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「ノンケの男」が最高!

「ユリイカ」1996年11月号に掲載

 

「ノンケの男」。
 ゲイにとってはアンビバレントな思いを引き起こすことばだ。

 「男」に性的に引かれるゲイにとって、ある意味で、ノンケは性的ファンタジーから考えれば理想の存在だ。と同時に、自分たちを苦しめてきた、性的役割を押し付ける社会システムの上にアグラをかいた最大の「敵」でもある。とにかく、ゲイにとって、「ノンケの男」はいつでも気になる存在なのだ。

 最近、二丁目にはノンケっぽいゲイが増えてきている。「野郎系」と言われるタイプが集まる店が隆盛を誇るようになってきているのだ。野郎系とは、ノンケの男のイメージを極限まで押し進めていった結果として出てきたモテ筋のモデルだ。痩せてるとか、太ってるとか、美形だとかイモ顔だとか、若いとか歳くってるとかバリエーションはあるものの、「ノンケっぽい」イメージであることには変わりはない。短髪で、それなりに筋肉が付いてて、ちょっと無精髭なんか生やして、身のこなしや話し方が男っぽくて、洗練され過ぎてもいない。そんな野郎っぽい雰囲気を醸しだしてるゲイほど歓迎されるのだ。

 性的対象が男で、自分が男なのだから、より男らしい男を求めるのは当り前のことだから、多分これからも、この傾向はますます強まっていくだろう。
 こういった、ある意味で「演技」でカバーできる「ノンケ風味」とは別な「ノンケっぽさ」を持ったゲイも、二丁目には増えてきている。 
 ここ2〜3年の傾向なのだが、初めて店にやってくる子たちの雰囲気がノンケっぽくなっているのだ。それは「野郎系」というのとは違う、なんかもっと普通の男の感じだ。

  「ゲイはみんな男性的ではない」という思い込みは間違ってると言い続けてきた身としては、ほうーら、言った通りでしょと嬉しくもありながら、その子たちと話したりしていると、なんかザラっとした違和感も覚えたりもする。

 それは、「男が男とセックスするのは異常なことではない」というメッセージが、社会のある部分には浸透してきたお陰なのか、こういった「ノンケっぽい」ゲイたちは、自分の性的指向とジェンダーの間に、格別、葛藤がない感じなのだ。

 もちろん、葛藤さえあればいいって問題じゃないけど、その葛藤ゆえに、ゲイやレズビアンなどの性的少数者を苦しめてきた性差別的な社会の持つ矛盾に、ゲイは気付いてもきてた訳じゃない? そういった問題に疑問を感じないままゲイライフをスタートさせようとしている男の子たちと話していると、 男性優位の社会システムの上に乗っかったままで、その甘い汁を無自覚に吸っているノンケ男の度し難い部分を感じて、僕なんかひどくイラついてしまうことがある。

 今までなら、二丁目では、勘違い系のゲイにはおネェさんたちが教育的指導を施して、妙なノンケ男文化がはびこらないようにしていたのだろうけど、二丁目の存在がポピュラーになって、新規に入ってくる若いゲイが多くなってくると、とても間に合わなくなってしまう。川の浄化作用にも限界はあるのだ。

 性的ファンタジーとしての「ノンケっぽさ」を追求しているうちに、主流感覚さえ持ち始めた野郎系文化と、ノンケ社会で培われた「ノンケっぽさ」による性差別感覚が、それぞれに浸透している様を視野に入れて、二丁目を見ていると、なんか嫌な予感がするのを打ち消すことができない。それは、この二つが合体すると危険だわという予感なのだ。

「男」であることに無自覚に寄りかかっているノンケの男たちは、矛盾に気付いた女たちから攻撃を受けてきた。「変わらない、変わらない」と言われ続けてきた彼らも少しずつでも変わりつつある。結局は、彼らは変わらざるを得ないのだ。 彼らの性的指向から考えて、女性の要求を無視し続けるには限度があるからだ。変わりたくないのなら、いずれ女性から相手にされなくなるという現実を受け入れざるを得ない。

 とにかく、ノンケの男は、女性からの異議申し立てを突きつけられながら、「男」であることを考えなければならない状況に来ている。
ノンケにしろレズビアンにしろ、世の女性たちは、自分たちに振り掛かってくる男女差別の現実を前に、「女」であることを考え続けている。
そして、自分の内側に女性的なものを山ほど抱えるおネェさんタイプのゲイは、「ノンケっぽさ」をありがたがるあまり、女性的なものを一段下にみるようなゲイの風潮の中で、「男」であることを考えなければならない。

 だと言うのに、「ノンケの男」が好きで、「ノンケの男」であろうとするゲイはどうなのか? もし、男が男に性的に引かれることが、「男」であることを脅かさなくなったとしたら、自分を顧みる機会があるのだろうか?
 自分は「男」で、相手もそれをありがたがる「男」という相互関係の中では、無自覚で、男らしさの上に胡座をかいていられるという奇妙な場が提供されてしまうのだ。 何か批判的なことを言う連中などとは関わらなければいいのだから、痛くも痒くもない。考えようによっては、その奇妙な場は、コチコチの男権主義者の桃源郷にもなりうる。

 ひょっとしたら、この二丁目で今進んでいる「ノンケっぽさ」の増殖は、僕が世の中で一番嫌ってるタイプの「男」を培養し続ける温床になってしまう可能性を秘めていたわけぇ。ウーン、これって問題だわ!

 男女の枠組みに大きな疑問符が付き始めているこの時代に、無自覚に男でいるのは犯罪行為に等しい。しかし、ノンケ男の度し難さを無自覚に温存しているゲイはもっと罪深いのよ。性的ファンタジーとジェンダーのありようを無自覚に重ねてしまうのは危険だということを、男に魅かれる男であるゲイは、胆に銘じておかなくてはいけないと思う。

 惚れ惚れするような野郎系のお兄さんたちや、かわいい「普通っぽい」坊やたちが二丁目を楽しげに濶歩するのを見て、その様子を充分楽しみながらも、頭のどこかで僕のアラームがチリチリとなりっ放しだ。


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