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「大阪ストーリー」を見て

「ダイス」1996年7月号に掲載

 

 カミングアウトとは本来、ゲイやレズビアンが自分のセクシュアリティを認め、受け入れ、自分のライフスタイルを確立していくプロセス全体を指す言葉だ。カミングアウトには、その段階によってさまざまな行為や思考が含まれるが、中でも、他者に対して自分のセクシュアリティを明らかにする行為は、特に重要なものと考えられており、そのことだけを取り上げてカミングアウトという使い方が一般的になっている。

 日本でも、親しい友人にカミングアウトするゲイ&レズビアンが増えてきているが、家族に対してカミングアウトするのは未だに躊躇する人が圧倒的に多いようだ。まして親に対してとなると絶望的な状況が続いている。
 それほど困難なことであるからこそ、親との精神的な距離にもよるが、親に対してカミングアウトできれば、他者に対してのカミングアウトはほとんど完成の域に達したと言っても良いくらいに重要な関門なのだ。

 『大阪ストーリー』のポスターにも、監督自身の写真には「カミングアウトしたいんやけれど」と吹き出しが付けられていることからも分かるように、このドキュメンタリーはゲイである監督自身の親へのカミングアウトがテーマの一つになっている。
 しかし、映画の中では監督は実際にカミングアウトするわけではなく、彼の家族の姿を丹念に描き出していくだけだ。そこでは彼の家族の複雑な事情もあらわにされていくし、その家族の中で、彼がどのような立場にいるのかも見えてくる。監督自身も映画の中に登場しているので、彼が「いい子」であることも観客には伝わる。家族のありようが見えてくればくるほど、この環境でのカミングアウトの難しさが浮き彫りにされていく仕組だ。
 結局、カミングアウトしないまま映画は終わるが、観客は、結果的に彼がカミングアウトしたことも知る。あれだけ撮影に関わった彼の家族が公開される映画を見ないはずはないからだ。

 カミングアウトに関心のあるゲイ&レズビアンにすれば、どのようにカミングアウトし、その結果がどんなものだったのかこそが一番知りたい部分だろう。残念ながら、この映画にはその答えは示されない。僕のゲイの友人で、そこが物足りなかったという人もいた。
 しかし、僕には、親へのカミングアウトの様子を一部始終描いてみせるよりも(だいたい、カミングアウトする当事者が、その様子を冷静にドキュメンタリーとして見せられるとは到底思えないし…)、この映画が本来のカミングアウトにとって何が大事かという部分を見せてくれたことの方が興味深かった。

 それは、親への愛情と、自分の親を第三者的に突き放して見る視点とを、この作品の中で同時に示すことで、監督が自分自身を全肯定している部分だ。そのアンビバレントな両方ともが大切な自分なのだと受け入れる以外に全体性を取り戻すことはできない。
 要するに、「いい子」の部分だけに同化しているかぎり、親へのカミングアウトはできないし、親を単なる他人としてしか捉えられないのなら、カミングアウトする必要もないということだ。親を悲しませたくない。苦しませたくない。その部分だけを取り出しては、親へのカミングアウトを先延ばししている人にとって、この映画は非常に示唆的なものを多く含んでいる。

 自分への愛と、相手への愛を両立させる「個」の立場を確立させない限り、カミングアウトは不可能なのだ。中田統一氏は、それを彼なりのやり方で見せてくれた。
 


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