●海外SF問題相談室1(小説奇想天外2号/大陸書房)88年1月

 新連載のこのコラム、海外SFの書評とコミで出版状況その他もろもろを軽くやっつけよう、という趣旨なんだけど、まだいまいちノリがわかんないんで、ま、テキトーにやります(ほんとは締切直前、十枚書いたところでNECのばかフロッピーが読み出し障害を起こし、どうしても呼び出せなくなったので、ほとんどヤケクソになっている)。一発目はとりあえず派手な話を、という安易な考えで、『スキズマトリックス』刊行記念、おなじみサイバーパンクのお話から。
 早いものでサイバーパンク(以下CPと略)なる名称が発明されてからもう三年。熱しやすく飽きっぽい、すれたSFマニア連中は、SFマガジンでCP特集が組まれたあたり(八六年十一月号)で、もうCPブームも終わったね、つぎはバッフォーかスチームパンクか、なんてつぶやいてたものだが、狭いSF業界とは無縁のところでCPは深く静かに浸透していた。思えば『ニューロマンサー』に山ほど書評が出たころから予兆はあったのだ。そして、昨年十一月の「P・K・ディック以後」と題された「ユリイカ」CP特集号を露払いに、どうやら今年は(世間的に)サイバーパンク元年となりそうな雲ゆき。たとえばお正月映画第二弾の「ロボコップ」に配給会社宣伝部のつけたキャッチが、〈最新SF・アクション・アドベンチャー・サイバーパンク映画〉(おかげで黒丸尚氏は某映画雑誌で「ロボコップ」はCPか、という趣旨の原稿を書かされていた)。某百貨店では『ニューロマンサー』をキー・コンゼプトにした〈サイバー・トラッド〉なんて勘違いファッションをプロモートするわ、資生堂のPR誌「花椿」はギブスンの短編を載せたいといいだすわ、もうたいへんな騒ぎである(PINKがCYBER ってタイトルのアルバムを出したとか、サイバータンクってアーケイド・ゲームが出たとかって話題もありましたな)。今年はSFマガジンがCP特集第二弾を予定しているほか、文化好きで知られる某有名企業が代理店がらみでCPブームの乗ってくるという話もあり、そうなればもう、ジャーナルの「ファディッシュ考現学」や文春の「ナウのしくみ」でCPがとりあげられる日も近い。ロンドンで火事があったらいきなり地下鉄を終日禁煙にしてしまうような国だから(覚えてろよな、営団地下鉄のバカヤロー)、そのうちウォークマン・サイバーパンク・モデルとかケンウッド・サイバースペース・デッキとか、船井電機がOEM生産する韓国製再生専用機らくらくサイバーくんとかが売り出され、浦安にはチバ・シティ・ブルーズを聞かせる松井雅美デザインのナイトクラブができ、アンアンを見ても広告批評を見ても少年ジャンプを見てもCP特集なんて日がくるだろう。もちろんウォーター・フロントのディスコティークではみんなミラーシェイドをかけて幸宏の「ロマン神経症」で踊りながら、「ここに来るとジャックインした気分になれるね」とか、「湾岸ぞいにできたホテルがサイバーパンクしてるからさ、帰りに寄ってみない?」とか、そんな会話がかわされるのだ。
 考えてみるとこれは「スター・ウォーズ」前後のSFブームのころ、なんでもかんでもSFというキャッチがつけられたのと同じ現象で、SFのかわりに〈サイバーパンク〉という、なんだかわかんないけどかっこよさそうなフレーズが使われてるだけなんだよね。だからSFを知らない人間は困る、なんてことをいいたいんじゃなくて、たいていの運動がそうであるように、CPもひとつのファッションなんだから、むしろこんなぐあいにどんどん消費していくのがいちばん正しいやりかたなのだ。そうなってくると結局、またもとり残されるのはSFファンで、その兆候はCPをめぐるSF界のさまざまな言説を見れは一目瞭然。いくら作品をいじくりまわして「テーマ」や「アイディア」を論じ、難しい顔をしてみせても、CP現象の本質は見えやしない。CPの持つ意味とか、定義とか、どんな作家がどんなものを書いてるか、なんてまじめな話は、すでに前述SFマガジンのCP特集号の小川隆氏の解説でほとんど完璧にいいつくされているから、いまさらここでふれることもない。問題は、その運動がブームとなる過程でなにが起こっているか、CP現象がSFになにをもたらしたか、なのだ。
