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かねて掘りめぐらしてあった洞窟陣地は、米軍に対し、徐々に効果を発揮していく。
艦砲射撃でも空爆でも全ての洞窟を破壊することは出来なかった。米軍はナパームを使い既に焦土となっていた地表をさらに炎上させ陣地内にも投入した。
しかし洞窟陣地内の日本兵は耐え抜き、持久血戦の気概は衰えることがなかった。
10月20日、米軍はレイテにおいて上陸作戦を決行、日米決戦が開始された。ぺリリュー守備隊は永らく米軍の航空基地前進を妨げ、比島方面の防御におおいに役立っていたのである。
日本軍は洞窟から不意に現われ米将兵を狙撃し、夜になると夜襲をかけ、昼に進めた橋頭保を破壊する。海軍部隊も筏に機雷を載せて暗夜、米艦隊に向け決死隊を繰り出した。
一進一退の攻防が続き、日米双方が消耗していった。
11月に入っても、日本軍守備隊は持久戦を続け、天皇陛下も毎日気になされ、臣下に状況を尋ね、陛下の感状は3度に及んだ。
また、国民にとっても唯一の朗報として勇気づけられ、この粘りと勇戦は、敗色濃い皇軍全戦線の兵士をおおいに鼓舞した。
しかし、米軍は火炎放射器、攘夷弾、手榴弾、戦車などでひとつひとつ洞窟陣地を潰していった。
米軍は大山の陣地目前に迫り、11月8日、せっぱ詰まった守備隊はパラオ司令部に「総攻撃を実施したいが許可して頂きたい」旨の電文を送る。
しかし、返事の主旨は「生きて持久せよ」であった。
この状況では玉砕して果てるほうがはるかに楽な道であり、そのまま生きることの方が苦しく困難なことであった。守備隊は決意をあらたに米軍に対峙したのだった。
11月24日、さすがに弾薬は底をつき、食料はおろか水すら尽き果て、ついに抵抗力を失い、守備隊は戦闘継続不可能と見極めた。
軍旗を奉焼し、集団司令部に玉砕を知らせる「サクラ、サクラ」の電文を送り、ぺリリュー地区隊長中川大佐、師団派遣参謀村井少将以下幕僚は自決、残りの傷だらけの五十五名は最後の決死隊を組織、二十四日の夜から二十七日七時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕した。
ぺリリュー島の戦闘で戦死した日本軍将兵は10022名、米側は約2000人が戦死した。
しかし、ここでの戦闘はアメリカ本国ではほとんど注目されなかった。
マッカーサーが華々しくフィリピンに入り、世界の注目はそちらに集中していた。
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