見つけ、町から町へと回るうちにやがて復興合衆国の神話が生まれる……。
 主人公が身にまとったポンチョをさっとはねあげると、下からあらわれるのは郵便配達の制服。どうだこの紋章が目にはいらぬか、こちらにおわすかたをどなたとこころえる。おそれおおくも先の副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ、ええい頭が高いっ、てんでポストマンが諸国を漫遊されるわけですな。暴力は滅び、不正はただされ、世界に広がる文明の輪。郵便屋さんてのはアメリカだとシンボルになるんでしょうかね。わたしは制服は嫌いだ(セーラー服を含む)。いっそ主人公を中年女性にして、山ん中で偶然見つけた古い自転車にまたがり、荒廃した都市をまわって日生くらしの保険の勧誘につとめる、『日生のおばさん』て話にすれば、日本人には説得力があったかもしれない。保険は平和と文明の証ですからね。
 もちろんベストセラー小説の書き方講座を修了しているブリンのこと、話はそれなりにおもしろい。この愛すべきおっさんは(彼はほんとにひとがいいんだが、ある種のひとのよさはわたしをいらだたせる)冗談が好きみたいだから、きっとげらげら笑いながら書いてたんだろう。なにせ超人ハルク同士の決闘まで出てきちゃいますからね。それなのにこっちがあんまり笑えないのは、シリアスぶりっこなタッチと、いかにも良識派でございといった主人公の姿勢のせい。スタローンとかチャック・ノリスとかシュワルツェネッガーなら許せても、全体のトーンがこうシリアスっぽくては、大マジで読んじゃう人もいるだろうし、賞なんかもらっちゃうとやっぱりね。そのあんまりなのーてんきさにだんだん腹がたってくる。あ、といっても核の冬に対する考察がどうのという意味じゃありません。核の冬について真剣に心配してるSF作家は、パーネルとかベン・ボーヴァとかたくさんいて、みんなでSDIを推進しているんだな、これが。ま、同じ設定ならサバイバリストのお友だち川又千秋の『日本黙示録』のほうがよっぽど面白いと思いますね。○30点。

 最後はCPに押されて日本ではしばらく影の薄かったルーシャス・シェパードの処女長編『緑の瞳』(昔、こんなタイトルのスタンダード・ナンバーがありましたな。あれもラテン・アメリカ原産の曲だっけ)。日本初紹介の本書出版にあわせてSFマガジンが特集を組んでいるし、残りの長編二冊もうまくすると年内には別のところから邦訳が出そうなので、ひょっとするとこの人、今年はかなりいけるかもしれない。
 インタビューを読むかぎりじゃシェパードはそうとうへんなやつみたいだけど(もっともあの経歴がほんとかどうかは怪しいもんだと思う)、『緑の瞳』も異常にへんな話だ。研究所を脱走したところまででは、まさかこんな話になるとは夢にも思わなかったもんな。正直いってあたしゃいまだになんなのかよくわかりません。結局はったりがうまいやつ、という気もするけど、どう評価していいか態度決めかねている。●?点。
 ところで、以上三冊の解説を書いている山岸真選手が十一月に結婚することになりました。お相手もSFです。マコトくんヨーコちゃんおめでとう。これで山岸真も、永瀬唯にいくらSFおたく族と批判ようと、「文句があったら結婚しなさい」といえば勝てるわけで、よかったね。牧眞司もみーめさんと結婚だし、そのうち結婚もしていないような奴にCPがわかるか(小川隆はすでに、子どももいない奴にCPがわかるか、と主張している)という時代が来るかもしれない。SFも豊かな時代になったんですね。
 最後に、代理店筋からの未確認情報によると、四月にスターリングが来日するらしい。呼んだのは某有名百貨店だとか、デパートの屋上でミラーシェードかけてサイバーマン・ショーをやるのかしら。わくわく。と、風雲急を告げる海外SF業界ですがまた次号。