 だれもいわないからぼくがいうのだが、CPがやったことはふたつある。ひとつはSFに「かっこよさ」(おしゃれ、といってもいい)という尺度をもちこんだことで、もうひとつは、同時代の風俗に対する目を開かせたこと。これをSFの人は、「うわべのかっこよさに目を奪われて、CPの本当の意味を見失ってはならない」とかいったりするんだけど、まったく困った話で、「うわべのかっこよさ」がどんなに価値のあることなのか、どうして理解しないんだろう。「ボロを着てれば心もボロっていうのは永遠不変の真理だぜ」と登場人物にいわせた今は亡き鈴木いづみの偉大さにいまさらながらに思いをはせるのだが、前述「ユリイカ」で、「今までダサイクサイと馬鹿にされたSFだって、とうとう立派に六本木で通用する流行を生み出した」とはしゃいでみせるSFファン(じつはそんなSFファンはほとんどいないのだが)を批判した永瀬唯の文章のおじさんぶりや、工藤静香のファンとかうれしそうに書きながら「おニャン子」を「オニャンコ」と表記して恥じるところのない高橋良平のSFマガジンのレビュウを見ているかぎり、ああ、やっぱりSFは遅れている、と絶望的な気分におそわれる。若いほうの代表の中村融や今村徹にしても、かたや近代一本槍、かたや政治に走る、で、まあ人には人それぞれのSFの楽しみかたがあるとはいえ、もうちょっと明るくなってもいいんじゃない、と思ったりするのだが、ここではとにかく、「かっこよくてなにが悪い」と強く主張したい。
 で、もうひとつ、同時代風俗についてなんだけど、伝統的サイエンス・フィクションにはもともと時代というのはあんまし必要じゃなかった。だってほら、SFって未来の文学だったから。もちろんハードSFの人にとってはその時代の最先端の科学・テクノロジーに対する知識がなければ商売あがったりなんで、そういうとこには敏感だったけど、それはいわゆる風俗(サブ・カルチャーといってもいい、音楽とか映画とかファッションとか)とは完全に切れてたのね。そんなこっちゃいかんぜ、といってニュー・ウエーヴが出てきたりもしたんだけど、文学肌の偉っぽい人がやってたもんだから、これはあんましくだらない風俗にはコミットしなかった。七〇年代になるとLDGとか呼ばれる若い作家たちが出てきて、「やさしさの世代」みたいな感じで時代の気分を反映した「ライフスタイルSF」なんてのを書いたりしてたけど、いまいち押しが足りないまま失速してしまった。そこにCPが登場する。時代のスピードがぐんぐんあがってきて、未来というのはいつのまにかレトロになってしまった。これじゃあいかん、このままじゃSFは過去の文学になっちゃうぜ、と、時代に追いつこうとしはじめたわけ。彼らが目新しかった点ていうのは、科学・テクノロジーまでも風俗にとりこんでしまったことだった。考えてみれば、家に帰ればファミコン、ワープロ、レーザー・ディスク、出かけるときはウォークマンと、ハイテクはすっかりお茶の間の風俗と化しているわけで、アクチュアルな未来を描くとすればそういうとこからエクストラポレート(!)していかなきゃ、と思ったんでしょう、たぶん。もちろんこれだけじゃなくて、映画や音楽はもとより、ありとあらゆるポップ・カルチャーを貪欲に吸収してブレンドし、はいサイバーパンクのいっちょあがり。
