国学四大人

荷田春満 (かだのあずまろ)1669〜1736

羽倉東摩ともいう。江戸中期の国学者で、京都伏見稲荷の神官の子として生まれ、家学の新道と歌道を学び、元禄十年
(1697)妙法院宮(霊元天皇の皇子)に歌道を教えた。その後江戸に出て幕府に仕え、神道・歌道・有職故実の研究を行い
晩年幕府に国学の学校設立を上申したが実現しなかった。

彼の教義は古道と呼ばれ「古事記」「日本書紀」「万葉集」「令義解」など古典への回帰を基本とした。国学の創始者ともいわれるが、むしろ賀茂真淵ら弟子たちが確立する国学の基礎を作ったとされて評価される。

大石内蔵助とは、旧知の間柄で赤穂浪士の隠れた後援者であった。吉良邸討ち入り前,大高源吾の情報により、討ち入りの日の12月14日に決められた際、その日上野介が在宅かどうかの最終確認に春満の情報が重要な決め手になったという。

加茂真淵 (かものまぶち)1697〜1769

江戸中期の国学者、遠江国伊場村(静岡県浜松市)の加茂神宮神職、岡部家の分家に生まれた。同族岡部政長の婿養子
となるが、妻と死別したのち実家に戻り、浜松の脇本陣梅谷家にむこいりする。
若い頃より荷田春満の門人杉浦国頭に学んだ真淵は、この頃学問に目覚め、37歳で上京するたびに春満に会い、儒医渡辺蒙庵に漢学を学び、享保十八年(1733)梅谷家をはなれて京都・江戸に遊学して各地で古典の講義をした。
延享三年(1746)50歳の時に御三卿の田安宗武(八代将軍吉宗の次男)に和学御用として仕えたのちは、宝暦十年(1760)研究に没頭し隠居した。

真淵は「万葉集」を研究し、万葉風の和歌を復興しました。また、「古事記」「万葉集」や祝詞(のりと)の研究を中心に古代精神、すなわち古道を説き明かす国学で、春満の古道のほか荻生徂徠の古文辞学や老荘思想の強い影響がみられる。歌の注釈書である
「万葉集」思想を語る「国意考」枕詞の研究書「冠辞考」など真淵の著述は、語学・古典研究・歌学・思想・歌文集・雑録など87部309巻もあります。
宝暦十三年(1769)真淵が伊勢参宮の途中、松坂の宿に本居宣長が訪れて入門し以後絶えず文通で真淵の教えを受けた。
門人も本居宣長はじめ優秀な門人を多数養成した。享年73歳江戸で亡くなる。

本居宣長(もとおりのりなが) 1730〜1801)

江戸中期の国学者、伊勢松坂(三重県松阪市)の木綿商、小津家に生まれた。父の死後に家運がかたむき、19歳で伊勢山田の紙商、今井家の養子となる。ほどなく養家をはなれて、松阪の実家にもどり、医師として身を立てる決心をして23歳の時京都に上り、堀景山に漢学を、堀元厚らに医学を学ぶ。六年間の京都遊学中に、先祖の古い姓である本居を名乗るようになる。宝暦七年(1757)松阪に戻って医師を開業して生計を立てながら、古典研究・詠歌に励む。宝暦十三年(1763)賀茂真淵が伊勢参宮への旅行の帰途、松阪に立ち寄った際、宣長は尋ねて対面する。生涯に一度だけの対面だったが、真淵の門人となり、その後は手紙のやり取りで教えを受けた。
天明七年(1787)松阪の領主である和歌山藩主に為政者の心構えを説いた「秘本玉くしげ」を献上、のち和歌山藩に登用され、たびたび藩主の御前で古典の講義を行った。
門人は、実子の本居春庭・養子の本居大平ほか488名を数えるといいます。伴信友や平田篤胤は没後の門人である。

彼の学問は三つに大別される。

@「物のあわれを知る」という文学論、文学の目的は、儒教や仏教の道徳を説くことではなく素直に物に感じる心を養うとする説で、「紫文要領」(じぶんようりょう)「石上私淑言」(いそのかみささめごと)の著作がある

A日本語の言語学的研究。”てにをはの係り結びの法則”を発見し、著作「てにをは紐鏡」「詞の玉緒」などで指摘し、古典実証主義に裏打ちされた音韻研究は、現在の研究にも影響を与えている。

B名著「古事記伝」に代表される古道論で、これは儒教や仏教の道義的強制を人間への抑圧行為とみなし、万事神のはからいと受け止め、古典にあらわれる皇祖神を賛美する新道的理論である。このため、幕末・明治期に”国粋主義”の思想的根拠として利用されることともなった。

平田篤胤 ひらたあつたね(17761843

江戸時代後期の国学者本姓は大和田大角で気吹之舎(いぶきのや)と号した。秋田藩士の子として生まれ二十歳で脱藩
江戸に出て独学する。寛政
12年(1800)備中国松山藩士、平田篤穏(あつやす)の養子となる。本居宣長の著書に接して文化二年(1805)宣長の子、本居春庭に弟子入りする。宣長の後継者を自任したが、宣長の文献実証学は継承せずに、独自の思想を形成した。
文化十年(
1813)「霊能真柱(たまのみはしら)」を刊行し、宇宙開闢(かいびゃく)論・幽冥(ゆうめい)信仰にもとずく死後における霊のしずまり方を説いた。
彼の学問は、宇宙のあり方から説く宗教的な国学で、平田新道と呼ばれることもある。そのほか「古史成文」「古史徴」
幽界を研究した「仙境異聞」などを刊行した。晩年には幕府から著述の差し止めと江戸退去を命じられ、郷里の秋田に戻るのち、彼の国粋主義思想だけが、とくに取り上げられ、明治政府の国家新道を支える思想的柱となった。

文化八年(1811)江戸から駿府に柴崎直古に招かれて、直古の家の奥座敷で、夜も昼も本を読み筆を走らせるのみで、食事も机の上で済ます有様であった。門人たちが心配し「せめて、夜くらいは布団に横になってお休みください」と申し出た、
篤胤は「しからばしばらく眠ろう」と布団に入ると高いびきで眠った、一日二晩過ぎた、そっとのぞくと相変わらずの高いびき、あまり良く眠っているので心配して揺り動かすと「静かに眠らせてと、お願いしておいたのに」と独り言を言いながらまた、机に向かって筆を走らせた。年も暮れ、元日の朝年頭の挨拶にゆくと、篤胤はもう服装も整えて機嫌よく
「新年おめでとう。去年といったらよいか、今年といったらよいか、昨夜二時頃要約書き終えました」といって差し出した書物が「古史成文」であった。
この本は篤胤本人が「自分を知るにはこれを見てくれ」といってるくらい彼の学説上重要な著述である。

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