こういう作品の紹介や解説の必要があった場合、これまではどこか他サイトの良いページを見つけてそこにリンクを張るのが自分のスタイルだったのですが、たまには自分で書いてみようかなあと。


タイトルトーキング・ヘッド
公開1992年
製作株式会社バンダイ
プロデューサー鵜之沢伸/宮川洋紀
監督/脚本押井守
音楽川井憲次
キャスト私/千葉繁 多美子/石村とも子 半田原/立木文彦 鵜之山/野伏翔  お客さん/兵頭まこ
その他カラー/ビスタサイズ/モノラル/105分
ソフトVHS/BES-813/\16,800 LD/BELL-560/\7,800 1993年バンダイビジュアルより発売




 「起動警察バトレイバー」シリーズヒットのご褒美に5千万円の制作費を貰い、脚本家伊藤和典氏の実家である山形の映画館を借り切って3週間で撮影された、あの押井守実写第3作。「あの」の意味合いは、「攻殻機動隊」を「御先祖様万々歳!」でベクトル変換したというか、進出した物の戦略的価値はまるでゼロだったアリューシャン方面作戦だけどキスカ島救出作戦成功は実に立派というか、そんな感じで。

 製作途中で監督が謎の失踪を遂げたアニメーション大作映画「トーキング・ヘッド」。それを完成させるべく作品のプロデューサー、鵜之山に招聘された「どんな監督のどの様な演出スタイルをもその細部に到るまで完璧に再現し、劣悪なスケジュールを物ともせず納期までに必ず初号を上げる」裏演出家、”私(千葉繁)”。失踪した前任監督の意図をさぐるべく、脚本、色彩、作監、音響、音楽、編集等、作品の断片を求めて打合せを重ねていく中、彼と関わったスタッフが次々に謎の死を遂げていく。彼らの死の真相は、そして失踪した監督の行方は? ……ストーリーを素で語ってしまうとこんな感じなのですが、それだけでは何も語った事にならないのは、やはり氏の実写映画の御約束という事で。

 低予算を逆手に取って作中の映像は殆ど全て、件の映画館中に作られたセットで撮影されています。セットでの撮影なんて普通じゃんと思われる貴方も、舞台上にカキワリで作られた監督室、スクリーンに映された夜景をバックに劇場内を走る自動車等の映像を堂々と見せ付けられては、流石に少し引くはずです、多分。「映画を撮るという行為によって、逆に現実が一瞬にして(映画)に変貌する映画」とは押井氏の言葉ですが、どんな子供向けの低予算作品でも最低限守られるはずの映画内のリアリティが、この作品においてはフィルム上からことごとく放逐され、露骨なまでに虚構、作り物としての映画を前面に押し出した作品になっています。映画は創られたものだからこそ映画足り得るのだ、という一種の居直りとあるいは言うべきなのかもしれませんが。

 映画について一頻り語らった後そのスタッフが死んで行くという作品の構成はつまり、「映画」を構成する各要素を分解、分析しつつそれらの所謂テクニックの衣服を剥ぎ取った後に残る裸の、本当の意味での映画とは一体何なのか?という根源的な問いへ到る経過を描いている訳で。

 あの人は映画からドラマ(物語)を放逐し、映し出される映像それ自体に観客が驚愕した時代の魔術としての映画の復活を企んでいた、と薄笑いを浮かべながら語る脚本家。

 映画における色彩は、現実に存在する色彩を再現しようとしたものではなく、あくまで虚構としての映画を構成する物として発展した物に過ぎないと嘯く色彩設定。

 異なるアニメータによって描かれた似ても似つかぬ絵が同一人物として観客に受け入れられる、アニメーションのキャラクターにおけるペルソナとは一体何なのかを問う作画監督。

 映画は結局、遅れてやって来たものによって意味付けられる、言った者、やった者勝ちの物なのだと虚勢を張る音響監督。

 何度でも繰り返して観る必要があるのだと切々と説く編集。

 主要スタッフが全て死んだ後、作品を完結させる真の監督の座を巡って対峙する”私”と演出助手との対決において、ついに語られる押井氏にとっての映画の真実。それが結局「ビューティフル・ドリーマー」以来一貫して語られ続けている「胡蝶の夢」である事に、「たまにはもう少し捻った物を観せろやコラア!」とスクリーンにポップコーンのカップを投げ付けるべきなのか、それとも三つ子の魂百までと感嘆するべきなのか……
 いや、何度観返したかも分からない位、大好きな作品なんですけれどもね、私的に。