 もっともここで問題になるのは、いったいだれにとっての同時代か、ということで、書いてるあいだにも時代はどんどん進んでいってるし、アメリカと日本では、あるいはニューヨークとテキサスでは、時代が違うってことだってありうる。だってさ、六畳ひと間のアパートでカップヌードルすすりながら古本屋で買ってきたサンリオ文庫読んでるSFファンと、ソアラの助手席に乗って芝浦のタンゴに乗りつけるボディコン少女が同じ時代に生きてるかっていうと、やっぱり疑問でしょ。それで、たとえばCP反対派のデイヴィッド・ブリンなんかは、「おれたちは近未来を書いている」とうそぶくCP過激派のジョン・シャーリイに向かって、「あんたたちが書いているのは近過去じゃないか」といったりする。もちろんSFの未来が過去(レトロ) になってしまったとするなら、過去よりは近過去がまし、という議論も成立するんだけどね。かのウィリアム・ギブスンは、SFマガジンのCP特集で、日本の読者に「きみたちは未来に生きている」というメッセージをよこした。でも、ぼくたちは現在に生きているだけだし、それを未来というなら、ギブスンは過去に生きているわけで、だから彼の近未来小説は近過去小説なんだなあ、と妙に納得したんだが、ぼくがいいたいのは、CPの同時代はぼくの同時代じゃないってこと。同時代を知るためならべつにSFなんか読まないよ、っていうのがぼくの個人的見解で、それならおニャン子解散の武道館ライブ・ビデオでもリプレイしてるもん。ま、SFがかっこよくなることには反対しないけど、べつにルー・リードなんていらないし。

 長くなってしまった。書評もしなきゃ。本誌は隔月刊なんで、今回は八七年十一月と十二月に出た本をまとめてやっつける。まずはCPムーブメントの理論的指導者ブルース・スターリングの本邦初紹介長編にしてCP二大傑作のひとつ『スキズマトリックス』(カバーのモデルはサイエンス・ライターの鹿野司だという説もある)から。
 のっけからなんだけど、この小説は読みにくい。むかしのSFには「説明」という美徳があったけど、スターリングの場合、あくまでも同時代の小説として書いているから、ついてこれないやつはついてくんなという態度なのだ。またそこがいいんだけどさ。(ま、「なんとなく、クリスタル」みたいに注をつけるって手はあったと思いますね。あと、ハヤカワ文庫編集部のみなさんには再版から登場人物表をつけることをおねがいしたい。多少カッコは悪いけどね)。もちろんこれはある程度意図した読みにくさで、だからつまんないってことにはならない。月の軌道上にあるスペースコロニーを、〈晴れの海環月人民財閥〉とネーミングするなんておしゃれなセンスじゃありませんか。物語は主人公の林時が故郷を追われてやってきた宿場町で芸者とねんごろになり、歌舞伎の公演を打って名をあげるたのもつかのま、やがて刺客がやってきて、ここにゃあいられねえと、行きがけの駄賃に置屋の遣手をぶっ殺し、兇状持ちになって海賊に身を投じるという、ほとんと近松文左衛門の世界。いいんだ、これが。主人公はなーんも考えてないいきあたりばったりの、よくいそうなやつでさ。キャラクターだけとってみると、やっぱギブスンのケイスよりはこっちのほうがいまっぽい。スターリングの登場人物は了解不能の価値観に従って行動している、なんて今村徹(そういえばこないだはトラの足をありがとう)はいうんだけど、たとえば京大に入学しながら大学にはいかず、毎日ゲームをやって宝くじにあたったカネと質屋通いでなーんもせずに四畳半の下宿でいまだに暮らしているぼくの友だちなんかに比べれば、よっぽどわかりやすいキャラクターじゃないかしら。こいつが身を寄せる海賊国家というのがまたすごくて、ソ連の衛星を改造した宇宙船に住んでるんだけど、国民は十二人しかいなくて(それでもちゃんと国の交戦権とかはもっている)、たがいに大統領とか下院1とかって呼び合ってるのね。
 ほかにもバカなアイディアはこれでもかこれでもかって感じでつめこまれてるし、プロットのラインは伝統的SFの展開を裏切りつづけて進行していくし、うーん、これならたしかに新しいSFって呼んであげてもいいかな、と思ったんだけど、残念ながら、宿命のライバルと決闘して勝った直後から、オーソドックスなSFのパターンにはまってしまう(みんなで体を変えて木星に移住しちゃうなんて、こりゃ「都市」ですよ、シマックおじいちゃんの)。まるで若いころはニュー・ウエーヴだのなんだのにかぶれて、アシモフやクラークをばかにしてたSFファンが、歳をとるにつれてやっぱSFは五〇年代だね、とかいいだして、りっぱなSFファンとして更生するみたいな話だなあ、とわたしは思ったわけなんだ。おかげで水鏡子センセが去年のベストの二位にこの作品を入れる、などという珍現象も起こって、やっぱり革命をめざすスターリング書記長としてはこれは弱点なのではなかろうか。ま、わかってやってるという気もするけど。
 もひとつ、スターリングの作品では、人間がへーきで身体改造したりサイボーグ手術をやったりする(この作品の後半で出てくるポスト・ヒューマニズムっていうのは、文字どおりポスト・ヒューマン、人間やめてべつのもんになりましょうって主義なのね)のが、アメリカでは結構センセーションを呼んでて、ヴァーリイと比較されたりもするのだが、日本人にとっては体ってのはべつに神様のさずかりものじゃなくて、無から生まれて無に返るものだから、ほとんどタブーには抵触しない。理念としてのヒューマニズムに、肉体としての人間性はあんまし関係してこないから、ぼくたちの目からみると、ポスト・ヒューマニズムを主導する本書後半のリンジーはヒューマニズムの闘士以外の何者でもないと思うのですが、いかがですか今村先生?
 あとは駆け足。ジョン・ヴァーリイの二冊目の短編集『バービーはなぜ殺される』は表紙にたまげた。ま、担当編集者のセンスの問題だけどね。ヴァーリイについてはこれまでわりあいと、ほのぼのやさしさ路線の作品ばかりにスポットがあたってたけど、最近はCPとのからみで「ブルーシャンペン」みたいなヒューマニズムと格闘するわりと気持ちわるいタイプの作品がひきあいに出されることが多くなっていたところなので、この短編集も刊行が遅れに遅れたあげく、タイムリーな時期とぶつかったかな、という気がする。それにしても、ヴァーリイの作品がスターリングやギブスンの諸作を思わせるなんてバカ解説を書いた山岸真は反省しなさい。
 もう一冊はSF界の保守本流、アンチCPの闘士オースン・スコット・カードの『エンダーのゲーム』。これにも大バカ解説がついているが、べつのところで批判したからここでは書かない。この本、前記『スキズマトリックス』をおさえてヒューゴー、ネビュラのダブルクラウンを果たした作品なんだけど、この事実ひとつとってみても、アメリカ人SF読者のサイレント・マジョリティはべつにCPを支持しているのではないことがわかる。海のこっち側で見てると、アメリカSF界がCPブーム一色に塗りつぶされてるような気がするけど、じつはCPはまだまだ少数派。むしろ日本でのほうが支持率は高いかもしれない。だいたい右翼のかたまりみたいな保守反動プロテスタントの国で、CPが一般的な支持を集めるわけはない。ではアメリカ人はどんなSFが好きなんですか、というもっともな質問の答えがこの「エンダーのゲーム」。基本的な構造は短編版とほとんど変わってなくて、ブロックバスター小説的にふくらませ、続編への布石としてオープン・エンドに改造しただけ。エンターテインメントとしてはなかなかよくできているが、これならラドラムやクィネルを読んでるほうがいいという人も多いでしょうな。